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人口減少社会におけるグローバリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

また、人口減少社会におけるナショナリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

グローバリズムとは、英米を中心とした新自由主義の普遍化(標準化)をさすことはいうまでもありません。

そして、その内実は、資本主義と民主主義の徹底であり、真逆のようですが、近代国民国家システムの徹底ということになりそうです。

奇しくも1989年のベルリンの壁の崩壊と新自由主義の隆盛の時期は一致しています。

また、その前哨戦であったソ連ゴルバチョフのペレストロイカと米国レーガン・英国サッチャーのマネタリズムは、近代国民国家システムの行く末を予言していたと言えるのではないでしょうか。

ところで、今から150年以上前、近代国民国家というものが成立した当時、資本主義の生産手段は、土地、労働力、資本とされていました。

土地とは、人間の生産活動で創出することのできない水や空気などを含めた概念といえます。

そして、当時のこれらの生産手段は、一国民国家の中でのみ移動が可能とされていました。

しかしながら、資本主義の原理は、これらの生産手段から差異を創出することで駆動することになります。

このため、資本主義拡大のためには、一国民国家のみならず、植民地主義という軍事力を背景とした新たな差異の獲得に乗り出さなければならない時期もありました。

しかしながら、現在では、グローバリゼーション(国際化・情報化)の進展から、軍事力を背景とせずとも、いとも簡単に特定の生産手段が世界中を移動することが可能となっています。

ただ、現在においても、土地という生産手段は移動しないという前提に変わりはありません。

また、労働力は、労働者の短期の移動は可能であっても、国籍、文化、言語の障壁から、長期の移動は難しいとされています。

ご存知のように、長期の移動がもたらす「移民」問題の功罪については、枚挙にいとまがありません。

そして、先日の英国EU離脱の結果は、長期の移動がもたらした「移民」問題とダイレクトにつながっているのは言うまでもありません。

従って、各国の過去の経験則からしますと、実際にグローバルな展開が可能な生産手段は、資本(金融)とそれに伴う技術や情報に限られてくるということになります。

資本(金融)とは、端的に言えば貨幣(お金)のことであって、多彩な戦略によって、多様な世界展開が可能となります。

そして、概念上は人間の生産活動では創出できない鉱物資源も、金融商品として見るのなら、資本として世界展開することは可能です。

情報はと言うと、インターネットによって瞬時に移転し、グローバル化(標準化)が可能であることは言うまでもないことです。

また、技術は情報ほど即時性はないものの、数年単位で移転し、グローバル化(標準化)していくことになります。

蛇足ながら申し上げると、差異を求める資本主義の原理では、資本や技術、情報という生産手段の移転が可能となるのは、あくまでグローバル化した世界に未だ差異が存在しているからということになります。

つまり、各国や各地域間に社会経済的な格差が存在していることが前提になっています。

このため、それらの格差(差異)が消滅することになれば、論理的には世界中の資本主義の展開は終結となり、世界中がフラット化(標準化)してしまうことになります。

つまり、グローバリぜーション(国際化)の結末は、世界中のフラット化(標準化)ということになります。

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ところで、生産手段の中でも、土地と労働力は移転が難しいということでした。

また、移転可能とされている資本や技術、情報も、その差異(水位差)が数年間で平準化されてしまえば、資本主義の展開の原理となった差異性は期間限定のバブルの源泉でしかなかったことになります。

そして、これからの日本の社会は、有史以来増加し続けた人口が急激に減少する社会であるとされています。

また、これからの日本の社会には、高度経済成長を支えたような差異性をもった(低賃金)労働者が、自然発生的に生まれてくるとは考えられない状況にあるということです。

このため「移民」問題は日本の社会でも議論の俎上に上ることになりますが、労働者の長期の移動がもたらす功罪については先にも申し上げたところです。

したがって、労働者の長期の移動、つまり「移民」受け入れが難しいとしたら、今後の日本の資本主義のあり方は、どのような方向に進んでいけば良いのでしょうか。

おそらく、資本や技術、情報の差異を原理とした期間限定のバブルを生み出すグローバリズム(国際化)ではなく、それとは真逆の一国内のナショナリズムを基軸とした差異の平準化に向かう近代国民国家の資本主義システムが重要視されることになるのではないでしょうか。

