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四天王寺参詣道の4回目です。

四天王寺南大門から南へと続く四天王寺参詣道を探索してきました。

そして、現代にまで残る古代の痕跡をたどることで、四天王寺から阿倍野までのほぼ一直線の四天王寺参詣道が確認できました。

ところで、少し話しは変わるのですが、阿倍野という地名の由来はご存知でしょうか。

阿倍野(あべの)は、古代の豪族「阿倍氏(あべし)」の居住した土地であったとするのが通説となっているようです。

古代豪族の阿倍氏は、飛鳥時代から奈良時代初めにかけて興隆を極めた氏族であり、大化の改新の時に左大臣に登用された阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ、~649)を実質的な氏祖とする氏族です。

その子阿倍御主人(あべのみうし635-703)は右大臣にまで登用されますが、その孫の阿倍広庭(あべのひろにわ659-732)は中納言までであり、さらにその後は藤原氏の台頭により阿倍氏の登用機会は少なくなっていきます。

やや時代が下って平安時代になると、陰陽師の安倍清明が現れ、従四位下・播磨守に登用されます。

さらに時代が下れば、幕末に老中首座にあった阿部正弘が阿倍一族とされているようです。

ちなみに、「阿倍」「安倍」「阿部」とみな表記が違っていることにご注意ください。

現在でも、区名や市営地下鉄、阪堺電気軌道の駅名は「阿倍野」となっていますが、近鉄電車は「大阪阿部野橋駅」と表記が異なっています。

「倍」と「部」の違いですね。

以下、表記の相違について、ウイッキペディアに説明記事がありましたので、引用をさせていただきます。

阿倍野橋や阿倍野区など、現在見られる表記の大半は「阿倍野」であるが、近鉄阿部野橋駅は「阿部野」と異なる。

他には阿部野神社などがある。

「阿部野」は、中近世において主流であった表記で、当地の前身にあたる東成郡阿部野村もこちらの表記である。

阿部野村は1663年に同郡天王寺村から分村。

1889年に天王寺村と合併し、天王寺村大字阿部野となった。

近鉄電車は、1923年の開業当初は大阪天王寺駅と称していたが、翌1924年には大阪阿部野橋駅に改称されている。

改称および「阿部野」を採用した理由は大字阿部野への配慮からとも言われるが真相は不明である。

なお、翌1925年に天王寺村(1897年に南区へ編入された地域を除く)は住吉区へ編入され、この時に「阿部野」から「阿倍野」(住吉区阿倍野町)へ表記が変更されている。

以上のような経緯から近現代において主流となった「阿倍野」ではあるが、地名の由来として最も有力な説とされる阿倍寺やその建立者である阿倍氏に基く表記であり、正誤・新旧の分別があるわけではない


以上のように、少しややこしい経過があったようですが、ひとつ確かなことは、阿倍野の地名の由来は、阿倍氏の創建した阿倍寺にあったということのようです。

では、今は現存しない阿倍寺という寺院は、いったいどこにあったのでしょうか。

この疑問に答える前に、もう少しだけ逸脱することをお許しください。

阿倍氏ゆかりの寺院で最も有名な処は、奈良県桜井市にある安倍文殊院(あべのもんじゅいん)ではないでしょうか。

安倍文殊院は日本三大文殊としても、また陰陽師安倍清明の生誕の地(異説もあるようですが。)としても、全国的に名の知れた寺院です。

そして、この安倍文殊院の境内には、精巧かつ高度な石工技術により造られた石室と羨道を持つ文殊院西古墳と文殊院東古墳があります。

なかでも、文殊院西古墳は、国の特別史跡に指定されていて、その被葬者は、大化の改新の時に左大臣に登用され、阿倍氏の実質的な氏祖の阿倍倉梯麻呂であることが確実視されているようです。
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現在では安倍文殊院が阿倍氏ゆかりの寺になっていますが、おそらく文殊院西古墳と文殊院東古墳のロケーションから、飛鳥時代におけるこの境内は阿倍氏の墓域であったと考えられます。

つまり、阿倍氏の寺院ではなく、お墓ということです。

では、安倍文殊院が墓域であったのなら、当時阿倍氏が建立した阿倍氏ゆかりの寺院はどこにあったのでしょうか。

これについては、現在の安倍文殊院から西南300メートルのところにある国史跡「安倍寺跡」が、阿倍氏創建の寺院とされています。
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以下は、国史跡・安倍寺跡に係る桜井市教育委員会の説明資料の引用です。

国史跡・安倍寺跡
この地域一帯は、阿倍氏一族の本拠地であったといわれ、氏寺である安倍寺(祟敬寺)のこんりゅうは山田寺の創建時代(641年~685年)とほぼ同じ頃で「東大寺要録」では阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の建立であると伝えています。

