a0126310_23422552.jpg

ヒトは、「知ること」によって成長すると言われています。

そして、これは教育における基本とも言われています。

「知ること」、つまり知識の習得が大切なのは当然ですが、それ以上に自分が「いかに知らないか」を知っておくことの方がより重要ではないでしょうか。
 
つまり、自分が「いかに知らないか」を知ることによって、ヒトは「知りたい」というモチベーションを賦活させることができるようになるということです。

「何でも知っている」という充足感は一見満ち足りた状態のように思われますが、少し見方を変えれば何もかも放棄した諦念の境地ということにもなります。

「いかに知らないか」を知っているということ、つまり無知と既知の位相差が自覚できていることが、ヒトの成長の原動力になっているということです。

また、ヒトが一生のうちで経験し習得できることは、ほんの一握りのことでしかありません。

この世界の大半は経験も習得もできないままに、ヒトはその人生を終えてしまうのが必定と言えそうです。

したがって、たとえどれだけのことを「知っていた」としても、それは大海の一滴でしかありません。

この事実に驚愕した先人たちは、自分の非力さにただ頭をたれながら、再び自己の思索へと戻って行ったものと思われます。

ヒトが成長して行くためには、「知るということ」について常に謙虚な姿勢でいることが求めらていると言えそうです。

昨今、このような謙虚さを欠いた、傲慢とも言える万能感に支配された自己愛型の主張に出くわすことが多々あります。

「すべて知ることができる(つながっている)」かのような幼児的万能感は、まるでインターネット社会におけるヒーローやヒロインを演じているかのようです。

もちろん、「知ること」、つまり知識の習得がいかに大切であるかは十分理解しているつもりです。

ただ、自分の既知がどれ程のものであったとしても、自分の無知を知っていることに比べれば、その総量は僅かなものでしかないということです。

ヒトが万能感に支配されずに生きて行くためには、「知っている」と思った瞬間、しばし立ち止まり、今一度考え直してみるという謙虚さが必要とされているようです。

なかには、全ての夢が適ってしまった(失われてしまった)ので、今はただ充足感(喪失感)に浸っていたいだけというヒトはいるかもしれません。

ヒトの脳と体には休息が必要です。

但し、いまだ夢が適っていない(失われていない)のであるなら、充足感(喪失感)に浸るのではなく、無知と既知の位相差(欠如感)を自覚し続けることが大事ではないでしょうか。

自分が「いかに知らないか」を知っているということ、つまり自身の欠如感の認識こそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させる原動力になって行くと考えます。

では最後に。

「知っている」という充足感は余裕を想起させることから、ヒトから承認(評価)を得るためのポジティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

「知っている」という充足感は無知と既知をフラット状態にするため、位相差(欠如感)に起因する思索や行動化のモチベーションは起動せず、逆に思考停止や非行動化という停滞状況を引き起こすことになります。

何もしなくて良いことが許容されているのなら話は別ですが、一般にヒトが思考停止や非行動化に陥っている状態を積極的に承認(評価)するのは極めて稀なことではないでしょうか。

一方、「知らない」という欠如感は焦燥感と裏表の関係にあるため、どちらかと言えばヒトからの承認(評価)が得ることが難しいネガティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

繰り返しになりますが、自分が「いかに知らないか」を知っていることこそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させるモチベーションの原動力ということでした。

つまり、「知らない」という欠如感こそが、無知と既知の位相差を埋めるための思索と行動化を促すため、その結果合目的的な成果が生じれば、ヒトからの承認(評価)は得やすくなるのが必定と考えるのですが、さていかがでしょうか。

そして、ヒトからの承認(評価)が得られるようになれば、やがてキャリアの扉は向こう側から自ずと開いてくる(力任せにこじ開けるものではない。)という理路については、またの機会にお話しをさせていただくことといたします。

(終わり)
ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2016-09-24 23:50 | 夢とは何でしょうか?

