カテゴリ:読書(信任論)( 2 )

信任論/岩井克人(2)

岩井 克人,三浦 雅士
新書館
発売日:2006-07


「実体がないものが力をもつ」とはどういうことでしょうか。

生物の世界は欲求の体系ですが、それはあくまでもモノに対する直接的な関係にすぎないといえます。

これに対して、言語、法、貨幣はどういう存在かというと、物理的な実在ではないけれど社会的な実在性を持っています。

どういう意味かというと、人間は言語や法や貨幣を媒介にしなければ、人間として存在し得ない社会的動物であるということです。

つまり、人間は、言語や法や貨幣を媒介としてしか、人間にはなれない存在ということになります。

但し、人間が社会を作っているという限りにおいてしか、言語も法も貨幣も存在しえないということにもなります。

言語、法、貨幣は社会的媒介であり、それがなければ人間は人間として存在し得ないわけですが、その言語、法、貨幣は、人間が人間として社会を構成していることにより、初めて存在し続けることができるということになります。

社会科学、いや人間科学が科学であるといえるのは、物理的な意味では何もないけれども、人間社会において物理的な実体性よりも、はるかに強い実体性を持つ言語、法、貨幣という社会的実体が存在しているからといえます。

これらを分析対象とするからこそ、科学といえるわけですね。

ケインズの貨幣理論では、手段と目的の逆転が起きることになります。

貨幣とは、本来金属のかけらであったり、四角い紙切れであったり、電磁的な記号であったりと、それ自体は欲望の対象とはならないものです。

本来的にはそれらがすべてのモノを手に入れる可能性を与えてくれる手段となるから、可能性というものをあたかも実体的なモノであるかのように欲望してしまうということになる。

可能性という幻想を生み出したのが「否定と抑圧」ということであり、これがフロイトとそれを発展させたラカンの理論ではないでしょうか。

つまり、可能性は時間の別名であり、欲望の別名であるということ。

貨幣とモノの関係は、言語とモノの関係より単純なので議論が迷いにくいと思われます。

貨幣は、本来モノを手に入れる手段に過ぎなかった。

貨幣を持つことは、今モノを直接食べないという意味では、欲望の否定に過ぎません。

しかしながら、それがすべてのモノを手に入れる可能性を与えてくれることから、モノを欲望するより、モノを手に入れる可能性を欲望するようになったということです。

つまり、ほんらい実体のない、単なる媒体、単なる記号である貨幣を、あたかもそれ自体がモノであるかのように欲望するようになったということです。

モノへの欲望の否定から、いわば否定そのもの、「無」そのもの(*未来性、可能性)への積極的な欲望という転換があったといえるのではないでしょうか。

これが人間の欲望の根源的な構造であると思われます。

そして、この貨幣そのものに対する欲望の存在が、資本主義経済に恐慌やハイパーインフレーションを惹き起こすことになります。

つまり、モノに対する欲望よりも貨幣そのものに対する欲望が強くなると、結果的にモノが売れなくなって恐慌になります。

逆に、人々が貨幣の存立根拠そのものに不安を抱き始め、貨幣よりもやはりモノの方を欲望し始めると、貨幣からの逃避が始まり、ハイパーインフレーションが起きることになります。

ところで、私(*岩井克人氏)は、資本主義論と貨幣論は分けて考えるようにしています。

資本主義論というのは、システムが複数あったときのそのあいだを媒介することによって、利潤が出てくる仕組みを解き明かすことを目的とします。

たとえば、商業資本主義は、地理的に離れた二つの共同体や都市や国家を考え、その二つのシステムの間で価値体系が違うとき、安いところで買って高いところで売るというかたちになります。

つまり、商業資本主義は、それらを媒介すると、どこにも不等価交換がないにもかかわらず、結果としてプラスアルファの利潤を生み出す仕組みになっているということです。

これに対して、貨幣論の場合は、そのもっとも純粋なかたちでの単一のシステムを想定するということになります。

そして、その中では「貨幣は貨幣だから貨幣だ」という自己循環論法によって貨幣を貨幣として成立させることになります。

具体的な構造は大いに異なりますが、法についても、言語についても、同じこと(自己循環論法)がいえるはずです。

社会的実体である言語、法、貨幣とそれらの媒介によって可能になる人間社会との間にあるものは、相互依存関係といった方がいいのかもしれません。

一方が消えると、他方も消えてしまうという関係。

言語、法、貨幣を持つ社会的動物である人間は、実は初めからヒトはヒトであってモノであるという二重性をもった存在でした。

人間そのものが法人であるということが、人間存在論です。

可能性は現在の否定であり、その否定が将来とか未来とかを生むわけですが、その根底には自己信任の問題がまずあって、「自分が自分である」ことがその信任の基本的な構造となっているということです。

