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1 はじめに~現代思想における男女区分

生物学的な男女の区分は、自然がそうであるように、決定する染色体や遺伝子がおおむね双極的に偏在するなだらかな二つの曲線を描くようになっているといえそうです。

つまり、生物学的な男女という区分は、クリアカットな形で二極に分離されていないということになります。

では、生物学的な男女の区分が、なだらかな双極に偏在しているにもかかわらず、なぜ男女という二項だけに集約されてしまうことになるのでしょうか。

ヒトの脳の特徴のひとつに同一性を求める機能があります。

また、社会文化的な概念としての男女の区分、つまりジェンダーは私たち以前から存在しています。

そして、ヒトの脳の特徴である同一性を求める働きは、言語の持つ同一性(概念)によって具体化されることになります。

つまり、男女が生物学的には自然でなだらかな双極に偏在するいずれかであっても、脳の同一性の働きによって、ヒトは既存の社会文化的な男女という二極の概念(言語)に分類されることになるということです。

少し分かりにくいので、言語の説明を少し補足することにします。

言語は、社会的文化的な構築物の代表的存在とされています。

言語が構築物とされるのは、言語がオトや文字の記号の部分と、その記号が指し示す意味の部分から成り立っているからです。

つまり、言語は、記号の部分と意味の部分から構成されているということになります。

たとえば、イヌという言語があります。

イヌという記号(オトや文字)が、イヌという意味を指し示していることはいうまでもありません。

この場合、イヌという記号が個々のイヌを指すこともありますが、イヌ全体、つまりイヌという動物の種類を指すということが一般的ではないでしょうか。

つまり、イヌという記号(オトや文字)が、イヌという概念(同一性)を指し示しているということになるわけです。

また、イヌという記号(オトや文字)を聞けば、誰の脳裏にも、全身に毛が生えた4本足の愛らしい小動物がイメージされることになるのではないでしょうか。

これは、あらかじめ私たちが、イヌという概念に共通する構造や形式を知っているからということになります。

なぜなら、チンとゴールデン・リトリバーでは違った大きさや形態をしていますが、そのどちらも同じイヌ類として分類するということになるのではないでしょうか。

これは、同じ概念の中に分類されるイヌであっても、誰もが同じイヌのイメージを持っているとは限らないということになります。

つまり、イヌのイメージは多種多様といえるのですが、イヌという共通の構造や形式を持っている動物が、同じ概念(同一性)に分類されるということになります。

あらためて、イヌという言語が成立するまでの過程を整理します。

まず、社会の中にやがてイヌと呼ばれる共通の構造や形式を持った動物群が存在しているとします。

これらの動物群を同じ枠の中に入れる(カテゴリー化する)ことで、はじめて概念(同一性)が成立することになります。

そして、その概念(同一性)に対し、社会から恣意的な記号を振付けられた構築物が、イヌという言語になります。

記号が恣意的であるのは、アメリカ社会でイヌがdogと呼ばれるように、イヌという記号そのものには必然性がないからということです。

少しややこしいですね。

ただし確実にいえることは、もしその社会にイヌに相当するような動物群が存在しないというのであれば、おそらくイヌに相当するような概念や言語も存在しないということなるのではないでしょうか。

あらためて、ジェンダーに話しを戻します。

ジェンダーとは、その社会の支配的な概念(同一性)によって分類された、社会文化的な男女の区分のことです。

そして、ジェンダーという男女の区分は、私たち以前から存在していたものということになります。

このため、ジェンダーが社会的構築物であるにもかかわらず、私たち以前から存在していたために、ジェンダーを自然と同じような自明なものとして受け取ってしまうことになります。

従って、生物学的にはなだらかな偏在の中の男女という区分であるにもかかわらず、社会文化的な構築物であるジェンダーが、ヒトを男女という二極の概念(言語)に分類しているかのように見えてしまうわけです。

おそらく、ジェンダー(男女の区分)は、その社会で共有されている同型性、つまり共通の構造や形式を持っている人間群を、男女という概念(言語)に分類することで成立することになるのではないでしょうか。

このことを、先のとおり言語の成立過程から見ていくことにします。

まず、社会の中にやがて男女と呼ばれる社会文化的な同型性(構造や形式)を持った人間群が存在しています。

これらの人間群を同じ枠の中に入れる(カテゴリー化する)ことで、はじめて男女に相当する概念(同一性)が成立することになります。

そして、その概念(同一性)に対し、社会から恣意的な記号を振付けられた構築物が、男女という言語になります。

このときに重要なことは、ジェンダーとは社会的文化的な区分であるゆえに、男女の概念の分節点は時代や社会環境の要請によって大きく変動することになってしまうということです。

例えば、日本の戦前社会と現代社会では、男女の持つ行動様式(構造と形式)は大きく異なっており、それぞれの時代背景を考慮すれば納得がいくことになるのかもしれません。

また、日本の社会とイスラム教圏の社会では、おそらく男女の行動様式(構造と形式)は大きく相違しており、それぞれの宗教的背景を考慮すれば当然の帰結といえるのかもしれません。

つまり、時代や社会環境が変化することで、社会が要請する男女の行動様式(構造や形式)もまた変化することになり、この結果として男女という概念(同一性)の分節点が移動することになるわけです。

このことは、ジェンダーという男女の区分が、私たちを取り巻く時代や社会環境の要請によって生成されてくる社会的構築物であることを証明しているといえるのではないでしょうか。

ところで、セクシュアリティとは自認を意味します。

自認とは、広い意味では自己決定になると思われます。

では、社会文化的な男女の区分のジェンダーとセクシュアリティ(自認)との関係性は、どのようになっているのでしょうか。

ジェンダーは、時代や社会環境の要請によって生成されてくる社会文化的な男女の区分ということでした。

従って、ジェンダーとは、個人が制御できるようなレベルのものではなく、むしろ自然と同じように制御不可能な領域にあるものとして、ひとまずは受け入れるしかない存在といえるのかもしれません。

構造主義では、社会構造はやがて変わっていくものの、ある一定期間は不変なものとみなすことにより、その社会に存在する構造や法則を観察しながら、そこから引き出される仮説をもとに社会構造の制御を試みるという立場をとります。

従って、ジェンダーという男女の区分についても、期間限定、地域限定の条件付はあっても、ひとまずは普遍(不変)なものとみなし、その社会での支配的な男女の区分を踏まえながら、男女のいずれかを自己決定(自認)するということになります。

このことを一般化すれば、自らのアイデンティティは、たとえそれが暫定的なものであっても、現在の社会のフレームワーク(枠組み)に存在する概念(言語)からしか、自己決定(自己選択)ができないという限界があることになります。

つまり、私たちは、社会に存在しない概念(言語)を使用して、お互いのコミュニケーションを図ることは出来ないということです。

そして、このような自己決定の限界を十分に理解しても、自らのアイデンティティ(あるいはジェンダー)に揺らぎを感じるとすれば、それは、おそらく既存の概念(言語)の揺らぎ、つまり社会構造そのものの流動化が原因になっているのかもしれません。

たとえば、概念(言語)が同じものであったとしても、その意味の幅があまりにもずれてしまっている(揺れが大きい)のであれば、おそらく話が通じないことにもなってしまいます。

先ほども記述したように、ヒトの目に映る社会構造は、一定期間は自然と同じで不変なもの(自明なもの)として認識されるということになります。

そして、やがて自然が流転していくように、社会構造も時間の経過とともに変化していくということになります。

現代社会で見られるグローバル化や情報化という大きな潮流は、社会構造を急速なテンポで改変し、言語や概念の流動化をもたらすという原因になっていると思われます。

その結果、個人のアイデンティティや社会制度の枠組みも大きく揺らぐことになり、個人や社会に関わるグレーゾーンや曖昧さが拡大するという結果になっているのではないでしょうか。

現代思想から見たジェンダー(その本質はアイデンティティですね。)は、まさに足場のないポストモダンな状況にあるといえそうです。

しかしながら、いつの時代においても、自らのアイデンティティは、自らが決定するしかないという変わらない真実があります。

つまり、自分を支えるのもは自分の外部にあるのではなく、最後は「自分は自分」という足場の定まらない自己言及よってしか自分を支えることができないという限界です。

寄りかかるすべがない状況は、確かに私たちを不安にさせることになります。

しかしながら、かようなポストモダンな足場の定まらない状況を嘆いているだけではなく、アイデンティティ(ジェンダー)は自らで自己決定(自認)するしかないと覚悟を決めるしかないのかもしれません。(孤独でとても辛い選択になりますが。)

現代社会の個人のアイデンティティ(ジェンダー)は、大きな揺れが起こっています。

アイデンティティ(ジェンダー)が揺れるということは、またその揺り戻しがあるということも必然の成り行きといえます。

現代社会の男女の区分(ジェンダー)は、現代の社会構造の中に組み込まれた社会制度ということができます。

このため、男女の区分が流動化したとしても、今在る男女の区分を前提としながら、現在の社会制度が機能しているのもまた現実ではないでしょうか。

右肩下がりの人口減少社会という社会経済構造を考慮すると、今後とも単線形の発展的史観が展開する予測は、あまりにも短絡的な楽観主義といえそうです。

従って、今の自分の立場(アイデンティティ)が、たとえ不安定で、暫定的なものでしかないとしても、今ある自分の立場と役割を足場とすることでしか、将来に生き延びるチャンスさえも得られないことになってしまうのではないでしょうか。

自分の足場は自分で確保し、そして男女を等価なものとする見方が保持できているのなら、ジェンダーは単に観念論ではなく、現実論として具体的な政策へとつながっていくと考えているのですが、さていかがでしょうか。

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2 男女平等という立場について

ジェンダーという男女の区分は、概念(言語)の差異という関係性にあることから、時代や環境の要請によっては、その分節点が移動するということになります。

つまり、男女という区分が相対化されることによって、ジェンダー(アイデンティティ)が不確実なものになってしまうということです。

このことは、男女の区分(あるいは自分は誰であるか)が確定的なものであり、自明と考えている人にとっては、大変な驚きとなってしまうことかもしれません。

まさに、ジェンダーの揺れは、アイデンティティの揺れということになります。

ジェンダー(アイデンティティ)の揺れは、まさに流動化する現代社会を象徴するひとつの現象といえるのではないでしょうか。

ところで、男女のいずれかの性がもう一方の性を、合理的な理由もなく劣位におく非対称性が形成されることは、言うまでもなく望しいことではありません。

そして、日本国憲法においては、男女の平等について規定がなされています。

ただ、この憲法に規定された男女の概念(言語)の平等性や等価性を論理的に展開していくと、やがてひとつ上位のレベルにある、ヒトという概念にたどりつくことになるのではないでしょうか。

つまり、男女という概念(言語)は、それぞれひとつの同一性(カテゴリー)の中にあるものですが、脳のさらなる同一性を求める働きによれば、ひとつ上位のレベルのヒトという概念(言語)に集約されていくことになるのではないかということです。

むろん、男女という概念(言語)が、社会文化的な区分であり、具体的に機能する社会制度であることはいうまでもありません。

しかしながら、男女が平等であり等価とされるそれぞれの権利が、さらに上位のヒトという概念(言語)に同一化されていくことになれば、それは「人権」という普遍的概念に至るということになります。

社会には目に見える制度(法令など)と目に見えない制度(道徳など)が存在し、それらが個人を拘束しています。

いずれの社会制度においても、個人の「人権」が尊重されなければならないことはいうまでもありません。

つまり、社会における二項に分節された男女という概念(言語)が持つ権利には、その前提として必ず「人権」という普遍的概念が想定されているということです。

従って、ヒト(個人)とは、まず「人権」という普遍的概念が賦与された存在ということになり、このようなヒト(個人)が社会文化的な男女の区分のいずれかを自己決定(自認)できるということが、なによりもジェンダーのあり方として望まれることであるのかもしれません。

大変残念なことですが、ヒト(個人)は自分の置かれた社会的に文脈によって、誰もが強者(勝者)になれるわけではありません。

従って、たとえ弱者であっても弱者のまま尊重される社会が、誰もが暮らし安いと感じる社会のあり方ではないでしょうか。

ところで、今から15年以上前になりますが、男女共同参画基本法という法律が施行されました。

この法律の理念では、男女の性差は前置されているものの、社会経済的な男女の区分の必要性については十分に規定はされていないように思われます。

そもそも、資本主義の論理では、経済活動で利潤が発生するためには、何らかの差異が存在する必要があります。

つまり、資本主義社会では、男女という区分(ジェンダー)よりも、むしろ、生産者、消費者という、より多く経済活動に寄与できる差異を持ったヒトの存在が前提にされてきた歴史があるということです。

従って、過去も、現在も、そして、これからも、日本経済が経済成長を続けるためには、国際関係も含んだ社会経済構造の中における差異の存在が必要になります。

そして、国内だけを考えた場合では、経済成長のために必要な具体的な差異とは、生産活動に寄与できる安価な労働力ということであり、また消費活動に寄与できる差異に敏感な購買意欲旺盛な消費者ということになります。

従って、このような資本主義の論理からすると、男女雇用機会均等法に始まったここ30年間の男女の経済活動への共同参画は、当初思い描いていた男女平等の実現という到達点(ゴール)とは大きく異なった政策になってしまっているのではないかということです。

つまり、目標とした男女共同参画社会の政策意図は、資本主義の論理の帰結である経済成長戦略への寄与ということになり、減少していく労働力人口とマイナスの経済成長を支えるために必要な安価な労働力(差異)を創出するために設営された舞台装置(経済政策)であったという見方もできるのかもしれません。

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3 個人の抽象化と男女の区分

従来より一部の領域では、社会制度から男女の区分を失くしてしまう(相対化してしまう)という試みが行われているように思われます。

つまり、個人の名簿や申請書などのアイデンティティの欄から、男女についての項目を削除してしまうということです。

このことが、ほんとうに社会が目指す方向といえるのかどうか、よく考える必要があるのかもしれません。

ジェンダーとは、社会文化的な男女の区分のことでした。

また、男女という概念、つまり男女という言語(言葉)のことでもありました。

そして、ジェンダーは、時代や環境の要請によってその分節点が変わることから、男女の区分が移動するということにもなってしまうということでした。

つまり、ジェンダーとは絶対的なものではなく、比較的長いスパンで眺めてみれば、相対的で不確かなものということになります。

このためか、ジェンダーが実体のない幻想(思い込み)であるかのように捉えられてしまうこともあるようです。

むろん、ジェンダーがほんとうに実体のない関係性(幻想)であるならば、社会制度から男女という概念(言語)を失くしてしまうことに合理性があるといえるのかもしれません。

しかしながら、ジェンダーは実体のない関係妄想ではなく、実体のある個人が構成する社会文化的な構築物ということになるはずです。

つまり、実体のある個人の属性が社会文化的な構築物の男女という区分であり、その男女という分類(カテゴリー)から社会構造が形成されている現実があるということです。

また、構造主義では、構造はやがて時間の経過とともに変化することになりますが、ある一定期間は自然と同じように自明なものとして考えることになります。

つまり、既存する社会文化的な構造である男女の区分(ジェンダー)も、ある一定期間は自然と同じように自明なものとして扱われるということになります。

従って、確固として自明な社会文化的な構造をなくすということは、ヒトが自明とする社会構造を恣意的にコントロールするということにもなってしまい、果たして、このようなことが本当に可能といえるのか。

ひよっとすれば、自らの足場を自らの意思で崩していること(自爆行為)になっているのではないでしょうか。

また、社会文化的な構造から男女の区分をなくすということは、今ある日常的な日本語の語彙を使用せずに、自らの立場や役割を守らなければならない事態を招くことにもなってしまいます。

つまり、自らの立場や役割を守るためには相手の立場や役割を守るしかなく、このようにお互の相互承認ができるためには、少なくとも今ある公共空間(疑似空間ではありません。)で共有されている概念(言語)を使用するしか方法がないということです。

従って、自らの立場や役割を崩すことになるコミュニケーションをいくら繰り返しても、おそらく相互承認に至ることはなく、やがて個人が保持している社会的な立場や役割さえも、他者からの承認不足により、次第に曖昧で不確かなものになってしまうこと(自爆行為)になるのではないでしょうか。

このことは、具体の個人が希薄化していくいくことでもあると思われます。

そして、これと相関するように、個人の抽象化が進んでいくことになるのではないでしょうか。

つまり、個人の抽象化とは、もはや男性や女性の属性の削除だけにとどまるものではなく、名前や住所などの重要なアイデンティティさえもなくしてしまうということです。

そして、個人の抽象化が行き着く先は、おそらく個人の数値化(ID化・マイナンバー)ではないでしょうか。

むろん、個人の数値化(ID化・マイナンバー)は、個人の重要な唯一無二性を消去してしまうものでもあります。

つまり、「あなたでなければならない」ではなく、「誰であってもかまわない」に変わってしまうということです。

アイデンティティ(ジェンダー)の相対化は、ヒト(個人)から唯一無二性を収奪してしまい、ヒト(個人)をモノという代替可能性に変容させることになるということです。

従って、ジェンダー(アイデンティティ)は、相対的で曖昧で不確かな抽象的概念(言語)であってはならず、、たとえ期間限定ではあっても、あくまでも社会文化的な具体的な社会制度(区分)として機能することが望まれると思われます。