ほぼ伽藍が整備されたのは阿倍朝臣御主人(あそんみうし)の時代だということもわかってきました。

また、寺の範囲は約200メートル四方で、伽藍は南面し、東に金堂、西に塔を配し、北に講堂という法隆寺式、あるいは川原寺式に近いようです。


つまり、安倍寺(飛鳥時代の表記では阿倍寺になるのかもしれません。)は、左大臣阿倍倉梯麻呂が建立した寺院であり、その伽藍配置は塔と金堂が左右に並ぶ法隆寺式、あるいは川原寺式ということになるようです。

一方、大化の改新の功労者である右大臣蘇我倉山田石川麻呂が山田寺を創建するのは、大化の改新より数年前の641年のことであり、その伽藍配置も日本の仏教寺院としては古い様式の四天王寺式とされています。
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伽藍配置だけ見ると、四天王寺式である山田寺が、法隆寺式、あるいは川原寺式の安倍寺(阿倍寺)よりも古いということが言えそうです。

従って、安倍寺(阿倍寺)は、山田寺(641年創建)よりも、後から創建されたと推定できるのではないでしょうか。

また、大化の改新の功労者である蘇我倉山田石川麻呂が、朝廷NO.3の右大臣にしか登用されなかったことに比べ、大化の改新で表立った活躍のない阿倍倉梯麻呂が、朝廷NO.2の左大臣に抜擢されたのは異例といえます。

その内実は定かでありませんが、おそらく阿倍倉梯麻呂が権勢を誇るようになるのは左大臣に抜擢された大化の改新以後のことであり、従って安倍寺(阿倍寺)の創建もそれ以後と考えるのが自然ではないでしょうか。

そして、大化の改新から4年しか経過していない649年には、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれ、左大臣の阿倍倉梯麻呂も逝去してしまうことになります。

急逝した阿倍倉梯麻呂の後継には、その子阿倍御主人(あべのみうし635-703)がつくことになります。

阿倍御主人は、やがて672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方の功臣となり、従二位・右大臣にまで登りつめていく人物です。

先の説明にもありましたように、安倍寺(阿倍寺)の伽藍が完成するのは、阿倍御主人が重用されていた天武・持統天皇の時代ということになります。

安倍寺(阿倍寺)が完成するのが、飛鳥・藤原京の時代であるのなら、安倍寺(阿倍寺)が創建されたのはいつでしょうか。

ご存知のように、日本書紀巻27には、法隆寺の焼失についての記事が存在します。

「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」、つまり、天智天皇9年(670年)に法隆寺(若草伽藍)が一屋余すところなく焼失したという記事です。

そして、670年に焼失した法隆寺、いわゆる若草伽藍は、塔と金堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式であったことが分かっています。

法隆寺再建の時期に通説はありませんが、少なくとも今ある法隆寺が焼失後に再建されたことだけは間違いなく、西に塔、東に金堂が並ぶ特異な法隆寺式は、再建後完成した伽藍配置ということにになりそうです。

安倍寺(阿倍寺)が、塔と金堂が左右に並ぶ法隆寺式(あるいは、天智期に創建とされた川原寺式)ということになれば、安倍寺(阿倍寺)の創建は、おそらく若草伽藍の焼失(670)時期とも大いに関係してくると思われます。

また、阿倍御主人は、壬申の乱(672年)の功績によって朝廷から重用されたことを考えると、阿倍御主人が実質的に安倍寺(阿倍寺)の建立を進めることができたのは、おそらく壬申の乱(672年)以後のことではないでしょうか。

氏寺としての安倍寺((阿倍寺)の構想はあったとしても、実質的にその建立が一気に進むのは、孝徳・斉明・天智天皇の時代ではなく、壬申の乱(672年)以後の天武・持統天皇の時代になってからではないでしょうか。
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飛鳥京には、その北東の方向(現代の桜井市)に向かって、磐余道(いわれみち)と呼ばれる古代の官道が整備されています。(下の地図を参照してください。)

その磐余道の途上には、大化の改新で右大臣になった蘇我倉山田石川麻呂が創建した山田寺があり、その数キロ先には同じく大化の改新で左大臣になった阿倍倉梯麻呂が創建したとされる安倍寺(阿倍寺)があります。

先の記事でふれたように、桜井市の安倍寺跡にあった阿倍寺(ややこしいですね。)の実質的な建立は、その伽藍配置からすると、天武朝以後に、阿倍御主人によって行われたのではないかということでした。

