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先の見えない時代にあって、自分の求める生活や価値を明確にしておくことは大切なことです。自分と環境との関係性を考え、欲望をほどよく制御するための心と体の癒しのメッセージです。


by 逍遥
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知るということについて(再掲)_a0126310_23422552.jpg

ヒトは、「知ること」によって成長すると言われています。

そして、これは教育における基本とも言われています。

「知ること」、つまり知識の習得が大切なのは当然ですが、それ以上に自分が「いかに知らないか」を知っておくことの方がより重要ではないでしょうか。
 
つまり、自分が「いかに知らないか」を知ることによって、ヒトは「知りたい」というモチベーションを賦活させることができるようになるということです。

「何でも知っている」という充足感は一見満ち足りた状態のように思われますが、少し見方を変えれば何もかも放棄した諦念の境地ということにもなります。

「いかに知らないか」を知っているということ、つまり無知と既知の位相差が自覚できていることが、ヒトの成長の原動力になっているということです。

また、ヒトが一生のうちで経験し習得できることは、ほんの一握りのことでしかありません。

この世界の大半は経験も習得もできないままに、ヒトはその人生を終えてしまうのが必定と言えそうです。

したがって、たとえどれだけのことを「知っていた」としても、それは大海の一滴でしかありません。

この事実に驚愕した先人たちは、自分の非力さにただ頭をたれながら、再び自己の思索へと戻って行ったものと思われます。

ヒトが成長して行くためには、「知るということ」について常に謙虚な姿勢でいることが求めらていると言えそうです。

昨今、このような謙虚さを欠いた、傲慢とも言える万能感に支配された自己愛型の主張に出くわすことが多々あります。

「すべて知ることができる(つながっている)」かのような幼児的万能感は、まるでインターネット社会におけるヒーローやヒロインを演じているかのようです。

もちろん、「知ること」、つまり知識の習得がいかに大切であるかは十分理解しているつもりです。

ただ、自分の既知がどれ程のものであったとしても、自分の無知を知っていることに比べれば、その総量は僅かなものでしかないということです。

ヒトが万能感に支配されずに生きて行くためには、「知っている」と思った瞬間、しばし立ち止まり、今一度考え直してみるという謙虚さが必要とされているようです。

なかには、全ての夢が適ってしまった(失われてしまった)ので、今はただ充足感(喪失感)に浸っていたいだけというヒトはいるかもしれません。

ヒトの脳と体には休息が必要です。

但し、いまだ夢が適っていない(失われていない)のであるなら、充足感(喪失感)に浸るのではなく、無知と既知の位相差(欠如感)を自覚し続けることが大事ではないでしょうか。

自分が「いかに知らないか」を知っているということ、つまり自身の欠如感の認識こそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させる原動力になって行くと考えます。

では最後に。

「知っている」という充足感は余裕を想起させることから、ヒトから承認(評価)を得るためのポジティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

「知っている」という充足感は無知と既知をフラット状態にするため、位相差(欠如感)に起因する思索や行動化のモチベーションは起動せず、逆に思考停止や非行動化という停滞状況を引き起こすことになります。

何もしなくて良いことが許容されているのなら話は別ですが、一般にヒトが思考停止や非行動化に陥っている状態を積極的に承認(評価)するのは極めて稀なことではないでしょうか。

一方、「知らない」という欠如感は焦燥感と裏表の関係にあるため、どちらかと言えばヒトからの承認(評価)が得ることが難しいネガティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

繰り返しになりますが、自分が「いかに知らないか」を知っていることこそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させるモチベーションの原動力ということでした。

つまり、「知らない」という欠如感こそが、無知と既知の位相差を埋めるための思索と行動化を促すため、その結果合目的的な成果が生じれば、ヒトからの承認(評価)は得やすくなるのが必定と考えるのですが、さていかがでしょうか。

そして、ヒトからの承認(評価)が得られるようになれば、やがてキャリアの扉は向こう側から自ずと開いてくる(力任せにこじ開けるものではない。)という理路については、またの機会にお話しをさせていただくことといたします。

(終わり)
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# by kokokara-message | 2016-09-24 23:50 | 夢とは何でしょうか?

