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トリクルダウンという言葉はご存知でしょうか。

大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分としてまた成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした資本主義の経済理論(仮説)とされています。

上方落語には、大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。

この「百年目」という落語の中で、トリクルダウンの経済理論が大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。

そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)が必要ということになります。

ただ厳しい状況に耐えるだけでは、人も経済も活性化できない、したがって適度な余裕や遊びが必要ということになるわけです。

これが、トリクルダウンのエッセンスです。

また、大阪船場では、過剰な利益の収奪は卑怯な商法と見做され、節度ある利益の享受と社会貢献が持続的な商売の源泉になると信じらていました。

「損して得とる」ということになるでしょうか。

したがって、「百年目」の舞台大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする「世俗内禁欲」の習慣があったとされています。

これは、御堂(阿弥陀様)に囲まれた土地柄にも由来することですが、大阪船場の商法は宗教的バックボーンに基づいたものということになりそうです。

マックス・ウェバーが、資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると指摘してたことと極めて類似性があると言えそうです。

江戸近世から明治近代にかけての大阪船場は、日本では珍しい資本主義の精神がいち早く花開いた町ということになるのではないでしょうか。

上記のとおり資本主義の精神に宗教的バックボーンが備わっているとすれば、一部の勝者だけを正義とする新自由主義的な弱肉強食の考え方はおそらく異端ということになるはずです。

しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理と理解されてしまい、他者への寛容性だけではなく自己への配慮も欠いた経済活動が優先されるようになってしまいました。

マクロ経済的に見ると、合理性や効率性での自己利益の追求だけを図れば、一見社会全体の効用を最大化させるかのように思わますが、実際はそれとは真逆で自分で自分の足場を崩すという極めて不安定な経済状況を作り上げてしまうことになります。

例えば社会全体の資産の半分以上を上位数名だけで独占するような著しい経済格差、また労働者を代替可能な商品と見做ようなブラック企業の存在など・・。

とても不思議なことですが、確かに経験的にはそのようになっています。

この二律背反する経済現象を一般化すると、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になるという真逆な関係性にあると言うことです。

したがって、資本主義が長期的に安定して行くためには、合理性や効率性の純度を押し下げる適度な非合理性、例えば賃金の硬直性や雇用の非弾力性、また労働組合の存在が挙げられます。

これらのことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏の「不均衡動学」等の著書があります。

閑話休題。

ではもう少しだけ、経済のお話しにお付き合いください。

ドラッカーの有名な経済タームに「選択と集中」があります。

得意(優先順位の高い)分野を明確にして、得意とする(優先順位の高い)分野に経営資源(社会資源)を集中的に投下するという戦略のことです。

これからの日本は確実に人口が減少し、国内消費が低迷する、つまり日本の価値(人やお金)が縮小していく混迷の時代と言うことができそうです。

したがって、ドラッカーの「選択と集中」の理論からすると、自然に価値(人やお金)の拡大が見込めない時代であるからこそ、得意とする(優先順位の高い)分野に社会資源を集中的に投下することが求められるわけです。

つまり、日本が今後も経済的相対的優位に立って生き残っていくためには、あらゆる社会資源を政策的に「選択と集中」してくことが必要になってくるということです。

そして、さらにこれからの日本人と日本経済を元気にするためには、社会資源の「選択と集中」と同時進行に、トリクルダウン(露おろし)の実践が必要になってくると思われます。

トリクルダウンは、大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していく大木と草花の相互依存関係で、結果として人(労働者)と商売(経済)をともに元気にさせるものでした。

そして、このトリクルダウンの経済理論(仮説)の要諦は、まずは大木を育て、その大木を基盤として裾野の草花に露がおろされるという先富論になっています。

では、トリクルダウン(露おろし)が先富論=「選択と集中」の帰結であるとしたら、トリクルダウンのためにどのような経済政策が考えられるのでしょうか。

例えば、企業の法人税(特に大企業)の適切な軽減化を図る一方で、個人の所得税や相続税に対する累進性の強化、また個人の社会保障への応能負担の強化、そして国全体の平準化を図る目的から地方交付税等による所得の再分配化機能の強化が挙げられると思われます。

そして、国際的な経済政策としては、「21世紀の資本論」のピケティ教授が提唱されているタックスヘブンをなくす「世界連携累進課税」が想定されることになるのではないでしょうか。

つまり、「選択と集中」の結実を原資とした所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践が縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させる手段であり、その結果として著しい経済格差の解消された、比較的公平と思えうことができるような日本社会が実現されることになるのかもしれません。

ただ残念なことなのですが、この半世紀の間に、日本人のマインドは、自律する方向から依存する傾向へと変質してしまったようにも思われます。

依存的な未成熟社会にあっては、おそらく資本主義の論理(とその背後にある寛容性)や所得の再分配機能(とその背後にある自律性)がその機能を十全に果たすことができない惧れがあると思われます。

従って、依存的で未成熟なままの社会では、誰もがフラストレーションを抱えながらも出口が見えない、いわゆる「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは、勝手な思い過ごしであれば良いと思うのですが、さていかがでしょうか。

今後の日本政府の経済政策と日本人の経済動向をしっかりと見守って行きたいものです。(苦笑)


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by kokokara-message | 2017-11-23 11:58 | 我流経済学

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機会均等という言葉の持つ意味は、おそらくその機会が誰に対しても公平であり平等であるということではないでしょうか。

また、一方で機会均等の持つもうひとつの意味は、誰であっても構わないということになるのではないでしょうか。

つまり、機会均等の持つ言葉の意味を極限まで突き詰めると、誰であっても構わないという「代替可能性」に行き着くことになるわけです。

では、本当にチャンスは誰に対しても機会均等(公平かつ平等)で、代替可能性がある(誰であっても構わない)と言えるのでしょうか。

少し話しは変わりますが、ゴールドラッシュの時代のアメリカ大陸では金脈を求めた多くの人が、大金持ちになる夢(ドリーム)を思い描き、アメリカ大陸の東の端から西の端まで大移動しました。

多くのアメリカン・ドリーマー達が金脈を掘り当てるという夢に挑みましたが、大多数の夢はかなうことなく、夢破れて去っていくことになります。

おそらく、大半のアメリカン・ドリーマー達は、大金持ちになるという具体の夢(ドリーム)以前の、代替可能性(誰もが成功できる)という大きな夢(ドリーム)に賭けていたのかもしれません。

もちろん、大金持ちになるという夢を思い描き、具体的にその夢をかなえた人もいました。

では、夢をかなえることができた人とそうでなかった人には、どのような違いがあったのでしょうか。

ただ一方だけが幸運であったということではなく、おそらくそのスタートラインにおいてすでに属人的な能力の差異が発生していたということではないでしょうか。

つまり、ゴールドラッシュ時代の代替可能性(誰であっても構わない)には、あらかじめ資本力や技術力、情報収集力などの属人的な差異が組み込まれていたということになります。