a0126310_2281329.jpg
本日、6月11日に、エキサイトブログ・ユニークユーザー数が、40,000人を超えました。

2011年11月28日に30,000人を達成してから、6ヶ月間強での達成となります。

また、このブログ「心と体の癒しのメッセージ」を書き始めたのが2009年6月12日のことであり、こちらも今日でちょうどまる3年ということになります。

今思えば、このブログを始めた3年前は、とてもストレスフルな状況にあったといえます。

匿名でもいいから、自分の言葉で自分の考えを語りたい、と始めたのがこのブログということです。

それ以後もいろいろと苦渋の選択が続き、まるでジェットコースターに乗ってるような日々が続きました。

先が見えない浮き沈みの激しい日々を過ごしていると、自分の価値観が泡沫であるかのように思えてくることもしばしばあります。

あらかじめ決まった答えはなく、決まった生き方も存在しない。

あるのは、局面においていかに適切な選択をするかという結果から見た倒錯したものの見方であって、この局面はあらかじめ答えを知っているので乗り切れるという陰謀史観めいたものの見方とは真逆であったように思われます。

ただ、素直に局面で本当に適切な判断が下せているとしたら、つまり今を生き延びることができているとしたら、それは自分の中の価値観が適切な判断を下すに足りるだけのデータベースの整理整頓がなされているということになるのかもしれません。

つまり、あらかじめ答えは知らされず、神がかり的な運の良さも持たないで、今を生き延びることができているとしたら、おそらくそれは自分の中の価値観が明確に整序されて、合理的に判断できる優先順位がつけられているからではないでしょうか。

少なくとも、私はそのように考えています。

私を取り巻くストレスフルな状況は、3年前も現在もあまり変わっていないように思われます。

おそらく、これからもこのような状況が、だらだらと続いていくのではないでしょうか。

まさに、「終わりなき日常」を生きているということなのかもしれません。

「終わりなき日常」が所与のものであるのなら、もはや私たちを取り巻く環境は制御できる対象ではないということになります。

取り巻く「終わりなき日常」とは、意識的に距離を採って、適当に付き合いをしていくしかないということになるのかもしれません。

一方、自分という存在も、あらかじめ自分の意思が織り込まれて生まれてきていないことからすると、自分という存在もまた「所与」ということになります。

しかしながら、自分という存在は、自分自身をどこかで自己コントロールできるものと、どこかで知っているのもまた事実ではないでしょうか。

つまり、自分は、自分自身にただ振り回されるのではなく、自分を一望俯瞰できる視点(自己意識)を持って自己コントロールできる存在であるということです。

そうであるのなら、自分が何がしたくて、何がしたくないのか、あるいは、何が言いたくて、何を言われたくないのかくらいのことは、常日頃から整理整頓しておくことは必要になってくるのではないでしょうか。

そして、その結果としての自分の価値観の整序こそが、自分の求める生活を明確化(具体化)したものということになり、やがて自分の夢を構築する上での現実的な足場になると考えます。

「先の見えない時代にあって、自分の求める生活や価値を明確にしておくことは大切なことです。自分と環境との関係性を考え、欲望をほどよく制御するための心と体の癒しのメッセージです。」

これは、3年前に書いた私のブログのテーマでした。

あらためて読み返してみると、3年たった今でもそのテーマは変わっていないように思われます。

先の見えない今の時代であるからこそ、自分の欲望を全開にするのではなく、自分の欲望のブレーキペダルに足をかけて、ほどよく自己コントロールすることが、おそらく自分の求める生活や価値を現実的の中で具体的に実現する一番の近道になるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

何はともあれ、本日は、40,000人達成とまる3年という日が重なる、まるで金環日食のようなとても有難い日になりました。

ただの偶然とは思えない不思議な縁を感じています。

ご縁を賜った、皆様のご厚情とご好意、そして暖かいアテンションに心から感謝いたしております。

次は、50,000人を目指すことになります。

引き続き、「心と体の癒しのメッセージ」を皆様に送ってまいりたいと思っております。

今後とも、どうぞよろしくお願いします。
a0126310_2292731.jpg

応援よろしくお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2012-06-11 22:11 | 夢とは何でしょうか?

立場可換性について

a0126310_13142311.jpg
今年もあと1日となりました。

一年を通じて、社会の底が抜けてしまっている状況が続いているように思われます。

つまり、社会の底が抜けているということは、自分がいかに強くないか、信じてはいけないかについて競い合っているということです。

まさに、評価のデフレ現象といえるのではないでしょうか。

このような社会の底抜けは、デフレ経済とともにもたらされたと考えられていますが、おそらくもともと社会に内在していたものと考えるべきではないでしょうか。

そして、それまでの右肩上がり経済成長が、社会には底辺がないことを覆い隠す役割を果たしていたといえるのかもしれません。

昨今の国際社会情勢をあらてめて眺めてみると、各国(共同体)が通貨安を競っている様は、まさに底の抜けたポストモダン状態にあり、社会の底抜け現象は確実にグローバル化しているといえそうです。