トリックスター(全編)


トリックスター(全編)_a0126310_22371947.jpg

皆さんは、悪意や悪事の予感がしたという経験はないでしょうか。

それは、必ずしも自分自身に向けられたものとは限りません。

自分の周りの誰かに向けられたものなのか、そもそも誰に向けられたものなのか、はっきりとしないものかもしれません。

何かよくないことが起こるかもしれない予感や予期は、自分を取り巻く環境の変化、つまり、秩序が崩れてしまうことへの不安の表われといえるのではないでしょうか。

そして、それは今ある秩序を改変してしまおうとするいたずらもの、トリックスターの出現を予感しているのかもしれません。

では、トリックスターとは、一体何者なのでしょうか。

一時、六本木ヒルズの寵児であった頃のホリエモンが、経済界の人たちからはトリックスターと呼ばれていた時期がありました。

また、時代を先取りしたかのような言動を行っている一部の政治家などは、やがてトリックスターと呼ばれることになってしまうのかもしれません。

トリックスターとは、一般には子どもとされています。

これは、生物学的な意味における子どもということではなく、たとえ社会的地位を築いている場合でも、精神的にはまだ未成熟ということであれば、やはり子どもということになってしまうのではないでしょうか。

そして、精神的に未成熟な子どもであるトリックスターが示す行為行動の最大の特徴は、幼児的万能感と自己顕示欲ではないかと思われます。

例えが古くなりますが、往年のウルトラマンや仮面ライダーなどは、まさに子どものヒーローであって、幼児的万能感と自己顕示欲を現す象徴的存在であったと思われます。

但し、このような子どもにとってのヒーローの世界を、自分が生きている現実世界に適用したとしたら、さて、どのようになってしまうでしょうか。

おそらく、ヒーローの示す幼児的万能感と自己顕示欲が適用された現実世界は大きく乱れ、その中の人たちは大いに困惑することになってしまうのではないでしょうか。

このような混乱を起こさない人、つまりヒーローの世界と現実世界がきちんと峻別できている人が、大人と呼ばれる人と言うことです。

ところが、時として子どもが示す幼児的万能感と自己顕示欲が、子どもの個性や才能あるいは無類の勇気と勘違いされてしまうことがあります。

例えば、風変わりな芸能人や芸術家等の言動が、世間から賞賛されるという事例は決して珍しいことではありません。

ただ、短期的な評価は得られても、長期的に見てトリックスターが他者(社会)との繋がりを維持して行くことは極めて困難なことであると思われます。

つまり、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、社会的にはネガティブな存在と看做されてしまうことになるからです。

トリックスターは、いたずらな子どもであるだけではなく、世間の鼻つまみものということになるのではないでしょうか。

ところで、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、一方では閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる存在でもあります。

これはトリックスターの持つ大きな特徴であり能力になりますが、ただ、トリックスターが社会状況(家族状況)を改変させる存在であるためには、その前提として自分自身を守ってくれているセーフティネットの存在が必要になってきます。

繰り返しになりますが、トリックスターとは、精神的に未成熟な子どもということでした。

一般論として、子どもには親の庇護というセーフティネットの存在が欠かすことができません。

親の庇護というセーフティネットがあるからこそ、子どもはたった独りでもファンタジーの世界でヒーローを演じることもできるわけです。

そして、ネガティブな評価があった幼児的万能感や自己顕示欲も、親の庇護の基では個性豊かな冒険的な営為として見守られることになります。

一方、親の庇護(セーフティネット)を受けていない幼児的万能感や自己顕示欲は、世間と直に対峙するために社会不適応者の烙印を押されかねません。

つまり、子どもがファンタジーの世界を楽しむためには、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットの存在が前提条件になってくるわけです。

そして、様々な悪意や悪事を仕出かした子ども自ら反省ができるのも、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットがあるからではないでしょうか。