むろん、ジェンダー(アイデンティティ)が社会制度(カテゴリー)である以上、その制度の男女のいずれを選択するかは、あくまで個人の問題(自由)となります。

つまり、個人が自然に抱いている感覚と自分が置かれた社会的文脈から判断して、自らのジェンダー(アイデンティティ)を適切に選択できなければ、自らの抽象化(アイデンティティの希薄化)を防ぐことはできず、その結果唯一無二性と引き換えに代替可能性(経済的存在)を促進させることになってしまうと考えるのですが、さていかがでしょうか。

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4 感覚としての男女の区分

また、一方では、ジェンダーを相対化するのではなく、男女の区分を認めたうえで、男女を等価とみなす立場があります。

おそらく、これは、男女のメタレベルにあたるヒトという視点から俯瞰した区分(分類)ではないでしょうか。

このような視点(立場)からは、男女の平等性や等価性については言及されることがありますが、本来的にヒトが保有する男女の固有な感覚までは言及されないということが一般的です。

つまり、個別なヒトの感覚の世界よりも、「人権」という抽象的(観念的)世界が中心になった視点(立場)ということになるのかもしれません。

そもそも「人権」が普遍的概念とされるのも、このような曖昧で不確定な要素を含んでいるからということになるのではないでしょうか。

なぜなら、「人権」はどれ一つとっても一様なものは存在せず、現実的には所属している国や地域の事情によって多様な形で実現されるという限界があるからです。

しかしながら、たとえ個々の「人権」が多様なものであっても、そこに共通する形式や法則が見出せば、同じ概念(言語)として分類されることについては、言語学の例で見てきたとおりです。

つまり、「人権」は個々具体的な事象でありながら、同時に普遍的で抽象的な概念でもあるということになりそうです。

ところで、ヒト(個人)の持つ感覚は、人間という一定の枠内(限界)に規定されることになりますが、その中においては多様な感覚として出現することになります。

たとえば、男女の感覚の差異と自己決定(自認)の関係を見てみることにします。

私たちがジェンダー(アイデンティティ)を自己決定する際、その選択に迷うということはあるのでしょうか。

おそらく、ヒト(個人)が自然に感じているジェンダー(アイデンティティ)の感覚とそれを補完する社会的文脈から受け取る感覚が一致していれば、ジェンダー(アイデンティティ)の選択に迷うことはまずないと思われます。

つまり、ヒト(個人)は、自分の感覚と社会から受け取る感覚が親和的な関係なものとして感じているようであれば、安定してジェンダー(アイデンティティ)を自己決定することができるということになります。

このことからすると、ジェンダー(アイデンティティ)に起こっている障害とは、個人の感覚である自己認識と社会的文脈からもたらされる受動的感覚の差異(不一致)が原因となって生じている問題になるのではないでしょうか。

まず、第一義的には、ジェンダーやアイデンティティが個人の自己認識の問題であるということはいうまでもありません。

そして、その自己認識を支えることになるのが、個人を取り巻く社会的文脈ということになります。

従って、個人の自己認識の感覚が曖昧なままである(自己決定が出来ない)としたら、個人の自己認識を支えている社会的文脈(社会における立ち位置)も曖昧なままとなってしまうのは必定です。

もし、自分にとって自明であるはずの社会制度が曖昧に見えているとしたら、それは自己決定が出来ていない、つまり自己決定を回避したいという欲求の表れになっているのではないでしょうか。

つまり、社会制度から自己決定の対象であるジェンダー(アイデンティティ)をなくすということが、そもそも自己決定という自己責任からの回避という欲求の表れのではないでしょうか。

確かに、ジェンダー(アイデンティティ)がなければ、自己決定という強迫に悩むということもないのかもしれません。

しかしながら、このことが、ほんとうにジェンダーやアイデンティティが抱えている問題を解決することになるのでしょうか。

生物学的な男女の区分とは、自然がそうであるように、決定する染色体や遺伝子がおおむね双極的に偏在するなだらかな二つの曲線を描くようになっているということでした。

そして、ジェンダー(アイデンティティ)について生じている障害とは、おそらく生物学的な双極でなだらかに偏在する二つの曲線のどの位置に自分がいるか、ということが悩みの中核になっているのではないということです。

むしろ、先にも指摘したとおり、個人の自然な自己認識の感覚と社会的文脈から受け取ることになる感覚との差異(不一致)が、個人の悩みの中核ではないかということです。

個人の感覚の自己認識は、人間という一定の限界はあるにしても、実に多様性な形で出現することになります。

たとえば、最近のオタク文化などを見ていると、個人の感覚の多様性はさらに顕著なものになっているといえるのかもしれません。

個人の感覚の多様化は、現代社会の成熟度(多様性)と相関しながら、進展しているかのように思われます。

つまり、社会の価値が多様化すれば、価値そのものの絶対性は小さくなるのは必然であり、その結果価値の相対化が進んでいくことになります。

たとえば、今の自分が社会の多数派(メジァー)や強者の側にあるものと仮定するとします。

しかしながら、社会の価値が相対化していくと、自分の立ち位置(価値)も次第にズレていくことになり、価値の絶対性が担保されないということが明白になるのではないでしょうか。

つまり、いつどこで自分が社会の少数派(マジョリティ)や弱者の側に回ることになるのか分からないという危険と隣り合わせにあるということになります。

おそらく、このようなポストモダン状況においては、勝ち負けという二項対立の相対的優位だけを目指していてもその到達点はあくまで暫定的なものでしかないということです。

従って、立場可換性からすると、たとえ自分が少数派や弱者の側に回ることになったとしても、自分の価値が社会の中でそのまま尊重される仕組み作りが目指されることになるのではないでしょうか。

少し話が逸れてしまいした。

個人を取り巻く社会的環境が多様化し複雑化すると、個人の立ち位置が相対化し曖昧になり、その結果自己決定がうまく出来ないという事態が発生するということでした。

つまり、ジェンダー(アイデンティティ)から生じている障害とは、このような自己決定がうまく出来ないことが原因となった問題ということができるのではないでしょうか。

では、どうして自己決定がうまく出来ない事態が発生することになってしまうのでしょうか。

一般論としては、個人の自我が未成熟な状態にあるということ、また自我がコンプレックス状態におかれていることなどが自我の制御不能状態を発生させている原因と考えられると思われます。

つまり、個人の自己決定がうまく出来ないことと、個人の自我がコントロールできない状態には、ある程度有意な関係性が見られるのではないかということです。

おそらく、自我が自己制御できる状態に置かれているのであれば、ジェンダーやアイデンティティについても迷うことなく自己決定(自認)できることになるのではないでしょうか。

つまり、自己決定(自認)ができているということは、自分の立場や役割が分かっているということになると思われます。

自分の立場や役割が分かっているのであれば、あとは自分を取り巻いている社会的文脈との間に生じる差異(不一致)をいかに埋め合わせて、整合を図るかという具体的問題となります。

そして、社会的文脈から判断されるジェンダーやアイデンティティは、その外形(行為行動)から臆断されるということが一般的であるといえそうです。

反対からいえば、社会的文脈から臆断されることになった外形(行為行動)こそが、自分のジェンダーやアイデンティティを表現しているということになるといえそうです。

これらを整理すると、ジェンダーやアイデンティティは、第一義的には自らの感覚の問題(自認)ということになります。

しかしながら、社会的な立ち位置(価値)の問題では、自らの感覚に相応しい社会的文脈をいかに自己決定しているかということが、より重要な問題になってくるということです。

先ほども指摘したように、社会制度から男女の区分(ジェンダー)をなくすという試みが一部の領域は行われているように思われます。

もちろん、社会的文脈から判断し、不必要と思われる男女の区分(ジェンダー)までを、あえて使用する必要がないことはいうまでもありません。

しかしながら、繰り返しになりますが、自己決定の対象からあらゆるジェンダー(アイデンティティ)をなくしてしまうということは、ジェンダー(アイデンティティ)に生じている障害を根本的に解決することにはつながらず、むしろ自己決定という自己責任の回避をするだけに終わってしまうのではないかということです。

私たちが自己決定をする場合には、既存の社会にあるジェンダーやアイデンティティという概念(言語)からしか選択をすることができない限界で生きていることについては、先に指摘したとおりです。

従って、もし既存の社会にある概念(言語)から自己決定をしない(ジェンダーやアイデンティティを相対化してしまう)のであれば、それは自分が所属している社会の枠組みの限界を外れていく(越えていく)ことを意味するのではないでしょうか。

おそらく、既存の社会の核組みから外れるということは、個人のアイデンティティを強化するのとは真逆に、社会の中の自分というアイデンティティを、ますます曖昧なものにさせていくだけではないでしょうか。

ほんとうに解決すべき問題は、見たくない対象を見えないように隠蔽するのではなく、むしろ自己決定ができない自分自身のコンプレックス状態を自覚することにあると思うのですが、さていかがでしょうか。

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5 社会制度としての男女の区分

本論考ではジェンダー(男女の区分)を社会制度として扱ってきましたが、本当に男女の区分は社会制度として機能しているのでしょうか。

まず、多くの宗教行事などでは、その儀式における振る舞いや衣装などに差異を設けることで、ジェンダー(男女の区分)を宗教上の制度の中に位置づけているということができそうです。

おそらく、伝統的といわれる社会や共同体では、ジェンダー(男女の区分)を正面から否定する事例は見当たらず、たとえあったとしてもそれは極めてレアなケースということになるのかもしれません。

また、社会制度としてのジェンダーは、本人の自己認識は踏まえつつも、最終的には本人以外の他者、つまり社会によって受け入れられた男女の区分ということになりそうです。

つまり、社会制度としてのジェンダーは、本人以外の他者、つまり社会によって認知された社会文化的な意味を持った行動様式(外観)から判断されるということになります。

このため、本人が自認するジェンダーの感覚(内面)と社会文化的なジェンダーである行動様式(外観)が一致しない場合には、自己と他者の感覚の間に摩擦が生じ、本人にとってはとても生きにくい状態が出現するということになります。

たとえば、本人が自分のジェンダーが女性と自認していたとしても、その外観がその社会の男性の行動様式とされていれば、おそらく自他に摩擦が生じるということになります。

従って、このようなケースには、本人の自然な感覚である内面に、社会文化的な行動様式である外観を一致させるということが、その生きにくさを解消させることになるのかもしれません。

ところで、社会制度としてのジェンダー(男女の区分)は、もちろん私たちが生まれる以前から存在していた社会文化的な制度ということになります。

そして、私たち以前から存在しているジェンダーには、それぞれ男女の伝統的な行動様式(外観)が対応するということになっています。

従って、個人がその社会で自然に感じている行動様式(外観)も伝統を踏まえたものということになり、伝統的な行動様式(外観)を採用することが、ジェンダー(概念)を生成することになっているということです。

これは、言語学の例でも示したとおり、イヌという文字やオト(つまり外観)が、イヌという動物の意味(概念)を指し示している関係性と同型にあるといえそうです。

つまり、言語が記号と意味の部分から構成されていたように、ジェンダーもその行動様式の部分(外観)とその行動様式が指し示す意味の部分(概念)から構成されているということになります。

そして、言語では、記号の部分(文字やオト)と意味の部分(概念)には論理的な関係性は見られないということでした。

つまり、記号がイヌではなくDOGであったとしても、人なつこい小動物(犬)の概念を指し示すことには変わらないといえるからです。

従って、人なつこい小動物を、なぜイヌと呼ぶかについての論理的な根拠はなく、おそらくある社会でこの人なつこい小動物をイヌと呼んでいるからとしかいいようがないということになります。

そして、さらにこれを聞いたヒトがまたイヌと呼ぶことになり、さらに、別のヒトも・・・というような、言語ゲームということになります。

ジェンダーについても同じことがいえそうです。

つまり、ある社会で男性のジェンダーとされている行動様式(外観)を採用しているヒトが、男性と呼ばれているということになり、さらにこれを見たヒトが同じ行動様式を採用すればやはり男性と呼ばれるようになり、さらに、別のヒトも・・・という、これもまた言語ゲームということになるのではないでしょうか。

従って、ジェンダーが生成されるという理由は、ジェンダーに分類されている行動様式を採用しているからという以上には根拠は見当たらず、まさに「自己循環論法」がジェンダー(あるいは言語)を支えているということになるのではないでしょうか。

しかしながら、ジェンダーという社会制度を前提としても、男女を構成している個人の感覚が多種多様ということはいうまでもありません。

従って、個人の自然な感覚が、社会文化的なジェンダー(男女の区分)の中に、そのまま過不足なく、きちんと納まるということないということになるのかもしれません。

たとえば、ジェンダーという二項対立ではなく、アイデンティティのような「自分は誰か」というやや抽象的な問いを立ててみるのはいかがでしょうか。

おそらく、「自分は誰か」という問いに対し、自分の抱く自然な感覚が、過不足なくきちんと納まりきる言語(概念)を使いこなせるような人は、まずいないと思われます。

つまり、自分が使用している言語(概念)は、いつも自分の感覚より過剰であるか、過少であるかのどちらかに偏ってしまっているのが現状といえそうです。

要するに、言語(概念)は社会的構築物(社会制度)の代表といえますが、自分の感覚を表現する手段としては十分なものとはいえず、あくまで暫定的な足がかりを示すものでしかないということになります。

また、社会制度は所与のものでもあり、同時に時間と共に改変されていくものでもあります。

現代社会で見られるような二大政党制民主主義では、少数派(マイノリティ)と多数派(マジョリティ)という関係性が必ず出現することになります。

そして、政治的には、相対的多数(マジョリティ)の側にある社会制度が実現されることになりますが、これは必ずしも正統性(オーソリティ)の根拠ということにはならず、あくまでも多数決の論理からの帰結でしかないということです。

従って、ひとたび相対的少数(マイノリティ)の側に回ることになれば、ひとたび実現された社会制度といえども、再び改変されていくということになってしまいます。

このことから、社会制度には自明性がなく、相対的でしかないと言及されることもあるようです。

もちろん、社会制度が将来に亘って自明であり続けることなどはありえず、今ある社会制度も暫定的でしかないことからすると、相対的という言い方にも一理があるといえるのかもしれません。

しかしながら、今ある社会制度の相対性を批判しているだけでは、個人の暫定的な足場となっている社会制度の土台を崩壊させてしむことにもなりかねません。

また、個人の固有の感覚や文化といえども、これを支えているのは個人が所属している社会制度を土台としたものであることはいうまでもありません。

従って、社会制度を相対化してしまうということは、自分の足場を社会制度の枠外に押し出してしまうということになり、そもそも自分の足場の曖昧さが悩みの中核になっていたにもかかわらず、このことを思索できる自分の足場さえ失ってしまうということになってしまいます。

社会制度は相対化する方向ではなく、むしろ今ある社会制度の中でいかに自分の感覚や文化を自己実現させているかを考えることが、より現実的な問題解決になるといえるのかもしれません。

しかしながら、それでも今ある社会制度を相対化するということなら、それに変わるべき具体的な対案を提示することが、社会を混乱させない最低限のルール(責任)であると考えるのですが、さていかがでしょうか。

繰り返しになりますが、個人の感覚や文化は多種多様なものということができます。

従って、今ある既存の多数派だけが優遇される社会の実現が望まれるのではなく、少数派が少数派のままでも承認される社会制度が構築された「共生社会」が求められるのではないでしょうか。

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6 一般意思と一般感覚について

ルソーの「社会契約論」には、一般意思という言葉があります。

一般意思とは、個別意思の総和(全体意思)ではなく、各人が自分個人の利害関係を越えて全体にとってはこうするのが正しいと判断するための普遍的基準とされています。

つまり、一般意思は普遍的概念ということになるのですが、法の制定には、このような一般意思が反映されているといわれています。

但し、法=一般意思ということならば、法の制定が全体にとって正しいと判断できる普遍的基準を常に実現していなければならないということになります。

しかしながら、民主主義のシステムでは、多数決の論理から相対的多数の意思が法の制定に反映されることとなるように、法の制定に必ずしも一般意思(普遍的基準)が反映しているかどうかは疑わしいということになってしまいます。

従って、ルソーのいう一般意思は実在するものではなく、法の制定を支えるための虚構(フィクション)としてみる方が適当であるのかもしれません。

ところで、ジェンダーの相対化を推し進めるあまりに、特定の個人の感覚(唯一無二)だけを強調するということが見られることがあります。

つまり、個人の感覚(唯一無二)を強調するがゆえに、特定の個人以外の大多数(マジョリティ)の多種多様な感覚や考え方が、いわゆる人権という概念の中に集約され、一般感覚として抽象化されるということになってしまうことがあるようです。

そして、さらに特定個人の感覚(特殊性)と人権の普遍的感覚(一般性)との関係が、等価なものであるという公平性の感覚がら言及がなされることがあります。

むろん、人権は、多種多様な感覚が集約された普遍的概念であることはいうまでもありません。

また、個人レベルの問題であれば、それぞれの個人の持つ感覚や考え方が、等価な関係にあることはいうまでもないことです。

つまり、人権という概念を考えるうえでは、ヒトの持つ個別な感覚を等価なものとして看做す視点と、個人の利害関係を越えた全体としてあるべき普遍的基準(一般感覚)としてみる視点の二つが必要になってくるのではないでしょうか。

