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現代は、多くの人が不安を抱いて暮らしています。

経済的な問題だけではなく、いたるところで様々な社会不安が指摘されています。

先が見えない、読めないという不安が強くなっているのが原因ではないでしょうか。

先の見通しが悪いために、良い結果よりも悪い結果を多く考えなければならず、このことがさらなる不安を招くことになっているようです。

社会全体が心配性になっているとも言えますが、あながち心配性では済まされない現実が目の前に存在しているのまた事実です。

このような切迫した状況が、心配性にさらなるリアリティを与える結果になっているのかもしれません。

現代の不安の多くは、社会の急激なパラダイムシフト(支配的なものの見方の変化)がもたらしたものと思われますが、これに対処する方法が見当たらない焦燥感が、さらなる不安を招いていると言えそうです。

総じていえば、先が見えないため変化に対処するマニュアルが存在しない、したがって踏み出すにも決まった足場(答え)が存在しない不安や混乱ではないでしょうか。

ただ、不安は大きくても、自分のフレームワーク(世界観)の中に回収できる範囲のものであるなら、安心や納得は得られるかもしれません。

しかしながら、自分のフレームワーク(世界観)に回収ができない程度のものであれば、自分のフレームワーク(世界観)そのものが大きなダメージを受けることになります。

つまり、自分のフレームワーク(世界観)を大きく揺るがす違和感=ノイズ(雑音)が発生するということです。

現代社会には、かよう違和感=ノイズ(雑音)がいたるところに存在しているため、私たちのフレームワーク(世界観)はダメージの危機に直面していると言えます。

そして、違和感=ノイズ(雑音)が引き起こす不安とイライラは、穏やかな家庭や職場を怒りや罵倒の場に変えてしまうことになると言うことです。


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では次に、不安と創造性の関係性について、言葉とコミュニケーションの観点から考えてみることにします。

言葉は、脳の持つ機能である「同じ」をその特徴としていますが、コミュニケーションは、言葉の持つ「同じ」という機能を繰り返すことによって成立しています。

つまり、「同じ」ものとして概念化された言葉の意味の交換によって、お互いの話しが通じる(と臆断している)ということになります。

しかしながら、実際の実体社会は、言葉の意味が概念化(同じ)されるのとは正反対に、同じものが二つと存在しない多種多様な世界と言えます。

例えば同じように見えるコピーであっても、物理的にはすべては亜種ということになり、亜種がまたひとつ増えていくだけのことです。

そして、言葉の持つ意味もこれと同じことで、同じ概念の言葉であっても、その使用される場面や文脈によっては意味は多種多様なものになってしまいます。

例えば、「りんご」という概念(同一性)が、一般的な「リンゴ」の意味(言葉)で使用されているのか、個別な「りんご」の意味(言葉)で使用されているのかは前後の文脈から判断するしかありません。

言葉のオトや文字は同じであっても、その意味は多様であるということです。

したがって、あいさつで「おはよう」と発せられた場合でも、発せられた言葉と発した相手の表情やしぐさの間に微妙な意味のずれを感じたとしたら、どちらのメッセージを優先すれば良いのでしょうか。

とても気分が悪くなりますが、言葉の発するメッセージと相手の表情やしぐさが発するメッセージが異なっている場面に出くわすことがあります。

たとえば、母親が幼い子供に向かって「こちらへおいで」と呼びかけながら、一方で母親の表情が険しく子どもを拒否するものなら、子どもは素直に母親のもとへ行くことができるでしょうか。

ダブルバインドと呼ばれている事例がそうです。

言葉と表情で異なったメッセージが同時に発信されたとき、私たちは強い違和感や不快感を感じて、自分の思考(自我)を統合することさえ困難な状態に陥ってしまうということです。

さらにメッセージの不整合を相手に尋ねることがさらなる自分の混迷を深める結果となります。

言うまでもなく相手は正直に答えることはないので、言葉と表情の異なった相手に関われば関わるほど、ダブルバインドの呪縛から逃れられないことにもなってしまいます。


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言葉の特徴は、脳の持つ「同じ」という機能、つまり言葉の概念化(カテゴリー化)が特徴と言えますが、言葉の持つオトや文字が指し示しす概念(カテゴリー)の意味については、決して一義的ではなく、多義的であることについては先に触れたとおりです。