信任は大変重要な問題といえます。

なぜなら、法人が資本主義を支えてきたわけですし、これからも支えていくわけですから。

人間の成立が法人の成立に等しいとするなら、その段階ですでに信任の問題も発生しているということになります。

つまり、人間は他者との関係を通してしか、自分を一個の人間として確立しえない存在ということになります。

そして、人間の人格は言語の成立とともに成立したのだと思われます。

従って、法人概念において非常に重要なことは、社会的承認の問題ということになります。

むろん、法人というのは、自分で自分を法人だとはいえません。

つまり、他者の承認が絶対に必要になるということになります。

人間は人間として社会的に認められなければ人間ではありません。

事実、子どもは成人になるまで一人前の人間としては認められていません。

法人も同じことであり、社会がその存在をひとつの人格として扱うという法的規定が絶対に必要になるということです。

言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。

言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。

また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。

そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。

人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。

つまり、このような存在がまさしく法人(ヒトであってモノである)ということになります。

しかも法人の場合は、近代になってはじめて「ヒトはモノではない」という人権宣言が出るということになりました。

これにより、もともと人間がモノであった事実(ヒトであってモノである)があらわになりました。

つまり、近代(モダン)は、ヒトがモノであることを抑圧したことによってはじめて成立したということができるのかもしれません。

人権宣言がヒトはモノではないと宣言したことによって、人間の二重性(ヒトであってモノである)がはっきりと否定されたわけですから。

ところが否定された人間のその二重性が、資本主義社会、とくにポスト産業資本主義において、法人、会社というかたちで再び現れて来ることになりした。

マルクスの労働価値説、価値形態論にしても、ちょうど産業資本主義が前期から後期へと移る重工業化していく段階で、労働者と資本家がきれいに分かれて見えるときが一瞬あって、そのときにすっと成立した、一過性のもの(労働価値説)といえそうです。

資本主義は、人間の本性に根ざしています。

つまり、自己とは一個の他者ということであるなら、人間は自分の身体をあたかも他者の身体のように所有する存在ということになります。

このこと(所有の概念)が、(資本主義)社会の起源になっているということです。

われわれを人間にしている言語、法、貨幣というのは、人間の遺伝子の中には書き込まれたものではありません。

言語、法、貨幣を扱う能力は遺伝子に入っているはずですが、言語そのもの、法そのもの、貨幣そのものは遺伝子には入っていません。

つまり、言語、法、貨幣は、人間にとって外部の存在であり、他者ということになります。

個々の人間にとっては、遠い過去から連綿とつづいている外部(他者)ということです。

フロイトにいわせれば文化ということになります。

個々の人間にとっては外部(他者)になるのですが、われわれの一番の根底にあるものといえます。

人間を人間とする言語、法、貨幣が個々の人間にとっては外部の存在(他者)であるということが、つまり根源的な発想になるということです。

しかも人間を人間とするこれらの言語、法、貨幣は、人間社会がなくなれば消えてしまうという自己循環論法というか、相互連関にあります。

相互依存はするけれども、お互いにとってはそれぞれが外部(外部)ということです。

どちらにも完全に還元は出来ません。

貨幣商品説とは、貨幣はそもそも商品として多くのヒトの欲望の対象になっていたから、貨幣に転化したという説のことです。

これに対して、貨幣法制説は、貨幣というのは共同体や王様や国家などがあるモノを貨幣として定めたから貨幣になったという説です。

貨幣は自然な存在であるという説と、貨幣は人為的な存在であるという説の争いといっても良いのかもしれません。

言語学でいえば、記述主義と反記述主義との対立がそれと相似の関係にあります。

記述主義とはフレーゲやラッセルの考え方であり、その一番分かりやすい例が前期ヴィトゲンシュタインが提示したいわゆるピクチャー(写像)理論です。

つまり、言語というのは事物の構造をミニチュアにしたものすぎないというものです。

これは、明らかに貨幣商品説にあたります。

それに対して貨幣法制説にあたるのが、反記述主義です。

反記述主義のクリプキは、共同体の命名儀式によって言葉と事物との対応関係がつくられたと主張したわけですから。

しかしながら、この二つの対立は事の半面しかとらえていません。

この対立を超えたのが後期のヴィトゲンシュタインであったということです。

ヴィトゲンシュタインの有名な言葉に、「言葉の意味というのは言語の使用である」というのがあります。

これは、言葉の意味にかんして、貨幣とは貨幣として使われるから貨幣であるという貨幣の自己循環論法と同じことをいっていると考えられます。

後期ヴィトゲンシュタインは、まさに記述主義と反記述主義の対立を超えた地平に立っていると理解ができます。

同じような対立は法にもあって、それは自然法主義と法実証主義の対立です。

自然法主義が主張するのは、法とは、人間社会に生み出されてきた社会道徳を条文化したものにすぎないということです。

法実証主義は、法とは王や国家の権威によって社会道徳とは独立に上からポジット、つまり定められたから法であるというのですから、実定法主義としたほうが分かりやすいかもしれません。

