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以下は、今から8年程前に某大学で拝聴した、養老孟司氏講演会の講演記録(要旨)です。

養老孟司氏の講演やその著書は、えらそうであるとか、難解であるとか、本質とはかけ離れた曲解がなされていることが多いように思われます。

氏は、自らの言葉で、あたりまえのことを、あたりまえのこととして、平明にお話しされているだけです。

内容は普遍性の高いものであり、8年経過した今でも決して色あせることはなく、ますます輝きを増しています。

当時は気づかなかったことにあらためて気づかされるなど、内容はエキサイトで新鮮そのものです。

それでは、開演時間となりました。

最後までご一読いただきますようお願いいたします。

【開演】

ヒトへの出入力関係からすると、感覚は入力であり、運動が出力という関係になっています。

そして、その間に介在するものが脳であり、脳で意識が発生するということになります。

感覚の入力によって脳に意識が発生しますが、脳は意識が発生する0.5秒前からすでに作動を開始しています。

つまり、意識は脳が作動を開始したことによって発生する関係にあるということです。

脳の一番の特徴としては同じ(同一性)という認識ができることです。

脳の「同一性」という特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できることが可能となります。

そして、脳の「同一性」の特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できる機能を持った「言葉」の使用が可能となったわけです。

しかしながら、言葉が使用できることで、脳の他の能力が低下するという結果にもなってしまいます。

脳を動かすということは、観念という意識を発生させるだけではなく、身体を動かすこともまた当然脳を動かすことであります。
  
たとえば、絶対音感とは、音の高低がそれぞれ別の音として認識される能力のことです。

絶対音感と、先天的に動物に備わった機能と言えます。

人間の乳児にも絶対音感は備わっていますが、使用しないとその能力は衰えてしまうことになります。

一方、絶対音感に対して相対音感があります。

相対音感とは、音の高低に支配されずに同じ言葉を同じ言葉として認識できる能力のことです。

つまり、音の高低にかかわらず同じ言葉を同じ言葉として認識できる相対音感を得ることで、言語の使用が可能となったといえます。

このことを文化的・進歩的能力の獲得と思っているようですが、本来動物が保有しているはずの絶対音感が消滅した結果ということも出来ます。

このことからすると、現代人は差異(違い)の感覚能力が劣化し、ダメになってしまったということになります。

ところで、脳の特徴の同じという感覚は、差異(違い)をなくしてしまう非常に乱暴な感覚ではありますが、その結果としてヒトは同一性を前提とする言葉や貨幣を使用することが可能になったということはできます。

(【筆者】蛇足ながら、言葉は概念という同一性を使用し、貨幣は価値という同一性を使用して、いろいろなモノを同じモノと認識させる機能を持った媒体です。したがって、言葉や貨幣は交換(コミュニケーション)を促進させるものと言えます。)

考古学的には、新人類のホモサピエンスがはじめていろいろなモノを同じと認識する能力を取得し、言葉や貨幣の使用が可能になったと言われています。

一方、旧人類のネアンデルタールの脳には同じという能力は備わっていません。

ネアンデルタールの遺跡から出土する遺物はその目的が想像できるものばかりで、貨幣のように「象徴」を表すような遺物などは出土しておりません。

このことからネアンデルタールは、言葉や貨幣を使用できなかったと考えられています。

ホモサピエンスの脳は同じという能力を獲得することで貨幣や言葉が使用できるようになり、交換(コミュニケーション)が可能になったということがいえます。

そして、貨幣や言葉の同じにするという能力を進歩や便利と思っているようですが、この同じという能力を突き詰めてゆくと、論理的には宇宙を統括する唯一絶対神にまで行き着くことになります。

つまり、西洋社会が発見した一神教の世界観があるということです。

ところで、NHKの報道は、公正中立であると言われています。

しかし、NHKの報道の視点もひとつの視点でしかなく、他のある特定の個人の視点とは等価の関係にあり、決してNHKだけが公平・客観・中立ということはできません。

つまり、一人ひとりは「視覚的」には違うものを見ているはずなのに、言葉や情報にすると同じことを表すことになってしまうということです。

個性が大切といわれますが、個性とは遺伝子であり身体そのものであるということです。

ナンバーワンよりオンリーワンという表現がありますが、普通ナンバーワンといわれるようなヒトは稀にしか存在しませんが、オンリーワンとはモノや身体でいうとあたりまえのことであり、ただのモノやただのヒトという意味のことでしかありません。

