法人論/岩井克人(6)

岩井 克人,三浦 雅士
新書館
発売日:2006-07



ポストモダン状況では、会社にかんしても、言語、貨幣にかんしても、幻想のなか、詐欺のなかを生きているようなものになってしまいます。

その結果、自分で決定しなければならない価値基準は、極めて難しいものになってしまうのではないでしょうか。

もはや労働価値説もない、主体もない、そこで、ある意味、とても常識的なところに戻っていくことになる。

それが、カント的啓蒙思想です。

資本主義とは、まさに差異性から利潤を生み出すというもっとも形式的なシステムであり、それゆえ普遍的なシステムといえます。

だから必然的にグローバル化しました。

そして、これを超えるシステムは今のところありえません。

従って、このような普遍性を持った資本主義に対抗しうる何かがあるとしたら、それも同じように形式的な原理でなければならない。

具体的には、カント的な定言命法による倫理学であり、それを基礎にしたグローバルな市民社会ということになるのではないでしょうか。

カントの定言命題とは、それが普遍的な法則となるような格率にしたがって行為せよというものですから、完全に普遍化しうる純粋に形式的な命題です。

従って、ローカルな共同性を強調するコミュニタリアン的な論理では、資本主義に立ち向かうことはできず、勝ち目もないということです。

これは、プラトニズムのイデア論ではありません。

イデア論は、プラトンが説いたイデア(希: ιδέα、英:idea)に関する学説のこと。
本当に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界というのはあくまでイデアの《似像》にすぎない、とする。
イデアという言葉は「見る」という意味の動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している。
プラトンは次のように説明する。
我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。
つまり、真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない、と言うのである。
想起説が導入されることでプラトンの哲学は、劇的な展開をとげ、強固な二元論の立場となった。そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、真のphilosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
(ウィキぺディアより)