底が抜けてしまった世界をただ嘆いているだけではなく、ポストモダンのパラダイム(世界観)を上手に活かしながら、この世界を生き延びる方法を考えなければならない時期に来ているのかもしれません。

ところで、立場可換性という言葉を聞いたことはあるでしょうか。

立場可換性とは、自分の倫理観の底辺を確認するための思考実験のことです。

私が考える立場可換性の原則は、自分がされて嫌なことは人に強いることはしない、つまり、自分が耐えられることまでは人に求める、という一点に尽きると思われます。

そして、立場可換性とは、やったらやり返すというような因果応報(報復の連鎖)に根拠を与えるものではないということです。

つまり、立場可換性は、自分の倫理の底辺がどのあたりにあるのか、自分の倫理を担保しているものはいったい何であるか、をあらためて問い直す試みといえます。

倫理と聞くと、とても固苦しく難しいものと思われるかもしれません。

また、免罪符さえあれば何でもありという、政治のグレーな倫理観をイメージされるかもしれません。

しかしながら、私の考える倫理とは、自分の行為行動(言動)の基準のことであって、他者を拘束するための基準ではないということです。

つまり、倫理とは、自分で決めたルールを、自分自身を拘束するために適用するものであるということです。

しかしながら、自分の倫理観を、他者を拘束するために適用するという事例が多く見られることがあります。

むろん、このような行為行動(言動)は、(私の論理では)倫理ということはできません。

また、倫理とよく似た紛らわしい概念には、道徳があります。

道徳とは、自分の暮らす公共空間で共有されている目に見えないルールのことです。

しきたりと呼ばれることもありますが、必ずしも伝統に基づいたものに限るわけではありません。

また、自分の暮らす公共空間で共有されている目に見えるルールには、法令があります。

日本の法令は、議会制民主主義に基づき議決をされ、さらに改変されていくというものです。

そして、道徳と法令のふたつが、一般に制度と呼ばれているものです。

道徳や法令の制度は、公共空間で共有されるルールであるため、公共空間を共有する構成員全体を拘束することになります。

倫理は、自分自身を拘束するための自分のルールということでした。

これに対して、道徳や法令の制度は、(自分も含めた)全体(みんな)を拘束する社会のルールになるということです。

自分から見れば、倫理は自己内ルールであり、道徳や法令は自己外ルールになります。

しかしながら、このようなきちんとした区分がいつも明確になされているわけではありません。

実際に、その接触部分(インターフェイス)において不整合が生じることがあります。

つまり、個人の倫理と社会の制度が対立するような場合です。

このような場合には、個人の倫理より、より汎用性のある社会の制度が優先されることはいうまでもありません。

そして、個人の倫理が、社会の制度に違反している場合には、個人の倫理(言動)が処罰されることにもなります。

簡単ですが、以上が、倫理と道徳、そして法令の関係性、つまり個人と社会の関係性ということになります。

しかしながら、現代社会の倫理や制度のあり方を見ていると、整然とした秩序ある関係性にあるのではなく、むしろかなり混乱した状態になっているように思われます。

つまり、本来自分に向けるべき倫理を他者を拘束するためのルールとしてみたり、逆に自分が決めるべき倫理を社会の悪しき慣習に依拠してしまうなど本末転倒といえるケースが多く見受けられます。

たとえば、法令でも道徳でもない、単なる個人の倫理観が他者の自由を拘束することになれば、拘束される側はその恣意性ゆえに拘束される理由が理解できず、より強い抑圧を感じることになってしまいます。

また、倫理は自分が決めるルールであるにもかかわらず、小さな集団の持つルールを無批判に受け入れて依拠しているだけでは、より大きな社会の存在が不可知となってしまい、癒合関係(アモルフォス)がさらに深まることにもなってしまいます。

さらに、法令については、条文にないことなら何をやっても良いという解釈がまかり通れば、法令の主旨や人の共感意識を欠いたような放埓(ほうらつ)な振る舞いが横行することになり、結果的として社会が不安定化することになってしまいます。

そして、道徳やしきたりについては、もともと流動的であったものの、昨今の家族構成の変化や人の移動に伴う共同体の細分化と弱体化は、従来の道徳やしきたりの拘束力を弱めることになり、道徳やしきたりは参照する程度になってしまっているのかもしれません。