これらの自己循環の問題(言語に関しては後期ヴィトゲンシュタインの立場)の起源は、円環構造をしているため、「ウロボノスの環」のようなものといえそうです。(*自らの尻尾を食べている大蛇のイメージ

従って、自己循環論法によって言語、法、貨幣が成立しているとしたら、その起源というのは理論的には決して確定しえないということになります。

つまり、因が果で、果が因ということになるのですから。

これは、思索が始まると同時に人間に訪れた問題であったといえるのかもしれません。

つまり、自己循環の問題になってしまうという考え方は、かなり古くからあったのではないでしょうか。

そうでなければ、輪廻とか、その輪を断ち切るという発想は出てこないと思います。

そして、貨幣論においては、マルクスの資本論に依拠しながら商品と貨幣の循環を図示し、それが循環論になることを示したのですが、マルクスは、資本論においてそこに穴を開け、文字どおり金を、つまり金鉱を導入し、鉱山労働者を導入して自己循環論法を切断してしまうということになりました。

これは、マルクスが労働価値説にとらわれていたことをよく現しているといえるのではないでしょうか。

つまり、マルクスは労働を実体化し、その実体化の象徴として金を導入してしまったということになるわけです。

(おわり)

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by kokokara-message | 2011-07-19 22:34 | 読書(信任論)

信任論/岩井克人(1)

岩井 克人,三浦 雅士
新書館
発売日:2006-07


資本主義は絶対に倫理性を必要とします。

法人を法人たらしめている信任の問題も、その倫理性と深くかかわっています。

貨幣とは何かといえば、貨幣として使われているもののことだという循環論法しか出こない。

商品を流通させるべく循環している貨幣を支えているものは、それが循環しているという事実だけです。

マルクスは「経済学批判」から「資本論」へといたる過程でそのことを見出しながら、結局金本位制のようなもっとも保守的、プラトン主義的な論の展開(価値形態論)をしてしまいました。

実際はそのようなことはなく、貨幣はいってみれば無根拠ということになります。

従って、恐慌があってもなお資本主義がつづくという問題も、そういうことになります。

そのうえ、貨幣が貨幣として使われるというその事実によって、今度はそういう貨幣の性格そのものが商品になるところまで指摘できます。

そして、貨幣が貨幣として使われるというその事実によって、通貨危機まで招いたヘッジファンドの暴威を予言し、グローバル経済を解説することもできます。

つまり、自己循環論法から実体が生まれてしまうということです。

そして、会社はモノであってヒトであり、ヒトであってモノであるとする法人論は、会社はヒトとモノの二階建てになっているという理論です。

会社が法人であるということは、同時にヒトでありモノであるということになり、必ず二階建ての構造になるということです。

従って、法的にはヒトであっても、実際にはモノである会社は代理人を必要とし、すなわち代表取締役への信任という問題が出てくることになります。

会社の買収を手がけている人にとっては、株主主議論批判つまり会社は必ずしも株主のものではないという議論は、そのまま私有財産制の否定を意味していることになります。

しかしながら、法人論は、すべて私有財産制のなかで成立している議論といえます。

つまり、株主が会社をモノとして所有し、その会社が今度はヒトとして資産を所有するということになります。

私有財産制とは、すべてのモノに対して所有するヒトを定めておくという制度のことです。

会社という仕組みは、法人がヒトでありモノであるという両義性を巧みに利用し、私有財産制の守備範囲を大きく広げたということになります。

なぜなら、会社財産の法的な所有者は、法人としての会社になるからです。

資本主義とは、商品は貨幣によって買われなければその価値を実現できないという形態により、その超歴史的な価値を表現している社会といえます。

その価値の形態がどういう形式的な構造をしているかを分析しようとするのが、マルクスの価値形態論です。

マルクスは労働価値の自明性をより根源的なかたちで示そうとして価値形態論を展開したのですが、その価値形態論をさらに進めると価値形態というものが自己循環してしまうことになってしまいました。

貨幣は、自己循環論法によって、労働という実体と切り離され、それ自身が実体となってしまったということです。

貨幣論では、貨幣とは労働という実体的な価値の表現形態などではなく、貨幣という形態が自己循環構造をとることにより、形態そのものが実体になってしまったことを明らかにしようとしました。