社会契約論では、ルソーのいう一般意思は普遍的基準であって、個別意思の総和(全体意思)ではないということでした。

人権の感覚(一般感覚)についても、やはり普遍的基準ではあっても、実際の個人の多種多様な感覚を合計した平均値にはならないということです。

つまり、ルソーの一般意思や人権の一般感覚は、計測可能な計数値ではなく、いわゆる概念(言語)ということになるということです。

従って、人権の一般感覚が概念(言語)であるならば、そこには共通する法則や形式が見られるということにもなり、カテゴリー化(分類化)できることにもなります。

そして、この時に使用される分類の基準が、先ほどから指摘している普遍的基準になるのではないかということです。

しかしながら、人権における普遍的基準とは、いったい何なのでしょうか。

普遍的基準には、何らかの共通する法則や形式があるといえるのでしょうか。

自由とは、そもそも個人の自由のことであり、身体的、精神的自由ということになります。

また、人権についても、あくまで個人の人権が尊重されることが基本となるはずです。

おそらく、これらの個人の自由や人権という固有な感覚が、ヒトの持つ感覚の普遍性という一定の範囲内に含まれるということになるのではないでしょうか。

つまり、個人の自由や人権という感覚が極端なものにならない限り、一般感覚という概念の中にカテゴリー化されることになるということです。

養老孟司氏の表現を借りるとすれば、普遍性(普遍的基準)とは、「ヒトに備わった感覚から両端の極端を除いた真ん中あたり」ということになるのでしょうか。

人権における一般感覚とは、元来ヒトに備わっている感覚の一定の幅内ということになるのかもしれません。

従って、一般感覚とは実在として見るのではなく、ヒトの感覚を支えている普遍的基準の仮説(モデル)、つまり虚構(フィクション)としてみるのが適当といえるのではないでしょうか。

現実の民主主義制度では、一般意思という普遍的基準の仮説(モデル)を想定しないまでも、個人の自由や平等の具体的基準については、法の制定という民主主義の手続きにより実現されるということになっています。

もし、法の制定による普遍的基準や具体的基準がいまだない状態にあったとしても、お互いの個人レベルの感覚や考え方が等価な関係にあると尊重することは十分に可能であると思われます。

しかしながら、特定の個人の感覚(特殊性)とヒトに備わった一般感覚(普遍性)、つまり「具体」と「抽象(モデル)」が等価な関係にあると看做すという公平性の感覚には、論理的な飛躍があると思われるのですが、さていかがでしょうか。

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7 アイデンティティの曖昧さと「立場可換性」

話は変わりますが、人権を考えるためのアプローチのひとつとして、「立場可換性」という方法があります。

「立場可換性」は、あくまでもひとつの思考実験装置ということになりますが、自分が耐えることができないことは、他者に対して強いることはしないという端的な態度のことを指します。

「立場可換性」から公平性を考えた場合、自分の人権を守るためには、まずヒトの人権を守ることが求められ、自分が倫理的に扱われるためには、ヒトに対して倫理的に振舞うことが要求されるということになります。

ところで、ヒトが持つ多種多様な感覚は、言語の機能で人権という概念に集約化されて、同一化されるということになるということでした。

このような集約化や同一化の機能は、最初の節でも示したように脳の特徴である「同じ」を求める働きに負うところがあります。

そして、人権という言語によって集約化、同一化されるということは、人それぞれが持つ感覚の多様性が隠蔽されてしまうという側面も持っていることになります。

従って、ヒトの感覚の多種性が確保されるためには、誰もが常に自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認するという作業が必要になってくるのではないでしょうか。

つまり、「立場可換性」という方法では、自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認することが大切にされるということになります。

そして、この「立場可換性」では、自分が耐えられないことは他者に強いることはしないという、自分の感覚の底辺あたりを知る手がかりを得ることができます。

このため、「立場可換性」は、個人の固有な感覚を尊重する場合(具体)でも、またヒトが元来保持している普遍的感覚に想像をめぐらす場合(抽象)でも、自分の感覚を知るための重要な役割を果たすということになります。

ところで、先に見てきたようにジェンダーが曖昧なままにある事象は、個々具体的に分析してみると、おそらくアイデンティティが自己決定できないという個人の感覚に行き着くことになるのではないでしょうか。

むろん、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないという感覚も、ヒトが抱くことになる多種多様な感覚のひとつであることはいうまでもありません。

しかしながら、自分が所属する社会や共同体における行動様式(外観)は、その社会や共同体を構成しているジェンダー(男女の区分)と深く結びつく形で理解されていることが一般的といえます。

これは、「ジェンダーなしにはヒトや社会を語ることができない」といわれる所以でもあります。

従って、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないということは、社会における自分の立場や役割、つまりその社会の行動様式(外観)が極めて不確定なものになっているということになります。

つまり、自分自身の輪郭(外観)が曖昧になれば、社会や他者のみならず、自分自身の感覚からも疎外されてしまうということになってしまいます。

このような自分自身の足場のなさは、孤独感を深めるだけではなく、自在感さえも失わせてしまうことになるのではないでしょうか。

従って、まずは自らの社会的な立場や役割、つまりその行動様式(外観)を明確にすることが、社会における自らの立ち位置や社会的文脈を確実なものにすることになるのではないでしょうか。

では、どうして、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないという感覚が生じてしまうことになるのでしょうか。

おそらく、自己決定は、それをするヒトの自我のあり方(自己コントロール)と有意な関係にあると考えられます。

つまり、個人の自律度や成熟度、そしてこれを支えている社会環境が自我を育成することになり、これが自らのジェンダーやアイデンティティを支えるという関係になっているのではないでしょうか。

反対から見れば、自分を取り巻く社会的文脈が「自分が何者か」を明確にしてくれていれば、自我は安定し、ジェンダーやアイデンティティも自然な形で自己決定できるということになります。

従って、自己決定ができないということは、おそらく自分の自然な感覚を支えている自我が不安定な状態(脆弱)にあるためということになりそうです。

このため、自我を核とした社会環境、つまり自らの世界観がいまだ構成されておらず、従って自分の正体も分からないという状態に置かれてしまっているということです。

当然、自分の正体が分からなければ、自分自身を支えることもできず、さらに自分を取り巻く環境からのサポートを得ることもできないということになってしまいます。

そして、なにより「自分が何者か」が分からなければ、自分の自然な感覚に気づくということもなく、自覚的に振る舞うこともできないということになってしまいます。

このため、自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認することはできず、「立場可換性」の目的である自ら感覚の底辺あたりを知ることもできないということになってしまうのではないでしょうか。

もし、自分の感覚が安定しない状態(未分化な母子密着の原初的状態)にあるというのなら、まずは自己コントロールができる自我の安定、つまり自己意識を育むことが先決になりそうです。

少し言い方を変えれば、「自分が何者か」を安定して言い当てるということが、自己意識を保持するということではないでしょうか。

現代の日本社会で問題になっている、いじめや虐待の事象も、おそらく「立場可換性」という思考実験装置が十全に機能しないことが原因となっているのかもしれません。

つまり、自分の感覚の底辺あたりが確認できないまま、放埓ともいえる自由の名の下に、拝金主義の自己利益追求だけがまかり通る社会背景になってしまっているのではないでしょうか。

また、「自分はいいが、ヒトはだめ」というドラえもんのジャイアンのような未成熟な感覚は、幼児的万能感や根拠のない楽観主義の幻想を抱かせることになってしまいます。

但し、右肩下がりの経済社会規模が縮小する悪天の時代にあっては、幼児的万能感や根拠のない楽観主義は誰からも共感が得られない妄想として扱われてしまうことになってしまうかもしれません。

なぜなら、経済社会規模が縮小する悪天候の社会では、ヒトの志向は内向きにならざるを得ず、いかに今あるネットワーク(世間)からいかに排除されないかが、生き延びるための行動原理になってしまうからです。

ただ、内向き志向とはいっても、単に癒合や横並び意識を奨励することではありません。

むしろ、癒合や横並び意識によっていったん失われた外部の世界(外部権力)を、再び今あるネットワーク(世間)の中に呼び戻し、今の自分の足場を崩さないためのバランス感覚を取り戻すことでもあります。

いかに排除されないかは、いかにヒトを排除しないかということでもあるということです。

自分が倫理的に扱われたいのであれば、ヒトに対して倫理的に振舞うことが要求されるということになります。

従って、内向き志向のネガティブな時代にあっては、「自分が何をされたくないのか」を知っていることが、今を生き延びるために必要な最低限の覚悟であるのかもしれません。

繰り返しになりますが、福島の原発事故で考えたことは、もはや日本人に求められているものは、晴天型の楽天的思考ではなく、悪天候型の思慮深い慎重な思考ではないかということです。

そして、このような思慮深さや慎みの感覚は元来日本人に内在していたはずの思考の方法であって、今一度このような感覚を呼び戻すという時期が到来しているのかもしれません。

かような方向へ思考を切り替えることが、今の日本人に求められている喫緊の課題と考えるのですが、誰もこのことに気づいていないか、気づいていたとしても知らないふりをしているのか(おそらく後者ですね。)、さてどうなっていくのでしょうか。

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8 コミュニケーションの限界と価値相対化

多種多様なヒトの感覚が尊重され、ジェンダーとして自認した社会的文化的な男女の区分が尊重される社会。

そして、自らが自認したジェンダー(社会的文化的な男女の区分)が平等で等価なものとして扱われる社会。

たとえ、今の社会文化的な制度や規範の枠組みという限界があったとしても、個人の能力が最大限に発揮されることになり、正当な評価がなされる社会。

かような社会が求められるということはいうまでもありません。

そして、このことは、これまでの節でも幾度となく繰り返してきたところでもあります。

また、以下の言語(概念)の同一性の機能についても、また繰り返してきたところでもあります。

そして、言語の持つ同一性の機能について十分に踏まえつつも、その言語を構成している意味の多様性、つまりそこに差異が存在していることには、常に自覚的であらねばならないということでした。

これは、コミュニケ-ションが言語の同一性を前提としながらも、現実には多種多様な意味を含んだ多義的な言語を交換しなければならないという背理にあるからということになります。

このため、コミュニケーションが成立しているためには、言語の多義性、つまり実際にある意味の差異を差異として感じない感覚の曖昧さ(グレーゾーン)も必要になってくるということです。

少し違う角度から見れば、ヒトの持つ多種多様な感覚つまり自然というものは、そもそも言語によっては十分に表現できない対象という限界を持っていることになるのではないでしょうか。

では、言語だけでコミュニケーションができないとしたら、どうすればいいのでしょうか。

おそらく、言語で表現できないことは、一般に表情やしぐさなどの言語外言語で表現をせざるを得ないということになるのではないでしょうか。

つまり、コミュニケーションは、言語とそれを補完する表情やしぐさなどという言語外言語によって成り立っているということになりそうです。

そして、コミュニケーションとは、かような言語の持つ限界を理解したうえでも、やはり言語という社会的構築物を使用するしかない代替不可能な限界に置かれているということになります。

そもそも、コミュニケ-ションとは、お互いの感覚に差異があるということ(水位差)を原因として起動することになるということができそうです。

そして、その差異(水位差)を埋め合わせるということが、コミュニケーションの目的になるのではないでしょうか。

先にも触れたとおり、ジェンダー(男女の区分)が言語という分節により構成される概念でしかないことを理由に、ジェンダーそのものを相対化してしまうという試みが行なわれているということでした。

むろん、ジェンダーをラディカル(根源的)に掘り下げることにより、社会的制度の実在の虚構性や無意味性を暴露するという効果はあるのかもしれません。

つまり、社会的制度のフレーム(枠組み)に揺れを起こすくらいはできるのかもしれません。

但し、相対化により揺らされたフレーム(枠組み)が着地点の見えないまま混乱を招いているだけであれば、元来ジェンダーにおいて着目すべき個人の多種多様な感覚を隠蔽するということにもなってしまいます。

つまり、個人の多種多様な感覚に目を向けなくても良いという、本末転倒の事態が発生してしまうということになってしまいます。

もし、感覚の差異に目を向けず制度そのものを相対化するということになれば、コミュニケーションを起動させる回路である水位差(差異の感覚)を閉ざしてしまうということになるのではないでしょうか。

従って、差異を前提とする言語の交換行為とジェンダーの相対化により言語の枠組みを崩してしまう行為は、もともとコミュニケ-ション・レベルが異なった行為ということになりそうです。

つまり、もともとかみ合っていないコミュニケ-ションを、それとは気づかないまま、決して見つからない着地点を一生懸命探すというコミュニケーションを繰り返していることになるのではないでしょうか。

まさに、着地点が見出せないままのコミュニケ-ション(交信)が行なわれているといえるのかもしれません。

水位差をいかに埋め合わすかということが、コミュニケ-ションにおける暫定的な目標値になるということでした。

このことからは、水が入っているコップの存在の空虚さや無意味さを嘆く一方で、コップの中の水位差を埋める議論ができないということは、コミュニケ-ションにおける論理的一致を目指すものではなく、むしろ感情レベルの癒合(癒し)を目指すことにはなっているのではないでしょうか。

はからずとも、感情レベルの癒合(癒し)を目指しているとしたら、それは仲の良い友達とのおしゃべり(無駄口)ということになります。

従って、もともとかみ合うはずのないコミュニケ-ションは、論理的にはいくら時間をかけても決して成立することはなく、つまり原理として話が通じないコミュニケ-ションは存在するということになります。

「話せばわかるなんて大うそ」ということになりますね。

かのようなコミュニケ-ションに出会ったとしたら、その本質の無益性をいち早く洞察し、決して近づかない、つまり距離をとっておくということが、せめてもの棲み分けの共存共生という方法と考えているのですが、さていかがでしょうか。

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9 ジェンダーという言語について

ジェンダー、あるいはジェンダーフリーという言語があります。

これらの言語が、社会の中で果たしてどの程度まで一義的に理解されているといえるのでしょうか。

学術言語は、詩的言語のように多義的であってはならず、厳密な一義性が求められるということになります。

また、学術用語だけではなく、法律用語などについても曖昧さは許されず、厳密な一義性が求められるということになります。

つまり、学術用語や法律用語などの専門領域では、言語の一義性が保障されているということが、コミュニケーションを維持するための前提になっているといえそうです。

そして、このような言語の一義性が保障されている領域が、学問や文化という同じ社会的文脈を共有している共同体の内部ということになるのではないでしょうか。

たとえば、学術用語においては、学会などの社団が言語の一義性を担保している共同体といえるのかもしれません。

また、法律用語では、その法律という制度が適用される地域社会が、言語の一義性を担保する共同体といえるのかもしれません。

つまり、共同体内部における言語の一義性が保障されていなければ、言語の意味を共有(共通理解)することができず、コミュニケーション(交換)に支障を来たすことになってしまうからです。

従って、言語の一義性とは、共同体内部のような限定された環境でのみ成立する特殊なケースといえるのかもしれません。

ところで、ジェンダーやジェンダーフリーという言語が専門用語ではなく、日常生活の中の一般用語として使用される機会も増えてきているように思われます。

では、このジェンダーやジェンダーフリーという言語が、一般社会の中でほんとうに一義的に理解されているといえるのでしょうか。

私たちの世界が、言語によって概念(同一性)に分節することについては、これまでにも記述してきたとおりです。

そして、このような言語(概念)の同一性の機能が、言語学や記号論などの専門性の高い学問の基礎知識を前提としていることについては記述してきたとおりです。

さらに、このような言語を基礎付ける言語学や記号論は、構造主義やポストモダンという現代思想のパラダイム(世界観)を背景にして成立しているということができます。

つまり、ジェンダーという言語は、実際に使用されているよりも、その背景には取り扱いに苦慮するような難解な学問の領域が潜んでいるということになります。

では、かように難解なジェンダーという言語を一般教養として習得し、なおかつその背景にある現代思想を社会の中で適用できるヒトが、果たしてどのくらい社会に存在しているといえるのでしょうか。

おそらく、学術的には一義的とされるジェンダーも、学会を離れた一般社会においてはその一義性が崩れ、多義的で曖昧な言語として使用されているのではないでしょうか。

つまり、一般社会の中では、ジェンダーという言語は意味の幅の少ない一義的な言語というよりも、意味の幅が大きい、誤解を招くおそれのある、曖昧な言語として使用されているといえるのではないでしょうか。

また、ジェンダーが国際社会で使用されている国際言語であるという理由から、世界中のどこにあっても同じ意味で使用されることになる普遍的言語として理解されているのかもしれません。

むろん、普遍的言語とは、国境や民族の枠を超えて使用されている普遍性の高い言語(概念)ということになります。

そして、他に普遍的言語とされているものには、平和や人権、正義などの言語(概念)が挙げられます。

ただ、普遍性を持つとされる言語であっても、実際には地域の文脈を帯びたローカル言語として使用されているというのが一般的といえるのではないでしょうか。

つまり、普遍的言語であっても、その地域や国家の持つ特殊性の影響は避けられず、すべてを捨象することはできないのではないかということです。

これにもかかわらず、ジェンダーの一般化を進めていくということであれば、ジェンダーの意味は具体性を欠くことになり、実体の伴わない曖昧で抽象的な言語になってしまうのかもしれません。

従って、現代社会でジェンダーが普遍的言語として理解されているとしたら、もはやコミュニケーションのためのツール(道具)としてではなく、ジェンダーという価値の共同性の象徴(シンボル)として利用されているということになっているのではないでしょうか。