感覚の世界では、モノやヒトはすべて違っていることが当たり前ですが、脳内の「同じ」という働きによって、概念という言葉の同一性や価値という貨幣の同一性を使用することが可能となります。

人それぞれ感覚がバラバラであるはずなのに、同じにできるという感覚こそが「共感」できるということであって、「ありがたさ」にもつながるということになります。

しかしながら、言葉は止まったものです。

これに対してヒトは変化します。

このことから、人と人が交わす約束とは、変わってしまう自分を止まった変わらない言葉に結びつける行為ということができます。

現代人は、言葉は使い捨てであって、自分のほうが変わらないと考えているようです。

噂話では、話し言葉の記憶に頼ることになるため、結局相手が自分程度に記憶力が悪いと思える(リスクヘッジできる)ことで成立している関係性といえるのではないでしょうか。

しかし、ヒトはひたすら変わっていきますが、言葉は止まったまま変わりません。

情報化社会での情報は変わらないことがその特徴であって、変わるのはあくまでヒトです。

情報が変化するのは、ヒトが情報に手を加えるから変わるだけであって、変わるのはあくまでヒトということになります。

本来、ヒトの感覚はバラバラです。

にもかかわらず、言語によるコミュニケーションで共感できるのは、バラバラな感覚が同じと思えるためで、これが安心感につながっていると思われます。

つまり、感覚が違っていることが当たり前なのに、そのことを忘れて「共感」したような感覚になることで、安心や安全を得ているということではないでしょうか。

現代人は、とても不安です。

したがって、安全や安心が欲しいと考えています。

また、現代人は自分の頭の中で考えていることの外側に出ることを知らないように思われます。

自分の外側の見えない世界に一歩踏み出すことを勇気と呼ぶのでしょうが、現代人にはそのような勇気が欠けている一面があるように思われます。

安全第一の世界の中にいると、本来一人ひとりがバラバラな感覚であるという基本的な原則を忘れてしまい、皆が同じ感覚であるはずという思い込みに陥ってしまうことになります。

このため、安全第一の中にいると、同じであることを求めるあまりに、少しでも差異があると不安がわいてくることになります。

もともと一人ひとり感覚に差異があるのは当たり前であって、差異に不安が伴うのは当たり前の状態であるといえます。

しかしながら、皆と感覚が同じでないと気がすまなくなり、このため差異に伴う不安をつぶさないと前にも進めなくなってしまい、さらなる否定的な(ネガティブな)感情をつぶさなくてはいられないという感覚の循環(思考の連鎖)に陥ってしまうことになります。

これが皆と同じでないと気がすまない(不安である)という感覚のようです。

これは、テレビの影響として考えられます。

テレビの映し出す映像はあくまでひとつの視点でしかないはずなのに、皆が同じ映像を観ることによって同じ視点が共有されて、感覚も同じであるという勘違いが生じてしまうことになります。

つまり、感覚は人それぞれバラバラであるはずなのに、皆一緒という認識がされてしまうということです。

教育を考える場合でも、現代人は皆一緒という感覚を持っているという認識を基点として出発する必要があるように思われます。

つまり、昔のように人やモノはバラバラであり多様なものであるという認識からはじめるのではなく、皆一緒という視点から教育をはじめないといけなくなってしまっている現実があるということです。

学校での徒競走で生徒が手をつないでゴールするということからは、何も生まれてこない、何もやっていないことと同じといえます。

また、機械(コンピュータ)を丈夫にすると、人間は壊れると言われています。

つまり、文明(コンピュータ)と人間は相互補完の関係にあるといえるのですが、このことから、まともなヒトの感覚では文明(コンピュータ)は発達することになってしまうため、逆に役に立たない人間を育てることにもなってしまうということです。

便利な生活をすることで、人間はやがて役に立たなくなり、壊れてしまうのではないかと考えることもできるということです。

しかしながら、一方では脳も社会もシステムとして機能していることからすれば、働かない部分にも何らかの意味があるというように考えることもできるということではないでしょうか。

(おわり)