そして、言語は、天空にあるイデアではなく、現実に人間のあいだを流通している媒介です。

モノ性すらもっています。

人間にとってもっとも内部的な言語が、人間にとってもっとも外部であり、他者だという思考は、おそらくプラトニズム(のイデア論)にはないでしょう。

また、カント主義はヒューマニズムではありません。

なぜなら定言命題の対象は、人間でなくてもよいからです。

理性を持っている存在すべてに当てはまる原理といえます。

理性を持っている存在であるなら、お互いを単なる手段としてではなく、必然的に目的として取り扱うはずだと考えます。

ただ、その理性についても、デ・ファクト・スタンダードであることが既にわかってしまっている。

従って、倫理といった場合に、最終的には、考えるという行為ではなくて、信じるという行為になってしまう。

つまり、自分の理性を信じるということ。

このような理性の陥穽をずっと追求していくことと、そのうえで理性に賭けることとは矛盾しているといえるのかもしれません。

しかしながら、理性の意味にもふたつあると考えればいかがでしょうか。

ひとつは、何らかの公理から出発し、一歩一歩論理を積み重ねて真理に達するための理性。

これが通常の意味の理性といわれるものです。

もう一つは、あらかじめ与えられた公理とは独立に、自己循環論法によってそれ自体で完結している真理。

まさに、このようにまだらに存在している真理は、歴史的に発見されなければなりません。

しかしながら、そういう真理を見たとたんに真理として認知できる理性は存在します。

このような二つの理性の考えは、ハイエクのヒューム論からの借用です。

つまり、ひとつは公理体系から論理的連鎖を積み上げて達する真理。

もうひとつはそれを見たとたんに、それ自身が真理だとわかる真理。

後者は、自己循環論法的にみずからがみずからを正しいと証明ができるような命題のことですが、それはどのようなものであるのかは事前には予測ができません。

しかしながら、人間はそれに行き当たると、それが真理であるとわかってしまう。

こういう真理は、進化論的にしか行き当たらないわけですが、そこには歴史の本質的な意味での不可逆性があるといえるのではないでしょうか。

同じことが倫理についてもいえます。

カントの道徳論に、すべての人間をたんに手段としてだけではなく、同時に目的として扱えという定言命題があります。

カント倫理学には、「仮言命題」に対して「定言命題」と呼ばれるものがあります。「仮言命題」とは、「幸福になりたいならば、嘘をつくな」というような、目的と手段の形式をとるものを指します。しかしながら、「仮言命題」の目的と手段の関係に必然性が見られないということがあります。このような場合には、「幸福になるためには、嘘をつく」という不道徳が成立するということにもなってしまいます。
これに対して、「定言命題」とは、経験的な目的(幸福)や感性的欲求の対象(保身)とは無関係に、端的に「・・・すべし」と命ずる無条件の絶対的命令法を指します。
カントによれば、各人の目的や欲求によって異なる主観的な行為(幸福や保身など)の規則は、「普遍的妥当性」を持たないことになるため、真の道徳律は経験や感性ではなく、「意思」そのものに関わらざるを得ないということになります。(資本主義の不都合な真実/岩井克人(10) atプラス01 太田出版より)

カントの倫理学(ウィキぺディアより)
理性概念が(直観を欠くために)理論的には認識されえず、単に思惟の対象にすぎないことが『純粋理性批判』において指摘されたが、これら理性理念と理性がかかわる別の方法が『実践理性批判』において考察されている。『実践理性批判』は、純粋実践理性が存在すること、つまり純粋理性がそれだけで実践的であること、すなわち純粋理性が他のいかなる規定根拠からも独立にそれだけで充分に意志を規定しうることを示すことを目標としている。
カント道徳論の基礎であるこの書において、人間は現象界に属するだけでなく叡智界にも属する人格としても考えられ、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である叡智界における因果性の法則にも従うべきことが論じられる。カントは、その物自体の叡智的秩序を支配する法則を、人格としての人間が従うべき道徳法則として提出する。

道徳法則は「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」という定言命法として定式化される。

カントは純粋理性によって見出されるこの法則に自ら従うこと(意志の自律)において純粋理性が実践的に客観的に実在的であることを主張し、そこから自由の理念もまた実践的に客観的実在性をもちうると論じた。道徳法則に人間が従うことができるということが、叡智界にも属する存在者としての人間が自然的原因以外の別の原因を持ちうる、すなわち自由であるということを示すからである。


この定言命題も、よくみると自己循環論法になっています。

つまり、理性的存在がお互いに理性的存在であることを承認しあうわけですから。

そして、そのような相互承認を実定化すると基本的人権になるわけです。

その意味で、基本的人権とは普遍的な概念ではあるけれども、同時に歴史的に発見されたものということになるわけです。

少なくとも倫理にかんして残るものは、案外常識的なものといえるのではないでしょう。

確かに言語や法や貨幣はデ・ファクト・スタンダードですが、それそのものは空虚であるとは思いません。

なぜなら、それは、現実に個々の人間のあいだを流通していく社会的実体ですから。

実体的な根拠がないことと、空虚であることはまったく別なことです。

そして、同じことは、カント的な意味の倫理についてもいうことができます。

倫理も自己循環論法によって成立するひとつの命題ですが、空虚ではありません。

なぜなら、実際に、基本的人権というようなかたちで社会的な実体性をもつこともできますから。

いずれにせよ、言語・法・貨幣、さらにそれとは別のカテゴリーになりますが、定言命題としての倫理などは、まさに自己循環論法の産物ということになります。

つまり、実体的な根拠を持っていないということですが、それは究極的には人間の人間としての自由の拠りどころがあることでもあり、人間にとっての救いがあると思っています。

なぜなら、自己循環論法であるからこそ、遺伝子情報という制約からも、人間理性の限界からも独立になれるからです。

その意味で、言語、法、貨幣、そして倫理、とりわけそれらのすべての基礎にある言語のなかに、もっとも根源的な真理が隠されているのではないでしょうか。

無根拠(デ・ファクト・スタンダード)だから空虚なのではなく、無根拠だから真理を見出していく無限の潜在力にあふれているということになります。

だからこそ文学があり、最終的には文学になるということではないでしょうか。

(おわり)

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by kokokara-message | 2011-06-11 08:55 | 読書(法人論)

法人論/岩井克人(5)

資本主義から市民主義へ
資本主義から市民主義へ

ただ、言語、法、貨幣がデ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)に過ぎず、それらが自己循環論法によって成立していることが明らかになる。