*********************************

立場可換性の原則を、あらためて整理すると次のようになると思われます。

1 あなたの言動は、他者から同じ言動をされたときに、あなた自身が耐えることができる言動でなければならない。

2 あなたが採用する自由は、あなたを含めたすべての人が自分と同じような自由を採用したとしても、あなたの生命や財産が安全に守られるような自由でなければならない。

ところで、私たちがルールを遵守する場合にも、制御できるルール(倫理)と、制御できないルール(制度)があるということになります。

つまり、倫理は自己決定ができるルールといえますが、制度は自分だけでは決定することができないメタレベルのルール(議会制民主主義など)ということになります。

倫理は、立場可換性から(たとえ観念上ではあっても)自己決定ができる行為行動の底辺になります。

そして、実際の行為行動(言動)は、このような観念上の倫理という底辺を参照し、自らが決定することになります。

さらに、自らが決定した行為行動については、それと同等程度の自己責任を担保しなければならないということになります。

これが立場可換性の原理の単純化ですが、このことを契約締結という手法から考えると次のようになるのかもしれません。

つまり、自らが責任を負うことができるものにだけに、自らが選択的に行為行動できるとするのなら、行為行動そのものが自らの責任を担保する契約書への同意署名になるのではないか。

従って、立場可換性の原理を踏まえて自己決定した行為行動が、同等程度の自己責任を担保することからすると、行為行動の決定である契約書への同意署名は、高いリスクを伴うものであって、より慎重な態度で臨まなければならないことになるということです。

そして、リスクマネジメントの結果、誰もが倫理の底辺を参照し自らの行為行動を自己制御することができれば、倫理は個人のルールからもう少し広がりをもった社会のルールへと変換されることになるのかもしれません。

つまり、個人のルール(倫理)でしかなかったものが、やがて誰もが納得できる社会のルール(制度)へと広がっていくということです。

個人的なものから、やがて普遍的なものへと広がっていくのかもしれません。

ポストモダンの持つ意味は、もはや社会に底がない(もともとなかった)という絶望感を、自分自身(やがて世界)に告知するということでした。

社会に底がないとすれば、私たちは社会と共に沈んでしまうか、あるいは自分の足場を作り、なんとか生き延びる方策を探すか、の二者択一になるのではないかと思われます。

そして、もはや社会に底がないとしても、なんとか自らを支えられるものは、自己決定した自己ルール(倫理)の立場可換性が底辺になるのではないでしょうか。

つまり、ポストモダンの社会にはもはや自分自身を支えてくれる足場がない以上、自らを支える足場は自分で作るしかなく、この足場が自分で決めた自己ルール(倫理)ということになります。

さらに、この倫理という自己ルールは、立場可換性を踏まえた、より多くの人が共有できる社会のルール(制度)でもあらねばならないということでした。

要するに、たとえ自己ルールであっても、立場可換性の原理によって濾過されれば、やがて普遍性を持った社会のルールにまで止揚されるということです。

カントの言う「定言命題」のようなものかもしれませんね。

以上が、立場可換性の説明となりますが、立場可換性は決して特殊な考え方ではなく、これまでにも多くの人が生き延びるための方法論として採用してきたものであると考えています。

つまり、立場可換性は普遍的な考え方を射程にいれた、共生のためのロジックになっていると考えているのですが、さていかがでしょうか。

***********************************

ところで、残念なことですが、自分は良いが、人はだめという論理が、まかり通ることが多く見られるように思われます。

これは、普遍性につながるという意味では倫理でないことは言うまでもありません。

むろん、社会の制度(ルール)でもありません。

このような不当がまかり通るとき、東洋の世界観では「天網恢恢祖(てんもうかいかいそ)にしてもらさず」という言葉があるように、天が当事者に代わって罪に対し具体的な罰(裁き)を下すという思想が強く残っているように思われます。

つまり、日本を含めた東洋の世界観では、罪に対し具体的な罰(裁き)が下されることは必然であり、この輪廻から誰も逃れられないという因果応報の思想が信じられているということです。

そして、現実社会では、このような思想が犯罪の抑止力として働くことになり、社会が安全に統治されるということにもなっているのではないでしょうか。

先ほども指摘しましたが、立場可換性は、倫理性の底を自ら確認するための思考実験であり、因果応報を実践するための根拠になるものではありません。

しかしながら、日本では、かような立場可換性の原理が、因果応報の根拠であるかのように理解されてしまうのも、東洋の世界観の持つ特殊な土壌と無関係ではないと思われます。