要するに、親の庇護(セーフティネット)を持つことができた子どもは、様々な冒険と反省を繰り返しながら、徐々に自分の世界を広げていくことができます。

一方、親の庇護(セーフティネット)を持つことが出来なかった子どもは、様々な悪意や悪事を繰り返すだけで、徐々に自分の世界を狭くしていくことになります。

上記からすると、トリックスターとは、後者の閉鎖的な狭い世界で生きてきた永遠の子ども(ピーターパン)ということになりそうです。

一般論として、人はセキュア・ベース(安全基地)を持つことで自分の世界を広げていくことができ、成熟した大人へと成長することになるのではないでしょうか。

ところで、最初に申し上げたとおり、トリックスターは、悪意や悪事を働くいたずらものということでした。

では、トリックスターの悪意や悪事に自覚はあるのでしょうか。

おそらく、トリックスターには、自らが悪意や悪事を働いているという自覚はないと思われます。

もともとトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で未熟な経験を繰り返して来たため、善悪や正邪の道徳的規範が十分に身についていないところがあると思われます。

したがって、依拠できる規範はトリックスター自身の内面にはなく、外部にいる他者の行動規範に依存し振る舞う(まねる)しかないことになります。

このため、参照すべき外部にいる他者の行動規範次第では、トリックスターの採る行動は無自覚に善悪や正邪の道徳的規範を逸脱してしまうことになります。

おそらく、トリックスターは道徳的規範を侵犯する意思をもって逸脱するのではなく、他者依存や状況依存の結果として道徳的規範を逸脱することになりそうです。

トリックスターの行動様式(エトス)は、自律的かつ計画的なものではなく、むしろ他律的かつ衝動的なものということになるのかもしれません。

そして、トリックスターの行動様式(エトス)は日常生活の離婚や転職の原因になり、さらに自らの感情(自尊心)や打算(欲望)と一致さえすれば、容易に危険で理解不能な他者と同調してしまうことになります。

複雑化した現代社会では、既存の制度や習慣、文化だけに頼って、あらゆる局面を生き延びるということは困難になってきていると思われます。

したがって、人は様々な経験と反省を繰り返しながら、今を生き延びるための社会的スキルを身に着けていく必要があると思われます。

ただ、これまでに見てきたトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で生きてきたために社会的スキルは身についておらず、危険からは無防備な状態に置かれています。

繰り返しになりますが、トリックスターは善悪や正邪の道徳的規範が曖昧で、その行動様式(エトス)は他律的かつ衝動的であるということでした。

それゆえトリックスターの非常識さ(非道徳)と無防備さ(他者依存)は成熟した大人たちを困惑させますが、よりタフな「欲望(コンプレックス)」を持ったトリックスターからすれば自らの「欲望(コンプレックス)」を満たすための格好のターゲット(獲物)に映ってしまうということです。

ラカンや河合隼雄氏の仮説では、「欲望(コンプレックス)」は「欲望(コンプレックス)」に「欲望(共鳴)する」という関係性が描かれています。

この仮説を踏まえれば、よりタフな悪意と悪事のトリックスターの「欲望(コンプレックス)」は、無防備で制御のきかない衝動的かつ他律的なトリックスターの「欲望(コンプレックス)」をいとも簡単に取り込み、搾取するということが容易に出来てしまうということです。

そして、子どもの世界で起きている「いじめ」と同じで、未成熟な大人たち(トリックスター)の間で起きている「生きにくさ(抑圧)の移譲」は、一度その中(世間)に入ってしまえば、二度と抜け出すことの出来ない蟻地獄のような構造(*引きずりおろし民主主義)になっているのではないでしょうか。

*怒りや脅威で多数派を形成し、自分より上に立つもの、能力がある者を引きずり降す愚民主主義。社会全体の偏差値は下がり続け、やがて上に立つものはいなくなる。

もし、あなたが身近で悪意や悪事を予感したとしたら、それはすぐ近くにトリックスターが潜んでいるのかもしれません。

もはや現代社会が既存の制度や習慣、文化だけで生き延びることが出来ないとなれば、様々な経験と反省から社会的スキルを身に着けて行くしかありません。

したがって、トリックスターの悪意や悪事には、ただ気づかないふりをするのではなく、自分自身はその悪意や悪事の連鎖関係(抑圧の移譲)には決して入らないという決意、そして搾取されそうになれば身に着けた社会的スキルでなりふり構わず自衛するという覚悟が、今を生き延びるための方法論になるのではないかと考えています。

それでは結論になりました。

「生きにくさ(抑圧)の移譲」には与せず、今を生き延びるための社会的スキルで自衛ができる人は、おそらく自分自身がトリックスターでないと自覚できている人ではないかと思われます。