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by kokokara-message | 2016-07-24 09:07 | 養老孟司講演会

最後の【独り言】になりました。

この【独り言】のあとには、「青い鳥を探して~哲学の旅」というやはり養老孟司講演会を踏まえた、私のブログ(随想)が続きます。脳科学と哲学の旅にもうしばらくお付き合いください。
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脳化社会は「同じ」であることを進めるために同質化は必然な帰結となります。

しかし、私たちが素朴に「同じ」と思っている感覚というもの、たとえば「共感」という感覚も突き詰めていけばその感覚はバラバラなものでしかないということでした。「共感」は極めて多様で不安定な「同じ」という基盤のうえに乗っかっているということになります。

しかしながら、バラバラであるという感覚を持ったままでは、おそらく安心安全の感覚を得ることはできないと思われます。

従って、本当はバラバラの感覚と分かっていながらも、このことをいったん括弧にいれて、「共感」できたという感覚を持つということが、安全安心をもたらしてくれることにもなります。

つまり、自覚的に(ノリで)「同じ」という基盤にコミットすることが、脳化社会で暮らすうえで「生きるためのワザ」のひとつと言えるのかもしれません。

戦後の日本は、社会全体をどんどん解体する方向で進展してきました。

高度経済成長社会から大衆消費社会の到来という流れの中で、地域社会や家族共同体は次々と解体されていきました。

また、ヒトは疎外された生産者と自在感を持つことができない消費者という孤独な個人に分解されてしまい、経済社会構造の一部に組み込まれていきます。

現代の個人の不安は、このような経済社会構造が急速に進展したために、地域社会や家族さらに会社共同体という共通基盤が消滅してしまい、自明であったはずの「共感」も得ることができなくなったことが原因であると思います。

「共感」とは「同じ」と思い込むという幻想を足場とした感情であったわけですが、「同じ(目標)」と思い込むことができた生活の場や生産の場が消滅したことで、自明な「共感」も幻想であったことが明白になったということです。

そして、新たな「同じ」という幻想を見つけられないまま、原子化した個人がバラバラな感覚をむき出しにして、怒りと不安を一杯にして生きているということではないでしょうか。

日本にはもともと多元的な世界観があり、ヒトの基準はバラバラで多様なものという感覚がありました。

一方規範はというと「同じ」であることを強いるという世間がありました。その後の経済社会構造の変化は、地域社会を希薄化し、地縁血縁共同体を解体することで、世間が持っていた規範は多様化し、細分化してしまっています。

規範に対して、ヒトの基準はもともと多様であるという世界観があったのですが、脳化社会では皆「同じ」であって横並びという感覚が強くなります。

規範が多様化する一方、基準が同質化(平準化)するということが現代の「同じ」において起きている現象と言えるのではないでしょうか。

では、このまま基準の平準化は進んでいくのでしょうか。

大変難しい問題ですが、ヒトの基準(感覚)がもともと違っている以上、それを「同じ」とすることにはやはり矛盾が生じます。

従って、基準ではなく、規範(大きな物語)が「同じ」である社会の方が、ヒトが生きていくうえでの効率性と安全安心という感情を同時にもたらしてくれることになるのかもしれません。

どのくらいの大きさの物語が適当なのかについては分かりませんが、おそらく昔のような物語(幻想)を共有するということはできないように思います。

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by kokokara-message | 2009-07-08 22:11 | 養老孟司講演会

3回目となりました。今回もメディア論から共感意識まで氏が主張されている関心の方向は多種多様なものです。

氏の論旨の妨げにならないともの信じて今回も【独り言】を語らせていただいております。
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【独り言】
NHKの視点が、数ある多元的な視点のうちのひとつでしかないことについては深く納得させられるところです。

また、メディアの規模にかかわらず一方通行型の媒体が支配的な環境においては、コミュニケーションに不都合が発生しても気づかないということは大いに起こりうることです。

これは、受け取る側の多様性が反映されない構造にあるために、受け取る側がメディアの発信する言葉や情報をそのまま「規範」として受け入れてしまうことになりやすいということです。

このことに関連して、「テレポリティックス」では、テレビをその装置に組み込むことで言明の単純化を図ることに成功しました。

もともと映像は編集によってその内容が左右されるという危うい媒体といえますが、今ではNHKのニュースキャスターまでが直接ズバッと意見を述べるというまでに言明が単純化されることになった模様です。