そして、そこは中心もなければ底もないポストモダン状況といえます。

従って、グランド・セオリーなどはなく、超越的な理念もないということになります。

しかしながら、法人の根幹に信任の問題がある以上、倫理を基軸にしなければならないということになります。

だけれど、その倫理はリオタールふうに言えば大文字の倫理であらねばならないのですが、大文字だとしたら、デ・ファクト・スタンダードという自己循環論法が出てくることになり証明ができないことになる。

ジャン・フランソワ・リオタール(Jean-François Lyotard, 1924年8月10日 - 1998年4月21日)は、フランスの哲学者。フランス生まれ。マルクス、フロイト、現象学などを学んだ。アルジェリアで哲学教師となり、以後パリ第8大学教授などを務めた。急進的なマルクス主義者としてアルジェリアで活動。帰国後、1968年のパリ五月革命に参加。主著に『ポストモダンの条件』(1984)。「大きな物語の終焉」「知識人の終焉」を唱え、ポストモダンを流行語にした。(ウィキペディアより)

法人がその基軸に倫理を置いたとしても、基軸通貨のドルと同じで、いつ崩れるかわからないという状況になります。

大文字の倫理は、確かになくなってしまったのかもしれません。

かつての産業資本主義あるいは近代における基本的な倫理は、労働価値説でした。

それは通俗的には、働くことの倫理性ということでしたが、もう少し抽象的にいうと、自分がつくったモノは自分に帰属すべきだという倫理です。

ほんらい生産者に帰属すべき生産物が、他の人間によって買われなければ価値を持たない資本主義社会とは、生産者の自己疎外をもたらす非倫理的な社会という社会主義のテーゼも生まれました。

自己疎外への批判は、他者による批評の拒否につながり、結局社会主義はそれによる退廃によって崩壊してしまった。

(つまり、主体から出発する思想は、結局疎外論になってしまうため、その疎外を取り払い、主体自身が作り出す本来の価値を主体の側に取り戻すプログラムが社会主義ということになります。このため、このプログラムでは自己疎外をもたらす他者の評価を排除することにもつながり、結局人の自由をさらに抑圧するスターリニズムのような社会システムになってしまいます。)

そして、ポスト産業資本主義の時代になると、事実として労働価値説が成立していないことが明らかになり、誠実に働いていれば倫理的であるというのは、美しい物語だし、可能であればそれ戻りたいと思いますが、それが本当の倫理ではないことが分かってしまいました。

人類史において、はじめて本来的な意味での倫理が問われるようになったといえるのかもしれません。

倫理の問題は、死の問題とも100%かかわってくるわけです。

人間には、たとえ誰も見ていなくても、神さえ見ていなくても、主体として一方的に責任を引き受けなければならない場面があり、瞬間があります。

そして、人間を人間とさせるものが、言語、法、貨幣なのですが、とくに言語が、人間にとってはまったくの外部の存在(デ・ファクト・スタンダード)ということになります。

これを認識することが、すべての倫理の出発点であると思います。

(所詮、倫理も、言語を媒介とするしかないといえます。)

しかしながら、これは自己疎外論の正反対といえます。

つまり、人間にとっての最大の他者とは、人間にとっての最大の内部である言語ということになるのですから。

人間はまさに言語で思考し、言語を介して他者とコミュニケーションをするわけです。

言語とは人間の思考そのもの、人間のコミュニケーションそのものなのですが、その言語が外部の存在であるということなのです。

事実個々の人間はかならず死にますが、言語は個人の死にかかわりなく生き続けていくことになります。

つまり、自己(人間と人間の関係性)とは最初から共同性の中でしか成立しない。

共同性といっても、それは言語という外部を媒介とした共同性という意味です。

たとえ、自分ひとりで考えたとしても、それは(言語という)共同性において考えているわけですから。

いや共同性ではなく、むしろ超越性において考えているのかもしれません。

言語は、人間の住処ではあるけれども、人間はそこ(言語)の主人ではないということです。

いくら言語哲学を展開したとしても、倫理もまたも言葉ですから、標榜している倫理というのは、結局19世紀的なヒューマニズムにしかならないといえるのかもしれません。

ただ、最終的にはカントのいう意味での倫理になるのではないかとは考えています。

(つづく)

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by kokokara-message | 2011-06-08 22:03 | 読書(法人論)