自分自身がトリックスターでないということは、とても大事なことです。

しかしながら、トリックスターの悪意や悪事のある「欲望(コンプレックス)」から自分の身を守るには、自分自身がトリックスターでないと自覚するだけでは十分でないように思われます。

むしろ、これとは真逆に自分自身がトリックスターかもしれないという一回ひねりの視点を担保しつつ、もはや既存の制度や習慣、文化に頼る正規戦ではない、経験と反省から身につけた社会的スキルでもって攻守の両面からゲリラ戦を挑んでいくしかないように思われます。

一般論としても、自分は関係がないと割り切るのではなく、自分自身を勘定に入れた全体像(コンステレーション)の把握が重要であることは言うまでもありません。

つまり、自分自身が勘定に入っているからこそ、自分自身を含めた関係性の全体像(コンステレーション)が一望俯瞰できるようになるというわけです。

自分がトリックスターかもしれないという(自分を勘定に入れた)一回ひねりの視点を担保しておくことが、全体像(コンステレーション)を読むメタレベルからの視点確保につながり、その結果として誰もが陥ってしまう「構造的無知」から脱出するということも可能になるということではないでしょうか。

では、トリックスターとは一体誰のことなのでしょうか。

トリックスターとは、無意識で悪意や悪事を働くいたずらものである一方、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持った(両義的な)存在ということです。

誰もが無意識のうちに「構造的無知」の状態に陥ってしまう可能性がある以上、論理的には「個」の意識が弱く自我が脆弱で相互参照が得意な日本人であるのなら、自分だけがトリックスターでないという信憑性は極めて低いことになるのではないでしょうか。

つまり、日本人の多くがトリックスターである可能性が高いとなれば、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持ったポジティブな評価のトリックスターもまた、この典型的な日本人の中から出現してくる可能性が高いと考えるのは自然なことではないかと大いに期待しているのですが、さていかがでしょうか。

とは言いながらも、やはり関わらないことに尽きます。正当な自衛手段です。関われば例外なく底なしに苦労することになります。(苦笑)

(終わり)

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# by kokokara-message | 2016-08-17 22:35 | 我流心理学

文二郎のパナマ帽(2)


文二郎の「パナマスペシャルソフト」です。

目の粗い鉤針編みの中折れ帽は、目の詰まったそれよりも通気性が高く、軽くて、トロピカルな印象を受けるのではないでしょうか。

オーストラリアの帽子メーカー・ヘレンカミンスキーはスリランカ産のラフィアを使用しますが、文二郎は通常のパナマ帽と同じ、エクアドル産のトキヤ草をします。

ただ、トキヤ草を使用した鉤針編みの中折れ帽は、ラフィアを使用したそれよりも少し重たくなるようです。

素敵なパナマ帽ですが、これが唯一の難点かも知れませんね。
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# by kokokara-message | 2016-08-04 08:19 | 大阪
養老孟司氏の講演会(全編)_a0126310_21491152.jpg

以下は、今から8年程前に某大学で拝聴した、養老孟司氏講演会の講演記録(要旨)です。

養老孟司氏の講演やその著書は、えらそうであるとか、難解であるとか、本質とはかけ離れた曲解がなされていることが多いように思われます。

氏は、自らの言葉で、あたりまえのことを、あたりまえのこととして、平明にお話しされているだけです。

内容は普遍性の高いものであり、8年経過した今でも決して色あせることはなく、ますます輝きを増しています。

当時は気づかなかったことにあらためて気づかされるなど、内容はエキサイトで新鮮そのものです。

それでは、開演時間となりました。

最後までご一読いただきますようお願いいたします。

【開演】

ヒトへの出入力関係からすると、感覚は入力であり、運動が出力という関係になっています。

そして、その間に介在するものが脳であり、脳で意識が発生するということになります。

感覚の入力によって脳に意識が発生しますが、脳は意識が発生する0.5秒前からすでに作動を開始しています。

つまり、意識は脳が作動を開始したことによって発生する関係にあるということです。

脳の一番の特徴としては同じ(同一性)という認識ができることです。

脳の「同一性」という特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できることが可能となります。

そして、脳の「同一性」の特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できる機能を持った「言葉」の使用が可能となったわけです。