このような状況からすると、NHKのみならずテレビというメディア全体に対して、批判性と警戒心をもって臨むということが、氏の主張されているとおりに現代人に必須の態度と思われます。

批判と警戒という知性的な生活態度が、社会をこれ以上単純化(幼児化)させない防御策になるのかもしれません。

スマップの「世界にたったひとつの花」という歌がありました。

ナンバーワンになれなくても・・・オンリーワンという槇原敬之氏の作詞ですが、やはり氏の主張されていることからすれば、脳化社会は「同じ」を推し進める社会なので、ありのままのオンリーワンでは、やはり暮らしにくい社会と言えるのかもしれません。

オンリーワンとは、ありのままの個性ということになりますが、橋本治氏によると個性は一般からの破綻であって、強い痛みを伴うものと説明されています。

日本の社会が、個性の痛みにも耐えられるような自我が育つ環境にあればいいのですが。

もともと多様性のあった世界には大きな規範(物語)というものが存在していました。

現在はその大きな物語という規範がバラバラになってしまっているような気がします。

今では、同質社会とは、大きな規範によって標準化されている社会のことではなく、基準が平準化するという新たな物語が創造されている社会といえるのかもしれません。

この文章も書かれた時点で固定化するように情報は変化しないものです。

これに対して、人は生物として多様なうえに、時間経過でどんどん変化(老化)していきます。

このことからすれば、多様で変化しているはずの人が「共感」できていると思い続けられるのは、お互いが「同じ」のままで変わらないと思い込んでいるから成立しているということになります。

従って、思い込みという幻想の基盤が崩れれば、共感の足場も崩れてしまうことになるはずです。

「約束」も同様で、どんどん変化していく人にとっては、立ち返る仮想点という意味しかないことになります。

もちろん、このことは契約行為の意思までを否定する論旨でないことは言うまでもありませんが。

言葉はどんどん使い捨てることで、社会状況がスムーズに展開される側面があることは経験的事実だと思います。

私はよく「スルーする」という言葉を使用しますが、まさに自分の記憶のいい加減さを、人にも同じ程度にいい加減であってもらうことでリスクヘッジをしているということになります。

これは余分な事案を背負い込まないための「社会的スキル」のひとつということでもあります。

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by kokokara-message | 2009-07-06 21:15 | 養老孟司講演会

2回目は、少しややこしい【独り言】になってしまいました。

このブログの流れの中では、すべてがつながってくる話しであると思いますので、ご一読いただきますようお願いします。
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【独り言】
池田清彦氏の仮説である構造主義生物学によると、進化はネオダーウィニズが説明するように、遺伝子の突然変異によって生じるものではなく、遺伝子を含めた細胞全体の構造の関係性を読み解くルールが変化することによって生じると説明されています。

つまり、進化とはDNAそのものが変異したことで起こるのではなく、細胞の構造を支配しているメタレベルのルール(つまりルールのルール)が変化したために起こるということのようです。

少しややこしい話しになりましたが、ヒーリングや心理学においても、意識の大半は潜在意識として眠ったままになっていて、ごく一部分だけが意識された自我として説明されることがあります。

この場合でも先の細胞構造と同じように、精神構造そのものが変化するのではなく、意識(自我)と無意識という関係性のルールが変化する(抑圧や反動形成などがまさにそうだと思います)ことによって、身体症状が発生したり、逆に寛解したりすると説明されることとていると似ているのではないでしょうか。

関係性のルールそのものは、おそらく外部からのなんらかの要因で変化するのではないかと思われますが、氏の説明にあったようにヒトは絶対音感と相対音感の両方の機能を残したまま、言葉という外部からの要因によってその関係性に変化がもたらされた(絶対音感が消滅して相対音感が残った)ということになるようですね。

言葉や貨幣には物理的な差異(言葉では音の高低でした、貨幣についてはモノとして同じものは二つとない唯一無二性です)は必ずあるのですが、それらを「同じ」とすることで交換(コミュニケーション)が担保されていることはあるようです。