最後になりました。

最初にも記述したように、脳の持つ「同じ」を求める機能が、ヒトによる言語(概念)の使用を可能にさせているということでした。

これは、ヒトの言語の持つ同一性の機能が、多種多様なヒトの感覚や理解をカテゴリー化(分節化)し、概念化するということになります、

そして、カテゴリー化(分節化)された概念は、それぞれ差異(違い)を伴うことになりますが、この差異を交換するということがコミュニケーションということになります。

もっとも、情報化社会においては、言語の素朴(ナイーブ)な同一性(概念化)だけに充足しているということも可能といえますが、それだけでいれは、元来存在しているはずのヒトの感覚や理解の多様性を見落としたまま、差異(ノイズ)を視界の外に追いやってしまうことになってしまいます。

ヒトは、自分の感覚や理解のみならず、他者の感覚や理解に対しても常に自覚的であることが求められています。

ヒトは、皆違った存在であるという当たり前の事実に、いつでも立ち返ることができる客観性と柔軟性が必要といえるのではないでしょうか。

ヒトは、皆「同じ」ではありません。

ヒトが「同じ」とされるのは、あくまで情報化したヒト、つまり言語や概念の中のヒトだけということになります。

また、ヒトは違った存在としてあるとしても、この事実に気づくためには、ヒトの脳の機能である言語を媒介とし、その同一性(言語)をいったん迂回しなければ、感覚の持つ差異に辿り着くことができないという限界があるようです。

つまり、言語という同一性(情報)を経由することによらなければ、自他の感覚の差異(身体)に気づくことはできず、自分を知ることも、他者を知ることもできないということになってしまいます。

言語は、同一性がその特徴とされており、て情報(脳)は変化しないことが基本となります。

一方、感覚は多様な差異が特徴とされており、自然(身体)は変化することが基本となります。

そして、ヒトの脳と身体が相補的な関係から成り立っているように、人間関係でも脳と身体の関係性、つまり言語とヒトの感覚は相補的な関係になり、いかにこのバランスを適正なものに維持するかが重要なポイントになってくるといえそうです。

先の見えない手探り状態の現代社会を生き延びるためには、言語(情報)と感覚(身体)のいずれか一方だけに偏ることのない、どちらかといえば感覚(身体)を基軸とし、身体が情報がコントロールできるようなバランスが望まれるところではないでしょうか。

あらためて申し上げますが、ヒトは皆「同じ」ではないということです。

ヒトの同一性の物語(情報)を信じて生きるよりも、ヒトは皆「バラバラ」であるというリアルな現実(自然)を受け止めて生きる方が、きっと一望俯瞰できる客観的な視点が確保でき、節度のある生き方が可能となると考えるのですが、さていかがでしょうか。

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10 おわりに~「一億総活躍社会」とは何であるのか

「ジェンダーについて」をご一読いただきましてありがとうございました。

この論考は、今から約10年前に記述したものを、5年前に大幅に加筆修正し、今般(全編)として再掲させていただきました。

加筆修正の内容は、気づいたことを中心に書き加えたものあり、論旨そのものは当時(10年前)とほとんど変わっておりません。

ここ数年で、社会におけるジェンダーにまつわる言説は大きく変わってしまいました。

ジェンダーやジェンダーフリーという言語が使用される機会が少なくなったように思われます。

では、男女の区分を超えてきた(ジェンダーフリー)個人とは、いったいどのような存在なのでしょうか。

おそらく、男女の区分を超えてきた(ジェンダーフリー)個人とは、多種多様な個別の実在ではなく、抽象化された労働力として重要視される経済的存在ではないでしょうか。

そして、言うまでもなく、その延長上には「一億総活躍社会」があるということになります。

振り返れば構造改革以降、日本を巡る社会経済情勢は、大きく様変わりしてしまったように思われます。

ひょっとすると、日本の社会は、これまでに積み上げてきたのもの全てを失ってしまう危機に瀕しているのかもしれません。

まさに未曾有の混迷の時代に突入したといえそうです。

日本という国が、現在どこにあり、これからどこに向っていくのか。

今はじっくりと立ち止まり、日本の社会や経済の構造を観察しながら、しっかりと日本の未来を考える時なのかもしれません。

ところで、本論考のテーマである日本におけるジェンダーは、2001年の男女共同参画社会基本法の施行により実現された、という見方が採られることがあります。

そして、このことの意味するところは、日本におけるジェンダーは経済問題を中心として理解されてきたということになります。

つまり、日本では女性の経済的な自立が、女性の社会的な地位の向上につながり、女性の経済問題(経済的自立)こそがジェンダーの本質と強く信じられていたということになります。

このような見方は、伝統的な日本の近代主義である、経済成長戦略と重なるところが大いにあるといえるのかもしれません。

つまり、高度経済成長期の日本人の多くが、貧しさという経済問題が解決さえできれば、将来の夢や希望が適うものと信じていたことと似た構図にあるといえそうです。

また、1980年代半ば以降の男女雇用機会均等世代の出現と狂乱バブル経済の時期がたまたま重なったことが、ジェンダー=経済問題という図式を多くの日本人に強く刷り込むことになったのかもしれません。

ヒトの自立や成熟は、自らの欲望をコントロールすることによってしか手に入れることが出来ない得がたい到達点にもかかわらず、経済的自由さえ獲得出来れば容易に社会的自立が達成できるものと信じられることになってしまったということです。

そもそも、資本主義とは、なんらかの差異からもたらされる成果(利潤)を、さらなる差異の創出手段である投資に充てることによる経済成長をミッションとする差異の循環システムということができます。

そして、現在における日本の社会経済構造やその仕組みのほとんどは、このような経済成長というミッションの達成のために構築されたものということができるのかもしれません。

たとえば、エネルギー資源などのインフラ整備は、第一義的には国民生活の秩序の確保が目的とされますが、この実現にはエネルギー資源を活用した経済成長の達成が至上命令とされることになります。

そして、1980年代のバブル経済が始まる前の日本経済は、既存のインフラなどの社会経済構造からもたらされる差異(格差)によって、比較的容易に経済成長が達成できた稀有な時代ということができそうです。

そして、1980年代末になると、日本は近代の産業資本主義の循環システムが終焉し、その後にはポスト産業資本主義社会が到来することになります。

ポスト産業資本主義社会とは、差異(格差)のないフラット化した社会で、実体経済から差異の創出が大変難しい社会経済構造にあることが特徴といえそうです。

そして、狂乱のバブル経済は、このような差異(格差)のないフラット化したポスト産業資本主義社会において発生した経済現象ということができます。

バブル経済は、フラット化した社会においては実体のあるモノではなく、ヒトの欲望(幻想)という実体の伴わない差異を利用することで、従来からの経済成長を達成しようとすることになります。

つまり、バブル経済の本質は、モノそのものではなく、モノに係る欲望(幻想)であったのなら、バブル経済はポスト産業資本主義社会だけ限った現象ではなく、ヒトの欲望が存在するところならどこにおいても、バブル経済は発生するということになります。

バブル経済の原理は差異の循環という通常の資本主義原理と同じですが、その差異が実体のある労働力や資源などのモノなどでなく、ヒトの欲望(幻想)という実体のない差異を対象としていることが特徴といえます。

このように欲望には際限がなく、過剰に差異を欲望することが人間の本性であるのなら、資本主義とは極めて人間の本性に近い原理で出来ているといえるのかもしれません。

少し話がそれてしまいました。

1980年代末に日本がポスト産業資本主義社会に入ったと言われて以降、新しいビジネスモデルの構築など、他の先進国と同様の成熟社会にふさわしい新たな差異の創出手段はあったのかもしれません。

しかしながら、日本がポスト産業資本主義社会の経済成長戦略として選んだものは、ヒトの欲望を対象とした金融経済という幻想性をその根拠とする麻薬のようなものであったということになります。

むろん、金融経済に対する欲望はその常習性と熱狂性という点ではギャンブルと似たところがあり、やがて経済的な破綻を迎えるまでの間に、一時的な経済の拡張を見ることがあります。

つまり、根拠のない欲望の連鎖が欲望の対象を幻燈のように拡大視させていただけであり、その欲望の連鎖が途切れることになれば、幻燈の経済も一気に消えてなくなってしまうことになります。

そして、バブル経済の崩壊が日本人に残したものは、おそらく資本主義の持つ幻想性と不確実性への深いトラウマであって、またヒトの抱く欲望への根深い不信感ではなかったのでしょうか。

ヒトの抱く欲望への不信感を内面化させた日本人は、一部の人たちを除けば、もはやフラット化した社会の中に新たな価値の創造という不確実性(偶有性)にアタッチメントする余裕はなく、目先の近代の遺産である既存の社会経済構造を温存をしたまま、その中に埋もれている差異(価値)を掘り起こすという確実性の方向に岐路を見出すしかなかったように思われます。

つまり、先祖がえりともいえるような、近代のパラダイムの徹底(一億総火の玉、一億総活躍社会)ということになります。

そして、このときに掘り起こすべき差異とされた対象が、埋もれたままで未活用な労働力、そして埋蔵されたままで未活用な資産であったということになります。

もはや水の出なくなった既存の井戸をさらに掘り下げることで水を確保するということは、近代のパラダイムの徹底という合理化ではなかったのでしょうか。

このように、バブル経済がもたらしたヒトの抱く欲望への不信感と近代のパラダイムへの根強い執着を日本人に残したまま、2001年に男女共同参画社会基本法が施行されることになりました。

これまでの文脈から判断すれば、2001年に施行された男女共同参画社会基本法が目指したものとは、おそらく埋もれている労働力を経済活動に参画させることであり、また新たに供給された労働力の差異から経済成長を達成しようとする戦略ということではなかったのでしょうか。

経済学的には、新たな生産者の増加が新たな消費者を生み出すという好循環は確かに存在し、またライフスタイルの多様化による消費単位の個人化が消費全体を拡大させることになるのかもしれません。

つまり、既存の近代の社会経済構造を温存したままであっても、そこに廉価な労働力が投入されることになれば、資本主義の原理である差異の循環システムが駆動し、その結果消費を中心とした経済成長が達成できるというシナリオは書けるのかもしれません。

また、2001年に男女共同参画社会基本法が施行された当時は、社会学的なジェンダー=経済問題という図式が未だ根強く残っていた時代であったのではないでしょうか。

つまり、既存の近代の社会経済構造の中でも、女性がその社会構造の中に組み込まれるというだけで、女性の経済問題が解決し、女性の経済的自立が適うと信じられていたということになります。

ただ、このような既存の社会経済構造を前提とする近代のパラダイムは、高度経済成長期のような日本経済が拡大する右肩上がりの時代であるのなら、誰もが差異の循環システムから潤沢な利潤(差異)を享受することができたのかもしれません。

しかしながら、バブル経済崩壊後の日本経済には、もはや差異を創出できるような社会経済構造は残されておらず、資本主義の原理である差異の循環システムも駆動できないまま、経済は右肩下がりの方向となっていくことになります。

従って、男女共同参画社会基本法の施行そのものは、日本の右肩上がりの経済成長を目指す国家戦略であったとしても、経済学的にはもはや国内における差異は飽和状態にあって、さらに経済のグローバル化により差異(成果)の在りかが、国内から国外へと移転してしまっていたということがあります。

国際的な日本経済の地位が後退するのは、1980年代末に東西冷戦構造が崩れた後のこととされています。

つまり、日本は、東西冷戦下にあっては、英米を中心とした反共産主義の経済のブロック陣営の中にあったものの、冷戦構造が崩れれば、もはや日本は英米ブロック陣営の一員である必要性はなくなってしまいます。

つまり、東西冷戦下では、英米ブロック陣営による経済的な庇護にあった日本が、冷戦の終了とともに、英米ブロック陣営から離れて、アジアの一国家として独り立ちを求められることになったわけです。

バブル経済の崩壊という時期と東西冷戦後の日本経済の国際的優位の後退の時期が、奇しくも重なってしまったことが、日本経済の低迷の原因を見えにくくさせてしまったのかもしれません。

つまり、グローバル化する世界経済は、東西冷戦構造崩壊以後、資本主義の論理(差異の循環システム)をさらに徹底させていくことになったわけです。

いわゆる、これがグローバリゼーションといわれるものです。

その結果、日本経済の国際的地位の優位性のみならず、労働生産性の比較優位についても国外の労働力市場に奪われてしまった日本の労働力市場は、必然的に賃金の引き下げが行なわれることになります。

これが、国内の労働力市場における賃金のデフレスパイラルの始まりです。

そして、賃金のデフレスパイラルは、当然消費の低迷を引き起こすことになり、日本経済全体がデフレスパイラルにつながっていくということになります。

2001年、日本経済がデフレスパイラルに陥っているにもかかわらず、男女共同参画社会の実現を目指した女性労働者という低廉な労働力の市場へ参入は、さらに国内の賃金水準を引き下げることになってしまったのかもしれません。

少し話は変わりますが、最近日本のガラパゴス化について言及されるということがあります。

日本のガラパゴス化とは、日本がグローバル化という世界標準とは一線を画し、日本の特殊性を前面に出してながら日本独自の路線を、しかも先駆的に試みていくということのようです。

これは、日本のガラパゴス化は、グローバリゼーションと一線を画し、日本が生き残るひとつの道とされています。

そして、日本のガラパゴス化と一緒に語られることが、江戸時代の社会構造が人口も変わらず、経済成長もしない定常社会であったということであり、このことが理想の社会像として引き合いに出されることになります。

江戸時代の定常社会は、ご存知のように鎖国という特殊な環境を前提にして成立した、極めて異例な社会経済システムであったということになります。

もし、ポスト産業資本主義社会にある成熟した今の日本社会が、文化的な領域のガラパゴス化を進めていくのであれば、日本の独自性を再認識できるチャンスであるといえるのかもしれません。

しかしながら、ガラパゴス化を経済問題で考えるのなら、おそらくポスト産業資本主義にある成熟社会は付加価値の高い差異の創出し続けない限りは、差異(成果)を享受できる立場(側)に立つことが出来ないのではないでしょうか。

つまり、グローバリゼーションの資本主義の原理では、潤沢な利益(差異)を享受できるのは、あくまでも差異の供給を受ける側であって、差異を供給する側ではないということになります。

従って、江戸時代のような定常社会は、経済的には外部からの差異を必要としない自己完結型の社会といえますが、外部との比較優位では、あきらかに差異を供給する(搾取される)側に回らざるを得ない状況にあったということになります。

このことは、幕末の日本(定常社会)が欧米諸国から植民地のターゲットとされたように、差異を前提としないような定常社会が、独立独歩でグローバル化した世界を生き延びることは大変難しいことといえそうです。

現在の日本社会は、経済成長が右肩下がりする人口減少社会であり、日本の経済は生産力のみならず、消費力も自然減する、先の定常社会よりもさらにやっかいな、経済規模の縮小社会という問題に直面しているといえます。

日本が経済規模の縮小という極めて困難な社会環境にありながら、女性の経済的な自立こそがジェンダーの本質であると今も強く信じているとしたら、それは日本社会の前代未聞の事態に、相変わらず近代の遺産であるパラダイムを引きずったまま、これまでの夢や希望を抱き続けるという勘違い(錯誤)ではないでしょうか。

おそらく日本の経済規模が縮小することの意味は、女性のみならず、すべての労働者がひとしく差異(成果)を享受できなくなってしまうということであり、少しだけの差異(成果)を享受しながら、割の合わないより多くの差異(成果)を供出しなければならない(まるで崩壊寸前の国民〇金のようですね。)ということを意味しているのではないでしょうか。

つまり、日本人が既存の社会経済構造を前提とした近代のパラダイムを維持している限り、どのように転んでも、経済規模が縮小するということの意味は、ネガティブなものでしかないということになります。

もし、これからの日本社会のために何かをしたい、また自分の将来のために何をしたいと考えているのなら、今あるパラダイム(社会経済システム)に組み込まれてしまうのではなく、むしろその枠(パラダイム)から少し離れた位置で、別なアプローチ方法を考えてみるということが必要になってくるのではないでしょうか。

今日本の社会で起こっているパラダイム・シフトには、自らで気づくしかないということになります。

今後とも、上記のような経済のグローバル化と日本を取り巻く社会経済状況の悪化は続いていくと思われます。

日本人として、小さくなっていく国を少し離れて静かに見つめながら、「いま自分たちはどこにいるのか」を考えてみることが、私たちにできる喫緊の問題といえるのではないでしょうか。

ご一読ありがとうございました。

(終わり)

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by kokokara-message | 2016-02-10 17:30 | 我流社会学

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かつて沖縄を何年か続けて訪れるという機会がありました。

世界遺産や景勝地などをひととおり巡ったあと、社会科見学(フィールドワーク)のつもりで、戦争史跡を訪れたことがあります。

訪れたのは、沖縄では「ガマ」とよばれている二つの洞窟です。

ふたつのガマは、ともに沖縄本島中央部の西海岸にある読谷村という村落の中にありました。

そもそも沖縄本島は、さんご礁が隆起して出来た島であるため、水流によって侵食された鍾乳洞や洞窟がたいへん多く存在します。

訪れた二つのガマも、このようにして出来た洞窟のひとつであったということです。

自然の造形である二つのガマが、大きく命運を分けることになるのは、第二次世界大戦末期の沖縄戦のことです。

一方のガマでは、その中に避難した住人の多くが「集団自決」をするという悲劇に至りました。

一方のガマでは、その中に避難した住人全員が生存生還するという幸運に恵まれました。

極めて非対称的な結末となっています。

では、いったいどうしてこのような非対称な結果が生じることになったのでしょうか。

「集団自決」については、大江健三郎氏の「沖縄ノート」でも取り上げられています。

ただ、ここで取り上げるガマの「集団自決」は、「沖縄ノート」のものと少し文脈が異なっています。

つまり、「沖縄ノート」での慶良間諸島で起きた「集団自決」は、実際にアメリカ軍と日本軍が戦闘をする最中に、その戦闘に巻き込まれた住民の中で起きた悲劇とされています。