しかしながら、言葉が使用できることで、脳の他の能力が低下するという結果にもなってしまいます。

脳を動かすということは、観念という意識を発生させるだけではなく、身体を動かすこともまた当然脳を動かすことであります。
  
たとえば、絶対音感とは、音の高低がそれぞれ別の音として認識される能力のことです。

絶対音感と、先天的に動物に備わった機能と言えます。

人間の乳児にも絶対音感は備わっていますが、使用しないとその能力は衰えてしまうことになります。

一方、絶対音感に対して相対音感があります。

相対音感とは、音の高低に支配されずに同じ言葉を同じ言葉として認識できる能力のことです。

つまり、音の高低にかかわらず同じ言葉を同じ言葉として認識できる相対音感を得ることで、言語の使用が可能となったといえます。

このことを文化的・進歩的能力の獲得と思っているようですが、本来動物が保有しているはずの絶対音感が消滅した結果ということも出来ます。

このことからすると、現代人は差異(違い)の感覚能力が劣化し、ダメになってしまったということになります。

ところで、脳の特徴の同じという感覚は、差異(違い)をなくしてしまう非常に乱暴な感覚ではありますが、その結果としてヒトは同一性を前提とする言葉や貨幣を使用することが可能になったということはできます。

(【筆者】蛇足ながら、言葉は概念という同一性を使用し、貨幣は価値という同一性を使用して、いろいろなモノを同じモノと認識させる機能を持った媒体です。したがって、言葉や貨幣は交換(コミュニケーション)を促進させるものと言えます。)

考古学的には、新人類のホモサピエンスがはじめていろいろなモノを同じと認識する能力を取得し、言葉や貨幣の使用が可能になったと言われています。

一方、旧人類のネアンデルタールの脳には同じという能力は備わっていません。

ネアンデルタールの遺跡から出土する遺物はその目的が想像できるものばかりで、貨幣のように「象徴」を表すような遺物などは出土しておりません。

このことからネアンデルタールは、言葉や貨幣を使用できなかったと考えられています。

ホモサピエンスの脳は同じという能力を獲得することで貨幣や言葉が使用できるようになり、交換(コミュニケーション)が可能になったということがいえます。

そして、貨幣や言葉の同じにするという能力を進歩や便利と思っているようですが、この同じという能力を突き詰めてゆくと、論理的には宇宙を統括する唯一絶対神にまで行き着くことになります。

つまり、西洋社会が発見した一神教の世界観があるということです。

ところで、NHKの報道は、公正中立であると言われています。

しかし、NHKの報道の視点もひとつの視点でしかなく、他のある特定の個人の視点とは等価の関係にあり、決してNHKだけが公平・客観・中立ということはできません。

つまり、一人ひとりは「視覚的」には違うものを見ているはずなのに、言葉や情報にすると同じことを表すことになってしまうということです。

個性が大切といわれますが、個性とは遺伝子であり身体そのものであるということです。

ナンバーワンよりオンリーワンという表現がありますが、普通ナンバーワンといわれるようなヒトは稀にしか存在しませんが、オンリーワンとはモノや身体でいうとあたりまえのことであり、ただのモノやただのヒトという意味のことでしかありません。

感覚の世界では、モノやヒトはすべて違っていることが当たり前ですが、脳内の「同じ」という働きによって、概念という言葉の同一性や価値という貨幣の同一性を使用することが可能となります。

人それぞれ感覚がバラバラであるはずなのに、同じにできるという感覚こそが「共感」できるということであって、「ありがたさ」にもつながるということになります。

しかしながら、言葉は止まったものです。

これに対してヒトは変化します。

このことから、人と人が交わす約束とは、変わってしまう自分を止まった変わらない言葉に結びつける行為ということができます。

現代人は、言葉は使い捨てであって、自分のほうが変わらないと考えているようです。

噂話では、話し言葉の記憶に頼ることになるため、結局相手が自分程度に記憶力が悪いと思える(リスクヘッジできる)ことで成立している関係性といえるのではないでしょうか。