文字通り、スタートラインが機会均等(公平かつ平等)で、代替可能性がある(誰であっても構わない)ということは理想的なであることは言うまでもありません。

しかしながら、自分の周りを少し冷静に観察して見れば、誰一人として同じであることはなく、属人的な能力は多種多様(バラバラ)ということになります。

したがって、機会均等(公平かつ平等)を理想化し、ただそれだけを信じていると、自分自身も含めた属人的な能力の差異を見落してしまう可能性があるということです。

まずは、自分を知ることが、他者を知ることであり、社会を知るためのスタートラインであると言えるのかもしれません。

再び話しは変わりますが、インターネットの世界は情報へのアクセスに(理論上)格差が生じないため、一見誰もが成功できる機会均等(マクロ経済学の完全競争市場)が達成された世界であるように思われてしまうところがあるようです。

その結果、インターネットの世界でより多くの利益や快楽を享受したい人は、自分の身体(体力)の許す限り、インターネットの情報にアクセスするということにもなってしまいます。

つまり、理論上の機会均等(完全競争市場)、つまり代替可能性(誰であっても構わない)が実現した世界では、究極の資本が自分の身体(体力)だけになってしまうということです。

マルクスの労働価値説のようです。

では、本当に際限のない身体(体力)の投入が、価値の高い商品(多くの利益や快楽)や財や富をもたらすことになるのでしょうか。

おそらく、情報化社会で本当に必要とされる能力は、際限のない身体(体力)ではなく、むしろ入手した情報から何を汲み取り、いかに組み換えるかという、ブリコラージュの創造性ではないでしょうか。

新たな亜種の創造、つまり価値の組み換え(ブリコラージュ)です。

そして、このような価値の創造(ブリコラージュ)には、多くの基礎知識(教養)が必要とされるため、身体(体力)のみならず、ありとあらゆる属人的な能力の差異が求められることになるわけです。

以上のことからすると、ゴールドラッシュやインターネットの世界で言う機会均等(完全競争市場)とは、誰もが同じである一方で、私だけが違う(成功する)という、実に身勝手な世界観に立脚したものと言えるのかもしれません。

また、別な見方をすれば、ゴールドラッシュやインターネットで言う機会均等(完全競争市場)とは、フラットな世界のイメージ一がある一方、現実の社会はそれとは真逆の、スタートラインですでに唯一無二性(アイデンティティ)についてグラデーショナルな格差がつけられた社会であるということです。

少し前の話しになりますが、若い人達の間で「自分探し」が話題になることがありました。

多くの若い人が公教育を通じ「誰もが同じ(公平平等」というフラットな世界観を教えられる一方、現実の社会は「誰もが同じではないこと(あなたしかできないこと)」を常に迫られる、極めてストレスフルでグラデーショナルな格差社会であることを目の当たりにすることになります。

おそらく「自分探し」とは、「理想」のフラットな平等社会と「現実」のグラデーショナルな格差社会のギャップに耐え切れなくなった若者が緊急避難のために採った行動ではないでしょうか。

つまり、フラットな社会でゆるく自己規定した自分の唯一無二性(アイデンティティ)が、グラデーショナルな社会で厳格に他者規定(社会からの承認)されるという大きな隔絶です。

その結果、自他の評価のギャップに迷い、戸惑い、そして埋め合わようとした行動が「自分探し」という現実逃避(モラトリアム)ではなかったのかと言うことです。

したがって、若い人に限らず、一般論として現実の社会を生きるためには、自分の軸足を「誰もが同じである」というリアリティを欠いたフラットな幻想社会に置くのではなく、むしろ「誰もが同じではない」というリアリティのあるグラデーショナルな格差社会に徐々に移行していくことが求められるのかもしれません。

そして、自分の軸足が、現実のグラデーショナルな格差社会のいずれかに定まってくれば、唯一無二性(アイデンティティ)の揺らぎ(ギャップ)はやがて小さくなり、安全安心と思える自分の居場所(自分の役割や自分の立ち位置)も確保できるようになるのかもしれません。

また、唯一無二性(アイデンティティ)とは自己規定をする一方で、所属している社会から承認(他者規定)を得ておく必要があるものでした。

したがって、自他の内外からのバランスがとれた唯一無二性(アイデンティティ)が、今自分が置かれている社会の暫定的な役割であり立ち位置ということになります。

まずはグラデーショナルな格差社会に自分の役割や立ち位置を得ることが、「自分探し」の卒業であり、つまりは「自己実現」の扉を開けることではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

最後に、「自己実現」とはあくまで暫定的な通過点であって、常に更新されていくものでもあります。

したがって、生きるとは、永遠に固定化されない自分自身を常に観察しコントロールしていく視点、つまり自己意識(自分自身を俯瞰する視点)を確保するということが、人生の究極の目標になるのではないかと考えていますが、さていかがでしょうか。

悟りの世界ですね、大変な難行です(笑)。

(おわり)

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by kokokara-message | 2014-05-04 12:50 | 我流経済学

日本人のための経済原論

以上が、大変懐かしいのですが、「マクロ経済学」入門ということになります。

先程も申し上げましたが、「マクロ経済学」に興味のない方は、どうぞ読み飛ばしていただき、この後から読むようにしてください。

繰り返しになりますが、1990年代主流にあった日本の経済学者は、このようなマクロ経済学という経済理論を信じて疑わない立場にあったということになります。

従って、デフレスパイラルに陥るバブル不況の際にも、日本政府が採用した経済政策は、マクロ経済学(ここではケインズ経済学)の「有効需要の原理」であったということになります。

「有効需要の原理」とは、需要を創出することにより、その数倍の国民総生産(GDP)の増大を目的とするものでした。

「有効需要の原理」のエッセンスが、乗数理論にあったことを思い出してください。

日本政府は、この乗数理論が正常に機能しているものと判断し、公共事業を増大させることで、その数倍の国民総生産(GDP)の増大を図ろうとしたと考えられます。

しかしながら、実際には、いくら公共事業を創出しても、理論どおりに乗数理論は機能せず、国民総生産(GDP)が増大するどころか、逆にマイナス成長に落ち込むことになってしまいました。

つまり、「有効需要の原理」の要諦である乗数理論が機能していなかった、ということになります。

乗数理論については、当時からその無効性を指摘する声があがる一方で、効果が現れないのは未だ需要が足りていないからという、原因究明を放棄したかのような論調も多くみられました。

そして、政治学者であり経済学者でもあった小室直樹氏は、当時主流になかったものの、短期間という限定付なら乗数理論はいまだ健在(国民総生産の増大に寄与する)と論じられていたことを覚えております。

では、どうして1990年代の日本経済には、乗数理論が機能しなかったのでしょうか。

これには諸説あるものの、日本を取り巻く世界情勢が大きく変化したこと、日本の経済構造が大きく変化したこと、これらのため日本人の行動様式が大きく変化したことなどがその原因としてあげられています。