貨幣とは交換(経済)を促進させるものと定義されることがあります。

従って、江戸時代のように銀の重さをいちいちその場で量っていたら、交換が促進されるどころか経済を阻害する要因になってしまいます。

貨幣の「同じ」という前提が共有されることで経済が成立しているということになります。

また、「同じ」という前提が交流を促進させることについては、ブログのコミュニケーションの世界でも言えることではないでしょうか。

アメリカ型自由経済資本主義のグローバリゼーションも一神教世界観の一形態であったと思われます。

これに対して日本のような八百万の神という世界観は、感覚という差異(違い)を重視した多神教の世界ということができます。

西洋一神教の「論理の世界」とは異なった東洋多神教の「感覚の世界」ということになるようです。

従って、日本の社会は論理だけでは治まることのない感覚の世界といえますが、同時に規範においては同質社会の特徴をもっていたため、個人主義の西洋社会(神の下に平等で、隣人愛を実践する規範は多様)よりも同化圧力が強く働くといわれてきました。

しかしながら、現在の日本社会ではこのような比較的大きな規範はバラバラに多様化していく傾向にあり、逆に多様であったはずの八百万の神という基準(感覚)が均一化(平準化)するという方向にあるように思われますがいかがでしょうか。

このように、脳の「同一化」という機能は本質的なことではあっても、洋の東西や、近代と現代(ポスト近代)という時代の相違によって、その機能する対象が変化するということについては興味深いものがあると言えます。

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by kokokara-message | 2009-07-01 22:56 | 養老孟司講演会

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講演会をした聴講した私の【独り言】を4回に分けて掲載します。

当初、講演内容を段落ごとに分けて、それに対応する【独り言】を記述する形式を考えていたのですが、結局全体を通した記述にすることとしたため、やや唐突に【独り言】を語っているような印象を持たれるかもしれません。

講演内容を踏まえて【独り言】を語っているのですが、全体を通した独立した文章としてご一読いただいても結構です。

【独り言】
意識とは私がブログでいう「心」のことであって、脳で発生するということのようです。

意識が脳の作動によって発生するのであれば、この私が生きている世界は、脳から発生する意識によって創り出された世界ということになります。

ということは私が生きている世界は脳によって支配されているということになるのでしょう。

現在の脳科学では、脳内伝達物質を制御して脳に発生する意識を変化させる薬物療法が主流になっています。

アメリカでは、脳内伝達物質を制御する薬(SSRI)が、胃薬という身近な薬についで売れているという事実があるそうです。

脳に発生する意識(心、感情など)が変化することで、生きる世界や採る行動が変わってくるということなのでしょう。

脳の一番の特徴は、もともとバラバラなものを「同じ」ものとして認識することができることのようです。

言葉では概念化と言うこともできますが、それは抽象化ということであり、記号化ということでもあると思います。

言葉は記号(象徴)そのものなので、脳の特徴が一番現れやすい領域になります。

心と体、つまり意識と運動のいずれもが、脳が活動した結果に出力されたものということになります。

従って、私がブログで発信したいと思っている「心と体の癒しのメッセージ」とは、いかに疲れた脳を休めるかということに尽きるのかもしれません。

現代はアウトプット(出力)が多く求められる時代にあると言えます。

いかにインプット(入力)するかは、疲れた脳をいかに休養させることができるかということに関わってきます。

インプット(入力)するには、まず睡眠を十分とることや休日に趣味を楽しむという時間の過ごし方をすることが必要とされるようです。

脳の休養を図るということがインプット(入力)する領域を確保する最善の方法といえるのではないでしょうか。

言葉の使用が可能になったことで、絶対音感という動物本来の機能が衰退してしまったということです。

言葉の構造を記号の組み合わせとして説明した構造主義は、それまでの西洋中心主義の見方に疑問を投げかける立場でもあったといえます。

しかしながら、言葉の獲得が単純にヒトの進歩とするような見方はもたないほうがいいという氏の主張は、言葉についてさらにラディカルな生物学的アプローチとも言えそうですね。

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by kokokara-message | 2009-06-29 22:31 | 養老孟司講演会

養老孟司講演会(3)