しかし、ヒトはひたすら変わっていきますが、言葉は止まったまま変わりません。

情報化社会での情報は変わらないことがその特徴であって、変わるのはあくまでヒトです。

情報が変化するのは、ヒトが情報に手を加えるから変わるだけであって、変わるのはあくまでヒトということになります。

本来、ヒトの感覚はバラバラです。

にもかかわらず、言語によるコミュニケーションで共感できるのは、バラバラな感覚が同じと思えるためで、これが安心感につながっていると思われます。

つまり、感覚が違っていることが当たり前なのに、そのことを忘れて「共感」したような感覚になることで、安心や安全を得ているということではないでしょうか。

現代人は、とても不安です。

したがって、安全や安心が欲しいと考えています。

また、現代人は自分の頭の中で考えていることの外側に出ることを知らないように思われます。

自分の外側の見えない世界に一歩踏み出すことを勇気と呼ぶのでしょうが、現代人にはそのような勇気が欠けている一面があるように思われます。

安全第一の世界の中にいると、本来一人ひとりがバラバラな感覚であるという基本的な原則を忘れてしまい、皆が同じ感覚であるはずという思い込みに陥ってしまうことになります。

このため、安全第一の中にいると、同じであることを求めるあまりに、少しでも差異があると不安がわいてくることになります。

もともと一人ひとり感覚に差異があるのは当たり前であって、差異に不安が伴うのは当たり前の状態であるといえます。

しかしながら、皆と感覚が同じでないと気がすまなくなり、このため差異に伴う不安をつぶさないと前にも進めなくなってしまい、さらなる否定的な(ネガティブな)感情をつぶさなくてはいられないという感覚の循環(思考の連鎖)に陥ってしまうことになります。

これが皆と同じでないと気がすまない(不安である)という感覚のようです。

これは、テレビの影響として考えられます。

テレビの映し出す映像はあくまでひとつの視点でしかないはずなのに、皆が同じ映像を観ることによって同じ視点が共有されて、感覚も同じであるという勘違いが生じてしまうことになります。

つまり、感覚は人それぞれバラバラであるはずなのに、皆一緒という認識がされてしまうということです。

教育を考える場合でも、現代人は皆一緒という感覚を持っているという認識を基点として出発する必要があるように思われます。

つまり、昔のように人やモノはバラバラであり多様なものであるという認識からはじめるのではなく、皆一緒という視点から教育をはじめないといけなくなってしまっている現実があるということです。

学校での徒競走で生徒が手をつないでゴールするということからは、何も生まれてこない、何もやっていないことと同じといえます。

また、機械(コンピュータ)を丈夫にすると、人間は壊れると言われています。

つまり、文明(コンピュータ)と人間は相互補完の関係にあるといえるのですが、このことから、まともなヒトの感覚では文明(コンピュータ)は発達することになってしまうため、逆に役に立たない人間を育てることにもなってしまうということです。

便利な生活をすることで、人間はやがて役に立たなくなり、壊れてしまうのではないかと考えることもできるということです。

しかしながら、一方では脳も社会もシステムとして機能していることからすれば、働かない部分にも何らかの意味があるというように考えることもできるということではないでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2016-07-24 09:07 | 養老孟司講演会
グローバリズムとナショナリズム~英国のEU離脱とは何か(再掲)_a0126310_17155865.jpg

人口減少社会におけるグローバリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

また、人口減少社会におけるナショナリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

グローバリズムとは、英米を中心とした新自由主義の普遍化(標準化)をさすことはいうまでもありません。

そして、その内実は、資本主義と民主主義の徹底であり、真逆のようですが、近代国民国家システムの徹底ということになりそうです。

奇しくも1989年のベルリンの壁の崩壊と新自由主義の隆盛の時期は一致しています。

また、その前哨戦であったソ連ゴルバチョフのペレストロイカと米国レーガン・英国サッチャーのマネタリズムは、近代国民国家システムの行く末を予言していたと言えるのではないでしょうか。

ところで、今から150年以上前、近代国民国家というものが成立した当時、資本主義の生産手段は、土地、労働力、資本とされていました。

土地とは、人間の生産活動で創出することのできない水や空気などを含めた概念といえます。

そして、当時のこれらの生産手段は、一国民国家の中でのみ移動が可能とされていました。

しかしながら、資本主義の原理は、これらの生産手段から差異を創出することで駆動することになります。

このため、資本主義拡大のためには、一国民国家のみならず、植民地主義という軍事力を背景とした新たな差異の獲得に乗り出さなければならない時期もありました。

しかしながら、現在では、グローバリゼーション(国際化・情報化)の進展から、軍事力を背景とせずとも、いとも簡単に特定の生産手段が世界中を移動することが可能となっています。