法人論/岩井克人(4)

資本主義から市民主義へ

法人の成立には、間主観性というよりも、社会的承認が不可欠です。

間主観性とは、後期フッサールの現象学の基本概念である。世界の意味了解は、近代的・合理的・普遍的な認識主体としての個人の主観においてなされるのでなく、超越論的な場における他者と共同体の構成という、複数の主観の共同化による高次の主観においてなされるとした。

法人という制度に関しては、他人による承認、もっと一般的には社会的な承認が絶対に必要になります。

ただ、社会的な承認は移ろいやすいので、それを国家が法律化して、制度として安定化させたものが、法人といえます。

また、情報革命というけれど、人間にとっての最大の情報は、人間の身体です。

従って、資本主義が、差異を発生させる源に接近すればするほど、究極的には直接的な身体産業へと行き着くことになります。

たとえば、最初の言語、最初の貨幣、最初の資本主義が入れ墨(差異)からはじまったこと考えれば当然のことではないでしょうか。

このため、言語、法、貨幣が、個々の人間を超えた存在であることが唯一の救いといえるのかもしれません。

特に言語は、人間にとって神みたいなものです。

なぜなら、言語は遺伝子に書き込まれた情報でも、人間が理性的に作り上げたものでもないという意味では超越性を持っています。

それ自体において一種の超越的な法則性や合理性をもっている存在といえるからです。

まさに、はじめに言葉ありきです。

だから文学が存在するのではないでしょうか。

法人の問題にしても、言語、法、貨幣の問題にしても、やがて人間が死すべき存在であるというところから発生しています。

つまり、死の乗り越えという意味を持っているということです。

ところで、伝統的な経済学では、資本主義とは、契約関係によって成り立っている社会であると考えます。

アダムスミスの見えざる手の原理によれば、資本主義社会においては、各人が自分の利益のみを追求していけば、社会的には望ましい状態が自動的に実現されるということになります。

それゆえ倫理性が必要とされない社会ということになるのですが、資本主義社会には倫理性が絶対に必要と考えています。

つまり、契約関係によって成立する社会であるからこそ、倫理性(契約関係ではない信任関係)が要請されることになるということです。

資本主義的企業活動が盛んになれば、個人だけではなく、団体も契約の主体になることが必要になります。

そこで導入されたのが、法人という制度でした。

しかしながら、法人は生身の人間ではないので、実際に契約を結ぶためには、法人を代表する生身の人間が必要となります。

代表理事(理事長)です。

そして、これらの法人の代表と法人の関係は、契約関係ではなく、信任関係にあるといえます。

たとえば、成年後見人と成年被後見人の関係は、契約関係ではなく、信任関係ということになります。

また、資本主義は分業社会ですから、その発達とともに、人は医者や弁護士やファンド・マネージャーといった専門家のサービスを必要とします。

従って、医者と患者、弁護士と依頼人、ファンドマネージャーと投資家には、仮に契約が結ばれたとしても、信頼によって自分の身体や運命や財産を任すということでは信任関係が含まれざるを得ません。

たとえば、医者が自己利益の追求だけを前提とした契約関係にあるとしたら、人体実験さえやりかねないことになります。

医者は患者に対し、患者の利益のみを考えて行動するという信任義務を負っているということです。

資本主義はほんらい契約社会といわれていますが、その契約関係を拡張すればするほど、つまり分業化されればされるほど、必然的に倫理性を要求する信任関係も拡がっていくことになるということです。

資本主義社会には、自己利益の追求を前提とする契約関係と、倫理的な行動を要求する信任関係の二つの軸があるということになります。

そして、倫理とは、生身の人間が死ぬ存在であることと本質的にかかわったものということができます。

なぜなら、人間が永遠に生きられるとすれば、今何か悪いことをやっても、将来必ず償いができることになるからです。

それは、すべてを、法律的な権利義務関係、経済的な貸し借り関係に還元してしまうことになるのです。

そこでは、ほんとうの意味での倫理性は必要とされなくなってしまいます。

しかしながら、人間は有限な存在です。

従って、自分の行なった行為に対して、どのようにしても償いや返済ができないという可能性が残ってきます。

そこではじめて、本来的な意味の主体的な責任の問題が生じてくるのです。

それが究極の意味の倫理の問題であると思います。

(つづく)