つまり、一罰百戒のような前近代的な統治方法やそれをささえる因果応報や輪廻転生の思想が、現代の私たちの日常世界に入り込んで、今も息づいているということです。

日本人は今も中世社会を生きているのかもしれません。

これからの日本社会は、経済成長が見込めないうえ、人口が減少していく逓減社会といえます。

従って、社会の統治方法も効率的かつ効果的であることが、なによりも求められることになります。

しかしながら、日本の社会は、倫理(自己)と制度(社会)が整理されない、混乱した状態が今しばらくは続いていくように思われます。

世界では、ポストモダンが進展しています。

一方、日本の社会は、いまだ近代(モダン)にも至っていない、近世(プレモダン)を生きているということにあるようです。

おそらく、近い将来に、プレモダン(近世)、モダン(近代)、そしてポストモダン(脱近代)が混在する、あやしくて、やっかいな、混沌(カオス)社会が出現することになるのではないでしょうか。

最後になりました。

一年を振り返って、自分に天罰がくだらない生き方をしてきたかどうか、あらためて考えてみるのはいかがでしょうか。

よいお年をお迎えください。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村


[PR]
by kokokara-message | 2010-12-31 13:15 | 夢とは何でしょうか?

a0126310_1712542.jpg

欧米の個人主義は、社会におけるルール(規範)がその前提となって成立しています。

一方、日本は、実質的な汎用ルールが存在しない社会であるといわれることがあります。

日本は法治国家というよりも、集団主義に基づく行動様式(エトス)によって支えられた共同体といえるのかもしれません。

集団主義では、相互参照の行動様式(エトス)によって、共同体を維持することが目的とされます。

このため、共同体をかく乱する者や共同体を維持する有用性を欠いた者は、共同体から排除されるということにもなります。

日本の集団主義は、かつて運命共同体というような「幻想の共同体」として語られることがありました。

しかしながら、実際の日本の集団主義は、そのような牧歌的な共同体ではなく、むしろ有用性が重視される機能集団に近いものであったといえるのかもしれません。

従って、現代社会で生じているリストラや、賃金カット、離婚などは、日本の共同性の崩壊ではなく、もともとの機能主義に起因する問題といえるのではないでしょうか。

つまり、過去の右肩上がりの高度成長期には顕在化しにくかった機能主義が、経済情勢の悪化とともに前景化するようになったということです。

また、日本の共同体は、人と人のつながりを喪失してしまうという問題だけではなく、グローバル化の中で共同体そのものが喪失してしまう危機にもさらされているといえます。

では、日本の共同体は、今後どのようにして構築していけばいいのでしょうか。

過去の共同体を理想化するだけでは、もともと存在しなかったかもしれない幻想を、郷愁するだけのロマン主義に陥ってしまうことになってしまいます。

また、将来の共同体を理想化するのであれば、有用性の有無にかかわらず、場の共有が安心と安全を与えてくれるようなコミュニティの存在が求められることになります。

しかしながら、代替可能性を旨とする機能主義が重要視されている現状では、場の共有によるコミュニティの構築は、あまりにも唯一性を重視し過ぎるために、理想主義とされてしまうのかもしれません。

現代社会は先の見えない時代にあるからこそ、自分がいかに生き延びるかということは、自分自身で考えなくてはならないということになります。

そして、このことは、日本や日本人がいかに生き延びるかということと、平行して考えることでもあると思われます。

また、自分の夢の実現についても、日本や日本人の将来を展望することと同時に考えなければならないことといえるのではないでしょうか。

つまり、夢の構築は、共同体の構築と同時に考えなければならない関係にあるということです。

ロマン主義でも、理想主義でも、もはや日本人の共同体のモデルにはならないということでした。

従って、夢の構築は、今の自分の現実から、社会的文脈に添った形で、手探りしながら、少しずつ共同体の構築を図っていくということになると思われます。

そして、社会の中で一番小さな共同体は家庭といわれています。

夢の構築は、まずは家庭という一番小さな共同体の構築から始めてみるという提案はいかがでしょうか。

つまり、日本という集団の中で、日本の文化に規定された、一番い小さな共同体を構築するということが、自分たち=日本人の足場を見つけるということになると思われます。

そして、家庭という一番小さな共同体の構築が、いかに難しい事業であるかについて認識ができれば、社会というさらに複雑で強大な共同体を構築する場合に、主観的な幻想と客観的な現実というギャップを認識することができるようになるのかもしれません。

つまり、肥大化した自我は、いったん家庭という身近な共同体の構築によって、現実化される必要があるということになります。

夢の構築は夢から覚めないと実現(現実化)しない、という結論になってしまいましたが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
[PR]
by kokokara-message | 2009-12-13 17:20 | 夢とは何でしょうか?