ただ、現在においても、土地という生産手段は移動しないという前提に変わりはありません。

また、労働力は、労働者の短期の移動は可能であっても、国籍、文化、言語の障壁から、長期の移動は難しいとされています。

ご存知のように、長期の移動がもたらす「移民」問題の功罪については、枚挙にいとまがありません。

そして、先日の英国EU離脱の結果は、長期の移動がもたらした「移民」問題とダイレクトにつながっているのは言うまでもありません。

従って、各国の過去の経験則からしますと、実際にグローバルな展開が可能な生産手段は、資本(金融)とそれに伴う技術や情報に限られてくるということになります。

資本(金融)とは、端的に言えば貨幣(お金)のことであって、多彩な戦略によって、多様な世界展開が可能となります。

そして、概念上は人間の生産活動では創出できない鉱物資源も、金融商品として見るのなら、資本として世界展開することは可能です。

情報はと言うと、インターネットによって瞬時に移転し、グローバル化(標準化)が可能であることは言うまでもないことです。

また、技術は情報ほど即時性はないものの、数年単位で移転し、グローバル化(標準化)していくことになります。

蛇足ながら申し上げると、差異を求める資本主義の原理では、資本や技術、情報という生産手段の移転が可能となるのは、あくまでグローバル化した世界に未だ差異が存在しているからということになります。

つまり、各国や各地域間に社会経済的な格差が存在していることが前提になっています。

このため、それらの格差(差異)が消滅することになれば、論理的には世界中の資本主義の展開は終結となり、世界中がフラット化(標準化)してしまうことになります。

つまり、グローバリぜーション(国際化)の結末は、世界中のフラット化(標準化)ということになります。

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ところで、生産手段の中でも、土地と労働力は移転が難しいということでした。

また、移転可能とされている資本や技術、情報も、その差異(水位差)が数年間で平準化されてしまえば、資本主義の展開の原理となった差異性は期間限定のバブルの源泉でしかなかったことになります。

そして、これからの日本の社会は、有史以来増加し続けた人口が急激に減少する社会であるとされています。

また、これからの日本の社会には、高度経済成長を支えたような差異性をもった(低賃金)労働者が、自然発生的に生まれてくるとは考えられない状況にあるということです。

このため「移民」問題は日本の社会でも議論の俎上に上ることになりますが、労働者の長期の移動がもたらす功罪については先にも申し上げたところです。

したがって、労働者の長期の移動、つまり「移民」受け入れが難しいとしたら、今後の日本の資本主義のあり方は、どのような方向に進んでいけば良いのでしょうか。

おそらく、資本や技術、情報の差異を原理とした期間限定のバブルを生み出すグローバリズム(国際化)ではなく、それとは真逆の一国内のナショナリズムを基軸とした差異の平準化に向かう近代国民国家の資本主義システムが重要視されることになるのではないでしょうか。

ここで言うナショナリズムとは「愛国心」のことです。

ナショナリズムは、日本と言う国民国家を、社会経済的に平準化していく方向性にありものと思われます。

つまり、資本主義が差異性を前提としたシステムである以上、革新的なイノベーションでもない限り、今ある土地(国土)と将来の労働力人口(国民)は自明のものとなり、その中から差異性を創出していくしかないということになります。

少し言い方を替えるとすれば、将来に向い日本国内に存在している差異性をすべて平準化してしまうということが、今後の日本の資本主義の経済システムを駆動させる源泉になるということです。

少し分かりにくいかもしれません。

つまり、日本の経済成長(資本主義経済システム)を駆動させるためには、日本の社会に未だ残存してる差異性を掘り起こし、それらを源泉にするしかないということです。

具体的には、男女共同参画社会の推進や社会保障(社会保険や社会福祉)の普遍化を図ることで、新たな差異性を創出することが考えられるのではないでしょうか。

要するに、人口減少社会という新たな差異の創出が極めて難しい環境にあっても、今あるの差異性を平準化していくという方向性であるのなら、資本主義システムの原理にも合致して、中長期的に見て具体的かつ現実的な展開が見込まれるのではないかということです。