そして、コミュニケーションの目的は、この言葉の多義性(ずれ)を利用することで、自他のフレームワーク(世界観)の枠を広げていくことにありそうです。

あいさつの「おはよう」というメッセージは、一般的には親しさや敵意がないことを表現するために発せられることが多いと言えそうです。

そして、この「おはよう」というメッセージに個人的な意味が込められたとしたら、親しさや敵意がないこととは全く正反対の意味の発信が可能になってきます。

従って、発せられた言葉のオトは同じでも、それが個人的な意味で使用されたものか、それとも一般的な意味で使用されたものかは、言葉を発した相手の態度や表情から推察するしかありません。

ただ、そもそも相手との関係性が親和的(安定的)なものであれば、言葉の多義性(ずれ)はお互いのフレームワーク(世界観)を広げて行くことに役立ちます。

一方、相手との関係性が猜疑的(不安定)なものであれば、言葉の多義性(ずれ)は不信や曲解を招き、お互いのフレームワーク(世界観)を広げるどころか、自己防衛のために思考停止してしまいます。

つまり、言葉の持つ本当の意味は、言葉のオトや文字の持つ意味以上に、言葉を発した相手の態度や表情(文脈)から推察しなければ判定できず、このため言語外メッセージは言語メッセージより優先すべきメタメッセージになるということです。

そしてダブルバインドは、言語メッセージと言語外メッセージの優先順位が上手く整理できない、混乱した状態が原因となって引き起こされた、自己の統合を揺るがす危険な不安と言えそうです。

もし、あなたの周りに言語メッセージと言語外メッセージが一致しない人がいたとしたら、迷わずその人から距離を取ることを推奨します。

ダブルバインドの相手には決して近づかないことが、最善のコミュニケーションということになり、現代社会を生き延びるための自己防衛手段と言えるのかもしれません。


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では、相手との関係を安定的なものにさせるポジティブなコミュニケーションは、一体どのようなものを指すのでしょうか。

今までのことから判断すると、優先されるべきメタメッセージの言語外メタメッセージは、できるだけポジティブな方が望ましいと言えそうです。

そして、コミュニケーションで使用する言葉はできるだけ個人的な意味の使用は避けて、一般的な意味の範囲に収まる言葉の使用が望ましいと言えそうです。

交話(講和)的なコミュニケーションが図られる一例として、「おはよう」という挨拶に「おはよう」という挨拶を繰り返すだけのコミュニケーションがあります。

凡庸なようですが、同語反復する挨拶のコミュニケーションは、お互いが親密でオープンマインドな「場」を共有するためのスイッチになると思われます。

そして、挨拶の交換でオープンマインドな「場」が共有できたならば、言葉の意味に多少のズレがあっても、ネガティブな思考停止の方向には展開せず、むしろ創造的でポジティブな方向へと展開して行くことになります。

つまり、言語外のメタメッセージはポジティブなものであって、かつ多義性のない同語反復的な言葉の繰り返しが、不信や不安の少ない交話(講和)的なコミュニケーションを可能とさせるスイッチになっていると言うことです。

挨拶に始まって、話の途中でうなずくことや傾聴することは、交話的なコミュニケーションを起動させるスイッチになっていると言うことです。

そして、不信や不安の少ないオープンマインドな「場」では、言葉の持つ意味の幅(多義性)を利用したコミュニケーション・ゲームが可能となるということです。

茶の湯には「一期一会」という言葉があります。

「今が一生一度の出会いと考えて後悔のないようにもてなす」という意味で使用されていますが、茶の湯では、同語反復のあいさつとしぐさ、また抑制のきいた穏やかな表情などまさに交話(講和)的なコミュニケーションの基本ルール(一期一会)が実践されています。

茶の湯では、このような基本ルール(一期一会)を共有することで、言葉の意味のずれ(言葉の多義性)を創造的でポジティブな方向に展開させることが可能となり、そしって「場=関係性」の更新を図ることが可能になります。

茶の湯は、「場=関係性」の更新を目的とした極めて高度で知的な政治的コミュニケーションと言えるのかもしれません。

ところで、不安と創造性は、コインの表裏の関係にあると思われます。

つまり、フレームワーク(世界観)の揺れを引き起こす感情の揺れが「不安」であって、フレームワーク(世界観)のずれが引き起す論理の展開が「創造性」に当たると言うことです。

不安はヒトの知性を破壊してしまう危険性をはらんでいますが、創造性はヒトの持つ知性の枠のみならず位相まで変えてしまう可能性を持ったものと言えます。

そして、不安と創造性の大きな違いは、外部からのノイズ(雑音)を受動的にとらえて揺らぐのか、それとも能動的にとらえて自覚化に枠をずらす(気付く)かではないでしょうか。