1990年代初頭、約40年間続いた東西冷戦構造が終焉し、日本を取り巻く世界情勢は大きく変化します。

そして、英米が先導する金融自由化のグローバリゼーションは、瞬く間に世界中を席巻していくことになります。

日本のみならず、世界経済を取り巻く勢力地図が大きく書き換えられた時期であったということになります。

ところで、経済学は、生産手段を、人、土地、資本として考えることがあります。

グローバリゼーションは、資本のみならず、人という生産手段も、グローバル化させることになるのではないか、と論じられた時期もあったように思われます。

しかしながら、人には固有の文化や宗教、そして言語という制度があるため、国境を超えた移動(つまり多文化共生ですね。)を普遍化することは、極めて難しいとされています。

たとえば英独の事例でも、労働者問題⇒移民の受入れ⇒貧富の格差⇒社会保障の増大、治安の悪化という、経済問題がやがて社会問題に拡大する構造を持った問題でもあるということです。

このため、技術移転を目的とする短期間の移動なら可能でも、労働力を受け入れる移民については、慎重にならざるを得ないという立場が現在日本の主流になりつつあるようです。

また、もうひとつの生産手段として土地があります。

土地は、空気などのような経済活動で生産できない生産手段を含む概念とされています。

被災地の「フクシマ」が将来も日本の地であり続けるように、土地という生産手段はグローバル化の対象にはならないということです。

ただし、土地が金融商品化すればグローバリゼーションの対象になることも可能です。

これは土地の生産性が移転されるのではなく、投機対象となった土地が商品化され、グローバルに展開するというだけです。

このように、世界がいくらグローバル化しても、人や土地という生産手段は原則移動することがなく、実際に移動するのは資本や技術だけということです。

そして、マクロ経済学が前提としていたモデルは、おそらく人や土地のみならず、グローバル化する(金融)資本までもが、限定された範囲でしか移動しない枠組みを想定していたのではないでしょうか。

金融自由化は、ありとあらゆるものを投機対象にします。

金融資本の多様性とその規模の大きさは、当時の「マクロ経済学」が想定した範囲を超越していたのではないでしょうか。

金融自由化とグローバリゼーションは、日本を取り巻く世界環境と日本の経済構造を全面的に書き換えることになり、日本という国家の枠組みさえも流動化させてしまうことになったということです。

国家の枠組みの流動化は、一国内の経済政策を無効にしてしまうことさえあります。

つまり、いくら国内の公共事業を増大し国民総生産(GDP)を増大しても、国家の枠組みが流動化してしまえば、その効果は海外に流出することになり、「有効需要の原理」の乗数理論は期待どおりに機能しないことになってしまうということです。

次は、日本人の消費行動の変化です。

日本人は、それまでの高度経済成長期を通じ莫大な資産を築くことになりました。

国民の潤沢な資産は豊かさの象徴ともいえますが、その一方で、日本人の限界消費傾向を低下させる原因にもなってしまったということです。

先に示した消費関数を思い出してください。

C(消費)=aY(国民所得)という方程式の、aが(限界消費性向)です。

たとえば、Y(所得)が一単位増加しても、ひととおりの資産(住居や生活用品など)が揃っている状態なら、C(消費)がどの程度まで増加するかを想像してみてください。

おそらく、とりたてて購入する商品がないとなれば、Y(所得)の一単位の増加に対し、C(消費)の増加は鈍い反応(弾力性が低い)しか示さないのではないでしょうか。

これが、日本人が豊かになった(潤沢な資産を有することになった)ことを起因とする、消費行動の変化ということになります。

事後になってから、a(限界消費性向)の値が実際に低下していることが計測されることになったようです。

次に、企業の供給体制(サプライサイド)は、どのように変化したのでしょうか。

1990年代の日本企業の設備投資は、すでに供給過剰の状態にあったとされています。

つまり、1990年代の日本は生産過多の状態にあり、過剰な設備投資を抱えていたということになります。

このような状況では、新たに公共事業を創出し国民総生産(GDP)が増大しても、その効果は過剰な設備に回収されてしまい、新たな設備投資は生まれず、乗数理論は期待どおりには機能しないことになってしまいます。

次に、バブル不況がもたらした心理的影響は、どのような変化をもたらしたのでしょうか。

デフレスパイラルと呼ばれた先の見えない経済不況は、消費者のみならず企業に対しても閉塞感と不安感をもたらすことになりました。

その結果、集団心理として日本全体がネガティブな消費行動へと向かうことになります。

つまり、消費の抑制、デフレスパイラルですね。

デフレスパイラルとは、「Y(生産)=(所得)の減少」⇒「C(消費)の減少」⇒「Y(生産)=Y(所得)の減少」⇒「C(消費)の減少」を繰り返していくものです。

たとえば、Y(所得)が一単位減少した時、C(消費)がどの程度減少することになるかを想像してみてください。

Y(所得)とC(消費)がエンゲル係数のような関係にあるとするなら、Y(生産=所得)の減少がC(消費)の増加にダイレクトに反応する、つまり弾力性が高まる(プラスになる)ということになります。

一方、ネガティブな消費行動とは消費の抑制のことでした。

消費の抑制とは、C(消費)のY(所得)に対する弾力性が低下することでもあり、a(限界消費性向)の値が低下することということになります。

この二つのことから考えると、デフレスパイラルによる消費の抑制が、C(消費)のY(所得)に対する弾力性を低下させたとしても、ある閾値(所得の低下)にまで達すると、やがて反転し弾力性は上昇するのではないかということです。

つまり、a(限界消費性向)の値はいったんは低下するものの、Y(所得)の低下とともにやがてa(限界消費性向)は上昇することになるのではないかということです。

しかしながら、結果的には、日本人のa(限界消費性向)の値は上昇することはなく、Y(所得)とC(消費)の関係性が非弾力的のままで、あり続けることができたということになりました。

では、なぜ、a(限界消費性向)の値が上昇することなく、Y(所得)とC(消費)の関係が非弾力的のままであることができたのでしょうか。

先程、資産(豊かさ)との関係性から、a(限界消費性向)の変数が低下するという現象、つまりY(所得)とC(消費)の関係が非弾力であったことを検証しました。

こちらも同じような現象になるのではないかと思われます。

つまり、日本人がひとえに臥薪嘗胆したわけではなく、先の資産との関係と同様に、当面の消費を控えても困らないだけの資産(余力)を保持していたことが一番の原因になっているのではないかということです。

理論的には、生産⇒消費⇒生産⇒消費と縮小を続けるデフレスパイラル不況にあっては、そのサイクルを絶つための有効な手段として、「有効需要の原理」は十分機能するものであったように思われます。

しかしながら、日本の社会が豊かになったという事実が、デフレスパイラルという不況にあっても、失業の経済学といわれた「有効需要の原理」を機能させない土壌へと変貌させていたということになりそうです。

これは、ケインズ経済学そのものが無効になったわけではなく、豊かな国に発生した経済不況には「有効需要の原理」は機能しないことが明らかになったということであると思われます。