そして、この場合日本の社会の差異性を掘り起すことだけでは十分ではなく、国内においては所得・資産の再分配機能の賦活化、そして国際的にはタックス・ヘブン等への世界協調的な取り組みが同時進行して行くことが必須になると考えられます。

大変困難な政策ではありますが・・・。

ところで、ナショナリズム(愛国心)というと、第二次世界大戦中の日本の海外への覇権(植民地主義)を想起される方も多いのではないでしょうか。

しかしながら、海外への覇権主義という側面だけを捉えれば、それは区分としてはナショナリズムではなく、グローバリズムになると思われます。

また、ナショナリズム(愛国心)というと、国内におけるマジョリテイ(多数派)からのパターナリズム(上から目線)として受け取られてしまうかもしれません。

しかしながら、ナショナリズム(愛国心)とは、必ずしもマイノリティ(少数派)を日本人の境界から排外する狭隘な方向性を持ったものではないということです。

なぜなら、日本の近代史を振り返っても、原理として国民国家の幻想性ゆえに、日本人の境界線は揺れ動き、日本民族と日本の国土は拡大と収縮を繰り返してきた歴史があるからです。

従って、今ある日本人の境界(国民国家)はあくまで暫定的なものでしかなく、したがって将来も現状のまま同じ境界線(国民国家)であり続ける保障などないということになります。

むしろ、国民国家のマジョリテイ(多数派)が、国民国家のマイノリティ(少数派)を穏やかに社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)していくという方向性が求められるのではないでしょうか。

そして、一般論として生産手段である労働力のグローバル化は岐路に立たされており、これ以上の展開が難しいとなれば、それは日本から海外への展開以上に、日本への労働者の長期の移動、つまり「移民」の受け入れが困難という事態になってしまうからです。

日本の総人口(労働力人口)が減少していく中で、しかも「移民」の受け入れが困難で、なおかつ生産手段の労働力に基軸を置いた政策を採るとしたら、いったいどのような展望になるのでしょうか。

おそらく、金融資本主義が引き起こす幻想的な差異性を原理とするグローバリズムではなく、それとは真逆な国民国家を同化して平準化していくナショナリズム(愛国心)こそが、日本の中長期的なあるべき姿を構想する(再構築する)ための原動力になるのではないかと思われます。

日本人口の減少は避けがたい与件ですが、マジョリテイ(多数派)がマイノリティ(少数派)を内包し日本社会を平準化していく方向にあるのならば、ナショナリズム(愛国心)を基軸とした資本主義システムが社会的格差で混迷する日本という国民国家を、自己コントロールが可能な範囲にとどめ置くこともできるようになるのではないでしょうか。

したがって、今後の日本は幻想的な金融資本主義に依拠した不安定な「経済成長優先型社会」ではなく、むしろ低成長であっても平準化を目指すがゆえに労働力の差異性に基軸を置くことができる「定常性(恒常性)が維持できる社会(定常型社会)」を目指すことになると思われます。

少し無理やりな結論になってしまいました。

グローバリズムではなく、ナショナリズム(愛国心)こそが、平準化志向にある資本主義システムを駆動させることによって、その結果国民国家内の経済格差を比較的小さく、相対的に平等と言える「定常型社会」を実現する原理(思想)になるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがなものでしょうか。

【蛇足ながら、終わりに】

グローバリズムに対応する概念は、一般的にはローカリズムであると思われます。

しかしながら、暫定的ではあっても国民国家を既定のものとするのなら、歴史、民族、言語、文化等による細分化プログラムが組み込まれたローカリズムは、グローバリズム以上に国民国家の枠組みを根底から揺るがすものになる可能性があると思われます。

つまり、両端にグローバリズムとローカリズムがあって、その真ん中に当たり(中庸)にナショナリズムがあるのではないかということです。

したがって、両端のグローバリズムとローカリズムが国民国家を不安定にさせる思想とするのなら、ナショナリズムは国民国家を社会文化的に安定させる保守に当たる思想ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

グローバリズムとナショナリズム~英国のEU離脱とは何か(再掲)_a0126310_17272878.jpg

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# by kokokara-message | 2016-06-26 08:52 | 我流日本論