古代豪族が氏寺を創建したり、あるいは氏族の墳墓を造営できたのは、おそらくはその地域が権力者の権力基盤であったからであると考えられます。

阿倍倉梯麻呂の墳墓とされる文殊院西古墳やそれに変わる安倍寺跡(阿倍寺)が桜井市の安倍文殊院周辺に造営されていることからすると、少なくとも、このあたり一体が阿倍氏の本拠地であったことについては間違いがないと思われます。

次回は、阿倍氏のもうひとつの本拠地と考えられる、大阪市阿倍野区の阿倍寺について考察してみたいと思います。

(つづく)

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by kokokara-message | 2012-07-07 09:47 | 我流古代史(四天王寺編)

四天王寺参詣道は、現代では庚申街道と呼称され、ひっそりと古代の痕跡をとどめています。

そして、前回の記事では、近鉄阿部野駅北側の都ホテルに設置された庚申口が庚申街道の一部であるということでした。

今回は、その続きとなります。

近鉄阿倍野駅北側の庚申口からほぼまっすぐに地下街を南側へと抜けていくと、ちょうど正面にマツモトキヨシが見えてきます。

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そして、マツモトキヨシのすぐ左側には、地下街から地上へと向かう通路が見えてきます。

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これが松崎口と呼ばれる通路です。

近鉄阿倍野駅北側にあった庚申口と同様に、庚申街道の一部を構成することになります。

そして、この松崎口は、四天王寺南大門からまっすぐに延びた参詣道の延長でもあるということです。

松崎口から地上に出ると小さな広場があり、そこには以下のような歴碑が設けられていました。

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庚申街道歴碑

大阪府誌(明治三十六年刊)によれば、この道路には一貫した道路名はないが、明治三十一年頃に「庚申街道」の名称が成立するまでは、「葛井寺道」など様々な名称を持っていたといわれ庚申堂参りの道でもあった。

その代表的な経路は、起点を四天王寺南大門前から南へ庚申堂を過ぎ、現JR天王寺駅と近鉄阿部野橋駅を横断して終点の現平野区長吉川辺町で古市街道と合流して終わっていた。

現在「庚申街道」の名称が生きているのは、途中の桃ヶ池当たりまでのもので、それ以降は、区画整理事業、道路拡幅もあってときの移り変わりとともに「庚申街道」と称したという記憶をもつ人も少なくなってきたようである。

昭和五十二年、大阪都市計画事業近鉄南大阪線連続立体交差事業により、踏み切りでの交通事故や交通渋滞といった交通問題を解決することを目的として、新しく都市計画道路阿倍野松崎線が設けられ、踏み切り道は廃止された。

また、庚申街道は、東地下駅コンコース広場として生まれ変わり、南北連絡の地下道路として線路をまたぐ南と北の両地域を結ぶことになった。

一方、大阪市・近畿日本鉄道株式会社・庚申街道を守る会など関係者の間で地域将来の発展のための改良計画について協議が重ねられた。

その結果、緑豊かなサンクンガーデンの松崎口・阿部野橋駅東地下駅・庚申口が設けられ、JR・地下鉄との乗り換え・連絡が便利になり、この界隈も大きく変貌を見せた。

ここにこの地域の変貌を偲ぶ縁として、多大の努力を領けられた関係者共々歴碑として残すこととなった。

昭和六十三年十一月吉日


これによると、四天王寺南大門から続く参詣道が庚申街道と呼ばれるようになるのは、近代に入ってからのことのようです。

また、それ以前には「葛井寺道」とも呼ばれていたこともあったようです。

この道の呼称は時代とともに変遷しているものの、四天王寺南大門から南へとほぼ一直線に向かう道は、おそらく古代からそのロケーションを変えていないのではないでしょうか。

また、歴碑文にあるとおり、道の一部は建造物に組み込まれて地上から地下へと移り変わるものの、参詣道の持つ本質(信仰の道)は今も変わらずに脈々と受け継がれているのかもしれません。

ご存知のように、四天王寺は創建以来1400年間そのロケーションを変えていません。

従って、今一度整理すると、四天王寺南大門から南にまっすぐ延びたこの道は古代四天王寺の参詣道ということになるはずです。

そして、この道の延長線にあたる庚申口、松崎口、そして庚申街道そのものが古代四天王寺の痕跡ということになりそうです。

上町台地には、これ以外にも古代四天王寺の面影を伝える痕跡が多く残されているのではないでしょうか。

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写真では上が南側になるため、本文の説明とは逆になりますが、庚申口、松崎口、そして庚申街道の位置関係はよく分かるのではないでしょうか。


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by kokokara-message | 2012-05-27 21:54 | 我流古代史(四天王寺編)

前回の記述では、四天王寺南大門から南下していくと、その道筋には古代四天王寺の痕跡を見出すことができるということでした。

つまり、今も残る庚申堂、そしてJR天王寺駅の地下通路、JR軌道敷に架かる歩道橋などがその痕跡に当たるということでした。
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今回は、JRの軌道敷に架かった歩道橋を渡り切った場所から、さらに南下していくことにします。