豊かさとは何か、貧困とは何か、これらは極めて相対的な問題といえます。

現在の日本では、豊かさ(成熟)の意味が問われることになっているのかもしれません。

以上を整理すると、英米の金融自由化を中心とするグローバリゼーションが、日本経済の枠組みを流動化させてしまったこと。

そして、日本全体の潤沢な資産が、日本経済を飽和状態にさせ、その結果日本人の消費行動を大きく変化させたこと。

さらに、バブル以降のデフレスパイラルといわれた経済不況では、資産(豊かさ)を底支えとすることで、逆にネガティブ(消極的)な消費行動を持続させることになってしまった。

そして、これらのことが、結果的に「有効需要の原理」を無効なものにしたということです。

このような理論と現実のズレは、経済理論(仮説)だけにみられることではなく、仮説(モデル)一般にいえることではないでしょうか。

つまり、社会科学だけではなく自然科学においても、仮説は一定の与件や枠組みが変化しないということを前提に成立しているということができます。

このため、一定の与件や枠組みの中においては、仮説の持つ説明力が賦活され、活性化する特徴を持っているということです。

逆にいえば、どれだけ精緻な理論(仮説やモデル)であっても、その前提条件である与件や枠組みが変化してしまえば、仮設の説明力は低下することになり、場合によっては空理空論で終わることにもなってしまうわけです。

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by kokokara-message | 2014-02-01 22:00 | 我流経済学

中谷 巌
日本評論社
発売日:2007-03


このことを考える前に、すこしバブル以後の日本経済を思い出してみることにします。

なぜなら、社会構造が変化すれば、どのような精緻な経済理論であっても、機能しなくなってしまうからです。

1990年頃の経済学といえば、マクロ経済学がその中心であったと思われます。

マクロ経済学とは、一国経済の需要曲線と供給曲線の交点より国民総生産(GNP)=国民所得を決定する経済理論のことです。

その基本書としては、中谷巌氏の「入門マクロ経済学」などが定評あったと記憶しております。

1990年代初めにバブルが崩壊し、日本経済は経済不況に襲われることになります。

このときに、日本政府が経済政策に採用した経済理論が、ケインズ経済学の「有効需要の原理」であったということです。

つまり、マクロ経済学ですね。

門外漢の私が語るには少し荷が重いのですが、おそらくマクロ経済学とは、もともとは一国経済(国民国家)を単位とした経済モデルであったと思われます。

つまり、一国経済を単位とした単純な経済モデルであることが、マクロ経済学(ここではケインズ経済学)のエッセンスになるということです。

ケインズ経済学は失業の経済学といわれることがあります。

これは「有効需要の原理」によるところが大きいといえるのですが、その経済理論は、なによりも(有効)需要を創り出すことににより、波及的に国民総生産(GDP)にいたる増大を目指すというものです。

そして、「有効需要の原理」は、Y(国民総生産)=C(消費)+I(投資)という方程式で表されるのですが、右辺のY(国民総生産)と左辺のC+I(有効需要)が等式になっているところが特徴といえます。

さらに、もうひとつの特徴は、「有効需要の原理」の乗数効果と呼ばれるものです。

この乗数効果とは、たとえば公共投資により、右辺の有効需要を1単位創出したとすれば、左辺の国民総生産は等倍増加するのではなく、数倍程度増大する効果があるとされています。

つまり、大規模な公共事業を実施することにより、その数倍程度の国民総生産が生み出されることから、やかて経済不況も解消し、失業もなくなると考えられていたようです。

確かにバブル以前の経済不況では「有効需要の原理」が有効に機能したとされています。

このため、バブル以後のデフレ不況に対しても、同様に「有効需要の原理」が機能するものと考えられたのではないでしょうか。

もちろん、これはデフレ不況を抜け出すための重要な処方箋であり、国民総生産(GDP)を増大させるための「有効需要の原理」の乗数効果を期待したものということができます。

そして、日本政府は有効需要を創出するため、それまで以上の大規模な公共事業を繰り返し実施するということになります。

そして、このために必要とされた財政政策が、大量の国債を発行ということでした。

このように日本政府は国債を大量発行し、公共事業を創出することになりますが、結果的には国民総生産(GDP)=国民所得は増大せず、反対に経済成長がマイナスになるという事態に陥ることになってしまいます。

つまり、有効需要(公共事業)創出したにもかかわらず、国民総生産(GDP)が増大するどころか、逆に減少することになってしまったということです。

そして、その検証が十分に行われないまま、いまだ公共事業の量が足りていないという論理で、さらなる国債発行が繰り返されることになったということです。

では、どうして、当時の日本における主流の経済理論であった「有効需要の原理」が、どうして機能しなくなってしまったのでしょうか。

このことを考察する前に、私の記憶を整理するため、マクロ経済学とは何かについて少しおさらいをしておくことにします。

なお、以下の「マクロ経済学」のややこしい数式に興味がないという方は、どうぞ読み飛ばいただいても結構です。

では、さっそくですが、「有効需要の原理」を方程式で表すと次のようになります。

Y(国民総生産)=C(消費)+I(投資)

この等式は、先にもご説明したかと思います。

左辺のYは、国民総生産(GDP)、言い換えると国民所得を表しています。

一方、右辺はC(消費)+I(投資)ですが、こちらは国民総需要(有効需要)を表しています。

Y=C+Iという等式になるので左右均等であることから、(国民総生産)=(国民総需要)という関係式が成り立ちます。

つまり、この方程式からは、右辺のC+I(有効需要)が増大すると、必然的に左辺Y(国民総生産=国民所得)も増大するということが分かります。

たとえばC(消費)が変化しなくても、I(投資)が1単位から3単位に増加すれば、左辺のY(国民総生産=国民所得)は当然増加することが分かります。

要するに、I(投資)を操作することによって、Y(国民総生産=国民所得)が制御できるということになります。

よろしいでしょうか。

そして、マクロ経済学(ケインズ経済学)にはもうひとつ重要な方程式があります。

C=aYという方程式で、消費関数と呼ばれています。

この方程式は、C(消費)は、a(限界消費性向)×Y(国民所得)によって決定することを表しています。

aは、限界消費性向と呼ばれています。

限界消費性向とは、Y(国民所得)が1単位増加したとき、C(消費)がどれだけ増加するかを決定する変数のことです。

たとえば、Y(国民所得)が1単位増加したとき、その8割がC(消費)に回るということになれば、a(限界消費性向)の値は0.8ということになります。

そして、一般には、国民がお金持ちになればなるほど、a(限界消費性向)の値は小さくなっていくといわれています。

エンゲル係数のようなものですね。

つまり、国家が豊かになれば、Y(国民所得)の増加がダイレクトにC(消費)に回るのではなく、Y(国民所得)の増加分は、国内のみならず外貨預金や外国為替などの貯蓄や投資に回ってしまう可能性が高いということです。