現代のような先の見えない時代であるからこそ、ノイズ(雑音)にただ不安を感じているだけではなく、ノイズ(雑音)を創造性に変えるため、強くてしなやかな自我とそれを支えるための知性(論理)が必要になってくるのかもしれません。

確かに、フレームワーク(世界観)の揺らぎは不安定な状態をもたらすため、特定の場面で強い緊張感や恐怖感を強いられることになります。

したがって、フレームワーク(世界観)の揺らぎに耐えられる強くてしなやかな自我と知性(論理)は、先の見えない現代を生きる日本人に強く望まれることかもしれません。

そして、このような強くてしなやかな自我と知性(論理)を前提にして、やっと成立する得難い境地が、個人の自律ということではないでしょうか。

内田樹先生によれば、個人の自律とは、自分の髪を自分の手で掴み取り、中空に押し上げて宙吊りにするようなアクロバクシカルな行為であると比喩をされています。

これは、まさに個人の自律が、困難極まる得難い境地であるかことを表現したものであると言えそうです。

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現代社会では、今在る関係性(社会的文脈)が読めず、判断の基準も分からないまま、ゲームの中に放置されるという経験をお持ちの方も多いと思われます。

実践では、たとえルールが分からならなくても、その場のゲームの与件から判断して、最低限自分の身は自分で守らなければならないことは多々あります。

とてもストレスフルな状況ですが・・。

そして、個人の自律とは、このようなゲームのルールさえ分からない逆境にあっても、最後は自分で自分を支えることができる卓越した芸当のことを指すと思われます。

では、個人の自律で、自分で自分を支えることになる支点(視点)は、一体どこに求めれば良いのでしょうか。

おそらく、個人の自律のためには、「自己意識」と呼ばれる自分を相対化できる客観的な視点が必要になってくると思われます。

つまり、自己意識は、自分自身を相対化し(絶対化しない)、そして自分自身を俯瞰できるようなメタレベルからの視点ということです。

このような視点は、先の内田樹先生のお言葉をお借りすれば、自分自身の内面(外部ではありません)にあって、なおかつ自分自身を中空に押し上げて宙吊りにできるような「支点」ということになります。

我流の言い方では、カントの言う定言命題、つまり「~すべし」という自分内部からの言明(倫理観)が、しかも普遍性につながって行くという本末転倒した芸当が、ここで言う「自己意識」に近いものになるのではないかと思われます。

個人の自律には、かようなアクロバクシカルな荒唐無稽た芸当が必要とされることになるということです。

このため、自分自身を素直に信じる(自信)という過程では、自分には足場がない(自信に根拠がない)という不安定な状態に放置されることになります。

自己意識を信じて、自己を相対化することは、自分の世界観から外に向かって一歩進み出る、つまり固定化したフレームワークから外にダイビングすることであると思われます。

時には自己否定につながることおもあるかもしれない自己の相対化は、着地点の読めない極めてリスキーな試みであって、大きな戸惑いや不安を伴う試練です。

しかしながら、自己の相対化は、脳の機能である「同じ」という幻想の世界から、一歩外にある多種多様な実体世界に踏み出すことでもあります。

自己の相対化、つまり自己意識に支えられた自分自身の客観化(俯瞰)が、脳化した一元的な幻想世界から多元的な現実世界に踏み出すことではないでしょうか。

そして、自己の相対化は、おそらく自己のフレームワークの「揺れ」が引き起こす不安や恐怖ではなく、むしろ自己のフレームワークの「ずれ」から引き起こされる創造性の方ではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

蛇足ながら申し上げれば、自己意識を信じて、自己を相対化するということは、自分よりも偉大なものに身をゆだねる思想をベースにしていると思われます。

したがって、一神教を信じる欧米人には可能な芸当ではあっても、多神教を信じる祖霊信仰の日本人には難しいことであるのかもしれませんね。

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ヒトとチンパンジーの遺伝子情報は、わずか2%ほどのの違いしかないと言われています。

このことからすれば、もともとの遺伝子情報だけでは、ヒトとチンパンジーの持っている能力(感覚)の違いを説明することはできないのかもしれません。

従って、ヒトであるホモサピエンスとチンパンジーの決定的な違いは、脳の持つ形式や構造として、言葉が使用できる新脳の存在ということになるようです。

新脳がもたらした言葉が、ヒトとその他の動物を大きく隔てることとなり、ヒトの新脳の持つ機能の大きな特徴が「同じ(同一性)」ということになります。

つまり、本来ヒトによって多種多様(バラバラ)な感覚を「同じ」に集約していく機能が、脳に備わった言葉の「同じ」という機能であり、この機能によってヒトは言葉でコミュニケーション(交換)を図ることが可能になったということになります。