明日香橘寺の参詣道入り口です。橘寺は聖徳太子生誕の地とされています。
a0126310_123720.jpg

ブログをはじめて、今日でちょうど半年です。

当初はどこまで続けられるものかと思っていましたが、なんとか半年間続けることができました。

また、1日のユニーク訪問者数が20人を超えるようになってきたことも、ブログ更新のモチベーションにつながっていると思っています。

ご訪問、そしてアテンションをいただいている皆様方に心から感謝を捧げます。

ありがとうございます。

ところで、私のブログは、政治、経済、心理学や社会学などいろいろな方面の話題をテーマとして、その小論文を分節しながらアップするという手法をとっております。

テーマがいろいろ多方面に分散することから、このブログの語り部は、個人ではなく、工房のような集団であるように思われている方もいらっしゃるかもしれません。

種明かしではありませんが、このブログは工房のような集団ではなく、私自身がひとりごとを語っているにすぎません。

そして、私が語っていることは、あらかじめ決まっていることではなく、自分の思考を整理しながら、自分にフィットした思索を再構築するという目的のためにブログの更新を行っているということになります。

つまり、自分が何を考えているかを知りたいがために、ブログを更新しているということになるのでしょう。

ただ、ひとつ共通することは、私が語ることがいつもどこかで「日本人とは何か」というテーマに行き着いてしまうという構造にあるということです。

日本人は、日本人論がたいへん好きな民族であると言われることがあります。

これは、おそらく日本人が自分たちのことを客観的に観察することが上手な民族であるというよりも、むしろ日本人という閉鎖性の中でしか語ることが出来ない壁(限界)を持った民族ということになるのではないでしょうか。

ハンチントンの「文明の衝突」によれば、東アジアにおける日本の特殊性ということですね。

おそらく、今の日本の立ち位置からすると、日本人は優秀な民族と思えるほどには優秀ではないように思われますし、反対に自虐的になるほど愚かな民族ではないように思われます。

これは、個人の能力レベルの問題ではなく、日本文化が規定することになる日本の国力の問題といえそうです。

つまり、日本の国力は、日本人の集団主義や同質化というような行動様式(エトス)によって支えられているといえますが、同時にその行動様式(エトス)は日本の国力の壁(限界)にもなっているということになりそうです。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
[PR]
by kokokara-message | 2009-12-12 12:11 | 夢とは何でしょうか?

自己実現の扉(6)