これに対し、私が訪れたガマで起きた「集団自決」は、日本軍がすでにその前線を沖縄本島の南部地区へと後退させたあとの空白地帯で起こった住民同士の悲劇といえます。

つまり、日本軍が読谷村地区からいなくなってしてしまった後に、取り残された住人の間で起きた「集団自決」ということになります。

アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始したのは、この読谷村地区の沿岸部からでした。

そのとき、読谷村地区の住人が避難したのが、ガマといわれるこの洞窟であり、ガマの中には女性と子供、そして高齢者などの非戦闘員が潜んでいたとされています。

そして、「集団自決」が起きたガマの中にも多くの住人が避難していましたが、その中には元日本軍人として中国戦線に参戦した経験を持つ高齢者が含まれていたそうです。

その元軍人が語る戦場における経験は、たいへん残虐なものであり、悲劇なものであったようです。

このため、元軍人が語る戦場における情報は、アメリカ軍についての多くの風評や思い込みを含んだ凶暴凶悪のものになってしまったのかもしれません。

眼前に、アメリカ軍上陸という脅威にさらされ、閉ざされた小さなガマの空間の中で、真贋の分別もできないままネガティブな情報を聞かされれば、おそらく住民の危機管理能力が低下していくのはやむを得ないことではなかったでしょうか。

やがて、ガマの中はパニック状態に陥ります。

その結果としてのヒステリー状態と集団心理がもたらした悲劇は、自分たちが決して失くしてはならないものを失くすという負(ネガティブ)の連鎖反応でした。

そして、この負(ネガティブ)の連鎖反応が、住民同士の「集団自決」という悲劇をもたらすことになったわけです。

一方、幸運にも全員が生存生還することになったガマは、「集団自決」があったガマとは数キロも離れていない近隣地区に存在しています。

もちろん、こちらのガマの中にも非戦闘員である多くの住民が避難していました。

そして、アメリカ軍が近づくという情報が流れる中、このガマでも先と同様なパニック状態に陥り始めたとされています。

どちらのガマにしても、戦場における残虐性や悲劇性、そしてアメリカ軍に関する凶暴凶悪なイメージや風評を聞かされ、その真偽の分別もつかないとなれば、戦場の経験や知識のない非戦闘員が心理的に追い詰められていくのは自然なことであったと思われます。

では、なぜ一方のガマでは「集団自決」という悲劇に至り、一方のガマでは全員が生存生還するという幸運に恵まれることになったのでしょうか。

この非対称的な結果には、ひとつだけ大きな違いがありました。

その違いとは、全員が生存生還したガマの中には、ハワイに移民した経験を持つ住民が避難していたということです。

当時の時代背景からすると、アメリカという敵国から帰国したというだけで、非国民のレッテルを貼られ、日本人の共同性の枠から排除されることもあったのかもしれません。

しかしながら、実際にハワイで暮らした、つまり共同性の枠外にあったゆえの住民の経験が、眼前にアメリカ軍が上陸するという危機において大変役立つことになったわけです。

そのひとつは、ハワイ帰りの住民が、戦場におけるアメリカ軍は規範(ルール)に基づいた行動を採る蓋然性の高い近代的組織であるという認識があったことです。

そして、もうひとつはハワイ在住の経験で身についた英語能力が、身近に迫り来るアメリカ軍と直接コミュニケーションを採るための貴重な手段(ツール)になったということです。

ハワイ帰りの住民が、ガマの中がパニック状態になる直前に採った行動は、自らがガマを出でて、迫りくるアメリカ軍と直接交渉をするということでした。

つまり、アメリカ軍に対し、「ガマの中には日本軍は隠れておらず、非戦闘員の一般住民だけが避難している」という情報を、直接英語で伝達するということです。

一般論としても、問題解決をする上で、風評ではない実際の経験に基づいた知識と情報が、有効で適切な判断をもたらすことは容易に理解できることではないでしょうか。

また、言語が他者との意思疎通を図るための、基本的なコミュニケーションの手段(ツール)であることはいうまでもありません。

このように、日常ではあたり前とされている判断や行為が、生死を分ける危機の局面においても、また同じように機能することになったということです。

その結果、ハワイ帰りの住民がいたガマでは、いったんはアメリカ軍捕虜となりながらも、結果として全員が生存生還できる幸運に恵まれることになったわけです。

しかしながら、同じ時間、同じ状況で、しかも数キロしか離れていない近隣にありながら、もう一方のガマでは児童を中心に多くの死者が出るという悲劇に至りました。

「集団自決」のあったこのガマ(「チビチリガマ」と呼ばれています。)は、今でも近くから見学はできますが、遺族への配慮からガマの中に立ち入ることはできません。

また、このチビチリガマは広い農道に面し交通の便が良いため、トイレや駐車場の整備がなされて、県内外から多くの見学者が訪れる沖縄戦跡のひとつになっています。

一方全員が生存生還できたガマ(「シムクガマ」と呼ばれています。)はというと、今では地元の人もあまり訪れることがなく、県外からの見学者はとても稀有な存在であるようです。

私が、初めてシムクガマを訪れたときは、まず読谷村内にある「道の駅」でガマの所在を尋ねることから始めました。

しかしながら、残念なことに「道の駅」にはシムクガマを訪れたという経験を持つ方はいなく、伝聞程度の知識を持っておられるだけでした。

このため、「道の駅」でいただいた読谷村全体の地図を頼りに、シムクガマが所在するとされる近隣まで向かうことにしました。

地図に記された集落のはずれまでやって来ると、幸運にもゲートボールを終えたばかりと思われる高齢男性に出会うことができました。

そして、この高齢男性にシムクガマの所在について尋ねたところ、迷うことのない極めて明確な答えが返ってきました。

地元では、今でもしっかりとシムクガマの存在は伝聞されていたようです。

その高齢男性は、目の前に広がる鬱蒼とした亜熱帯ジャングルを指差し、私が進むべき方向を示してくれました。

そして、亜熱帯ジャングルの中に延びた道を進んでいくと、やがて穏やかな小川の流れが目の中に飛び込んできました。

その小川の流れは大きなガマ(洞窟)の中へと続いていました。

鬱蒼とした亜熱帯ジャングルの中にぽっかりと空いたシムクガマの入り口は、陽光がこぼれおちる、とても明るく澄んだ場所という印象でした。

シムクガマの中はとても広く、奥までずっと空間が続いているかのようです。

資料によれば一度に千人ほどが、このシムクガマの中に避難することができたということです。

そして、このシムクガマの入り口付近には、全員生存生還への岐路を切り開いたハワイ帰りの住民を顕彰する碑(下の写真)が、ひっそりと地元の人たちによって建立されていました。

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これで私の二つのガマを巡るフィールドワークは終りとなります。

このふたつの非対称な結果を生んだガマの存在は、いったい私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。

このような結果の非対称性は、おそらく現代社会においても見られることであるのかもしれません。

このような非対称性は、おそらく時代や空間を超えた普遍的な人間の在り方に対する問題提起であるのかもしれません。

つまり、人間に対する洞察ということです。

まず一つ目は、いつ、いかなる状況にあっても、自分を疑うことができること、つまり自分の外部に視座を設定できる自己意識の存在が必要になるということです。

おそらく、このような自己意識の視点が、風評や思い込みという共同幻想の呪縛から自分自身を開放してくれるものであり、結果として自分だけではなく他者の命も大切できることになるのかもしれません。

そして、風評や思い込みのような危うさで臆断しない態度こそが、危うさの中でも確かな情報だけを取捨選択できる洞察力を養うものであると考えます。

そして二つ目は、自分には何の情報もなく、何が正しいかも判断できない状況にあったとしても、結果として正しい判断を下さなければならない事態に遭遇することがあるということです。

つまり、自分の意図とは関係なく、突然敵であるのか見方であるのか、右であるのか左であるのか、その究極として生であるのか死であるのかという二項対立の図式に放置されてしまうことがあるということです。

そして、この二項対立の選択があまりにも突然で、その同調圧力(プレッシャー)が強いとなると、自分が二項対立の図式に陥っていることにさえ気づかなくなってしまうことがあるのかもしれません。

集団心理や大衆心理からの同調圧力がそうではないでしょうか。

しかしながら、どのような同調圧力(プレッシャー)を受けたとしても、おそらくほんとうに必要な判断は、切迫して二項対立のいずれかを選択することではないように思われます。

むしろ、二項対立を超えたところに一旦自らの判断を留保する(不必要に動かない)こと、つまり自分自身を宙吊りするような視座の保持が、おそらく結果的として自他を生かす道につながるのではないかということです。

つまり、切迫した目先の風景だけではない、もっと射程の長い時間感覚(時間性)と、奥行きのある空間認識(空間性)の視点が必要とされるということです。

そして、このような時間性(今は答えが出ない)と空間性(この場所では答えが出ない)を担保するのが、先にも示した「自己意識」という視点ではないかと考えます。

少し言い方を替えるなら、自分と他者がともに生き延びるためには、どのような抑圧的状況にあったとしても、自らは決して抑圧する側の「似姿」だけは採ってはならないということです。

つまり、抑圧する側とは距離を採って、たとえ今自分が抑圧されている側にあったとしても、さらなる弱者に対する抑圧者になってはならないということです。

負(ネガティブ)の連鎖である「抑圧の移譲」を断ち切ることが、結果として自他がともに生き延びる、正(ポジティブ)の連鎖(循環構造)を駆動させることになると考えます。

言うまでもなく、人は、いつでも、どこでも、強者であり続けるということはできません。

したがって、自分や他者がたとえ弱者の立場になったとしても、ありのまま生き延びることができることが、「近代」と言う時代に用意された人間の普遍的な在り方ではないかと考えます。

これは、私たちが今を生き延びるために決して忘れてはならない、いかなる論理をも超越した「生き延びるための思想」ではないかと考えているのですが、さて皆様はいかがお考えになるでしょうか。

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by kokokara-message | 2015-04-01 21:49 | 我流社会学

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かつて沖縄を何年か続けて訪れるという機会がありました。

世界遺産や景勝地などをひととおり巡ったあと、社会科見学(フィールドワーク)のつもりで、戦争史跡を訪れたことがあります。

訪れたのは、沖縄では「ガマ」とよばれている二つの洞窟です。

ふたつのガマは、ともに沖縄本島中央部の西海岸にある読谷村という村落の中にありました。

そもそも沖縄本島は、さんご礁が隆起して出来た島であるため、水流によって侵食された鍾乳洞や洞窟がたいへん多く存在します。

訪れた二つのガマも、このようにして出来た洞窟のひとつであったということです。

自然の造形である二つのガマが、大きく命運を分けることになるのは、第二次世界大戦末期の沖縄戦のことです。

一方のガマでは、その中に避難した住人の多くが「集団自決」をするという悲劇に至りました。

一方のガマでは、その中に避難した住人全員が生存生還するという幸運に恵まれました。

極めて非対称的な結末となっています。

では、いったいどうしてこのような非対称な結果が生じることになったのでしょうか。

「集団自決」については、大江健三郎氏の「沖縄ノート」でも取り上げられています。

ただ、ここで取り上げるガマの「集団自決」は、「沖縄ノート」のものと少し文脈が異なっています。

つまり、「沖縄ノート」での慶良間諸島で起きた「集団自決」は、実際にアメリカ軍と日本軍が戦闘をする最中に、その戦闘に巻き込まれた住民の中で起きた悲劇とされています。

これに対し、私が訪れたガマで起きた「集団自決」は、日本軍がすでにその前線を沖縄本島の南部地区へと後退させたあとの空白地帯で起こった住民同士の悲劇といえます。

つまり、日本軍が読谷村地区からいなくなってしてしまった後に、取り残された住人の間で起きた「集団自決」ということになります。

アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始したのは、この読谷村地区の沿岸部からでした。

そのとき、読谷村地区の住人が避難したのが、ガマといわれるこの洞窟であり、ガマの中には女性と子供、そして高齢者などの非戦闘員が潜んでいたとされています。

そして、「集団自決」が起きたガマの中にも多くの住人が避難していましたが、その中には元日本軍人として中国戦線に参戦した経験を持つ高齢者が含まれていたそうです。

その元軍人が語る戦場における経験は、たいへん残虐なものであり、悲劇なものであったようです。

さらに、元軍人は、アメリカ軍の凶暴凶悪さについての風評や思い込みを含んだ情報をもたらすことになったのかもしれません。

アメリカ軍上陸という脅威にさらされ、閉ざされたガマという空間の中で、真贋の分別もできないネガティブな話を聞かされれば、住民の持つ危機管理能力が低下していくこともやむを得ないことかもしれません。

やがて、ガマの中はパニック状態に陥ります。

その結果、ヒステリー状態と集団心理がもたらした悲劇は、自分たちが決して失くしてはならないものを失くすという負(ネガティブ)の連鎖反応ということでした。

この負(ネガティブ)の連鎖反応が、「集団自決」という悲劇をもたらすことになります。

一方、幸運にも全員が生存生還することになったガマは、「集団自決」があったガマとは数キロも離れていない近隣地区に存在しています。

もちろん、こちらのガマの中にも非戦闘員である多くの住民が避難していました。

そして、アメリカ軍が近づくという情報が流れる中、このガマでも同様なパニックが起こり始めたといわれています。

どちらのガマにしても、戦場における残虐性や悲劇性、そしてアメリカ軍に関する凶暴凶悪なイメージや風評を聞かされ、その信憑も分別できないとなれば、経験や知識のない非戦闘員が心理的に追い詰められていくことはごく自然なことであったのかもしれません。

では、なぜ一方のガマでは「集団自決」という悲劇に至り、一方のガマでは全員が生存生還するという幸運に恵まれることになったのでしょうか。

この非対称的な結果には、ひとつだけ大きな違いがあります。

その違いとは、全員が生存生還したガマの中には、ハワイに移民した経験を持つ住民が避難していたということです。

当時の時代背景からすると、アメリカという敵国から帰国したというだけで、非国民というレッテルを貼られ、日本人という共同性から排除されることが起こったかもしれません。

しかしながら、実際にハワイで暮らした住民の経験は、アメリカ軍が上陸するという高度な危機管理が求められる局面において、大変役立つということになります。

ひとつは、ハワイから帰国した住民には、アメリカ軍が戦場において規範(ルール)に基づいた行動を採る可能性の高い近代的組織という認識があったということです。

また、ハワイ在住の経験で身についた言語の英語が、身近に迫り来るアメリカ軍と直接コミュニケーションを採るための貴重な手段になったということです。

ハワイ帰りの住民が、ガマの中がパニック状態になる前に採った行動は、自らガマを出て、アメリカ軍と直接交渉をするということでした。

つまり、アメリカ軍に対し、「ガマの中には日本軍が隠れておらず、非戦闘員の一般住民だけが避難している」という情報を、直接英語で伝達するということです。

一般論としても、風評ではない実際の経験に基づいた知識と情報が、有効で適切な判断をもたらすことは経験上も理解できることではないでしょうか。

また、言語が他者との意思疎通を図るための、基本的なコミュニケーション能力であることはいうまでもないことです。

このように、日常ではあたり前とされることが、危機の局面においても、同じように機能することになったということです。

結果として、多くの住民の命が悲劇から救われることになりました。

同じ状況、同じ時間、数キロも離れていない場所にありながら、一方のガマでは児童を中心とした多くの死者を出してしまう結果となりました。

一方では、いったんはアメリカ軍捕虜にされながらも、結局全員が生存生還できるという幸運に恵まれることになったということです。

「集団自決」のあったガマは、現在でもすぐ近くで見学することができますが、遺族への配慮からガマの中に入るということはできません。

ただ、このガマは比較的広い農道に面し交通の便が良いことから、公共施設が整備され、県内県外から多くの人が訪れる重要な沖縄戦跡になっている模様です。

一方全員が生存生還したガマの方はというと、今では地元の人も訪れることが少なくなってしまい、県外からの訪問となるととても稀有な存在になってしまったようです。

私がこのガマを訪れたときは、まず読谷村にある「道の駅」でガマの所在にちて尋ねました。

しかしながら、「道の駅」では、実際にガマを訪れた経験を持つ方はいなく、伝聞程度の知識を持っているだけの不案内な様子でした。

このため、「道の駅」でもらった大雑把な地図を参考にして、とりあえずガマの近隣あたりまで向かうことにしました。

地図を見ながら村落のはずれまで来ると、ゲートボールをしているおじいさんにたまたま出会うことができ、ガマの所在について尋ねたところ、すぐに答えは返ってきました。

地元ではガマの存在はしっかりと伝えられていたようで、おじいさんは、前方に広がる深い亜熱帯ジャングルを指差しながら、私が進んでいく方向を示してくれました。

案内のとおり、亜熱帯ジャングルを少し分け入ると小川が流れており、その流れは大きな洞窟の中へと続いていました。

鬱蒼とした亜熱帯ジャングルにありながらも、陽の光がこぼれる明るく乾いた雰囲気のする場所に、ガマの入り口がありました。

ガマの中はずっと奥の方まで広がっている様子で、資料によれば一度に千人ほどがこのガマに避難することができたということです。

そして、このガマの入り口付近には、地元の人たちが全員生存生還への岐路を切り開いたハワイ帰りの住民を顕彰する碑が、ひっそりとですが建てられていました。
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ここで私のフィールドワークは終りとなります。