以上のことを整理すると、国民総生産(GDP)=国民所得を決定するには、次の二つの方程式が必要になってきます。

Y=C+I(有効需要の原理)
C=aY(消費関数)

そして、この二つの方程式の関係性は、C(消費)とY(国民所得)は作用・反作用の関係にあるということになります。

つまり、Cが決まれば、Yが決まり、そしてYが変化すれば、Cもまた変化するという相互連関関係ということになります。

むろん、C(消費)とY(国民所得)の相互連関関係はどこまでも続くものではありません。

数学の無限等比数列の和からは、C+I(有効需要)が1単位増えれば、Y(国民総生産)はその数倍程度増えるということになっています。

そして、この場合C(消費)の増加に対する寄与度は、a(限界消費性向)の値に依拠しており、a(限界消費性向)の値が大きくなるほど、寄与度は高くなる関係にあります。

数学が得意な方は、ぜひ無限等比数列の計算式を解いてみてください。

C(消費)とY(国民所得)の相互連関関係とその結果としての乗数効果(乗数理論)が、ケインズ経済学のエッセンスということになります。

ケインズ経済学は失業の経済学といわれることがありますが、「有効需要の原理」からは、いかにして国民総生産=国民所得を増大させるかが目標となり、いかに雇用を創出するかという回答にもなるということです。

おそらく、当時の日本政府はこのような認識のもとに、主流とされていた経済理論を基本としながら、バブル以後のデフレ不況に対する経済政策を考えるということになったのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2014-01-25 21:33 | 我流経済学

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自己循環論法は、社会のあらゆる社会現象に汎用できるメタ論理ではないか、ということでした。

少し言い方を換えるなら、社会のあらゆる現象は原因が結果であり、またその結果が原因になるという円環関係(ウロボノスの輪)にあることになります。

このような見方は、近代を自負する人にとっては、とても不可解なものに思えるかもしれません。

なぜならば、近代を自負する人にとっては、ある特定の原因に対し、ある特定の現象が発生するという見方が常識になっているからです。

たとえば、近代を自負する人が、自分が納得できない結果に出くわすと、必ず特定できる原因があるものと信じ、懸命になって犯人(原因)探しをするのではないでしょうか。

また、現実は予定調和的に展開するとの思いが強いため、シナリオ通りに展開しない現実に出くわせば、困惑と焦燥感を抱くことになるのではないでしょうか。

現実は、一因一果で説明できるような単純因果の関係にあるものではなく、また、あらかじめ用意されたシナリオ通りに展開するものでもないということです。

たとえ運よく犯人(原因)が特定できたり、シナリオ通りの展開が期待できたとしても、周りの環境(関係性)が変化してしまえば、因果関係は成立しなくなってしまいます。

これらのことを踏まえると、現実(社会現象)とは、いくつもの原因が重なった暫定的な結節点ということになるのではないでしょうか。

従って、現実(結節点)とは常に変容していく(万物流転)ものであり、原因と結果の関係も常に流動化していくことになるのではないでしょうか。

ところで、原因と結果の関係は、時系列に展開していくという見方が一般的といえそうです。

つまり、原因に対する結果は、その原因を踏まえた後から発生するという関係性です。

これは、近代を自負する人であるなら、至極当たり前の見方といえるかもしれません。

信憑性というよりは、信仰に近いようなものがあるのではないでしょうか。

しかしながら、現実はこのような線的因果で説明できる現象ばかりではない、ということです。

たとえば、シンクロシニティー(共時性)と呼ばれる現象があります。

もともとパラレル(平行)な関係にある各々の事象が、原因と結果という関係性を伴い同時期に存在するというものです。

たとえば、パラレルであるはずの、ダブルレインボーを見ることと家族の病気が治癒したことに関係はないと思われますが、これらに因果関係を認めるというものの見方です。

おそらく、近代を自負する人なら、不可思議でオカルト的なものの見方ということになり、排除する対象となってしまうのかもしれません。

しかしながら、現実には、近代的な世界観(因果関係)だけでは説明がつかない多くの現実が存在しています。

たとえば、あらゆる社会現象が原因も結果も明確にはならないとする現実(世界観)などがそれに当たります。

これは、二項対立の一方だけに振り切れない見方ともいえますが、このため現実はその間にあるグレーゾーンのいずれかに据え置かれてしまうことになります。

つまり、原因に対する結果をあえて特定しない、曖昧な状態にしておくというものの見方といえます。

さらに、最初にも述べたように、原因が結果であり、その結果が原因になるという現実(世界観)もあります。

これは、現実(現象)は線的因果の関係にあるのではなく、むしろウロボノスの輪のような円環関係に構造化されているという世界観です。

つまり、原因に対する結果のみならず、もともとの原因さえも特定することはできないという見方になります。

いずれにせよ、これらの現実は、因果関係や既定の時空感覚に支配された合理的な近代的な世界観では説明ができない、近代から零れ落ちた世界観ということになるのかもしれません。

いうまでもなく、近代は、あらゆる現実が言語によって分節できるという世界観によって支配されています。

従って、現実を言語化することいが、近代化の徹底ということになり、近代の様々な現象を余すことなく言語化(概念化)していくということになります。

ただし、実際には言語化(概念化)できないような多くの現実が存在しています。

このような言語化できない現実は、前近代的かつ呪術的な遺物(非合理性)として社会の背景へと追いやられ、排除されてしまうことになってしまうのかもしれません。

また、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉があるように、近代においては言語化(概念化)できない現実は無化されてしまうのかもしれません。

現在は、ポストモダンの時代ともいわれることがあります。

いうまでもなく、ポストモダンとは近代(モダン)を超越したところにあるものということになります。

では、近代(モダン)からポストモダンへと移行するためには、どのような方法論が必要とされるのでしょうか。

おそらく、ポストモダンとは、近代(モダン)を徹底させることによってのみ達成可能な境地ではないかと考えます。

なぜなら、ポストモダンとは、近代(モダン)から零れ落ちた外部に存在している見落とされた領域といえるからです。

従って、今ある近代(モダン)を徹底することによってしか、その外部の存在に気づくことはできず、見落とされてきた陥穽にも気づくことができないのではないでしょうか。

おそらく、ポストモダンへの移行は、今ある近代(モダン)に強固な足場を構築することから始めるしかないといえそうです。

そして、このような近代化の徹底を図ったうえで、やっと近代(モダン)から零れ落ちた外部にある思考方法や世界観に自覚的になることができるということです。

ポストモダンとは、近代(モダン)の中に構築した足場を基軸としながらも、近代(モダン)に内在する多くの矛盾や近代(モダン)から零れ落ちた非合理性といわれたものをを拾い上げていく作業といえそうです。

従って、ポストモダンは、言語化(概念化)できなかった無意識の領域をも言語化していく試みということになり、まさにこれは社会科学というよりも、むしろ詩的な文学的営為というこちになるのかもしれません。