以上、養老孟司講演会を前後2回に分けてその要旨を掲載してきました。

これから以降は、同日の講演会で対談の模様からその要旨を掲載します。

講演の内容では著作物と重なる部分も多いものですが、対談においては氏もリラックスされたのか、要旨では伝えられないくらい思考が拡散していくという印象でした。

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【対談】
感覚は本来バラバラであるにもかかわらず、言語によるコミュニケーションで共感するということは、感覚が同じと思うということであり、このことが安心感につながっていると思います。

つまり、感覚が違っていることが当たり前なのに、そのことを忘れ共感したような感覚になることで、安心や安全を得ているということなのではないでしょうか。

現代人は不安です。

そして安全や安心が欲しいと考えています。

自分の頭の中で考えていることの外側に出るということを知らないし、自分の外側の見えない世界に一歩踏み出すことを勇気と呼ぶのでしょうが、現代人にはそのような勇気が欠けているという一面があるようです。

安全第一の世界の中にいることによって、本来一人ひとりがバラバラな感覚であるという基本的なことを忘れてしまうことになり、皆が同じ感覚であるはずであるという思い込みに陥ってしまいます。

従って、安全第一の中にいると同じであることを求めるあまりに、少しでも差異があると不安がわいてくることになります。

もともと一人ひとり感覚に差異があるのは当たり前であり、差異に不安が伴うのは当たり前の状態であるといえます。

しかしながら皆と感覚が同じでないと気がすまないために、その不安をつぶさないと前に進めないことになり、さらに否定的な(ネガティブな)感情をつぶしてしまわないといられないような感覚に陥ってしまうことになるということです。

これが皆と同じでないと気がすまないという感覚です。

このことは、テレビの影響として考えられます。

テレビの映し出す映像はあくまでひとつの視点でしかないはずなのに、皆が同じ映像を観ることによって同じ視点が共有されて、感覚も同じであるという勘違いが生じてしまうことになります。

つまり感覚は人それぞれバラバラであるはずなのに、皆一緒という認識がされてしまうということです。

教育を考える場合でも、「現代人」はもともと皆一緒という感覚を持っているという認識を基点として出発する必要があります。

つまり、昔のように人やモノはバラバラであり多様なものであるという認識からはじめるのではなく、日と綴らした視点から教育をはじめないといけなくなってしまっているという現実があります。

学校の徒競走で生徒が手をつないでゴールするということからは、何も生まれないし、何もやっていないことと同じといえます。

機械を丈夫にすると人間は壊れるといわれています。

つまり、文明と人間は相互補完の関係にあるといえるのですが、このことから、まともなヒトの感覚では文明が発達することは、役に立たない人間を育てることになるというように考えます。

便利な生活をすることで人間は、やがて役に立たなくなり壊れてしまうのではないかと考えることもできるということです。

しかしながら、一方では脳も社会もシステムとして機能していることからすれば、働かない部分にも何らかの意味があるというように考えることもできるということです。

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by kokokara-message | 2009-06-28 00:01 | 養老孟司講演会

養老孟司講演会(2)

平成18年9月24日午後、奈良県の○○大学で開催された養老孟司講演会の2回目です。

「ヒトは変わるが、情報はかわらない」は、氏が繰り返し主張される重要な論点であり、情報化社会(脳化社会)の中で、ヒトの見方が逆さまになってしまっていることを指摘したものといえます。
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【講演会】
NHKの報道は、公正中立であるといわれています。

しかし、NHKの報道の視点もひとつの視点でしかなく、他のある特定の個人の視点とは等価の関係にあり、決してNHKだけが公平・客観・中立ということはできません。

つまり一人ひとりは視覚的には違うものを見ているはずなのに、言葉や情報にすると同じことを表すことになってしまうということです。

個性が大切といわれますが、個性とは遺伝子であり身体そのものであるということです。

ナンバーワンよりオンリーワンという表現がありますが、普通ナンバーワンといわれるようなヒトは稀にしか存在しませんが、オンリーワンとはモノや身体でいうとあたりまえのことであり、ただのモノやただのヒトという意味のことでしかありません。

感覚の世界では、モノもヒトもすべて違っていることが当たり前ですが、脳内での同じという働きによって、概念という言葉の同一性や価値という貨幣の同一性を使用することが可能になります。