つまり、マルクスの論理を徹底させるとマルクスの論理そのものかが否定されることを示そうとしたわけです。

そして、会社論(法人論)でやろうとしたことは、私有財産制の問題があったからです。

資本主義経済のいちばん重要なのは、個人主義や自由主義ではなく、私有財産制といえます。

私有財産制度が、資本主義の基本といってもいい。

資本主義の基本が私有財産制にあることは、人間という概念そのものが所有という問題と切り離せないということになります。

私有という言葉がありますが、人間は所有することによって「私」になる。

つまり、自己意識を持つということ。

人格概念が示しているのは、人はまず自分の身体を所有するというところから始まる、ということです。

自己とは自己所有ということ、自分が自分を所有するということです。

自分が自分の奴隷になるということです。

自己決定が出来るということは自分を対象化できるということであり、対象化できるということは、自分をモノとして見ることができるということになります。

資本主義のなかに、モノでありヒトである法人が生まれてしまいました。

〇〇会社は、ほんらいヒトではなく組織です。

組織という抽象的なものです。

法律のうえでしかヒトではない会社が、実際に社会の中でヒトとして活動をするためには、それをヒトとして動かす人間が絶対に必要になります。

文楽の人形と人形遣いの関係がよくあらわしているように、法人としての会社と代表取締役つまり経営者との関係は、資本主義における基本的な関係である契約関係には還元できないということになります。

法人論では、そこに信任というかたちで倫理性を導入したわけです。

ということは、資本主義の枠組みの中心に倫理を入れたということになります。

自己利益を追求するシステムであるはずの資本主義と、およそ相容れないように思われる倫理性が、資本主義の中心に鎮座することになったということです。

重要なことは、外部から倫理性を導入することになるのではないということです。

よくある人間は倫理的な存在であらねばならないというたぐいの議論ではなく、自己利益追求だけで成立しているはずのシステムが、内部で必然的に倫理性を必要とすることになるということです。

ところで、財団とは、寄付されたお金、たとえば銀行口座を法律上はヒトとして扱うということになります。

財団とは財産に付随する組織のことですが、端的にいえばお金の集まりをヒトとして扱うということです。

会社は社団といって、基本的にはヒトの集まりのことですが、財団の方は、ただのお金の集まりをヒトとして扱うということです。

たとえば、財団法人の財産が盗まれたら、訴える場合は財団法人の名前で訴えます。

また、財団法人の財産を買うときは、財団法人の名前で買います。

だから、これはお金がヒトとして振舞うということになるのです。

このようにおカネをヒトとして振る舞わせ、モノを所有させることによって、資本主義経済は、交換と契約の範囲を拡大さることがでました。

法人という概念は、ローマ法にもありました。

イギリスやオランダの東インド会社はいちおう法律的にも法人になるけど、それは王様の特許というかたちの特例にすぎませんでした。

そして、ある一定の条件を満たせばどんな人間でも会社を設立できるというかたちにして、会社を法人として認めたのがアングロサクソンになります。

資本主義社会というのは、基本的にはモノを持ったヒトとモノを持ったヒトとの間の交換、いや契約関係といえます。

契約というのはお互いに得になるから契約を結ぶわけであり、そのプラスアルファが社会にとってもプラスアルファになって社会が拡大発展することになります。

契約関係は、資本主義におけるもっとも基本的な社会的関係といえます。

契約のネットワークをそれまでには考えられなかったほど大きく広げたのが、法人を中心とした資本主義ということになります。

本来お金の集まりでしかない財団が、ヒトとして美術品等の財産を管理し、ヒトとして契約を結んだり、ヒトとして訴えられたりすることを、ただのお金の集まりの代わりにやってあげるのが財団の理事であり、会社の経営者と同じ存在なわけです。

その財団と理事、会社と経営者の関係は必然的に信任関係になります。

これは、一方が他方を一方的に信頼することによってしか成立しない関係性ということになります。

この関係が成立するためには、信頼を受けた側は、自己利益を押さえて行動しなければなりません。

つまり、倫理性を絶対に要請することになってしまいます。

資本主義のまさに中核に信任関係、倫理が登場するわけです。

信任というのは、英語でフィデューシャリー(Fiduciary)ですが、その一番重要な部分を占めるのがトラストであり、法律的には信託と訳されます。

普通の銀行(バンク)にお金を預けるときは、ただお金を預けているだけで、お金の所有権はこちらにあります。

信託銀行(トラストバンク)に信託としてお金を預けるとはどういうことかというと、お金の所有権そのものが信託銀行に移ってしまうことになります。

お金の所有権すら向こうに預けてしまったということになります。

信託銀行はお金の所有権までもらって、それを自分のものとして運用するわけです。

ただ、所有権が移転してしまうことによる不利益の発生を防ぐために法的な規制があります。

信託という方法は、イギリスが考え出したものです。

信託銀行にお金を預けた場合の所有権は二重になるということです。

法制上の所有権は信託銀行が持っていますが、ほんらいの所有権はお金を預けた人にあるということであり、信託法としていろんな規制がつくことになるわけです。

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by kokokara-message | 2011-07-09 08:48 | 読書(信任論)