*************

前近代(プレモダン)は、神との対話が可能な時代とされていました。

近代(モダン)は、神との対話が途絶えた、神なき時代ともいわれています。

このため、近代(モダン)は、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)しかない時代であったということでもあります。

そして、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)ことが哲学の営為であるのなら、近代(モダン)とは、哲学の営為を通し、自分の頭で考える「個人」という概念を生み出した時代ということになります。

また一方で、「個人」はその外部にあたる「他者」の存在なしには生成されることはなく、他者と同時に生まれた概念といえます。

なぜなら、「個人」とは自律した概念であると同時に、外部(神や他者)との関係性(相対化)の中から生成されてくる概念といえるからです

従って、ポストモダンとは、、「個人」が、近代(モダン)から零れ落ちた外部にある非合理性のみならず、「他者」という異質性にも自覚的になり、その距離感(関係性)を調整していくことが求められるのではないでしょうか。

ポストモダンに移行することの本当の意味は、好むと好まざるにかかわらず、人が成熟へと向かうことにあると考えるのですが、さて皆様はいかがお考えになるでしょうか。

**********

ところで、仏教には「輪廻転生」という思想があります。

おそらく、古代人は、社会現象全般が自己循環論法(ウロボノスの輪)から説明できるということをどこかで理解しており、この円環関係にある社会現象全般を「輪廻転生」と呼ぶことにしたのではないでしょうか。

仏教の世界観では、この円環関係にある「輪廻転生」から「解脱」することを目指すということになります。

そして、この「輪廻転生」から「解脱」した境地を「悟り」と呼ぶのではないでしょうか。

つまり、古代人にとっての「解脱」とは、この社会現象全般からの「解脱」、つまり自己循環論法(ウロボノスの輪)の円環関係からの「解脱」ということになりそうです。

このように考えると、「解脱」は、「出家」そのもののであるようにも思われます。

しかしながら、「解脱」の本質が、相互参照という「人と同じことをする」ことからの離脱であるなら、「自分の頭で考える」という営為は、まさに相互参照からの離脱でもあるわけです。

そして、「解脱」のあとの「悟り」の境地とは、この解脱の本質(自分の頭で考える)に気づくということかもしれません。

つまり、「悟り」とは、自分で考えることに、もはや迷いはないという境地のことではないでしょうか。

「悟り」とは「出家」のような特殊な環境を前提とするものではなく、世俗にあっても、自分の頭で考える営為、つまりは自らを相対化し、自他の生成がなされることが、「悟り」の必要条件になるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-09-30 22:04 | 我流経済学

AKB48総選挙公式ガイドブック2011 (講談社 Mook)
AKB48総選挙公式ガイドブック2011 (講談社 Mook)

では、今度は、総選挙で選抜をする側、つまり投票をする側の心理を探ってみることにします。

美人投票やAKB48選抜総選挙に関わらず、投票行為で一番大事にされることは、いったい何なのでしょうか。

おそらく自分の嗜好によって選抜することではなく、むしろ自己実現をいかに果たすかということが核になってくるのではないでしょうか。

つまり、投票をする側の心理の核にあるのは、自らの主義主張(嗜好)を闇雲にいい立てることではなく、自らの現実の中でいかに上手く、自己実現を果たすかが一番の関心事になるということです。

さらに踏み込んだ見方をするなら、そもそも主義主張(嗜好、イデオロギー)というものが、どこまで明確なものであるのかも、実際のところは疑わしいといえるのかもしれません。

要するに、投票する側の心理を突き詰めると、確固たる理由から投票をするとは限らず、投票結果が自己実現とつながる可能性を希求し、投票しているのではないかということです。

このような考え方では、投票の順逆が逆立ちした形になってしまうのかもしれません。

あるいは、投票の主体性を欠いた選択ということになってしまうのかもしれません。

しかしながら、このような順逆が逆立ちし、主体性を欠いた投票行為こそが、結果として自己実現へとつながる可能性を担保し、多数派(一番)に所属するための選択といえそうです。

現在の日本の国政は、二大政党制にあるといえそうです。

昨今の総選挙の結果を見る限り、二大政党が拮抗する選挙結果になることは稀であり、どちらか一方に雪崩を打って投票が集まるという傾向が見られるように思われます。

これは、大きな差異が見られない対象を選択する時などに見られる現象といえるのではないでしょうか。

つまり、どちらを選択していいか分からない、選択根拠が明確にならない、どちらでもかまわない、そのような時に話題性やトレンドから結果を予測し、多数派になることが一番の投票動機(欲求)となってくるということです。

投票結果の予測は、普通マスメディアなどを通じて行われることが一般的といえます。

また、大衆社会における最も特徴的な行動様式として、相互参照(横並び)があげられます。

このため、大衆社会における投票動機は、マスメディアを通じた相互参照(横並び)を繰り返しながら、やがて多数派というトレンドを形成することになっていくということです。

このような投票動機からすれば、美人投票やAKB48選抜総選挙において多数派(一番)になることが、自己実現を果たしたことになるということも理解ができることです。

つまり、自己実現とは、具体的事実のことであり、決して頭の中にある幻想ではないということです。

従って、AKB48総選挙では、前田敦子さんが一番人気に選抜されたという具体的事実こそが、前田敦子さんに投票した者にとっての具体的な自己実現の結実であり、多数派になったことの具体的証明ということになるわけです。

ところで、一番(多数派)に選抜されることには確固たる理由などない、ということでした。

場合によれば、じゃんけんであっても、何であっても構わない、ということになります。

従って、選抜結果とは、一番(多数派)になったという現状認識(追認)だけになり、そこにはオーソドキシィーと呼ばれるような権威の正統性などは全くないということにもなります。

このため、いったん一番(多数派)に選抜されてしまえば、その結果を支えるものは自己循環論法になり、一番(多数派)であることが一番(多数派)であることの一番の証明になってしまうというわけです。

おそらく、このような自己循環論法は、権威が失墜した大衆社会(つまり誰であってもかまわない社会)における最も基本的な(プリミティブ)な現実認識の方法といえるのかもしれません。

また、自己循環論法は論理的には決して破たんすることのない、社会全般の現象にも適用できるようなメタ論理ということができるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2011-09-19 09:30 | 我流経済学