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by kokokara-message | 2011-06-03 23:04 | 読書(法人論)

法人論/岩井克人(3)

岩井 克人,三浦 雅士
新書館
発売日:2006-07



人間とは何か。

言語を語り、法に従い、貨幣を使う動物。

従って、言語、法、貨幣という社会的媒介について思考することは、そのまま人間について思考することです。

遺伝学の発展。

環境決定説と遺伝決定説が対立しています。

最近では、親からの遺伝が人間の能力や性格や行動パターンに決定的な影響を与えていることがどんどん明らかになってきています。

人間の能力や性格や行動パターンが、遺伝によって決定的な影響を与えられていると100%認めたうえで、人間とは果たして何かという問いをもう一度問い直してみなくてはならなくなったということです。

確かに言語を使う能力は人間の遺伝子の中にありますが、言語そのものは遺伝子の中にはありません。

脳と脳の間にあるのですが、しかし、これは関係論ではありません。

関係は「場」として実体化できるものではなく、従って、言語や法や貨幣は関係ではありません。

要するに、関係そのものを可能にする媒介であって、それ自体が社会的な実在なのです。

貨幣には、貨幣商品説と貨幣法制説があります。

貨幣商品説とは、貨幣はそもそも商品として価値を持っていたから貨幣として価値を持つとします。

一方、貨幣法制説とは、貨幣とは共同体の合意や王様の権威や国家の法律で貨幣と定められたから貨幣としての価値を持つとします。

そして、これらふたつは対立していました。

次に、法には自然法論と法実証主義があります。

自然法論とは、法の基礎に道徳や社会正義などを見出す、グロティウスや啓蒙主義者たちの自然法論です。

一方、法実証主義とは、法とは本質的に王様の命令にすぎないという、オースティンやベンサムの法実証主義のことです。

そして、これらふたつは対立していました。

さらに、言語には記述主義と反記述主義があります。

記述主義とは、言語とはそれが意味する事物の写像であるという、ラッセルや前期ヴィトゲンシュタインの記述主義であり、貨幣商品説に対応します。

一方、反記述主義とは、共同体における命名儀式によって人為的に言葉と事物が関係付けられたとするソール・クリプキなどの反記述主義のことです。

そして、これらふたつは対立していました。

しかしながら、貨幣は貨幣として使われるから貨幣であるという自己循環論法の産物であり、商品や法制の根拠からも独立しています。

つまり、デ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)でしかないということです。

このことに耐えられないため根拠を与えようとしたものが、商品説であり法制説ということになります。

法や言語にも同じことが言えます。

宗教は、近代になって諸個人の内面の問題に帰属すると言われるようになりますが、実際に帰依するのは個人ではなく部族であり、国家ということでした。

つい百年程前までは、宗教は社会制度であったということになります。

つまり、宗教は、デ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)の見本ですね。

ところで、人間とは、言語を媒介にして互いにコミュニケートする動物です。

そして、言語とは、人間の遺伝子のなかには書き込まれていない社会的な実体といえます。

個々の人間から独立した実体性をもって、歴史の中で連綿と継承されているということです。

また、法のない世界では、まさに直接的な力関係が、個人と個人の関係を支配してしまうことになります。

法の支配が成立すると、個々人の力の強弱とは独立の、まさに義務と権利を媒介とした間接的な関係になります。

まさに抽象的な意味での、人間と人間、いや法人と法人との関係になるわけです。

そして、貨幣があれば、共同体を超えて、それを媒介にすることで、いわば抽象的な意味での人間と人間がお互いに交換することが可能となります。

人間とは、社会的な動物ですが、それは言語、法、貨幣を媒介として、お互いを抽象的な意味で人間として認め合うことにより社会を形成する動物という意味です。

そして、言語、法、貨幣といった社会的媒介は、自然から与えられたものでもなければ、人間が合理的に作り上げたものでもありません。

ハイエクは、「本能と理性のあいだの存在」と言っていますが、自然でも人為でもない、まさにその中間的な存在が、言語、法、貨幣ということになります。

チンパンジーと違って、言語、法、貨幣があるから人間は遺伝子情報から自由になることができる。

すなわち、人間が人間になったということです。

人間とは何かを突き詰めていくと、人間存在のもっとも中核に、個々の人間にとっては外部の存在である言語・法・貨幣が見出されることになるということです。

(つづく)