a0126310_1914759.jpg

自分が欲しているものを、まず他者に差し出すということが、コミュニケーション(交換)を起動させることは、今までに説明したとおりです。

その原理については、絶えず変化を繰り返す贈与と返礼との不均衡の再生産システムから説明できるということでした。

例えば、どれだけ慎重に調整しながら重石を乗せたとしても、うまく左右のバランスがとれない不安定な天秤をイメージしていただければいいのかもしれません。

ここまで話が進んでくれば、自己実現の扉はいかにして開くかについても想像がつくのではないでしょうか。

自己実現とは、自分だけが充足(満足)するだけでは、得られるものではないということです。

また、自己実現とは、力ずくで他者から奪い取ったとしても、得られるものではないということです。

そうですね。

自己実現とは、自他の関係性の中に構築されたものということになります。

そして、他者からの承認は、まず自分から他者を承認することによってしか得られないという関係にありました。

つまり、自己実現の扉は、まず自分が欲しいものを、他者に与えるという「無償の贈与」によって開くことになるといえそうです。

人事を尽くして天命を待つということ。

自己実現の扉は、向こうから自然に開くのを待つのであって、自分が力ずくで開けられるものではありません。

やがて、時期到来すれば、自ずと扉は開くことになり、天命待つ者を招き入れることになると考えますが、さて、皆様はいかがお考えでしょうか。

【追記】
自己実現の扉をご一読いただきましてありがとうございました。

自己実現というと、自分探しというイメージが強く、「内的・主観的な過程」のみが強調されるところがあるようです。

しかしながら、いくら自分自身を分析してみても、それは自己実現のほんの端緒でしかないということです。

従って、自己実現とは、自他の関係性(これが自己ですね)として、「外的・客観的な過程」をいかに生きるか、ということがなによりも重要になってくるということです。

ユング心理学では、自己実現は、個人に内在する可能性を実現するための全体性の回復とされています。

この全体性の回復には、自分が生きてこなかった人生の影の部分を再び生き直すという意味が含まれています。

従って、ほんとうの意味の自己実現は、外的・客観的な関係性の構築のうえに、自分が生きてこなかった影を部分を生き直すという、さらに危険な作業が伴うことでもあります。

もし読者の皆様が、いまだ人生前半を生きているのであれば、まずは今の人生を構築することを先決とされ、危険が伴うほんとう意味の自己実現(再構築)は、人生後半までとっておかれることをお薦めしたいと考えますが、いかがでしょうか。
a0126310_1915683.jpg

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
blogram投票ボタン
[PR]
by kokokara-message | 2009-11-08 19:13 | 夢とは何でしょうか?

自己実現の扉(5)

明日香の亀石です。飛鳥駅から欽明天皇陵を巡って橘寺までの片道45分の道程は明日香散策にはうってつけといえます。
a0126310_21322451.jpg
a0126310_21325085.jpg

内田樹氏によると、コミュニケーションの基本ルールは、等価交換のような静止状態にあることではないということです。

絶えず変化を繰り返す贈与と返礼のように不均衡が再生産されるシステムが、コミュニケーションの基本ルールとなるということです。

従って、不均衡の再生産システムである贈与と返礼という運動を起動させるためには、まず自分が欲しいというものを他者に与えるということから、はじめなければならないことになります。

「自分の欲しいと思うものは、他人から与えられるという仕方でしか、手に入れることができない」というレヴィ=ストロースの洞見については、誰もが経験的に納得できることではないでしょうか。

今一度整理しておきますと、自分の中の欠如感を埋め合わせるものが、自己承認であり、また他者からの承認であるということになります。

自己承認は、他者への配慮というもてなしの心を実践することによって得られる関係となりますが、他者からの承認は、まず自分から他者を承認するということによってしか得られないという関係になります。

自己実現とは、自分と他者の間において自他の承認を構築するというものです。

従って、自己承認だけではなく、自己実現のような、他者からの承認という、自分が欲するものを得るためには、いったん自分が欲しているものを他者に差し出すという迂回的な方法をとることになります。

つまり、自分から贈与するということが、他者からの承認やアテンションを得ることになるということです。

しかしながら、現実には、他者からの承認だけではなく、自分自身の承認さえも得るということが、たいへんに難しい時代であるといえるのかもしれません。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
blogram投票ボタン
[PR]
by kokokara-message | 2009-10-27 21:17 | 夢とは何でしょうか?

自己実現の扉(4)

本薬師寺のホテイアオイと畝傍山です。神々しく見えるのは私だけでしょうか。
a0126310_21242130.jpg
先の天秤の例では、欠如感(承認不足)とのバランスからは、自己承認と相手への配慮(もてなし)が等号の関係にあると仮定することができました。

これは、自己承認の不足が相手への配慮(もてなし)の不足にもなるということです。

従って、相手への配慮(もてなし)である「他者への承認」を実践することができれば、天秤のバランスの原理からは、その反対給付として「他者からの承認」がもたらされるということにもなります。

もちろん、現実には「他者からの承認」が得られないことはありますし、望んだような承認やアテンションが得られないことはあるかもしれません。

しかしながら、今まで見てきた天秤のバランスの原理からすれば、自分が承認されたい(自己実現したい)と願うのであれば、まず自分から他者を承認しなければないということになります。

つまり、自分から「他者を承認する」ということが、「他者からの承認」を得るための最短で一番確実な方法ということになるということです。

また、承認やアテンションは、自分が想定できるような小さな関係(友達や家族)だけからもたらされるものではありません。

なぜなら、ヒトはもっと大きな社会の関係性の中で暮らしています。

つまり、ヒトは多様な文脈が交錯する社会の結節点に立っているのであり、その結節点にはいろんな承認やアテンションが贈り届けられることになります。

そして、贈り届けられた承認やアテンションは、あらかじめ想定していたものと違っていることは一般的であり、いつ、どのように届くかということも偶然に左右されるといえます。

そもそも、自分の中のにある欠如感が、他者への配慮をもたらすということになり、「他者への配慮」であるもてなしの心は、自己承認とは等しい関係にあるということでした。

また、自己承認だけでは承認不足が発生してしまうため、「他者からの承認」も欲するということになります。

そして、「他者からの承認」を得るためには、まず自分から「他者を承認する」という迂回的な方法をとるということが、「他者からの承認」を得るための最短で一番確実な方法であるということになります。

内田樹氏によると、贈与の基本ルールは、「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」というレヴィ=ストロースの卓見にあるとのことです。

以上ややこしい説明になりましたが、コミュニケーションとは等価交換ではなく、贈与という不均衡な交換ルールをベースにしたものと、ご理解いただければと考えます。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
blogram投票ボタン
[PR]
by kokokara-message | 2009-10-13 21:58 | 夢とは何でしょうか?