人それぞれ感覚がバラバラであるはずなのに、同じにできるという感覚こそが「共感」できるということであり、「ありがたさ」にもつながるということになります。

しかしながら、言葉は止まったものです。これに対してヒトは変化します。このことから、約束とは止まった変わらない言葉に、変わってしまう自分を結びつける行為ということができます。

現代人は、言葉は使い捨てであって、自分のほうが変わらないと考えているようです。

噂話では、話し言葉の記憶に頼ることになりますが、結局相手が自分程度に記憶力が悪いと思える(リスクヘッジできる)ことで成立している関係性といえるのではないでしょうか。

しかし、ヒトはひたすら変わっていきますが言葉は変わりません。

情報化社会での情報は変わらないことがその特徴であり、変わるのはあくまでヒトです。

情報が変化するのは、ヒトが手を加えるから変わるだけであって、変わるのはあくまでヒトということです。

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by kokokara-message | 2009-06-26 22:14 | 養老孟司講演会

養老孟司講演会(1)

養老孟司氏の講演会は、平成18年9月○日午後、奈良県の○○大学で開催されたものです。

2年近く前になりますが、講演では比較的平明な内容をお話しされています。

講演は3回に分けてご紹介いたしますので、まずは1回目からご一読いただきますようお願いします。
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【講演会】
ヒトへの出入力関係からすると、感覚は入力であり、運動が出力という関係になっています。

そして、その間に介在するものが脳であり、脳で意識が発生するということになります。

感覚の入力によって脳には意識が発生しますが、脳は意識が発生する0.5秒前からすでに作動を開始しており、意識は脳が作動を開始したことによって発生するという関係にあるのです。

脳の一番の特徴としては同じ(同一性)という認識ができることです。

脳の「同一性」という特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できることが可能となり、同じものとして認識できるという機能をもつ「言葉」の使用が可能となるということになります。

しかし、言葉ができることによって脳の他の能力が低下するという結果にもなってしまいます。

そして、観念という意識を発生させることだけが脳を動かすことではなく、身体を動かすことも当然脳を動かすことということになります。
  
絶対音感(音の高低がそれぞれ別の音として認識される能力)は動物に先天的に備わっている機能です。

人間の乳児にも備わっていますが使用しないとその能力は衰えてしまうことになります。

絶対音感に対して相対音感がありますが、音の高低に支配されずに同じ言葉を同じ言葉として認識できるという能力は相対音感によるものです。

つまり、音の高低にかかわらず同じ言葉を同じ言葉として認識する相対音感を得ることで言語を使用することが可能となったといえますが、このことを文化的進歩的能力の獲得と思っているようですが、本来動物が保有しているはずの絶対音感が消滅した結果ということも出来るということです。

このことからすると、現代人は差異(違い)という感覚能力がダメになってしまっているようです。

脳の特徴である同じという感覚は、差異という違いをなくしてしまう非常に乱暴な感覚でもありますが、その結果としてヒトは同一性を前提とする言葉や貨幣を使用することが可能になったということができます。

考古学的にも新人類のホモサピエンスが、はじめて同じという能力を取得することで言葉や貨幣を使用できるようになったといわれています。

旧人類のネアンデルタールの脳にはそのような能力は備わっておらず、ネアンデルタールの遺跡から出土する遺物はその目的が想像できるものばかりです。

従って、貨幣のように象徴を表す遺物などは出土しておりません。このことからネアンデルタールは言葉や貨幣を使用できなかったと考えられています。

ホモサピエンスの脳は同じという能力を獲得することによって貨幣や言葉が使用できるようになり、交換(コミュニケーション)が可能になったということがいえます。

貨幣や言葉のように「同じ」にするという能力を進歩や便利と思っていますが、この同じという能力を突き詰めてゆくと、論理的には宇宙を統括する唯一絶対神にまで行き着くことになります。

つまり、西洋社会が発見したという一神教の世界観です。

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by kokokara-message | 2009-06-23 23:09 | 養老孟司講演会

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言葉の持つ特徴からすると、私たちは個体としてのリンゴに二つとして同じものがないことを知りながらも、リンゴはどれも同じということとして「リンゴ」という言葉を使用しています。