そもそもヒトの持つ感覚は多種多様なものと言えますが、その多種多様なヒトの個性をもたらしたものは、ほんのわずかな遺伝子情報の違いとヒトを取り巻く環境要因から説明できることになるとされています。

自己の相対化とは、ヒトの持つ感覚の多様性に気付くことであるのかもしれません。

そして、ヒトの持つ感覚の多様性に気付くことが、ヒトの新脳に備わった機能の「同じ(同一性)」の概念世界から一歩踏み出すことかもしれません。

これは、一元的なものの見方から多元的なものの見方へと踏み出すことであって、ヒトの持つ感覚の多様性を尊重するという立場でもあります。

ヒトは、脳の機能である「同じ」という一元的な概念(幻想)世界から一歩踏み出して、多元的な感覚(現実)世界に触れることが、今世界で起きている様々な信念対立を超えて行くきっかけになってくれるかもしれません。

言うまでもなく、信念対立とは、一元的な概念(幻想)同士の対立であり、脳の持つ「同じ」という機能に呪縛されているがゆえの対立と言えそうです。

自分が脳の機能の「同じ」に囚われていると、ほんの少し気づくだけでも、多種多様な他者の存在に気づき、尊重することができるようになるのかもしれません。

繰り返しになりますが、コミュニケーション(交換)は、言葉の持つ「同じ(同一性)」という機能を前提として成立しているものでした。

そして、信念対立(話しが通じない)の問題も、またこれと同じように言葉の持つ意味の「同じ(同一性)」が前提になっているということです。

したがって、信念対立の問題を超えて行くには、コミュニケーション(交換)では言葉の意味を絶対化(一元化)せず、相対化(多元化)することが、通じない話を通じるようにさせる、つまり分かり合える部分にコミットするということになるのではないかと考えるのですが、さていかがでしょうか。

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「不安と創造性」を、最後までご一読いただきありがとうございました。

それでは、本稿の結論(のようなもの)とさせていただきます。

不安は、差異(隔絶)から生じるものと言えそうです。

つまり、自分の感覚と外部の感覚に差異(隔絶)があれば、そこに不安(不安定)が生じるのは当然のことです。

また創造性も、差異(隔絶)から生じるものと言えそうです。

自分の感覚と外部の感覚に差異(隔絶)があって、その水位差(隔絶)を埋め合わせる営為が創造性ではないでしょうか。

そして、水位差(隔絶)を埋め合わせる創造性には、ヒトそれぞれの感覚の違い(差異)を受け入れる(尊重する)柔軟性が必要とされると思われます。

つまり、ヒトの感覚がバラバラであることを認識したうえで、共感(シンクロ)できる部分にコミットして行くことになります。

ただ、ヒトは決まった答えがない、みんなと同じでない、一元的な答えがない、つまり感覚や意味の多様性(グレーゾーン)に不安を覚えるのもまた事実です。

脳の特徴である同一性(同じ)の機能からすると、当然の帰結かもしれません。

しかしながら、決まった答えがないと動けないということであれば、それはロッククライミングで4点支持登法を試みているようなものではないでしょうか。

つまり、動かない4点支持登法は確かに安定はしていますが、その最大の難点は時間が経過すると力が尽きてやがて滑落してしまうということです。

したがって、自分を支えてくれる確かな足場(決まった答え)はなくとも、勇気を奮って目の前に広がる多様性(グレーゾーン)に暫定的なマーキング(答え)を試みることはできるかもしれません。

ただ、勇気を奮って試みたマーキング(答え)であっても、時間が経過して社会的文脈が変われば、自分を支えてくれる足場(答え)ではなくなってしまいます。

自分の足場(答え)は常に更新されて行くものであり、あらかじめ決まった答えがないのが答えと言えそうです。

しかしながら、かような不条理に耐えながらも、日々淡々と足場づくりを繰り返していると、ふとひらめいた直感(アイデア)が自分の枠を超えて人類全体の叡智(普遍性)につながることがあります。