まずは、歩道橋を渡った位置の、JRと近鉄の間を走るあびこ筋のちょうど向いが都ホテルです。

そして、この都ホテルに設置された地下街への入口が、今回古代四天王寺参詣道の痕跡としてご紹介するものです。
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地下街への入口は、近鉄阿部野橋駅東口とだけ表示されいるため、一見すれば何の変哲もないありきたりの地下通路にしか見えないかもしれません。

しかしながら、よく観察すると、そこには隠された古代四天王寺参詣道の痕跡を見出すことができます。

前回も記述したように、四天王寺南大門から南下する四天王寺参詣道は、近世以降庚申街道と呼ばれることになります。

つまり、南大門を起点とする古代の四天王寺参詣道は、近世以降は庚申堂への参詣道に変わっていくということです。

従って、現在に残る庚申街道をたどるということが、迂回的にはなるのですが、古代四天王寺参詣道の痕跡をたどることにもなるというわけです。
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ご覧いただいているのが、都ホテルに設置された地下通路の案内標識です。

正面から見ると、特に気になるところがない、ただの案内標識に見えるのですが、その裏側に回ってみると、意外ともいえる表示を発見することになります。

ご覧のように、案内標識の裏側には、ひっそりと「庚申口」と表示されているではありませんか。

つまり、この地下通路は「庚申口」と呼ばれる、庚申街道の延長であったということになります。
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さらに、地下街に入ってみると、ご覧のような「庚申口」と書かれた案内標識も目にすることができます。

地下街が、庚申街道であるということになるのでしょうか。
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JR側の歩道橋のあったちょうど向い側が「庚申口」に当たります。

その位置的関係から推定すると、「庚申口」は庚申街道の一部であると考えるのが自然といえそうです。

日常、何気なく通過していた都ホテルの地下出入口が、庚申街道の一部であったという事実は大変な驚きです。

「庚申口」は、近鉄阿部野橋駅のちょうど北側に位置しています。

庚申街道は、近鉄阿部野橋駅の地下街を縦断し、さらに南側に当たる松崎口へ進んでいくことになります。
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by kokokara-message | 2012-04-07 10:59 | 我流古代史(四天王寺編)

大阪のディープサウス、天王寺といえば聖徳太子が建立した四天王寺ではないでしょうか。

四天王寺への参詣経路は、六代目笑福亭松鶴の「天王寺詣り」にもあるように、一心寺のある逢坂方面からアプローチをする、つまりは西門から参詣するという方法が一般的とされてきたようです。
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しかしながら、四天王寺は古代の仏教寺院の典型的な伽藍配置で建立されているように、南側の南大門が正面とされることになります。

つまり、四天王寺には西門から参詣する経路と南大門から参詣する二つの主要な経路が存在していたことになります。

そして、落語の「天王寺詣り」にもあるとおり、近世以降の庶民は西門からのアプローチするという参詣経路が主流になっていたのではないでしょうか。

このため、どちらかといえば南からのアプローチは、忘れ去られた感があるように思われます。

現在の南大門に向かう参詣路はどのようになっているのか、四天王寺界隈を歩いてみることにします。

まずは、四天王寺の南大門を出て、南側に下っていくと、すぐ右側には庚申堂(下の写真の右側の土塀)が見えてきます。

庚申堂の東側の道は、かっては庚申街道(こうしんかいどう)と呼ばれていたらしく、四天王寺南大門前を起点として、平野区長吉川辺町の方に南下し、古市街道(大阪府羽曳野市)へと合流していた模様です。

かってはにぎわったとされる四天王寺南大門からのこの参道も、今では多くの参詣者から忘れ去られてしまっているのかもしれません。
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庚申堂は古来より四天王寺の主要な寺院のひとつとされきた歴史があるようです。

これは仏教寺院である四天王寺と道教と深い関わりを持つ庚申堂が原初においてつながっていたことを伺わせる痕跡のひとつといえるのではないでしょうか。

さらに、庚申信仰の石像(上の写真)と聖徳太子が生まれた明日香に現存する石像群(下の写真、猿石など)は、その造形からの類似性が十分に指摘ができるところであると思われます。
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庚申堂の見ざる、聞かざる、言わざる。
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明日香村の吉備姫王墓に置かれている猿石。