このふたつの非対称な結果を生んだガマを訪れた経験は、私に何を語ろうとしているのでしょうか。

このような非対称性は、現代社会においても見られることであるのかもしれません。

この非対称性は、時代を超えた普遍的な人間のあり方を問題提起することになっているのではないでしょうか。

まず一つ目は、いつでも、どのような時であっても、自分を疑ってみることができる、つまり自分の外部に視点を設置することが必要になるのではないでしょうか。

このような視点が、風評や思い込みという共同幻想の呪縛から自分を開放することになり、結果として、自分のみならず他者の命も大切にすることにつながるのではないでしょうか。

そして、風評や思い込みという危うさだけで臆断しない態度が、やがて確かな情報を取捨選択できる生きる力として洞察力を養うことになるのではないでしょうか。

そして二つ目は、自分には何の情報もなく、何が正しいかも判明しない状況であったとしても、結果として正しい判断を下さなければならない事態に遭遇することがあるということです。

自分の意図とは関係なく、敵か見方か、右か左か、生か死かという二項対立の図式に置かれてしまうことがあるように思われます。

そして、あまりにも選択のプレッシャーが強くなると、自分がその二項対立の図式に陥っていることにも気づかなくなるという事態に直面することになってしまいます。

集団心理や大衆心理の持つ特徴ということができます。

しかしながら、このような場面において、ほんとうに必要な判断とは、おそらく二項対立のいずれか一方を選択するということではないのかもしれません。

むしろ、二項対立を超えたところで自らの判断を留保できる、ある意味宙吊りのような視点を持つことが、結果的として自他が生き延びるために欠かすことのできない判断を提供してくれることになるのかもしれません。

つまり、目先だけのことではない、もっと射程の長い時間感覚と、奥行きのある空間認識が必要になるということです。

そして、このような時間性(今は答えが出ない)と空間性(この場所では答えが出ない)を担保してくれるものが、自己意識と呼ばれる視点ではないでしょうか。

このような自己意識を保持できていることが、どのような抑圧的状況にあっても、自分と他者が生き延びるために必要な視点(支点)を与えてくれるものであると考えます。

おそらく、自己意識という視点から俯瞰すれば、自分と他者が生き延びるために必要なことは、抑圧する者と決して似姿になってはならないということではないでしょうか。

つまり、抑圧されている者が、さらなる弱者に対し抑圧の脅威を移譲するという「抑圧の移譲」を断ち切ることが、結果として自らが生き延びるために必要とする正(ポジティブ)の循環構造になっているということです。

自分や他者が、たとえ弱者のままであったとしても、ありのまま生き延びることができる構造にあることが、近代を生きる人間にとっての普遍的なあり方といえるのかもしれません。

このことは、「近代」を生きる私たちが決して忘れてはならない「生き延びるための思想」と考えているのですが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。
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by kokokara-message | 2011-06-23 22:54 | 我流社会学

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【おわりに】
「ジェンダーについて」をご一読いただきましてありがとうございました。

この論考は、今から約5年前に記述したものを、今般大幅に加筆修正し掲載しております。

加筆修正の内容は、それ以後に気づいたことを中心に書き加えたものあり、論旨そのものは当時とほとんど変わっておりません。

この5年間で、社会におけるジェンダーにまつわる言説は大きく変わってしまいました。

そして、日本を巡る社会経済情勢も大きく変わってしまったように思われます。

むろん、この5年間で、日本経済が好転してたという実感が持てないことはいうまでもありません。

おそらく、日本社会は、これまでに経験したことのない未曾有の混迷の時代に突入したのかもしれません。

日本という国が、現在どこにあり、これからどこに向っていくのか。

今はじっくりと立ち止まり、日本の社会や経済の構造を観察しながら、しっかりと日本の未来を考えるときではないでしょうか。

日本におけるジェンダーは、男女共同参画社会基本法の施行により実現された、という見方が採られることがあります。

そして、このことの意味するところは、日本におけるジェンダーは経済問題を中心として理解されてきたということになります。

つまり、日本では女性の経済的な自立が、女性の社会的な地位の向上につながり、女性の経済問題こそがジェンダーの本質であると強く信じられていたということになります。

このような見方は、伝統的な日本の経済成長戦略と重なるところがあるといえるのかもしれません。

つまり、高度経済成長期の日本人の多くが、貧しさという経済問題が解決されれば、将来の夢や希望が適うものと信じていたことと似た構図にあるといえそうです。

また、1980年代半ば以降、男女雇用機会均等世代の出現と狂乱のバブル経済が始まった時期が重なったことが、ジェンダー=経済問題という関係性を多くの日本人に信じ込ませることになったといえそうです。

ヒトの自立や成熟は、自らの欲望をコントロールすることによりやっと手に入る、得がたい到達点にもかかわらず、経済的自由が獲得できれば容易に社会的自立が達成できるものと信じられることになったということです。

そもそも、資本主義とは、なんらかの差異からもたらされる成果(利潤)を、さらなる差異の創出手段である投資に充てることによる経済成長をミッションとした差異の循環システムということができます。

そして、現在における日本の社会経済構造やその仕組みのほとんどは、このような経済成長というミッションの達成のために構築されたものということができるのかもしれません。

たとえば、エネルギー資源などのインフラ整備は、第一義的には国民生活の秩序の確保が目的とされますが、この実現にはエネルギー資源を活用した経済成長の達成が至上命令とされることになります。

そして、1980年代のバブル経済が始まる前の日本経済では、既存のインフラなどの社会経済構造からもたらされる差異(格差)により、比較的容易に経済成長が達成できた恵まれた時代ということができそうです。

そして、1980年代末になると、日本は近代の産業資本主義というシステムが終焉し、その後にはポスト産業資本主義社会が到来することになります。

ポスト産業資本主義社会とは、差異(格差)のないフラット化した社会のことであり、実体のある差異の創出が大変難しい社会経済構造にあるということが特徴といえそうです。

そして、狂乱のバブル経済は、このような差異(格差)のないフラット化したポスト産業資本主義社会において発生した経済現象ということができます。

バブル経済は、フラット化した社会においては実体のあるモノではなく、ヒトの欲望(幻想)という実体の伴わない差異を利用することで、従来からの経済成長を達成しようとすることになります。

つまり、バブル経済の本質は、モノそのものではなく、モノに係る欲望(幻想)であったということなら、バブル経済はポスト産業資本主義社会だけ限った現象ではなく、ヒトの欲望が存在するところならどこにおいても、バブル経済は発生するということになります。

バブル経済の原理は差異の循環という通常の資本主義と同じものですが、その差異が実体のある労働力や資源などのモノなどでなく、ヒトの欲望(幻想)という実体のない差異を対象としていることが特徴といえます。

このように欲望には際限がなく、過剰に差異を欲望することが人間の本性であるのなら、資本主義は極めて人間の本性に近い原理からできているといえるのかもしれません。

少し話がそれてしまいました。

1980年代末に日本の社会がポスト産業資本主義社会に入ったとされてから、新しいビジネスモデルの構築など、他の先進国と同様に成熟社会にふさわしい新たな差異の創出手段はあったといえるのかもしれません。

しかしながら、日本がポスト産業資本主義社会の経済成長戦略に選んだものは、ヒトの欲望を対象とした金融経済という幻想性をその根拠とする麻薬のようなものであったということになります。

むろん、金融経済に対する欲望はその常習性と熱狂性という点ではギャンブルと似たところがあり、やがて経済的に破綻するまでの間には一時的な経済の拡張を見ることがあります。

つまり、根拠のない欲望の連鎖が欲望の対象を幻燈のように拡大視させていただけであり、その欲望の連鎖が途切れることになれば、幻燈の経済も一気に消えてなくなってしまうことになります。

そして、バブル経済の崩壊が日本人に残したものは、おそらく資本主義の持つ幻想性と不確実性への深いトラウマであり、またヒトの抱く欲望への根深い不信感ではなかったのでしょうか。

ヒトへの不信感を内面化させた日本人は、もはやフラット化した社会の新たな価値の創造という不確実性(偶有性)にアタッチメントするようなゆとりはなく、目先の近代の遺産ともいえる既存の社会経済構造は温存をしたまま、その中に埋もれている差異(価値)を掘り起こすという確実性に岐路を見出すということになります。

つまり、先祖がえりともいえるような、近代のパラダイムの徹底ということです。

そして、このときに掘り起こすべき差異とされた対象が、埋もれたままで未活用な労働力であり、さらに埋蔵されたままで未活用な資産であったということになります。

もはや水の出なくなった既存の井戸をさらに掘り下げるということで水を確保することは、の近代パラダイムの徹底という合理化ではなかったのでしょうか。

このように、バブル経済がもたらしたヒトに対する不信感と近代のパラダイムへの根強い執着を日本人に残したまま、2001年に男女共同参画社会基本法が施行されることになりました。

これまでの文脈から判断すれば、2001年に施行された男女共同参画社会基本法が目指したものとは、おそらく埋もれている労働力を経済活動に参画させることであり、また新たに供給された労働力の差異から経済成長を達成しようとする戦略ではなかったのでしょうか。

経済学的には、新たな生産者の増加が新たな消費者を生み出すという好循環は存在し、またライフスタイルの多様化による消費単位の個人化が消費全体を拡大させることにはなるのかもしれません。

つまり、既存の近代の社会経済構造を温存したままであっても、そこに廉価な労働力が投入されることになれば、資本主義の原理である差異の循環システムが駆動し、その結果消費を中心とした経済成長が達成できるというシナリオを書くことはできるのかもしれません。

また、2001年に男女共同参画社会基本法が施行された当時は、社会学的なジェンダー=経済問題という図式が根強く残っていた時代であったのではないでしょうか。

つまり、既存の近代の社会経済構造の中であっても、女性がその社会構造の中に組み込まれるだけで、女性の経済問題が解決し、女性の経済的自立が適うものと信じられていたということになります。

ただ、このような既存の社会経済構造を前提とする近代のパラダイムも、高度経済成長期のような日本経済が拡大する右肩上がりの時代であるのなら、誰もが差異の循環システムから潤沢な利潤(差異)を享受できたのかもしれません。

しかしながら、バブル経済崩壊後の日本経済には、もはや差異を創出できるような社会経済構造は残されておらず、資本主義の原理である差異の循環システムも駆動できないまま、経済は右肩下がりの方向となっていくことになります。

従って、男女共同参画社会基本法の施行そのものは、日本の右肩上がりの経済成長を目指す国家戦略であったとしても、経済学的にはもはや国内における差異は飽和状態にあり、さらにグローバル化による差異(成果)の在りかが、国内から国外へと移転してしまっていたということがあります。

国際的な日本経済の地位が後退するのは、1980年代末に東西冷戦構造が崩れた後のこととされています。

つまり、日本は、東西冷戦下にあっては、英米を中心とした反共産主義の経済のブロック陣営の中にあったものの、冷戦構造が崩れれば、もはや日本は英米ブロック陣営の一員である必要性はなくなってしまいます。

つまり、東西冷戦下では、英米ブロック陣営による経済的な庇護にあった日本が、冷戦の終了とともに、英米ブロック陣営から離れて、アジアの一国家として独り立ちを求められることになったわけです。

バブル経済の崩壊という時期と東西冷戦後の日本経済の国際的優位の後退の時期が、奇しくも重なってしまったことが、日本経済の低迷の原因を見えにくくさせてしまったのかもしれません。

つまり、グローバル化しする世界経済は、東西冷戦構造崩壊以後には、資本主義の論理をさらに徹底させていくということになります。

いわゆる、これがグローバリゼーションといわれるものです。

その結果、日本経済の国際的地位の優位性のみならず、労働生産性の比較優位についても国外の労働力市場に奪われてしまった日本の労働力市場は、必然的に賃金の引き下げが行なわれることになります。

これが、国内の労働力市場における賃金のデフレスパイラルの始まりです。

そして、賃金のデフレスパイラルは、当然消費の低迷を引き起こすことになり、日本経済全体がデフレスパイラルにつながっていくということになります。

2001年、日本経済がデフレスパイラルに陥っているにもかかわらず、男女共同参画社会の実現を目指した女性労働者という低廉な労働力の市場へ参入は、さらに国内の賃金水準を引き下げることになってしまったといえるのではないでしょうか。

少し話は変わりますが、最近日本のガラパゴス化について言及されるということがあります。

日本のガラパゴス化とは、日本がグローバル化という世界標準とは一線を画し、日本の特殊性を前面に出してながら日本独自の路線を、しかも先駆的に試みていくということのようです。

これは、日本のガラパゴス化は、グローバリゼーションと一線を画し、日本が生き残るひとつの道とされています。

そして、日本のガラパゴス化と一緒に語られることが、江戸時代の社会構造が人口も変わらず、経済成長もしない定常社会であったということであり、このことが理想の社会像として引き合いに出されることになります。

江戸時代の定常社会は、ご存知のように鎖国という特殊な環境を前提にして成立した、極めて異例な社会経済システムであったということになります。

もし、ポスト産業資本主義社会にある成熟した今の日本社会が、文化的な領域のガラパゴス化を進めていくのであれば、日本の独自性を再認識できるチャンスであるといえるのかもしれません。

しかしながら、ガラパゴス化を経済問題で考えるのなら、おそらくポスト産業資本主義にある成熟社会は付加価値の高い差異の創出をしない限りは、差異(成果)を享受できる立場に立つことできないということになるのではないでしょうか。

つまり、グローバリゼーションの資本主義の原理では潤沢な利益(差異)を享受できるのは、あくまでも差異の供給を受ける側であり、差異を供給する側ではないということになります。

従って、江戸時代のような定常社会は、経済的な外部からの差異を必要としない自己完結型の社会といえますが、外部との比較優位では、あきらかに差異を供給する(搾取される)側に回らざるを得ない状況にあるということになります。

このことは、幕末の日本(定常社会)が欧米諸国から植民地のターゲットとされたように、差異を前提としない定常社会が、独立独歩でグローバル化した世界を生き延びることは大変難しいことといえるのかもしれません。

現在の日本社会は、経済成長が右肩下がりする人口減少社会であり、日本の経済は生産力のみならず、消費力も自然減する、先の定常社会よりもさらにやっかいな、経済規模の縮小社会という問題に直面しているといえます。

日本が経済規模の縮小という極めて困難な社会環境にありながら、女性の経済的な自立こそがジェンダーの本質であると今も強く信じているとしたら、それは日本社会の前代未聞の事態に、相変わらず近代のパラダイムを引きずったまま、従来の夢や希望を抱くという錯誤ではないでしょうか。

おそらく日本の経済規模が縮小することの意味は、女性のみならず、すべての労働者がひとしく差異(成果)を享受できなくなってしまうことであり、少しだけの差異(成果)を享受しながら、割の合わないより多くの差異(成果)を供出しなければならない(まるで年金制度のようですね。)ということを意味しているのではないでしょうか。

つまり、日本人が既存の社会経済構造を前提とした近代のパラダイムを維持している限り、どのように転んでも、経済規模が縮小するということの意味は、ネガティブなものでしかないということになります。

もし、これからの日本社会のために何かをしたい、また自分の将来のために何をしたいと考えているのなら、今あるパラダイム(経済システム)に組み込まれてしまうのではなく、むしろその枠(パラダイム)から少し離れた位置で、別なアプローチ方法を考えてみるということが必要ではないでしょうか。

今日本の社会で起こっているパラダイム・シフトには、自らが気づくしかないということです。

今後とも、このような経済のグローバル化と日本を取り巻く社会経済状況の悪化は続いていくと思われます。

日本人として、小さくなっていく国を少し離れて静かに見つめながら、「自分たちがいまどこにいるのか」を考えてみることが、私たちにできる喫緊の問題といえるのではないでしょうか。

ご一読ありがとうございました。

(終わり)

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by kokokara-message | 2011-04-17 08:21 | 我流社会学

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9 ジェンダーという言語について

ジェンダー、あるいはジェンダーフリーという言語があります。

これらの言語が、社会の中で果たしてどの程度まで一義的に理解されているといえるのでしょうか。

学術言語は、詩的言語のように多義的であってはならず、厳密な一義性が求められるということになります。

また、学術用語だけではなく、法律用語などについても曖昧さは許されず、厳密な一義性が求められるということになります。

つまり、学術用語や法律用語などの専門領域では、言語の一義性が保障されているということが、コミュニケーションを維持するための前提になっているといえそうです。

そして、このような言語の一義性が保障されている領域が、学問や文化という同じ社会的文脈を共有している共同体の内部ということになるのではないでしょうか。

たとえば、学術用語においては、学会などの社団が言語の一義性を担保している共同体といえるのかもしれません。

また、法律用語では、その法律という制度が適用される地域社会が、言語の一義性を担保する共同体といえるのかもしれません。

つまり、共同体内部における言語の一義性が保障されていなければ、言語の意味を共有(共通理解)することができず、コミュニケーション(交換)に支障を来たすことになってしまうからです。