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by kokokara-message | 2011-05-30 20:03 | 読書(法人論)

法人論/岩井克人(2)

資本主義から市民主義へ
資本主義から市民主義へ

貨幣は、デ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)の純粋形といえます。

その貨幣の出現が、ポスト産業資本主義ということになります。

従って、古代、近代、ポストモダンという名称が、発展史観的なイデオロギーにとらわれたものということかもしれません。

言語、法、貨幣という社会的媒体の出現が、人間を人間として存立させているといえます。

そして、それらの媒介の働きを支配しているのが、ポスト産業資本主義的なデ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)の原理に他ならないということです。

つまり、歴史はつねにひっくり返るということです。

また、人間自体がモノであって、ヒトであるということです。

会社はモノであってヒトですが、モノであってヒトであるのは、会社だけではないということです。

法の世界では、生身の人間、つまり自然人も、本来的には法人ということになります。

つまり、法の中での人間は、権利と義務の主体であるといったとたんに、法人という概念が必要とされます。

つまり、法において人格が認められることにより、はじめて責任が問われることになります。

従って、法人でなければ法の網にも入らないというわけです。

反対に、法において人格が認められた存在であれば、当然法の網にかかることになります。

要するに、人間自体が、法人つまり会社と同じ構造(モノであってヒトであるという構造)を持っているということになります。

カント主義者がいうところの人間の二重性がありますが、人間が言語によって分節される存在であるとともに、言語を話す主体でもあるということです。

つまり、言語ができたとたんに、人間は二重性(主体と客体)を持つことになったわけです。

その応用が、法であり、また貨幣ということです。

会社というか、法人は、言語を持ってしまった人間の謎(主体と客体)と同じ仕組みにあるということになります。

そして、人間はヒトとモノの二重性を持っているからこそ、はじめて近代人の定義ができたということになります。

つまり、基本的人権の宣言では、人間はだれにも支配されない自立した主体になったとされますが、それは人間が自分自身をモノとして完全に所有しているということに他なりません。

要するに、人間が、法人になったからこそ、自分で自分を所有するなどができるようになったということです。

ポストモダンとは、中心がなくて、すべてがデ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)で成立しているものです。

そのような構造は、ポストモダン以前の最初の頃からあったといえるのかもしれません。

近代において、人間は自分を自分で所有する存在として規定されることになったということですが、もちろんそのようにして意識されていたのではなく、人間はあくまで自立した存在として実体化されていました。

つまり、人間が本来持っているヒトとモノという二重性を隠蔽することから、近代が始まったと言ってもいいのかもしれません。

近代以前には奴隷やそれに類する存在がいたことが、紛れもなく人間は本来ヒトとモノの両面を持っていたことを意味しているのではないでしょうか。

近代になって、ヒトはモノを所有する主体、モノはヒトに所有される客体というように、ヒトとモノを峻別することになったことから、モノしか交換価値を持たないことになりました。

それは、近代以前の奴隷にあった人間の二重性(モノであってヒト)を隠蔽した結果ということになります。

近代とは、ヒトとモノとの二重性をカント的には内面化することで、ようやく成立するということになるものかもしれません。

また、ヘーゲルの弁証法では、一個の人格の中に主体と奴隷がいるとされています。

そして、その弁証法が内面化されたときに、近代人が発生するということになります。

人間はヒトでありモノであるという問題は、いつでも存在する問題といえそうです。

この二重性の問題は、会社の根幹にも実は同じ問題があるということでした。

そして、法人ということでは、国家も会社と同じと言えます。

従って、国家はまさに人間そのものということになります。

つまり、法人論争は国家論争でもある、ということになります。

国家には社会契約論と有機体論がありますが、これは法人名目説と、法人実在説に対応することになります。

有機体論とは、基本的に国家は大地に根付いた、自然発生的な実在としてあるとする考え方(法人実在説)になります。

そこには郷土愛もあります。

ところが、そうではなく国家と個人は個別に契約したもの(社会契約論)ですが、そのことが隠蔽されているために、有機体論と論争になります。

名付ける(法人名目説=社会契約論)ということが、人間(あるいは国家)をモノ化したということです。

肌に名前を刻み付けることでその人間を所有することができた段階から、すでに人間の二重性は発生していたということになります。

オランダの東インド会社が、ヨーロッパ近代国家の雛形としての会社をつくりました。

そして、ヨーロッパ近代国家が東インド会社を模倣していったということになります。

自然発生的であった国家(法人実在説=有機体論)が、会社という組織をつくることによって、国家がみずからを名づけ客体化していく(法人名目説=社会契約論)ことになるわけです。