これは具体ではなく抽象化された「概念としてのリンゴ」を指していることになります。

ヒトもこれと同じで、身体としてのヒトはそれぞれが個別的であり唯一無二な存在であり、またヒトが生きている世界も個別的な社会的文脈をもっているということになります。

このように多様な身体を持った、多様な社会的文脈で生活をするヒトがそれぞれに自分の言葉を使用することになると、言葉に多義性が含まれることは当然のことであり、従って言葉の意味は一義的なものではありえず、多義的なものとならざるをえないことになります。

私たちは、言葉が通じない、意味が理解できない、文脈が分からないという経験をすることが多いのも事実ですが、多様なヒトが、多様な文脈から自分の言葉を使用するということであれば、言葉の意味が通じなくなるということも当然発生することになると思われます。

しかしながら、私たちはこのような言葉が通じない、意味が理解できない、文脈が分からないという場合であっても、おそらくその前後の文脈から推し量るなどして、あくまで概念としての言葉を使用することでコミュニケーションを図る努力をしているのではないでしょうか。

これは、ヒトそれぞれの持つ多様性というものをいったん留保して、概念としての言葉の「同一性」に依拠することでコミュニケーションを図っているということになります。

「バカの壁」の帯には、「話せば分かる」なんて大ウソと書いてあったと記憶しています。本来話は通じないものといえそうですね。

氏によると、このような多様なヒトのコミュニケーションを担保しているのが言葉の持つ概念という機能であり、これはヒトの脳の持つ「同一性」という特徴によって発生するとされています。

つまり、ヒトの脳は、「同一性」=「同じ」であることを認識できることがその一番の特徴であるということです。

このことは、「バカの壁」以外でも氏が一貫して主張をされているところであり、大変重要なところでもあると考えます。

以下では、平成18年9月に聴講した養老孟司氏の講演会の要旨を掲載することとします。

また、この講演会を聴講した結果私が啓発されて記述した文章が残されておりますので、これも順次ブログで公開していきたいと思っております。

多少手直しはしましたが、とても読みにくい文章(苦笑)となってしまっておりますので、まずは氏の講演会の要旨をご一読いただくことでご理解を深められますことをお勧めします。

なお、講演会は2年前のものであるため、現時点の氏のお考えと相違している可能性も思慮されるところですが、論旨に大きな影響がないようであれば細部の相違にはご容赦くださいませ。

それでは、定刻となりましたので養老孟司講演会を開演いたします。最後までご一読いただきますことをお願い申し上げます。

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by kokokara-message | 2009-06-21 11:14 | 養老孟司講演会

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数年前にベストセラーになった養老孟司氏の「バカの壁」という新書があります。

当時はまだ自分の頭で考えるという営為に自覚的ではなかったため、自分が知覚したことを、自分の頭で考えるということが、自分の世界を生じさせているという事実についても十分な自覚がないまま、曖昧な世界にまどろんでいるという状況でした。

「バカの壁」は3回くらい読み返した記憶がありますが、1回目は全く理解できず、「バカの壁」の攻略本を買って読んだくらいです。

今となっては攻略本がなぜ出版されたのか分かりませんが、おそらく「バカの壁」が読解できないという人がたくさんいたため、その読者層をターゲットとして出版されたのでしょう。

要するに、「バカの壁」が理解されにくい内容であったということになります。

「バカの壁」が難解であると思った理由は、養老孟司氏の論理が、私たちが自然と思っている見方と反対になっていることから来る違和感です。

情報は変化して、ヒトは変化しないという見方が支配的であったときに、ヒトは変化するが、情報は変化しないという逆説を提示されてしまい戸惑った読者も多かったことと思います。

あらためて考えてみれば、氏の見解が論理的にも整合した自然な結論であると深く納得できるのですが。

そしてもうひとつの違和感は、氏の使用する言葉の意味が多義的であるということです。

通常、私たちは分かったつもりになっているため、日常使っている言葉の意味を限定して使用していることにさえ自覚的ではないようです。

つまり、自分の生きている世界で使用している言葉の意味がすべてであると思い込んでいるところがあるといえます。

このため「バカの壁」で氏が使用する言葉の意味が、私が日常で使用している言葉の意味と少しずれている(文脈が違っている)ということに気付くまでしばらく時間がかかり、居心地の悪さと読解の困難さを感じていました。

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by kokokara-message | 2009-06-20 17:23 | 養老孟司講演会