自己実現の扉(3)

高取城址への登山道にある猿石です。明日香の吉備姫王墓(きびひめのみこ)にある猿石は有名ですね。
a0126310_2335260.jpg

【今日は、少しややこしい話になってしまいました。次回には、もう少しかいつまんだ説明ができるのではないかと思っています】

では、なぜ欠如感が、相手への配慮(もてなしの心)を発生させることになるのでしょうか。

まず、欠如感を抱いているという承認の不足は、自己承認によって充足されることになります。

再び天秤を例にとれば、自分という天秤の一方の端に欠如感という重石を乗せれば、一方の端には自己承認という重石を乗せることでバランスがとれるということです。

先ほどの例では、自己承認のところに相手への配慮(もてなしの心)という重石をおいて天秤のバランスをとりました。

ここでは、相手への配慮(もてなしの心)と自己承認が等価という関係に置き換えてみることにします。

自己承認が、欠如感という承認の不足を多少なりとも満たしてくれることについては、経験的に納得できることではないでしょうか。

もちろん、欠如感を埋め合わせるのは、自己承認だけでは十分ではなく、他者からの承認を得るということが必要になります。

では、他者から承認を得るにはどうすればいいのでしょうか。

これは、大変難しい問題といえますが、そもそも自己承認が不足(自信不足)しているからこそ、他者からの承認を欲するという関係にあると思われます。

一方、自分の承認と他者からの承認とは、自他の間のどこかで折り合うような関係にあるものと考えることができます。

自己承認が不足している人が、他者からの承認を得るための方法として、まず自分から他者を承認する(もてなす)ということを仮定してみてはいかがでしょうか。

逆からの発想となりますが、自他の承認(自己実現)という天秤の例でいうと、左右の重石と軸の長さの関係性からバランスが決まるということです。

従って、まず自分の方から他者を承認するという重石を天秤の一方に乗せることによって、天秤のバランスの原理からすると、自ずと他者からの承認という反対給付がもたらされることになるという関係になります。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

blogram投票ボタン
[PR]
by kokokara-message | 2009-10-01 23:09 | 夢とは何でしょうか?

自己実現の扉(2)

田園風景の中の飛鳥寺(安居院)です。蘇我馬子が創建した法興寺の法灯を今に伝えています。
a0126310_739550.jpg

ヒトは環境に満足(充足)してしまうと、考えなくなってしまいます。

フラットで安心安全な状態にいれば、考えなくても自足することができるためです。

従って、考えるということは、フラットではない、つまり水位差があることによって起動するものであると思われます。

少しややこしい言い方ですが、分からないということが分かっていること、あるいはリアルに理想と現実の水位差、このような欠如感こそがヒトを考えさせることになるのではないでしょうか。

欠如感のないフラットな世界で暮らしていれば、考えることの必然性はいうまでもなく、成長へのモチベーションも必要としなくなってしまうことになります。

また、衣食足りて礼節を知るという言葉があります。

確かに、礼儀やマナーは、生活に余裕があってはじめて成り立つものであるという考えには納得させられるものがあります。

しかしながら、他者へのもてなしとは、もともと自分が満ち足りているからその余分として施すようなものではないということです。

他者へのもてなしとは、自分の欠如感を埋め合わすために、他者に配慮せざるを得ないという心境が働いて、その結果もてなしの心が実践されるということではないでしょうか。

天秤の例をイメージしてください。

天秤の一方の端に自分の欠如感という重石を乗せれば、もう一方の天秤の端には相手への配慮(もてなし)という重石が乗せられることで、自己バランスがとれることになるはずです。

このように、自分の中の至らないという欠如感(謙虚さ)こそが、もてなしの心という相手に対する配慮を実践させるモチベーションになると思われます。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2009-09-19 08:02 | 夢とは何でしょうか?