会社のほうが近代国家の起源になっているということです。

(つづく)

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by kokokara-message | 2011-05-27 23:35 | 読書(法人論)

法人論/岩井克人(1)

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資本主義から市民主義へ

デ・ファクト・スタンダード(事実上に標準)は、実体的な根拠を必要としない自己循環論法ということになります。

たとえば、ケインズの美人投票がそのようなものではないでしょうか。

ケインズの「一般理論」の中には、美人コンテストの話が紹介されています。

この美人コンテストで、重要なことは、もっとも投票の多かった美人に投票をした人が多額の賞金をもらえることになっていることです。

まず、古典的な審美論を信じている人であれば、美のイデアを体現した女性が美人ということになります。

イデア論(イデアろん)は、哲学者プラトンが提唱した世界観。個別の事物の背後には、その本質であるイデア (Idea) が実在すると主張する哲学の存在論のひとつ。(ウィキペディアより)

これは、経済学的には労働価値説に近い考え方といえるのかもしれません。

つまり、美人投票は、形而上学的な美の本質を備えている女性に投票すればよいということになるからです。

しかしながら、このような美人投票をするなら、おそらく賞金はもらえないのではないでしょうか。

では、近代的な意識で美人投票をすればどうなるでしょうか。

カント以降、近代においては、主体がすべての根拠になっていますから、美人もまた主体的に判断されるものということになります。

経済学的には限界効用学派ということになるのでしょうか。

限界効用(げんかいこうよう、Marginal utility)とは、財(モノ、およびサービス)を1単位追加して消費することによる効用(財から得られるメリット)の増加分のこと。近代経済学に登場した概念の一つ。(ウィキペディアより)

つまり、自分(主体)の好みの女性に一票投票するということになります。

しかしながら、やはりこれでも賞金はもらえないのではないでしょうか。

では、美人投票で賞金を稼ぎたいとするなら、いったいどうすればよいのでしょうか。

賞金を稼ぎたいのであれば、他の投票者が平均的に美人だと判断しそうな女性に投票するのがもっとも合理的であるはずです。

ポストモダン的な審美論の始まりということになります。

つまり、美の基準が、イデアといった超越的な根拠からも、好みといった主体的な根拠からも、離れてしまうことになります。

平均的な他人が誰を美人だと判断するかを平均的な他人がどう予想するかをさらに予想する必要がある、ということになります。

予想の重層化を無限に繰り返していくと、選ばれる美人は何の実体からも乖離した、まさに単なる記号ということになってしまいます。

誰であってのよいということにもなります。

最終的には美人というのは、美人といわれているから美人であるという自己循環論法になってしまうわけです。

むろん、そこではイデアや主体や他人という根拠も消えてしまいます。

美が美であるという根拠はどこにもない。

これが、デ・ファクト・スタンダード(事実上の基準)といわれるものです。

美の基準を、古代、近代、ポストモダンと発展史的に進んできたのですが、その究極としてデ・ファクト・スタンダードの美に到達してしまうということになりました。

ところで、ギリシア神話のトロイ戦争では、トロイの王子とスパルタの王妃が駆け落ちすることから始まります。

しかしながら、このときトロイの王子はスパルタの王妃を見て恋をしたのではない。

スパルタの王妃が美人であることが、ギリシア全土に知れ渡っていたから、トロイの王子が恋をすることになった。

つまり、王子は、美人の記号としての王妃に恋をしたということになります。

古典古代といわれる時代にあっても、美の原理は、デ・ファクト・スタンダードというポストモダンの原理でしかなかったということになります。

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by kokokara-message | 2011-02-01 22:44 | 読書(法人論)