おそらく、一般性からの破綻でしかなかった自分の個性(特殊性)が、人類全体の叡智である普遍性につながった瞬間ではないでしょうか。

普遍性は、国や民族、宗教の枠組みを超えた感覚ですが、同時にヒトの脳という生物学的な限界を持った感覚でもあります。

つまり、ヒト(の脳)であれば、誰もが同じように感じる感覚を普遍性と呼ぶことになると思われます。

養老孟司氏によれば、両端を切った真ん中あたりということになるようです。

したがって、普遍性をベースにできたことで、自他の差異(隔絶)で不安定であった個性(特殊性)は、一般化し安定化して行くことになります。

繰り返しになりますが、自分の感覚と外部の感覚に差異(隔絶)の水位差(隔絶)を埋め合わせる営為を、創造性と呼ぶことになると思われます。

最後になりましたが、不安と創造性はコインの表裏の関係にあると言えます。

このため、物理的にコインの表だけを取り出せないように、ネガティブな不安だけを取り除いてポジティブな創造性だけを取り出すことは出来ないことになります。

したがって、隣り合わせのネガティブな不安とはうまく折り合いをつけながら、目の前に広がる多様性(グレーゾーン)の海にダイビングして行くポジティブなファーストペンギンの勇気こそが、今を生き延びるために必要な創造性ではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2016-03-15 22:11 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(9)

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不安とは差異によって生じるものです。

自分の感覚と外部の感覚に差異があれば、不安が生じることは当然といえます。

また、創造性も差異から発生します。

自分の感覚と外部の感覚に差異があって、その差異を埋め合わせる営為が、芸術や社会変革という創造性につながるといえます。

先の見えない不安な時代にあって、ただ不安に惑わされるのではなく、創造的に生きて行くためには、ヒトとの違い(差異)があるということを、まずは受け入れることが必要ではないでしょうか。

そのうえで、言葉の機能としてもともと組み込まれた概念化という曖昧な働きを利用しながら、共有できる部分にはコミットするということが必要になるのかもしれません。

つまり、ヒトとの違いは認識しながらも、自覚的に共感する部分は持っておくということです。

言葉の概念という曖昧な世界にコミットすることは、一元的に共感することではありません。

その言葉の中に含まれる意味の多様性を知ったうえで、言葉や事象のグレーゾーンにコミットするということです。

ヒトは、一元的な答えがない、みんなと同じでない、つまり差異があるという状態を不安に思うことは当然なのですが、いつまでも不安な状態なままでいることはできません。

不安な状態を支えてくれる堅固な足場は得ることができなくても、グレーゾーンに暫定的な答えをマーキングするということはできるはずです。

そして、その暫定的な答えもやがては答えとして使用することはできなくなってしまうかもしれません。

その時は、また答えを作り直すしという雪かきのような作業の繰り返しということになります。

創造性とは、このような決まった答えがないという不安定な足場に耐えながらも、淡々と日々の足場づくりを繰り返すという営為の積み重ねからしか生まれてこないのではないでしょうか。

不安のベールは一気に吹き飛ぶようなものではありません。

暫定的な答えを足がかりにして一歩一歩着実に登っていくという地道で忍耐のいる仕事が、やがて不安を創造性に変えるものと考えますが、さていかがなものでしょうか。

【追記】
6月から開始しました養老孟司シリーズ(養老孟司講演会、青い鳥を探して~哲学の旅、不安と創造性)は、これをもちましてひとまず終了とさせていただきます。

始めた当初と現在では、言葉、感覚、脳、同一性、そして創造性に対する私自身の考え方もずいぶん変化(ずれ)があったように思われます。

養老孟司氏の論旨のコピーが目的ではじめたことではないので、私自身がストリーテラーになる(物語る)ということが、そもそも亜種になる(ずれる)という必然を引き受けていたということになりそうですね。

長い間、お付き合いいただきましてありがとうございました。

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by kokokara-message | 2009-09-02 22:12 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(8)

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言葉には、多くの限界があることを知ることが必要です。

言葉では、自分の感覚を言い尽くせないもの(逆に言い過ぎてしまうもの)ということ。

また、相手の言葉を理解するうえで感覚の違いが理解に必ず齟齬を生じさせているということ。

ヒトは生成され常に変化して行く生き物であるため、生きた言葉は常に変化しているということ。

従って、言葉という情報は、文字などに記録してしまえば停止した状態になってしまうこと。

言葉の一貫性やぶれのなさとは、自分の感覚に忠実であるというよりは、むしろ期間限定ではあっても比較的固定的な社会文化的な規範に対して忠実であるということ。

従って、言葉の一貫性やぶれのなさも、社会のパラダイムが大きく変わればその価値そのものが否定されてしまうことになること。

公共性と倫理性からは、言葉はオープンマインド(答えはつねに暫定的なもの)であることが基本となること。

言葉でつたえることには限界があるということ。

そのことを知った上でもなおコミュニケーションを図ろうとすることが、自分の感覚を信じる勇気であること。

このことは、同時に相手の感覚を尊重することでもあること、ではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2009-08-28 22:51 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(7)