従って、言語の一義性とは、共同体内部のような限定された環境でのみ成立する特殊なケースといえるのかもしれません。

ところで、ジェンダーやジェンダーフリーという言語が専門用語ではなく、日常生活の中の一般用語として使用される機会も増えてきているように思われます。

では、このジェンダーやジェンダーフリーという言語が、一般社会の中でほんとうに一義的に理解されているといえるのでしょうか。

私たちの世界が、言語によって概念(同一性)に分節することについては、これまでにも記述してきたとおりです。

そして、このような言語(概念)の同一性の機能が、言語学や記号論などの専門性の高い学問の基礎知識を前提としていることについては記述してきたとおりです。

さらに、このような言語を基礎付ける言語学や記号論は、構造主義やポストモダンという現代思想のパラダイム(世界観)を背景にして成立しているということができます。

つまり、ジェンダーという言語は、実際に使用されているよりも、その背景には取り扱いに苦慮するような難解な学問の領域が潜んでいるということになります。

では、かように難解なジェンダーという言語を一般教養として習得し、なおかつその背景にある現代思想を社会の中で適用できるヒトが、果たしてどのくらい社会に存在しているといえるのでしょうか。

おそらく、学術的には一義的とされるジェンダーも、学会を離れた一般社会においてはその一義性が崩れ、多義的で曖昧な言語として使用されているのではないでしょうか。

つまり、一般社会の中では、ジェンダーという言語は意味の幅の少ない一義的な言語というよりも、意味の幅が大きい、誤解を招くおそれのある、曖昧な言語として使用されているといえるのではないでしょうか。

また、ジェンダーが国際社会で使用されている国際言語であるという理由から、世界中のどこにあっても同じ意味で使用されることになる普遍的言語として理解されているのかもしれません。

むろん、普遍的言語とは、国境や民族の枠を超えて使用されている普遍性の高い言語(概念)ということになります。

そして、他に普遍的言語とされているものには、平和や人権、正義などの言語(概念)が挙げられます。

ただ、普遍性を持つとされる言語であっても、実際には地域の文脈を帯びたローカル言語として使用されているというのが一般的といえるのではないでしょうか。

つまり、普遍的言語であっても、その地域や国家の持つ特殊性の影響は避けられず、すべてを捨象することはできないのではないかということです。

これにもかかわらず、ジェンダーの一般化を進めていくということであれば、ジェンダーの意味は具体性を欠くことになり、実体の伴わない曖昧で抽象的な言語になってしまうのかもしれません。

従って、現代社会でジェンダーが普遍的言語として理解されているとしたら、もはやコミュニケーションのためのツール(道具)としてではなく、ジェンダーという価値の共同性の象徴(シンボル)として利用されているということになっているのではないでしょうか。

最後になりました。

最初にも記述したように、脳の持つ「同じ」を求める機能が、ヒトによる言語(概念)の使用を可能にさせているということでした。

これは、ヒトの言語の持つ同一性の機能が、多種多様なヒトの感覚や理解をカテゴリー化(分節化)し、概念化するということになります、

そして、カテゴリー化(分節化)された概念は、それぞれ差異(違い)を伴うことになりますが、この差異を交換するということがコミュニケーションということになります。

もっとも、情報化社会においては、言語の素朴(ナイーブ)な同一性(概念化)だけに充足しているということも可能といえますが、それだけでいれは、元来存在しているはずのヒトの感覚や理解の多様性を見落としたまま、差異(ノイズ)を視界の外に追いやってしまうことになってしまいます。

ヒトは、自分の感覚や理解のみならず、他者の感覚や理解に対しても常に自覚的であることが求められています。

ヒトは、皆違った存在であるという当たり前の事実に、いつでも立ち返ることができる客観性と柔軟性が必要といえるのではないでしょうか。

ヒトは、皆「同じ」ではありません。

ヒトが「同じ」とされるのは、あくまで情報化したヒト、つまり言語や概念の中のヒトだけということになります。

また、ヒトは違った存在としてあるとしても、この事実に気づくためには、ヒトの脳の機能である言語を媒介とし、その同一性(言語)をいったん迂回しなければ、感覚の持つ差異に辿り着くことができないという限界があるようです。

つまり、言語という同一性(情報)を経由することによらなければ、自他の感覚の差異(身体)に気づくことはできず、自分を知ることも、他者を知ることもできないということになってしまいます。

言語は、同一性がその特徴とされており、て情報(脳)は変化しないことが基本となります。

一方、感覚は多様な差異が特徴とされており、自然(身体)は変化することが基本となります。

そして、ヒトの脳と身体が相補的な関係から成り立っているように、人間関係でも脳と身体の関係性、つまり言語とヒトの感覚は相補的な関係になり、いかにこのバランスを適正なものに維持するかが重要なポイントになってくるといえそうです。

先の見えない手探り状態の現代社会を生き延びるためには、言語(情報)と感覚(身体)のいずれか一方だけに偏ることのない、どちらかといえば感覚(身体)を基軸とし、身体が情報がコントロールできるようなバランスが望まれるところではないでしょうか。

あらためて申し上げますが、ヒトは皆「同じ」ではないということです。

ヒトの同一性の物語(情報)を信じて生きるよりも、ヒトは皆「バラバラ」であるというリアルな現実(自然)を受け止めて生きる方が、きっと一望俯瞰できる客観的な視点が確保でき、節度のある生き方が可能となると考えるのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-04-04 18:49 | 我流社会学

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8 コミュニケーションと相対化

多種多様なヒトの感覚が尊重され、ジェンダーとして自認した社会的文化的な男女の区分が尊重される社会。

そして、自らが自認したジェンダー(社会的文化的な男女の区分)が平等で等価なものとして扱われる社会。

たとえ、今の社会文化的な制度や規範の枠組みという限界があったとしても、個人の能力が最大限に発揮されることになり、正当な評価がなされる社会。

かような社会が求められるということはいうまでもありません。

そして、このことは、これまでの節でも幾度となく繰り返してきたところでもあります。

また、以下の言語(概念)の同一性の機能についても、また繰り返してきたところでもあります。

そして、言語の持つ同一性の機能について十分に踏まえつつも、その言語を構成している意味の多様性、つまりそこに差異が存在していることには、常に自覚的であらねばならないということでした。

これは、コミュニケ-ションが言語の同一性を前提としながらも、現実には多種多様な意味を含んだ多義的な言語を交換しなければならないという背理にあるからということになります。

このため、コミュニケーションが成立しているためには、言語の多義性、つまり実際にある意味の差異を差異として感じない感覚の曖昧さ(グレーゾーン)も必要になってくるということです。

少し違う角度から見れば、ヒトの持つ多種多様な感覚つまり自然というものは、そもそも言語によっては十分に表現できない対象という限界を持っていることになるのではないでしょうか。

では、言語だけでコミュニケーションができないとしたら、どうすればいいのでしょうか。

おそらく、言語で表現できないことは、一般に表情やしぐさなどの言語外言語で表現をせざるを得ないということになるのではないでしょうか。

つまり、コミュニケーションは、言語とそれを補完する表情やしぐさなどという言語外言語によって成り立っているということになりそうです。

そして、コミュニケーションとは、かような言語の持つ限界を理解したうえでも、やはり言語という社会的構築物を使用するしかない代替不可能な限界に置かれているということになります。

そもそも、コミュニケ-ションとは、お互いの感覚に差異があるということ(水位差)を原因として起動することになるということができそうです。

そして、その差異(水位差)を埋め合わせるということが、コミュニケーションの目的になるのではないでしょうか。

先にも触れたとおり、ジェンダー(男女の区分)が言語という分節により構成される概念でしかないことを理由に、ジェンダーそのものを相対化してしまうという試みが行なわれているということでした。

むろん、ジェンダーをラディカル(根源的)に掘り下げることにより、社会的制度の実在の虚構性や無意味性を暴露するという効果はあるのかもしれません。

つまり、社会的制度のフレーム(枠組み)に揺れを起こすくらいはできるのかもしれません。

但し、相対化により揺らされたフレーム(枠組み)が着地点の見えないまま混乱を招いているだけであれば、元来ジェンダーにおいて着目すべき個人の多種多様な感覚を隠蔽するということにもなってしまいます。

つまり、個人の多種多様な感覚に目を向けなくても良いという、本末転倒の事態が発生してしまうということになってしまいます。

もし、感覚の差異に目を向けず制度そのものを相対化するということになれば、コミュニケーションを起動させる回路である水位差(差異の感覚)を閉ざしてしまうということになるのではないでしょうか。

従って、差異を前提とする言語の交換行為とジェンダーの相対化により言語の枠組みを崩してしまう行為は、もともとコミュニケ-ション・レベルが異なった行為ということになりそうです。

つまり、もともとかみ合っていないコミュニケ-ションを、それとは気づかないまま、決して見つからない着地点を一生懸命探すというコミュニケーションを繰り返していることになるのではないでしょうか。

まさに、着地点が見出せないままのコミュニケ-ション(交信)が行なわれているといえるのかもしれません。

水位差をいかに埋め合わすかということが、コミュニケ-ションにおける暫定的な目標値になるということでした。

このことからは、水が入っているコップの存在の空虚さや無意味さを嘆く一方で、コップの中の水位差を埋める議論をしないということは、コミュニケ-ションにおける論理的一致を目指ものではなく、むしろ感情レベルの癒合(癒し)を目指すことにはなっているのではないでしょうか。

従って、もともとかみ合うはずのないコミュニケ-ションは、論理的にはいくら時間をかけても決して成立するということはなく、つまり原理として話が通じないコミュニケ-ションは存在するということになります。

かのようなコミュニケ-ションに出会ったとしたら、その本質の無益性をいち早く洞察し、決して近づかない、つまり距離をとっておくということが、せめてもの棲み分けという共存共生という方法であると考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-03-27 21:58 | 我流社会学

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7 アイデンティティの曖昧さと立場可換性

話は変わりますが、人権を考えるためのアプローチのひとつとして、「立場可換性」という方法があります。

「立場可換性」は、あくまでもひとつの思考実験装置ということになりますが、自分が耐えることができないことは、他者に対して強いることはしないという端的な態度のことを指します。

「立場可換性」から公平性を考えた場合、自分の人権を守るためには、まずヒトの人権を守ることが求められ、自分が倫理的に扱われるためには、ヒトに対して倫理的に振舞うことが要求されるということになります。

ところで、ヒトが持つ多種多様な感覚は、言語の機能で人権という概念に集約化されて、同一化されるということになるということでした。

このような集約化や同一化の機能は、最初の節でも示したように脳の特徴である「同じ」を求める働きに負うところがあります。

そして、人権という言語によって集約化、同一化されるということは、人それぞれが持つ感覚の多様性が隠蔽されてしまうという側面も持っていることになります。

従って、ヒトの感覚の多種性が確保されるためには、誰もが常に自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認するという作業が必要になってくるのではないでしょうか。

つまり、「立場可換性」という方法では、自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認することが大切にされるということになります。

そして、この「立場可換性」では、自分が耐えられないことは他者に強いることはしないという、自分の感覚の底辺あたりを知る手がかりを得ることができます。

このため、「立場可換性」は、個人の固有な感覚を尊重する場合(具体)でも、またヒトが元来保持している普遍的感覚に想像をめぐらす場合(抽象)でも、自分の感覚を知るための重要な役割を果たすということになります。

ところで、先に見てきたようにジェンダーが曖昧なままにある事象は、個々具体的に分析してみると、おそらくアイデンティティが自己決定できないという個人の感覚に行き着くことになるのではないでしょうか。

むろん、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないという感覚も、ヒトが抱くことになる多種多様な感覚のひとつであることはいうまでもありません。

しかしながら、自分が所属する社会や共同体における行動様式(外観)は、その社会や共同体を構成しているジェンダー(男女の区分)と深く結びつく形で理解されていることが一般的といえます。

このことは、ジェンダーなしには、ヒトや社会を語ることができないといわれる所以でもあります。

従って、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないということは、社会における自分の立場や役割、つまりその社会の行動様式(外観)が極めて不確定なものになっているということになります。

つまり、自分自身の輪郭(外観)が曖昧になれば、社会や他者のみならず、自分自身の感覚からも疎外されてしまうということになってしまいます。

このような自分自身の足場のなさは、孤独感を深めるだけではなく、自在感さえも失わせてしまうことになるのではないでしょうか。

従って、まずは自らの社会的な立場や役割、つまりその行動様式(外観)を明確にすることが、社会における自らの立ち位置や社会的文脈を確実なものにすることになるのではないでしょうか。

では、どうして、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないという感覚が生じてしまうことになるのでしょうか。

おそらく、自己決定は、それをするヒトの自我のあり方(自己コントロール)と有意な関係にあると考えられます。

つまり、個人の自律度や成熟度、そしてこれを支えている社会環境が自我を育成することになり、これが自らのジェンダーやアイデンティティを支えるという関係になっているのではないでしょうか。

反対から見れば、自分を取り巻く社会的文脈が「自分が何者か」を明確にしてくれていれば、自我は安定し、ジェンダーやアイデンティティも自然な形で自己決定できるということになります。

従って、自己決定ができないということは、おそらく自分の自然な感覚を支えている自我が不安定な状態(脆弱)にあるためということになりそうです。

このため、自我を核とした社会環境、つまり自らの世界観がいまだ構成されておらず、従って自分の正体も分からないという状態に置かれてしまっているということです。

当然、自分の正体が分からなければ、自分自身を支えることもできず、さらに自分を取り巻く環境からのサポートを得ることもできないということになってしまいます。

そして、なにより「自分が何者か」が分からなければ、自分の自然な感覚に気づくということもなく、自覚的に振る舞うこともできないということになってしまいます。

このため、自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認することはできず、「立場可換性」の目的である自ら感覚の底辺あたりを知ることもできないということになってしまうのではないでしょうか。

もし、自分の感覚が安定しない状態(未分化な母子密着の原初的状態)にあるというのなら、まずは自己コントロールができる自我の安定、つまり自己意識を育むことが先決になりそうです。

少し言い方を変えれば、「自分が何者か」を安定して言い当てるということが、自己意識ということではないでしょうか。

現代の日本社会で問題になっている、いじめや虐待の事象も、おそらく「立場可換性」という思考実験装置が十全に機能しないことが原因となっているのかもしれません。

つまり、自分の感覚の底辺あたりが確認できないまま、放埓ともいえる自由の名の下に、拝金主義の自己利益追求だけがまかり通るという背景になってしまっているのではないでしょうか。

また、「自分はいいが、ヒトはだめ」という未成熟な感覚は、幼児的万能感や根拠のない楽観主義という幻想を抱かせることにもなってしまいます。

ただ、右肩下がりの経済社会規模が縮小する時代にあっては、幼児的万能感や根拠のない楽観主義はおそらく誰からも共感を得られることのない妄想になってしまうのかもしれません。

なぜなら、経済社会規模が縮小する社会では、ヒトの志向は内向きにならざるを得ず、いかに今あるネットワーク(世間)から排除されないかが、ネガティブな時代を生き延びるための行動原理になるからです。

むろん、内向き志向といっても、癒合や横並び関係を奨励するものではなく、むしろ癒合により、いったん失われた外部世界(外部権力)を再びネットワーク(世間)の中に呼び戻し、今の自分の足場を崩さないバランス感覚を取り戻すということです。

いかに排除されないかは、いかにヒトを排除しないかということでもあり、自分が倫理的に扱われたいのであれば、ヒトに対して倫理的に振舞うことが要求されるということになります。

従って、内向き志向のネガティブな時代にあっては、「自分が何をされたくないのか」を知っているということが、生き延びるために必要な最低限の覚悟を持つことができるといえるのかもしれません。

昨今の福島原発事故から思うことは、もはや日本人に求められているのは、晴天型の楽天的思考ではなく、悪天候型の思慮深い慎重な思考ではないかということです。

そして、このような思慮深さや慎みの感覚はもともと日本人に内在していたものであり、今一度このような感覚を呼び戻すという時期が到来しているといえるのかもしれません。

かような思考の方向性の切り替えが日本人の喫緊の課題ると考えるのですが、誰もこのことに気づいていないか、気づいていたとしても知らないふりをしているのか、さてどうなっていくのでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-03-20 12:09 | 我流社会学

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6 一般意思と一般感覚

ルソーの「社会契約論」には、一般意思という言葉があります。

一般意思とは、個別意思の総和(全体意思)ではなく、各人が自分個人の利害関係を越えて全体にとってはこうするのが正しいと判断するための普遍的基準とされています。

つまり、一般意思は普遍的概念ということになるのですが、法の制定には、このような一般意思が反映されているといわれています。

但し、法=一般意思ということならば、法の制定が全体にとって正しいと判断できる普遍的基準を常に実現していなければならないということになります。

しかしながら、民主主義のシステムでは、多数決の論理から相対的多数の意思が法の制定に反映されることとなるように、法の制定に必ずしも一般意思(普遍的基準)が反映しているかどうかは疑わしいということになってしまいます。

従って、ルソーのいう一般意思は実在するものではなく、法の制定を支えるための虚構(フィクション)としてみる方が適当であるのかもしれません。

ところで、ジェンダーの相対化を推し進めるあまりに、特定の個人の感覚(唯一無二)だけを強調するということが見られることがあります。

つまり、個人の感覚(唯一無二)を強調するがゆえに、特定の個人以外の大多数(マジョリティ)の多種多様な感覚や考え方が、いわゆる人権という概念の中に集約され、一般感覚として抽象化されるということになってしまうことがあるようです。

そして、さらに特定個人の感覚(特殊性)と人権の普遍的感覚(一般性)との関係が、等価なものであるという公平性の感覚がら言及がなされることがあります。

むろん、人権は、多種多様な感覚が集約された普遍的概念であることはいうまでもありません。

また、個人レベルの問題であれば、それぞれの個人の持つ感覚や考え方が、等価な関係にあることはいうまでもないことです。

つまり、人権という概念を考えるうえでは、ヒトの持つ個別な感覚を等価なものとして看做す視点と、個人の利害関係を越えた全体としてあるべき普遍的基準(一般感覚)としてみる視点の二つが必要になってくるのではないでしょうか。