そして、庚申堂を南下していくと、やがて参詣道は途絶え、JR天王寺駅の軌道敷地に突き当たることになります。

下の地図でも分かるように、四天王寺南大門から南下する参詣道は、JRの軌道敷地により南北に分断される形になっています。

ただし、参詣道の南端にあたるJRの軌道敷地の手前(東映ホテル裏側)は、ご覧のような古びた地下道への入口が設けられています。

この地下道は、JR軌道敷地により中断された参詣道を現代に作り直したものと推察され、もしそうであるなら古代の参詣道の面影を現代に伝える痕跡といえるのかもしれません。
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地下道の中は、ご覧のような様子です。
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そして、30メートルほどの地下道を通り抜けると、今後はJR軌道敷地の地上に架かる歩道橋に出ることになります。

わざわざこの位置に歩道橋が計画される意図を推察すれば、先の地下道と同様、この歩道橋が四天王寺参詣道の一部として利用されることを念頭に架橋されたと考えるのが自然ではないでしょうか。
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歩道橋を渡り終えると、その先(南側)には都ホテルに設置された地下入口が見えてきます。

そして、ここで再び、近鉄の軌道敷地によって参詣道が南北に分断される形になってしまいます。
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天王寺周辺は近代以降繁華街として発展してきましたが、この四天王寺参詣道のような古代の痕跡は、今でもところどころにその面影を残しているといえそうです。

四天王寺の建立時期(6世紀末)が、仏教思想が日本古来の思想の中に取り入れられ、政治的にも中央集権化が図られていく時機と重なっています。

このようなことから、四天王寺研究は日本の原型を知るための格好の手掛かりにもなるものと考えるのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2012-02-11 11:46 | 我流古代史(四天王寺編)

四天王寺の謎(3)

現在の森之宮神社(JR森ノ宮駅の西側)には、元四天王寺が建っていたという伝承が残っています。

そして、現在の森之宮神社の本殿は、南側を正面にして建てられています。

しかしながら、四天王寺のボランティアガイドさんの説明によると、もともとの神殿は現在のように南面ではなく、西側を正面とし東側を仰ぐような形で建てられていたということです。

少なくとも伝承によれば、神殿は南面ではなく、西面していたということになるようです。

下の写真は、森之宮神社の西側にあたる森之宮公園から神社に入る参道を撮影したものです。

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西面した鳥居をくぐると、ちょうど東側に建っているビルを仰ぎ見る形になっています。

6世紀末にも、西面した鳥居が建てられて、その向こうに元四天王寺の神殿が建っていたということになるのでしょうか。

また、元四天王寺の神殿とは別に、仏教寺院としての元四天王寺も建てられていますが、その伽藍配置については諸説あるようです。

現在の四天王寺は、南を正面として南大門、中門、塔、金堂が一直線に並ぶ、いわゆる四天王寺伽藍方式となっています。

そして、元四天王寺についてもこれと同じ伽藍配置になっていたとする説が伝えられていますが、これ以外にも所説があり、確かなことは分からないというのが現状のようです。

現在の四天王寺は、森之宮の元四天王寺から約4キロ南方に移動した位置に建てられています。

二つの四天王寺の位置関係を示す地図です。

ただ、この二つの四天王寺は、ともに上町台地の丘陵の上に建てられているという共通点があります。

上町台地とは、河内潟の海に突き出た南北に細長い地形をした半島のことですが、その東西の幅は2キロもなかったようです。

そして、この二つの四天王寺のうち、現在の四天王寺は細長い半島の西側の沿岸部に建てられていますが、森之宮にあった元四天王寺の方は、半島の東側の沿岸部に建てられていたという大きな相違点があります。
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皆様もご存知のように、現在の四天王寺は西に沈む太陽を象徴とするためのロケーションが生かされた、西方浄土の世界観を持った聖地であることはよく知られていることです。

四天王寺の近くには夕日丘という地名も残っており、上町台地の西海岸部から眺める海に沈む夕日は、おそらく極楽浄土をイメージさせるものであったと思われます。

これに対して、森之宮にあったとされる元四天王寺は、上町台地の東海岸部が選ばれているようです。

西側ではなく、東側を意識した場所に聖地があったということになるのではないでしょうか。

つまり、伝承に揺ると、元四天王寺にあったとされる神殿は、西側を正面とし、東側を仰ぎ見るような形で建てられていたということでした。

また、そのロケーションは、上町台地の東海岸部が選ばれていたということです。

四天王寺は、西方浄土の世界観を実現するため、上町台地の西海岸を選んで建てられたということでしたが、では、元四天王寺とその神殿が、上町台地の東側を選んで建てられていたということの意味は何であったのでしょうか。