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ヒトとチンパンジーの遺伝子情報の違いは、わずか2%ほどしかないといわれています。

このことからすれば、もともとの遺伝子情報だけでは、その能力(感覚)の違いを説明することができないのかもしれません。

従って、チンパンジーとヒトであるホモサピエンスとの決定的な違いは、脳の形式や構造として言葉が使用できる新脳の機能があるか、ということになるようです。

新脳という脳の形式や構造がもたらすことになる言葉が、ヒトとその他の動物を大きく隔てているということになりますが、脳の持つ機能の特徴は「同じ」ということです。

つまり、本来ヒトそれぞれに持っているバラバラな感覚を「同じ」に集約させていくという機能が言葉に備わった機能でもあり、この機能によってヒトは言葉でコミュニケーション(交換)を図ることができるという特徴を持つにいたりました。

ヒトとそれ以外の動物を大きく隔てるものは、言葉の使用ということであり、これはヒトの新脳の形式や構造に備わった「同じ」という機能を前提として成立していることになります。

ヒトの持つ感覚はそもそも多様なものですが、感覚がもたらすヒトの個性は、システムとしての遺伝子情報のほんのわずかな違いと自分を取り巻く環境との関係性の違いによるということになります。

ヒトそれぞれが持つ感覚の違いに気付くということが、脳の「同一性」という呪縛の世界から一歩外に踏み出すことにつながります。

このことは、一元的な見方から多元的な見方へと踏み出すことであり、ヒトの多様性を尊重することにもつながっていくことといえます。

ヒトは、脳の「同じ」という概念の世界から踏み出して、感覚の世界の多様性に触れるということが、社会の中の信念対立という概念(同一性)同士の対立から抜け出すことになり、自他に対して客観性を持つことにつながるのかもしれません。

コミュニケーション(交換)は、言葉の「同じ」という機能を前提として成立していました。

しかしながら、言葉の意味を絶対化(一元化)するのではなく、相対化する(多元化する)ことによって、分かり合えるチャンスや機会を増やすということができるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2009-08-19 21:44 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(6)

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実社会では、文脈が読めず、判断の基準も分からないようなゲームにいきなり参加させられたという経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

実践としては、たとえルールが分からならないゲームであったとしても、その場の状況(与件)から判断して最低限自分の身を守ることはなさねばならないことであるといえます。

個人の自律とは、このようなルールさえ分からない逆境(与件)にあっても、最後は自分で自分を支えるということになるのではないでしょうか。

個人の自律には、自己意識が必要とされています。

自己意識とは、自分自身を相対化し(絶対化しない)、かつ自分自身を俯瞰できるようなメタレベルからの視点ということです。

このような視点は、先の内田樹氏の比喩によると、自分自身の内面にあって、なおかつ自分自身を中空に押し上げて宙吊りにできるような「支点」ということになるのかもしれません。

個人の自律には、このようにアクロバクシカルな芸当が必要とされるため、自分の閉ざされた世界観から外に向かってダイビングするときには、大きな不安が伴うことになります。

自分の安心安全で固まった世界観を疑い、固定化したフレームワークから飛び出すという自分自身を相対化する過程においては、自分の持つフレームワーム(世界観)が大きく揺れをおこすことになり、これに伴って不安も発生します。

しかしながら、これは自分の脳の「同じ」という安心安全の世界から一歩外の多様性の世界に踏みという出すということであり、自分を信じるという勇気が、自分のフレームワークの「揺れ」である不安を、やがて「ずれ」という創造性へと変えていくことになるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2009-08-12 22:37 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(5)

不安と創造性とはコインの表裏の関係にあると思われます。

フレームワークという「世界観の揺れ」によって発生するものが不安であり、フレームワークという「世界観のずれ」によって生じるものが創造性(気付き)といえるのではないでしょうか。