社会契約論では、ルソーのいう一般意思は普遍的基準であって、個別意思の総和(全体意思)ではないということでした。

人権の感覚(一般感覚)についても、やはり普遍的基準ではあっても、実際の個人の多種多様な感覚を合計した平均値にはならないということです。

つまり、ルソーの一般意思や人権の一般感覚は、計測可能な計数値ではなく、いわゆる概念(言語)ということになるということです。

従って、人権の一般感覚が概念(言語)であるならば、そこには共通する法則や形式が見られるということにもなり、カテゴリー化(分類化)できることにもなります。

そして、この時に使用される分類の基準が、先ほどから指摘している普遍的基準になるのではないかということです。

しかしながら、人権における普遍的基準とは、いったい何なのでしょうか。

普遍的基準には、何らかの共通する法則や形式があるといえるのでしょうか。

自由とは、そもそも個人の自由のことであり、身体的、精神的自由ということになります。

また、人権についても、あくまで個人の人権が尊重されることが基本となるはずです。

おそらく、これらの個人の自由や人権という固有な感覚が、ヒトの持つ感覚の普遍性という一定の範囲内に含まれるということになるのではないでしょうか。

つまり、個人の自由や人権という感覚が極端なものにならない限り、一般感覚という概念の中にカテゴリー化されることになるということです。

養老孟司氏の表現を借りるとすれば、普遍性(普遍的基準)とは、ヒトに備わった感覚から両端の極端を除いた真ん中あたりということになるのでしょうか。

人権における一般感覚とは、元来ヒトに備わっている感覚の一定の幅内ということになるのかもしれません。

従って、一般感覚とは実在として見るのではなく、ヒトの感覚を支えている普遍的基準の仮説(モデル)、つまり虚構(フィクション)としてみるのが適当といえるのではないでしょうか。

現実の民主主義制度では、一般意思という普遍的基準の仮説(モデル)を想定しないまでも、個人の自由や平等の具体的基準については、法の制定という民主主義の手続きにより実現されるということになっています。

もし、法の制定による普遍的基準や具体的基準がいまだない状態にあったとしても、お互いの個人レベルの感覚や考え方が等価な関係にあると尊重することは十分に可能であると思われます。

しかしながら、特定の個人の感覚(特殊性)とヒトに備わった一般感覚(普遍性)、つまり「具体」と「抽象(モデル)」が等価な関係にあると看做すという公平性の感覚には、論理的な飛躍があると思われるのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-03-16 17:56 | 我流社会学

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5 社会制度としての男女の区分

では、ジェンダー(男女の区分)は、一般的な社会制度として機能しているといえるのでしょうか。

まず、多くの宗教行事などでは、その儀式における振る舞いや衣装などに差異を設けることで、ジェンダー(男女の区分)を宗教上の制度の中に位置づけているということができそうです。

おそらく、伝統的といわれる社会や共同体では、ジェンダー(男女の区分)を正面から否定する事例は見当たらず、たとえあったとしてもそれは極めてレアなケースということになるのかもしれません。

また、社会制度としてのジェンダーは、本人の自己認識は踏まえつつも、最終的には本人以外の他者、つまり社会によって受け入れられた男女の区分ということになりそうです。

つまり、社会制度としてのジェンダーは、本人以外の他者、つまり社会によって認知された社会文化的な意味を持つその行動様式(外観)から判断されているということになります。

このため、本人が自認するジェンダーの感覚(内面)と社会文化的なジェンダーである行動様式(外観)が一致しない場合には、自己と他者の感覚の間に摩擦が生じ、本人にとってはとても生きにくい状態が出現するということになります。

たとえば、本人が自分のジェンダーが女性と自認していたとしても、その外観がその社会の男性の行動様式とされていれば、おそらく摩擦が生じるということになります。

従って、このようなケースには、本人の自然な感覚である内面に、社会文化的な行動様式である外観を一致させるということが、その生きにくさを解消させることになるのではないでしょうか。

ところで、社会制度としてのジェンダー(男女の区分)は、もちろん私たちが生まれる以前から存在していた社会文化的な制度ということになります。

そして、私たち以前から存在しているジェンダーには、それぞれ男女の伝統的な行動様式(外観)が対応するということになっています。

従って、個人がその社会で自然に感じている行動様式(外観)も伝統を踏まえたものということになり、伝統的な行動様式(外観)を採用することが、ジェンダー(概念)を生成することになっているということです。

これは、言語学の例でも示したとおり、イヌという文字やオト(つまり外観)が、イヌという動物の意味(概念)を指し示している関係性と同型にあるといえそうです。

つまり、言語が記号と意味の部分から構成されていたように、ジェンダーもその行動様式の部分(外観)とその行動様式が指し示す意味の部分(概念)から構成されているということになります。

そして、言語では、記号の部分(文字やオト)と意味の部分(概念)には論理的な関係性は見られないということでした。

つまり、記号がイヌではなくDOGであったとしても、人なつこい小動物(犬)の概念を指し示すことには変わらないといえるからです。

従って、人なつこい小動物を、なぜイヌと呼ぶかについての論理的な根拠はなく、おそらくある社会でこの人なつこい小動物をイヌと呼んでいるからとしかいいようがないということになります。

そして、さらにこれを聞いたヒトがまたイヌと呼ぶことになり、さらに、別のヒトも・・・というような、言語ゲームということになります。

ジェンダーについても同じことがいえそうです。

つまり、ある社会で男性のジェンダーとされている行動様式(外観)を採用しているヒトが、男性と呼ばれているということになり、さらにこれを見たヒトが同じ行動様式を採用すればやはり男性と呼ばれるようになり、さらに、別のヒトも・・・という、これもまた言語ゲームということになるのではないでしょうか。

従って、ジェンダーが生成されるという理由は、ジェンダーに分類されている行動様式を採用しているからという以上には根拠は見当たらず、まさに「自己循環論法」がジェンダー(あるいは言語)を支えているということになるのではないでしょうか。

しかしながら、ジェンダーという社会制度を前提としても、男女を構成している個人の感覚が多種多様ということはいうまでもありません。

従って、個人の自然な感覚が、社会文化的なジェンダー(男女の区分)の中に、そのまま過不足なく、きちんと納まるということないということになるのかもしれません。

たとえば、ジェンダーという二項対立ではなく、アイデンティティのような「自分は誰か」というやや抽象的な問いを立ててみるのはいかがでしょうか。

おそらく、「自分は誰か」という問いに対し、自分の抱く自然な感覚が、過不足なくきちんと納まりきる言語(概念)を使いこなせるような人はいないのではないでしょうか。

つまり、自分が使用している言語(概念)は、いつも自分の感覚より過剰であるか、過少であるかのどちらかに偏ってしまっているのが現状といえそうです。

要するに、言語(概念)は社会的構築物(社会制度)の代表といえますが、自分の感覚を表現する手段としては十分なものとはいえず、あくまで暫定的な足がかりを示すものでしかないということになります。

また、社会制度は所与のものでもあり、同時に時間と共に改変されていくものでもあります。

現代社会で見られるような二大政党制民主主義では、少数派(マイノリティ)と多数派(マジョリティ)という関係性が必ず出現することになります。

そして、政治的には、相対的多数(マジョリティ)の側にある社会制度が実現されることになりますが、これは必ずしも正統性(オーソリティ)の根拠ということにはならず、あくまでも多数決の論理からの帰結でしかないということです。

従って、ひとたび相対的少数(マイノリティ)の側に回ることになれば、ひとたび実現された社会制度といえども、再び改変されていくということになってしまいます。

このことから、社会制度には自明性がなく、相対的でしかないと言及されることもあるようです。

もちろん、社会制度が将来に亘って自明であり続けることなどはありえず、今ある社会制度も暫定的でしかないことからすると、相対的という言い方にも一理があるといえるのかもしれません。

しかしながら、今ある社会制度の相対性を批判しているだけでは、個人の暫定的な足場となっている社会制度の土台を崩壊させてしむことにもなりかねません。

また、個人の固有の感覚や文化といえども、これを支えているのは個人が所属している社会制度を土台としたものであることはいうまでもありません。

従って、社会制度を相対化してしまうということは、自分の足場を社会制度の枠外に押し出してしまうということになり、そもそも自分の足場の曖昧さが悩みの中核になっていたにもかかわらず、このことを思索できる自分の足場さえ失ってしまうということになってしまいます。

社会制度は相対化する方向ではなく、むしろ今ある社会制度の中でいかに自分の感覚や文化を自己実現させているかを考えることがより現実的な問題解決になるといえるのかもしれません。

しかしながら、それでも今ある社会制度を相対化するということなら、それに変わるべき具体的な対案を提示するということが、社会を混乱させない最低限のルール(責任)であると考えるのですが、さていかがでしょうか。

繰り返しになりますが、個人の感覚や文化は多種多様なものということができます。

従って、今ある既存の多数派だけが優遇されるような社会ではなく、少数派が少数派のままでも承認されるような社会制度が構築された「共生社会」が求められるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-03-07 21:37 | 我流社会学

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4 感覚としての男女の区分

また、一方では、ジェンダーを相対化するのではなく、男女の区分を認めたうえで、男女を等価とみなす立場があります。

おそらく、これは、男女のメタレベルにあたるヒトという視点から俯瞰した区分(分類)ではないでしょうか。

このような視点(立場)からは、男女の平等性や等価性については言及されることがありますが、本来的にヒトが保有する男女の固有な感覚までは言及されないということが一般的です。

つまり、個別なヒトの感覚の世界よりも、「人権」という抽象的(観念的)世界が中心になった視点(立場)ということになるのかもしれません。

そもそも「人権」が普遍的概念とされるのも、このような曖昧で不確定な要素を含んでいるからということになるのではないでしょうか。

なぜなら、「人権」はどれ一つとっても一様なものは存在せず、所属している国や地域の事情によって多様な形で実現されるという限界があるからです。

しかしながら、たとえ個々の「人権」が多様なものであっても、そこに共通する形式や法則が見出せば、同じ概念(言語)として分類されることについては、言語学の例で見てきたとおりです。

つまり、「人権」は個々具体的な事象でありながら、同時に普遍的で抽象的な概念でもあるということになりそうです。

ところで、ヒト(個人)の持つ感覚は、人間という一定の枠内(限界)に規定されることになりますが、その中においては多様な感覚として出現することになります。

たとえば、男女の感覚の差異と自己決定(自認)の関係を見てみることにします。

私たちがジェンダー(アイデンティティ)を自己決定する際、その選択に迷うということはあるのでしょうか。

おそらく、ヒト(個人)が自然に感じているジェンダー(アイデンティティ)の感覚とそれを補完する社会的文脈から受け取る感覚が一致していれば、ジェンダー(アイデンティティ)の選択に迷うことはまずないと思われます。

つまり、ヒト(個人)は、自分の感覚と社会から受け取る感覚が親和的な関係なものとして感じているようであれば、安定してジェンダー(アイデンティティ)を自己決定することができるということになります。

このことからすると、ジェンダー(アイデンティティ)に起こっている障害とは、個人の感覚である自己認識と社会的文脈からもたらされる受動的感覚の差異(不一致)が原因となって生じている問題になるのではないでしょうか。

まず、第一義的には、ジェンダーやアイデンティティが個人の自己認識の問題であるということはいうまでもありません。

そして、その自己認識を支えることになるのが、個人を取り巻く社会的文脈ということになります。

従って、個人の自己認識の感覚が曖昧なままである(自己決定が出来ない)としたら、個人の自己認識を支えている社会的文脈(社会における立ち位置)も曖昧なままとなってしまうのは必定です。

もし、自分にとって自明であるはずの社会制度が曖昧に見えているとしたら、それは自己決定が出来ていない、つまり自己決定を回避したいという欲求の表れになっているのではないでしょうか。

つまり、社会制度から自己決定の対象であるジェンダー(アイデンティティ)をなくすということが、そもそも自己決定という自己責任からの回避という欲求の表れのではないでしょうか。

ジェンダー(アイデンティティ)がなければ、自己決定という強迫に悩むということもないのかもしれません。

しかしながら、このことが、ほんとうにジェンダーやアイデンティティが抱えている問題を解決することになるのでしょうか。

生物学的な男女の区分とは、自然がそうであるように、決定する染色体や遺伝子がおおむね双極的に偏在するなだらかな二つの曲線を描くようになっているということでした。

そして、ジェンダー(アイデンティティ)について生じている障害とは、おそらく生物学的な双極でなだらかに偏在する二つの曲線のどの位置に自分がいるか、ということが悩みの中核になっているのではないということです。

むしろ、先にも指摘したとおり、個人の自然な自己認識の感覚と社会的文脈から受け取ることになる感覚との差異(不一致)が、個人の悩みの中核ではないかということです。

個人の感覚の自己認識は、人間という一定の限界はあるにしても、実に多様性な形で出現することになります。

たとえば、最近のオタク文化などを見ていると、個人の感覚の多様性はさらに顕著なものになっているといえるのかもしれません。

個人の感覚の多様化は、現代社会の成熟度(多様性)と相関しながら、進展しているかのように思われます。

つまり、社会の価値が多様化すれば、価値そのものの絶対性は小さくなるのは必然であり、その結果価値の相対化が進んでいくことになります。

たとえば、今の自分が社会の多数派(メジァー)や強者の側にあるものと仮定するとします。

しかしながら、社会の価値が相対化していくと、自分の立ち位置(価値)も次第にズレていくことになり、価値の絶対性が担保されないということが明白になるのではないでしょうか。

つまり、いつどこで自分が社会の少数派(マジョリティ)や弱者の側に回ることになるのか分からないという危険と隣り合わせにあるということになります。

おそらく、このようなポストモダン状況においては、勝ち負けという二項対立の相対的優位だけを目指していてもその到達点はあくまで暫定的なものでしかないということです。

従って、立場可換性からすると、たとえ自分が少数派や弱者の側に回ることになったとしても、自分の価値が社会の中でそのまま尊重される仕組み作りが目指されることになるのではないでしょうか。

少し話が逸れてしまいした。

個人を取り巻く社会的環境が多様化し複雑化すると、個人の立ち位置が相対化し曖昧になり、その結果自己決定がうまく出来ないという事態が発生するということでした。

つまり、ジェンダー(アイデンティティ)から生じている障害とは、このような自己決定がうまく出来ないことが原因となった問題ということができるのではないでしょうか。

では、どうして自己決定がうまく出来ない事態が発生することになってしまうのでしょうか。

一般論としては、個人の自我が未成熟な状態にあるということ、また自我がコンプレックス状態におかれていることなどが自我の制御不能状態を発生させている原因と考えられると思われます。

つまり、個人の自己決定がうまく出来ないことと、個人の自我がコントロールできない状態には、ある程度有意な関係性が見られるのではないかということです。

おそらく、自我が自己制御できる状態に置かれているのであれば、ジェンダーやアイデンティティについても迷うことなく自己決定(自認)できることになるのではないでしょうか。

つまり、自己決定(自認)ができているということは、自分の立場や役割が分かっているということになると思われます。

自分の立場や役割が分かっているのであれば、あとは自分を取り巻いている社会的文脈との間に生じる差異(不一致)をいかに埋め合わせて、整合を図るかという具体的問題となります。

そして、社会的文脈から判断されるジェンダーやアイデンティティは、その外形(行為行動)から臆断されるということが一般的であるといえそうです。

反対からいえば、社会的文脈から臆断されることになった外形(行為行動)こそが、自分のジェンダーやアイデンティティを表現しているということになるといえそうです。

これらを整理すると、ジェンダーやアイデンティティは、第一義的には自らの感覚の問題ということになります。

しかしながら、社会的な立ち位置(価値)の問題では、自らの感覚に相応しい社会的文脈をいかに自己決定しているかということが、より重要な問題になってくるということです。

先ほども指摘したように、社会制度から男女の区分(ジェンダー)をなくすという試みが一部の領域は行われているように思われます。

もちろん、社会的文脈から判断し、不必要と思われる男女の区分(ジェンダー)までを、あえて使用する必要がないことはいうまでもありません。

しかしながら、繰り返しになりますが、自己決定の対象からあらゆるジェンダー(アイデンティティ)をなくしてしまうということは、ジェンダー(アイデンティティ)に生じている障害を根本的に解決することにはつながらず、むしろ自己決定という自己責任の回避するだけに終わってしまうのではないかということです。

私たちが自己決定をする場合には、既存の社会にあるジェンダーやアイデンティティという概念(言語)からしか選択をすることができないという限界の中で生きていることについては、先に指摘したとおりです。

従って、もし既存の社会にある概念(言語)から自己決定をしない(ジェンダーやアイデンティティを相対化してしまう)のであれば、それは自分が所属している社会の枠組みの限界を外れていく(越えていく)ということを意味するのではないでしょうか。

おそらく、既存の社会の核組みから外れるということは、個人のアイデンティティを強化することにつながることはなく、むしろ社会の中の自分というアイデンティティを、ますます曖昧なものにさせていくだけではないでしょうか。

ほんとうに解決すべき問題は、見たくない対象を見えないように隠蔽することにあるのではなく、むしろ自己決定ができない自分自身のコンプレックス状態を自覚することにあると思うのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-02-26 10:44 | 我流社会学