『もしドラ』&『ドラッカー マネジメント(エッセンシャル版)』 2巻セット

円高から話が大きくそれてしまいました。

今一度、円高への市場介入、つまり為替介入に話を戻したいと思います。

この記事を書き始めたとき(2011年8月初旬)は、日本政府がちょうど為替介入を実施した頃であったと思います。

しかしながら、その政策効果は見られず、それ以後もご存知のとおり円高基調が続いています。

おそらく、今後とも機会あるごとに、日本政府の為替介入が検討されることになると思われます。

では、ほんとうに、為替介入が円高を阻止する効果があるといえるのでしょうか。

与件や枠組みが変化すれば、仮説や理論が機能しなくなることについては、これまでにも言及してきたところです。

いくら主流とされる仮説や理論であっても、それをとりまく環境や構造が変化してしまえば、仮説や理論の有効性は担保されなくなってしまうとのことでした。

マクロ経済学の「有効需要の原理」においては、その前提となる与件(消費行動)や枠組み(経済構造)の変化が、事後になってからようやく判明することとなりました。

円高への市場介入についても、今しばらく時間が経過すれば、その政策の妥当性が判然とするのではないでしょうか。

少なくとも、円高への市場介入は、一国の経済政策としてはもはや有効性を欠いたものになってしまっているということです。

円高であることは、今円高であるということが、その一番の原因になっているということでした。

つまり、自己循環論法が、おそらく円高を説明する最もラディカルな理論になるのではないかということです。

では、このような論理を踏まえるとのなら、果たして円高への市場介入に意味はあるといえるのでしょうか。

このことを、考察していく前に、今一度だけ話が脱線することをお許しください。

今年の5月から6月にかけて、AKB48選抜総選挙が行われました。

AKB48は知らなくても、AKB48選抜総選挙(以下選抜総選挙。)がマスコミの話題に上ったことを覚えている方は多いのではないでしょうか。

ここでいう選抜総選挙とは、AKB48の次のシングルCDに参加するメンバーを、ファン投票により選抜するという企画です。

つまり、AKB48のメンバーの人気投票ということになります。

そして、この選抜総選挙で一番人気に選ばれたのが、映画版「もしドラ」で主人公を演じた前田敦子さんでした。

前田敦子さんが一番になった選抜総選挙とは、最初にご紹介したケインズの美人投票とよく似た構造を持っていると思われます。

ケインズの美人投票の最大の特徴は、美人を選ぶ投票は実施するのの、美人には確固たる理由はないということでした。

つまり、美人とは、美人投票で一番に選ばれたから美人としかいいようがない、ということになります。

選抜総選挙でも、これと同じロジックが適用可能ではないでしょうか。

つまり、人気というものには確固たる理由などない。

しかしながら、総選挙を行えば、その結果として必ず一番(上位)に選ばれる者が現れる。

総選挙は人気投票であるので、一番(上位)に選抜された者が、当然一番(上位)人気がある者とみなされることになる、というわけです。

つまり、人気に確固たる理由などなくても、一番(上位)に選ばれたという事実さえあれば、一番人気であることの一番の証明になるというわけです。

何かややこしいですね。

このことを一般化すれば、相対的な位置関係にしかないもの(誰でもかまわない)でも、恣意的な選抜が行われれば、やがてその結果から唯一無二性(絶対性)が賦与されることになるということです。

つまり、代替可能性(相対性)と唯一無二性(絶対性)の境界にあるのは、ある時、誰かが、何らかの理由で、恣意的に選抜したという事実しかないことになります。

そして、いったん選抜されれてしまえば、その事実だけが一人歩きすることとなり、選抜された側の意思はもとより、選抜した側の意思さえも、そこには反映することのない、超越した存在になってしまうということです。

ここでいう超越した存在とは、唯一無二性ということであり、絶対性ということになります。

通貨でいえば、円に対する基軸通貨のドルのような関係になるのでしょうか。

そして、このような超越した存在を高みに抱くしかなくなった世界の住人は、自己循環論法という輪廻(ウロボノスの輪)が支配する世界で暮らすしかなく、超越した絶対神と非対称な位置に据え置かれることになるということです。

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by kokokara-message | 2011-09-07 23:18 | 我流経済学

円高とは、いったい何なのでしょうか。

円のドルやユーロに対する相対的優位がもたらした評価、としかいえないのではないでしょうか。

そもそも、円相場はリーマンショック以前から円高基調にあったものであり、日本政府が市場介入し円安への誘導を行ったとしても、結局は大きな円高トレンドに吸収され、円高傾向を止めることができなかったということなのではないでしょうか。

では、どうして円高になっているのでしょうか。

円高の原因には諸説あるものの、おそらくドルやユーロとの相対的な関係性における比較優位が主な原因であり、このことがさらに円高を誘発する原因になるという循環関係に陥ってしまっているといえるのではないでしょうか。

これでは、同じ説明を繰り返しているだけですね。

このような循環関係を「円環」と呼ぶことがあります。

ウラボノスの輪は、ご存知でしょうか。

ウラボノスの輪とは、へびが自らの尻尾を食べている様子のことをさし、何が原因で何が結果であるのかがはっきりしないことを指すメタファー(隠喩)といえます。

貨幣論の岩井克人氏がおっしゃっている、「貨幣が貨幣でありうるのはそれが今貨幣として流通しているからだ」という論理と同じ構造にあるといえるのかもしれません。

このような円環構造は、円高や貨幣論の根拠を論じるときだけのことではないと思われます。

つまるところ、社会現象全般が、「自己循環論法」という円環構造によって形成されているということになるのかもしれません。

要するに、みんながやるから自分もやる、みんながしないのなら自分もしない、という人間の行動原理が、社会現象全般を支えることになっているということではないでしょうか。

ケインズが紹介している美人投票も、結局はこれと同じ論理になると思われます。

つまり、ケインズによれば、美人投票とは自分の好みの女性に投票するものではなく、みんなが一番の美人として選ぶであろう女性を選んで投票することになるというものです。

美人投票が、ケインズのいうとおりの原理で動いているのなら、そもそも美人に確固たる理由などないということになってしまいます。

美人にあるのは個人差よりも、むしろ時代や地域という比較的固定的とされる文化の差異が大きいといえるのではないでしょうか。

従って、美人には確固たる根拠や理由などはなく、美人に選ばれたことが美人であることの一番の原因になるなら、円高についても、円高であることが円高であることの一番の原因ということになります。

つまり、あれこれと円高の理由を並べ立てて考えるよりも、事実そのようであるからという追認が、よりラディカル(根本的)な原因になってしまうということです。

円高がこのような円環構造で形成されているとしたら、円高に対し日本政府がいくら市場介入したところで円安へと誘導できないことはいうまでもありません。

このため、単独ではなく、むしろ世界が仲良く協調介入するのが良いのではないかとの願望ともとれるような意見はあるのかもしれません。

確かに、主要通貨を持つ各国が協調して介入するようになれば、それ相当の政策効果は期待できると思われます。

そして、過去にも、各国が協調して介入したという事例もあります。

しかしながら、国際連合が国際利害を調整の場(仲良しクラブ)になっていないように、利害が錯綜する世界外交では、それぞれの国益を一致させることが極めて難しい問題になってしまいます。

従って、ドル暴落という世界共有の危機でも出現しない限り、各国は緊張関係を維持しながら、プラグマティズムともとれる矛盾をはらんだ多面外交を実践するしかないといえるのかもしれません。

結局、日本は多勢に無勢ながらも、単独で円高に対し市場介入を行うということになりました。

ではなぜ、日本が多勢に無勢ながらも(おそらくこのことに自覚的でありながらも)、市場介入をあえて行わなければならなかったのでしょうか。
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by kokokara-message | 2011-08-06 00:06 | 我流経済学