不安は知性を破壊させてしまう危険性をはらんでいますが、創造性は知性の枠を拡げるだけではなく、その位相を変えてしまう可能性を含んでいます。

そして、不安と創造性の相違は、外部からのノイズ(雑音)を受動的なものとしてとらえるか、それとも能動的にとらえて自覚化する(気付く)ことができるかということなのかもしれません。

このような先が見えない時代であるからこそ、ノイズ(雑音)という差異を不安とするのではなく、創造性に変えるような強い自我とそれを支える知性(論理)が必要とされているのではないでしょうか。

確かに、フレームワーク(世界観)の揺らぎは、とても不安なことであると思われます。

しかしながら、その揺らぎに耐える自我が形成されることは望まれることであり、個人の自律とはこのような自我が形成されることをいうのではないでしょうか。

内田樹氏によれば、個人の自律とは、自分の髪を自分の手で掴み取り、中空に押し上げて宙吊りにするようなアクロバクシカルな行為であると比喩をされています。

これは、個人の自律が、いかに難しいものであるかを表現したものと思われます。

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by kokokara-message | 2009-08-05 23:01 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(4)

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では、相手との関係が安定するコミュニケーションとは、どのようなものなのでしょうか。

これまでのことから考えれば、表情やしぐさというメタメッセージについては、できるだけポジティブな意味で使用するということが望ましいことになりそうです。

そして、使用する言葉の意味については、できるだけ個人的な意味での使用(逆説的な意味)はさけて、一般的な意味の範囲に収まるように使用するということが、相手に不安を与えないコミュニケーションといえそうです。

このような交話(講和)的ともいえるコミュニケーションが図られる典型的な場面は、あいさつを交わすときがそれにあたるのではないでしょうか。

「こんにちは」というあいさつに対して「こんにちは」と繰り返す同語反復的なコミュニケーションが、安定した関係性を築くきっかけとなり、お互いの心を開かせることにもつながると思われます。

あいさつはコミュニケーションを起動させるためのスイッチであり、オープンマインドな「場」の共有ができる環境を構築するきっかけになるものといえます。

オープンマインドな「場」が共有できれば、お互いのコミュニケーションに多少のズレがあったとしても、思考は不安というネガティブな方向に向かうことはなく、創造性というポジティブな方向へと展開することになります。

このように不安のない安定したコミュニケーションには、表情やしぐさなどのメタメッセージがポジティブであること、そしてあいさつによるオープンマインドな「場」の形成ができていることが必要とされるということです。

そのうえで、言葉持つ意味の幅を徐々に広げていくなどのコミュニケーションによって、相手の創造性に深くコミットするということも可能になるのではないでしょうか。

茶の湯に「一期一会」という言葉があります。

一生で一度だけの出会いを後悔することなく、もてなしをするという意味で使われているようです。

茶の湯では、同語反復のあいさつとしぐさ、また抑制のきいた穏やかな表情など交話(講和)的なコミュニケーションルール(もてなしの心)が求められます。

このような「もてなしの心」というメタルールの共有があって、はじめて言葉の意味をずらすこと(メタメッセージを送ること)が可能となり、「場」の展開を図ることもできるようになるのではないでしょうか。

茶の湯とは、関係性という「場」の更新を目的とした高度で知的なコミュニケーションゲーム(言語ゲーム)といえるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2009-08-02 10:22 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(3)

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言葉の特徴は「同じ」という概念化といえますが、言葉のオトや文字が指し示す意味は、決して一義的なものではなく、多義的なものであるということがいえます。

この言葉の多義性を利用することで、言葉の持つ意味をずらしながらフレームワークを徐々に広げていくというコミュニケーションの方法があります。

「こんにちは」という言葉は、一般的には親しさや敵意のなさを表現するメッセージとして使用されるものといえます。

この「こんにちは」というメッセージに、個人的な意味を含めるということになれば、一般的な意味のフレームワークからずれた意味を発信しているということになります。

従って、使用される言葉が個人的な意味であるのか、それとも一般的な意味の幅に収まっているものなのかについては、その言葉が使用される相手との関係性(文脈)から判断するしかないことになります。

相手との関係性が安定したものであれば、コミュニケーションはお互いのフレームワークを徐々に広げていくという役割を果たします。

これに対して、先の事例で「こんにちは」という親しさや敵意のなさを表す言葉にもかかわらず、相手の表情が拒絶を示しているということであれば、これは言葉に対して表情が相手との関係性という文脈になります。