一番下の古代地図をご覧ください。

少し補足させていただきます。

まず、河内潟に突き出た上町台地を東西に貫く水路(現在の中ノ島の東端あたりです)は、仁徳天皇の時代に河内潟の氾濫を防ぐ目的で造成された人工水路といわれています。

これは、古代の土木技術の高さを示すものでもあり、日本初の大規模な土木事業であったとされています。

そして、6世紀末頃の森之宮の位置は、この上町台地を東西に分断する人工水路のすぐ南側にあたります。

つまり、分断されることになった上町台地の先端部にあたるということです。

この地図をみればお分かりのように、上町台地のすぐ東側は河内潟の淡水湖になっています。

おそらく、元四天王寺のあったすぐ東側は足下まで河内潟が迫っており、その淡水湖は対岸の生駒山までずっと続いていたということになるようです。

現在のロードマップの感覚からすれば、森之宮付近から大阪市内を東西に横断する中央大通(阪神高速東大阪線も同じです)に沿って、まっすぐ東の方向に自動車を走らせていくというイメージになるのでしょうか。
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そして、中央大通のルートは、分断された上町台地の先端部から、河内潟の海底を通って、やがて生駒山のふもとの湊に突き当たる古代の東西基軸に重なっているように思われます。

つまり、6世紀末頃の海路では、森之宮の元四天王寺付近から船に乗って、まっすぐ東へ向かうと、河内潟の東端にあたる草香の津まで最短距離で到着することができるということです。

そして、その突き当りの湊のあたりが、当時の瀬戸内海の東端とされていた、日のもとの日下(くさか)と呼ばれていた地ということになります。

また、そのすぐ近くには古代の聖地でもある神武東征聖跡や石切神社などの古代の聖地が存在しています。

さらに興味深いことには、この東西基軸を延長したその先には、ちょうど生駒山の頂があるということです。

現在の四天王寺は、西海に沈む夕日をイメージさせるロケーションを選んだものということでした。

これに対し、元四天王寺の東側を意識したロケーションからすると、おそらく東の生駒山か、あるいは生駒山の頂から昇る朝日をイメージした聖地ということになるのではないでしょうか。

おそらく、朝日が象徴するものは、生命の再生ということになると思われます。

つまり、森之宮にあった元四天王寺の神殿から見えた光景は、きらきらと輝く淡水湖の向こうに神々しいまでの生駒山が鎮座し、その山頂からは日々新たな太陽が再生されるというイメージがあったのではないでしょうか。

西に沈む夕日は、死後の世界を意味することになると思われます。

これに対して、東から昇る朝日は生命の再生を意味するものであり、おそらく生駒山を聖地とする太陽信仰の世界観が当時存在していたのではないでしょうか。
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by kokokara-message | 2010-08-26 21:38 | 我流古代史(四天王寺編)

四天王寺の謎(2)

前回は、四天王寺を南側の方向から参詣するというアプローチの方法をとりました。

そして、四天王寺を何度も訪れたことがある人でも、南側からの光景を目にする機会は少ないのではないかという疑問を提示しました。

なぜなら、現在では四天王寺の参詣は西側の極楽門からということが一般的になっているように思われるからです。

また、四天王寺の西側に建つ石鳥居(重要文化財)は鎌倉時代に造られたものであり、それ以前には木製の鳥居があったという伝承が残っているようです。

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つまり、四天王寺では西の方向から鳥居をくぐって参詣するというスタイルは、現在だけに見られる習慣ではなく、四天王寺の創建当時からずっと続く形式ではなかったかということになります。

もちろん、近代まで、庚申街道が南大門から南に向かって通じていたという事実は残っています。

このことは、四天王寺の正面が南側であったことを示す証拠になるものと思われます。

そして、仏教寺院が南面することは中国伝来の様式であり、珍しいことではないということです。

以下では、四天王寺が南側を正面とする様式を持った建造物であるとともに、西側をもう一方の正面とする建造物ではなかったかという推定のもとに考察を加えていくことにします。

つまり、四天王寺には、タテ(南北)とヨコ(東西)の十字のラインが引かれていたということになり、タテ(南北)とヨコ(東西)のラインには、それぞれ別の意味が込められていたのではないかということです。

おそらく、このような謎は、古より誰もが一度は思いついたことのある謎といえるものであるのかもしれません。

この論考では、少しでもこの謎のコア(核)に近づけるよう、多くの推察を駆使しながら進めていくこととします。

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ところで、四天王寺が今ある場所に建造される以前、元四天王寺という建造物が現在の大阪城の南側にあたる森の宮の地に、創建されていたという伝承があることについてはご存知でしょうか。

JR大阪環状線の森之宮駅の西側にあたる、ちょうど玉造筋を挟んだ向かい側に森之宮神社があります。

そして、森之宮神社の由緒によれば、現在の四天王寺が建造される前、一時この地(森之宮)に元四天王寺が創建されていたということが伝えられています。

森之宮神社のホームページからその由緒を引用させていただきます。

大阪が「押照や難波」と詠まれた今から千四百数年前、崇峻天皇二年(589年)七月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願され、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。