情報社会と欲望

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高度経済成長期に日本人が抱くことになった万能感とは、都市と地方という差異(欲望)に起因するものであり、そこにあったのは関係性ということになります。

つまり、万能感そのものに実体があったのではなく、経済格差という差異(欲望)が原因となった高揚感(上げ潮ムード)のようなものということになります。

もちろん、現在においても、日本の実体経済であるモノづくりが、否定されてしまったわけではありません。

今後も、付加価値の高いモノづくりについては、日本経済の基幹を担っていくことになるのではないでしょうか。

しかしながら、モノづくりそのものは実体であったとしても、そこに差異(欲望)が生じるということになれば、やがてその差異(欲望)は埋め尽くされてしまうことになります。

そして、差異(欲望)が再び生み出されないかぎり、実体経済の価値は創造されないということになります。

これは、実体経済に見られる現象というよりは、金融経済においてより顕著に表れる現象(利ざや、利回り)ということができそうです。

つまり、資本主義の論理では、差異(欲望)からしか価値が生まれないということです。

そして、経済活動とは、このような差異(欲望)の再生産の繰り返しということになり、まさにゴールのないゲームということになります。

では、このような状況下にあって日本人に求められる能力とは、差異(欲望)を創造する力ということになるのでしょうか。

残念なことのようですが、実際のところは、外部にある既知から差異(欲望)を探し出すという情報検索能力が重視されているように思われます。

インターネットの世界が、その際たるものではないでしょうか。

つまり、何かを創造するという知的なゲームというよりは、人より、いかに迅速に隠れた差異を探し出すか、という欲望志向型のゲームが中心となっているようです。

従って、インターネットに求められることは、新たな価値(関係性)の創造ではなく、畢竟、今あるものから差異(欲望)を検索するためだけの体力ということになってしまいます。

情報の持つ可能性が幻想的に過大評価されているように思われますが、情報のコンテンツ(中身)やコンテクスト(文脈)は、逆に過小評価されてしまっているといえるのではないでしょうか。

かつて、高度経済成長期の日本では経済力という豊かさへの幻想が、実際にあった貧困や格差や多様性という矛盾を社会の背景に押しやることになりました。

現在のインターネットの世界では、情報力が豊かさへのステップアップの手段として捉えられているところがあるようです。

つまり、誰もが豊かさにアクセスできると信じられている世界とは、誰に対してもオープンで、かつ公平であるというインターネットがもたらす幻想に基づいているように思われます。

もちろん、情報力が誰に対しても機会均等であることは、素晴らしいことに違いありません。

しかしながら、現実の多くの重要な情報はほんの一部の階層に偏在してしまっており、機会均等になっていないのが現状のようです。

このような現実にもかかわらず、情報力が豊かをもたらすという幻想だけが一人歩きし、現代社会の矛盾やグレーゾーンをその背景に押しやることになってしまっているのではないでしょうか。

現代社会は、少子化と高齢化、そして経済成長しなくなった社会経済構造が、社会の与件になってしまっているといえそうです。

つまり、社会のアセット(生産人口の縮小)が減少し、逆に社会のクライシス(少子高齢化の社会保障の増大)が増加していくという状況下では、誰もが平等にチャンスにたどり着けることは、もはや幻想となってしまっているのではないでしょうか。

ましてや、誰もが少額の投資で簡単に入手できる、インターネットというツールを所持しているだけでは、期待だけであるならいざしらず、実体である豊かさ(経済力)を手に入れるということまでは難しいといえるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2010-10-31 07:17 | 我流経済学

経済成長の原理

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人がほんとうに多様性(差異)と対峙しなければならならなくなったとき、人に一番大きな影響を及ぼすことになるものとは一体何でしょうか。

おそらく、バブルが崩壊するまでの間は高度経済成長という経済力であり、それ以降の低成長時代にはインターネットの普及による、およそ幻想としか思われないような情報力の機会均等ということではないでしょうか。

つまり、経済力は資本主義の論理である差異(利潤)から生み出されるものであり、人に豊かさを与える一方で、社会の格差(差異)を大きくさせるものであるということができます。

しかしながら、高度経済成長の時代には、差異(格差)がいまだ豊かさへの可能性を秘めたものと考えられていたため、社会に内在していた対立や紛争は顕在化することなく、水面下に押しやられていたということになっていたようです。

また、バブル崩壊以後になると、誰もが世界中の情報にアクセスできるとされるインターネットが社会全般に普及していくことになります。

このことは、高度経済成長期の資本主義(差異)の論理と同様に、日本人に豊かさへの新たな期待を抱かせることになったといえるのではないでしょうか。

理屈からすれと、確かにインターネットは世界中で起きている事件や情報を瞬時に入手することができるツールということができます。

また、インターネットを通じれば、本来出会うことのないはずのない人とも意見交換ができるということがあるのかもしれません。

なかでもインターネットの情報検索能力は、いかなるものもグーグルエンジンによって検索可能となることから、情報検索者の万能感は満足させられるものとなるのではないでしょうか。

そもそもインターネットは、誰に対しても開かれてた情報システムである以上、誰に対しても同じ情報を提供できることが原則となり、従って誰もが均等にアクセスできる情報とは誰もが知っている情報ということになるわけです。

つまり、インターネット上にある情報は、論理的に考えれば、誰もが知っているはずの情報でしかないということになってしまいます。

確かに、インターネットは、情報検索能力において人に万能感を与えるツールといえるのかもしれません。

但し、誰もが知っているはずの情報を先を競って入手しているだけということであるなら、情報検索能力とは位相の変化を伴う知の創造性というよりも、そこにある金脈を掘り当てるだけの時間と体力の勝負ということになってしまいます。

インターネットの情報力が、コンテンツ(内容)やメディアリテラシー(情報読解力)よりも、むしろ瞬発力や持続力という体力面から重視されているという事実は、デイトレーダーの経済行動からも伺い知ることが出来るのかもしれません。

また、今のデイトレーダーが経済的な欲望から豊かさを渇望していることと同じように、高度成長期の日本人は経済的な豊かさへの可能性を信じて、エコノミック・アニマルと呼ばれながらも、体力の続く限り、会社共同体の中で働くことを選択したのではないでしょうか。

これらの日本人の採った行動のモチベーションは、日本人が資本主義の論理(差異の創出)を熟知していたことから導かれた帰結ではないように思われます。

どちらかといえば、日本人が資本主義の論理(差異の創出)に無知であったことから、欲望という視野狭窄的な幼児的万能感から採られた拝金主義ということになるのではないでしょうか。

明日の豊かさ(可能性)を欲望することと、そのために今ある手近な自分の時間と体力を資本に提供するということは、初期の資本主義において多く見られた経済の原理ということができそうです。

時代を取り巻く環境や生活のスタイルが大きく変化しても、経済の原理そのものは普遍(変わらない)であるといえるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2010-09-21 22:22 | 我流経済学