やさしい言葉をかけてくれるけれども、目が笑っていないような気がするという不安定な関係性を日常の中で経験されるということはあると思います。

この場合には、言葉のメッセージに対して、言語外のメッセージが、コミュニケーションを制御するメタメッセージ(上位のメッセージ)ということになります。

言葉のメッセージと言語外のメッセージのベクトルの方向が正反対であるコミュニケーションは、その関係性を複雑なものにしてしまうだけではなく、メッセージを受け取る側の思考や感情を不安定化させることになります。

もし、あなたの回りに言葉と表情のメッセージが一致しないような人がいるとしたら、迷わずに距離をとることをお勧めします。

ダブルバインドには近づかないということが最善の自己防衛手段となります。

すでに、あなたがダブルバインド状態におかれてしまっているとしたら、相手には依存するような価値がないということを自ら決断して、徐々に距離をとっていくことしかないのかもしれません。

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by kokokara-message | 2009-07-31 22:24 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(2)

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不安と創造性の関係について、コミュニケーションの観点から考えてみることにします。

言葉は、脳の持つ機能である「同じ」を特徴としますが、コミュニケーションは、言葉の「同じ」という機能を繰り返すということによって成立しているものということができます。

しかしながら、私たちが生活している世界は、多種多様なものが存在していて、全く同じものが二つとない、つまりコピーが存在しない世界ということができます。

コピーをしても、物理的にはすべては亜種ということになります。

言葉の意味も同様で、言葉の使用法や前後の文脈からその言葉の意味を判断するということが一般的な解釈の方法とされています。

概念の「同一性」は、言葉の特徴のひとつといえますが、「りんご」という概念(同一性)でも、その前後の文脈から個別な「りんご」の意味を含んだ概念(言葉)として、使用されるということが一般的なのではないでしょうか。

たとえば、あいさつにおいては「こんにちは」という言葉を交わしますが、このあいさつの言葉と相手の表情やしぐさとの意図するものの間に微妙なずれを感じるということがあります。

これは、「こんにちは」という一般的な意味とは異なったメッセージが、相手から発信されていることをこちらが察知しているということです。

このように言葉と表情やしぐさの発信するメッセージが異なっているような場合には、私たちはどちらのメッセージを優先して選択すればいいのでしょうか。

ダブルバインドと呼ばれる事例が報告されています。

言葉と表情という二つのベクトルの向きが異なるメッセージが同時に発信されたとき、私たちは強い違和感や不快感という感情の揺れを感じるだけではなく、自分の思考(自我)を統合しておくということさえも難しい状態になってします。

そして、メッセージの不一致を尋ねるということが、さらに自分の混迷を深めるということ(相手は正直に答えてくれない)になる場合には、ダブルバインドという状態にしばりつけられることになってしまうということです。

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by kokokara-message | 2009-07-30 22:37 | 我流脳科学(不安と創造性)

不安と創造性(1)

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現代は多くの人が不安を抱いて暮らしています。

経済的な問題だけではなく、いたるところで社会不安が指摘されています。

時代の先が見えない、読めないというという不安が強くなってきているのではないでしょうか。

先の見通しが悪いために、良い結果よりも悪い結果をより多く考えなければならず、このことがさらなる不安を招くということにもなっているようです。

社会全体が心配性になっているともいえますが、あながち心配性だけではすまされない現実が私たちの身近に存在しているということもまた事実です。

このような社会環境が、私たちの心配や不安に対するリアリティを高めることにもなっているといえます。

現代の社会不安は、社会のパラダイム(支配的なものの見方)が変換していることは理解しても、どのように対処していいか分からないという不安ではないでしょうか。

つまり、変化に対処するマニュアルが存在しない、踏み出すにも足場がないということが不安の原因になっているといえそうです。

心配なことがあっても、それまでの自分のフレームワーク(世界観)の中に回収ができれば、納得も安心もできるはずです。

しかしながら、自分のフレームワーク(世界観)の中に回収できないとなると、フレームワーク(世界観)そのものが大きな揺れを起こすことになります。

これは、自分のフレームワーク(世界観)を揺るがす違和感、つまりノイズ(雑音)が発生しているということです。

現代社会には、このような違和感=ノイズ(雑音)がいたるところに存在しているため、私たちの思考の不安定さも常態化してしまっています。

家庭や職場などが怒りや罵倒の場に変わってしまうということも、こうしたノイズ(雑音)が、私たちの思考のフレームワークを揺るがせて不安定化し、イライラや不安という感情が発生するということになっているのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2009-07-29 23:08 | 我流脳科学(不安と創造性)