その戦いに勝利されて、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りなさいました。

その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建なされたのです。

御父用明天皇崩御の後追慕の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさって、かつ宮殿を造営なさり、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟となりました。

初め境内地も方八町あったと云います。

そして本殿、拝殿始め楼門に至る迄華麗で、目を驚かすばかりだったようです。
 

この由緒によれば、用明天皇と穴穂部間人皇后を祭神としてお祀りし(神殿を建て)、四天王像を造り、元四天王寺をこの森(森之宮)に創建したということになります。

この伝承が正しいとするなら、四天王寺の創建は、現在の四天王寺の位置から上町台地を北上した半島の先端部にも近い、大阪城のすぐ南側ということになります。(下の古代の上町台地の地図を参照してください)

さらに、森之宮神社の社伝によると、現在の森之宮神社とその西側にあたる森之宮公園の一帯が、先の神殿と元四天王寺があった場所として推定がなされているようです。

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残念ながら、これらの推定は考古学上の調査に基づいたものではなく、あくまでも森之宮神社の社伝という言い伝えの域を出るということではありません。

しかしながら、「上宮聖徳太子伝補闕記」や「聖徳太子伝暦」などの諸書においても、四天王寺は元々大阪城付近の玉造辺り(森之宮のすぐ南側)にあったという記述が見られるように、一般にも広く信じられていたことが伺われるものです。

確かに考古学上の遺跡としての元四天王寺の発見には至っていませんが、傍証である森之宮神社の社伝や諸書の記述、それに民間伝承などを踏まえれば、単に荒唐無稽な作り話として済ませてしまうことができるものではなく、それなりに信憑性ある伝承として信じることができるといえるのかもしれません。

私の立場としては、ひとまず元四天王寺は森之宮の地に存在したという仮説に沿って、以下の論考を進めて行くこととします。

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by kokokara-message | 2010-08-24 22:35 | 我流古代史(四天王寺編)

四天王寺の謎(1)

これからするお話しは、謎解きのストーリーではありません。

あくまで、(私の)謎を謎のままに、少しだけ推察を加えて提示しただけのものです。

今の私には、残念ながら、これらの謎を解き明かすだけの知識や資料、なによりパワーの持ち合わせがないように思われます。

但し、そもそも謎とは、謎として過去から引き継がれて来たものであり、おそらく今後も合理的に解き明かすことができない構造を持ったものといえそうです。

現象学では、ありとあらゆる現象はその信憑性について語ることはできても、「ほんとう」には永遠に到達することができない(構造にある)とされています。

つまり、現象(謎)とは、グレーゾーンのいずれかでしかないということにもなります。

私の試みは、このようなグレーゾーンに、ほんの少しの切り込み(ひとつの着眼点)を入れる作業といえるのかもしれません。

つまり、現象(謎)を濾過するためのフィールターを、新たに一枚加えるという作業であると思われます。

幾層にも重なったフィールターが、一体何を濾過し、何を抽出することになるのか、残念ながら今の私には分かりません。

ただ、ひとつだけ言えることは、謎にコミットするということが、新たな謎(物語)の創作に参画していることでもあるということです。

人生が不可思議な他者(謎)との暗闘であるとすれば、他者(謎)との関係性(距離感)の構築が、自分の人生(物語)そのものになるといえると思われます。

人の限られた一生の中でコミットできる現象(謎)は、ほんのわずかしかありません。

従って、今の自分の目前に現れた現象(謎)といかに向き合うかという態度こそが、自分の人生(物語)を決定することになるのではないでしょうか。

謎とは、合理的に一元的な答えが出せるような構造を持ったものではないということでした。

おそらく、これが意味するところは、謎はその起源においても謎であった、つまり決まった答えがあって開始されたものではない、ということになるのではないでしょうか。

もともと決まった答えがないということが、起源ということになりそうです。

以下では、断片的な知識と資料に基づいてになりますが、思いのままに(私の)謎を記述していくことになります。

また、一般常識から逸脱したような、非常識な謎の提起をすることがあるかもしれません。

もし、無礼な点があるようでしたら私の無知蒙昧としてご容赦をいただき、お気づきの点などがありましたら、ぜひご教授を賜りたいものと考えております。
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見慣れない光景ですが、これは京都ではありません。

大阪の四天王寺を南の方角から撮影したものです。

最初に質問です。

四天王寺の参詣を南大門からされる方は、どのくらいおられるのでしょうか。

おそらく、西門の側から参詣されるというのが普通になっているのではないでしょうか。

仏教寺院の正面は南側とされているため、南大門から参詣するのが一般的作法とされています。

四天王寺南大門とその参道は、多くの参詣者から忘れ去られた存在になってしまっているのかもしれません。
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四天王寺南大門へと通じる参道には、上の写真のような庚申堂が存在します。

庚申堂の東側の道(四天王寺参道)は、かっては庚申街道(こうしんかいどう)と呼ばれていたらしく、四天王寺南大門前を起点として、平野区長吉川辺町の方に南下し、古市街道(大阪府羽曳野市)へと合流していた模様です。

そもそも、庚申信仰とは、中国の道教に起源を持つ民間信仰とされています。

以下はウイッキペディアからの引用とさせていただきます。

具体的には、「庚申の日」に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。『入唐求法巡礼行』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあり、おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと思われる。すなわち守庚申とは、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いである。

要するに、庚申の夜は邪悪なものから身を守るため、夜を眠らずに過ごすという習慣があったらしく、現在でも「庚申の日」のこのような習慣は一部においては続けられているとのことです。

しかしながら、現在では四天王寺南大門への参道は、「庚申街道」と呼ばれなくなってしまい、また庚申堂が参拝者でにぎわう光景もかってのようには見られなくなってしまったようです。

四天王寺南大門の参道を偲ぶ昔日の面影は、もうなくなってしまったのかもしれません。

また、四天王寺の南側のあたりは、現在大道(だいどう)という地名で呼ばれています。

これは、日本書紀の推古天皇21年(613年)にある、「難波から京に至るまでに大道を置く」という記述にある大道の名残りでもあるようです。

大道は、後に難波大道を指すことにもなるらしく、孝徳天皇の難波宮から竹内街道(堺市北区)まで続く南北の直線道路がそれにあたるということです。

つまり、古代の官道が四天王寺のすぐそばを南北に通じていたということです。

また、四天王寺のすぐ西側(現在の谷町筋)には、熊野街道と呼ばれる上町台地の稜線に沿った街道が通っています。

熊野街道は、大坂の渡辺津(大阪市中央区天満橋付近)から、四天王寺、住吉大社、堺を通り、和歌山から紀州田辺を経て、熊野三山へと向かう熊野参詣のための信仰の道です。

平安時代の中期以降に皇族や貴族によって始められたらしく、その後室町時代になると武士や庶民の熊野参詣も盛んになってくるということです。

以上のことからすると、四天王寺は古代より大阪上町台地における交通の要所として位置づけられていたことが分かります。
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また、同じく参道沿いには、推古天皇の22年(614)に創建されたとされる超願寺(上の写真)が存在しています。

超願寺は聖徳太子の創建と伝えられ、太子が蘇我馬子の末子慧観を住まわせたとされています。

そして、超願寺には類焼を防ぐための泥土で塗りこめた土塔(三重塔)があったことから、この地を土塔とも呼ばぶようになったといわれています。

また、超願寺には、この近くの村で生まれ育った、浄瑠璃節の中興とされる竹本義太夫の墓も残されています。
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四天王寺の南大門です。

四天王寺の南大門をこちらからご覧になった方は、少ないといえるのかも知れません。

四天王寺は何度も焼失し再建が繰り返されたことから、推古朝時代の建造物は現存しないのですが、伽藍配置だけは創建当時のままとなっているようです。
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南大門から見える光景は、手前が中門で、向こうに聳え立っているのが五重塔です。

南正面から見た五重塔は、その存在感に圧倒されるものがあります。

この五重塔に一体どのような意味が込められていたというのでしょうか。

教科書的な解釈では、仏像を安置する金堂よりも、仏舎利を納めたとされる塔(卒塔婆=そとば)が重要視されていたということになるのでしょうか。

また、この伽藍配置は四天王寺式と呼ばれ、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ様式になったものです。

仏教伝来の初期寺院に特徴的な伽藍様式とされていて、四天王寺以外にも、法隆寺若草伽藍や斑鳩・中宮寺、飛鳥・山田寺などが、同じ四天王寺式伽藍配置とされています。

ただ、我が国最初の仏教寺院である飛鳥寺は、中門の正面にあたる塔を、あとの三面から三つの金堂が囲むように配置される独特な伽藍配置になっています。

また、法隆寺西院伽藍(世界遺産)も、中門があって、向かって右側に金堂、左側に五重塔が真横に並ぶという、左右非対称の日本独特の伽藍配置になっています。
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このような方向(西側)から見る四天王寺は、見慣れた、皆様がよくご存知の四天王寺といえるのではないでしょうか。

向かって右側が南大門(南側)の方向にあたり、五重塔と金堂が南北一直線に並んでいるのが良く分かります。

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by kokokara-message | 2010-07-24 18:11 | 我流古代史(四天王寺編)