ここで言うナショナリズムとは「愛国心」のことです。

ナショナリズムは、日本と言う国民国家を、社会経済的に平準化していく方向性にありものと思われます。

つまり、資本主義が差異性を前提としたシステムである以上、革新的なイノベーションでもない限り、今ある土地(国土)と将来の労働力人口(国民)は自明のものとなり、その中から差異性を創出していくしかないということになります。

少し言い方を替えるとすれば、将来に向い日本国内に存在している差異性をすべて平準化してしまうということが、今後の日本の資本主義の経済システムを駆動させる源泉になるということです。

少し分かりにくいかもしれません。

つまり、日本の経済成長(資本主義経済システム)を駆動させるためには、日本の社会に未だ残存してる差異性を掘り起こし、それらを源泉にするしかないということです。

具体的には、男女共同参画社会の推進や社会保障(社会保険や社会福祉)の普遍化を図ることで、新たな差異性を創出することが考えられるのではないでしょうか。

要するに、人口減少社会という新たな差異の創出が極めて難しい環境にあっても、今あるの差異性を平準化していくという方向性であるのなら、資本主義システムの原理にも合致して、中長期的に見て具体的かつ現実的な展開が見込まれるのではないかということです。

そして、この場合日本の社会の差異性を掘り起すことだけでは十分ではなく、国内においては所得・資産の再分配機能の賦活化、そして国際的にはタックス・ヘブン等への世界協調的な取り組みが同時進行して行くことが必須になると考えられます。

大変困難な政策ではありますが・・・。

ところで、ナショナリズム(愛国心)というと、第二次世界大戦中の日本の海外への覇権(植民地主義)を想起される方も多いのではないでしょうか。

しかしながら、海外への覇権主義という側面だけを捉えれば、それは区分としてはナショナリズムではなく、グローバリズムになると思われます。

また、ナショナリズム(愛国心)というと、国内におけるマジョリテイ(多数派)からのパターナリズム(上から目線)として受け取られてしまうかもしれません。

しかしながら、ナショナリズム(愛国心)とは、必ずしもマイノリティ(少数派)を日本人の境界から排外する狭隘な方向性を持ったものではないということです。

なぜなら、日本の近代史を振り返っても、原理として国民国家の幻想性ゆえに、日本人の境界線は揺れ動き、日本民族と日本の国土は拡大と収縮を繰り返してきた歴史があるからです。

従って、今ある日本人の境界(国民国家)はあくまで暫定的なものでしかなく、したがって将来も現状のまま同じ境界線(国民国家)であり続ける保障などないということになります。

むしろ、国民国家のマジョリテイ(多数派)が、国民国家のマイノリティ(少数派)を穏やかに社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)していくという方向性が求められるのではないでしょうか。

そして、一般論として生産手段である労働力のグローバル化は岐路に立たされており、これ以上の展開が難しいとなれば、それは日本から海外への展開以上に、日本への労働者の長期の移動、つまり「移民」の受け入れが困難という事態になってしまうからです。

日本の総人口(労働力人口)が減少していく中で、しかも「移民」の受け入れが困難で、なおかつ生産手段の労働力に基軸を置いた政策を採るとしたら、いったいどのような展望になるのでしょうか。

おそらく、金融資本主義が引き起こす幻想的な差異性を原理とするグローバリズムではなく、それとは真逆な国民国家を同化して平準化していくナショナリズム(愛国心)こそが、日本の中長期的なあるべき姿を構想する(再構築する)ための原動力になるのではないかと思われます。

日本人口の減少は避けがたい与件ですが、マジョリテイ(多数派)がマイノリティ(少数派)を内包し日本社会を平準化していく方向にあるのならば、ナショナリズム(愛国心)を基軸とした資本主義システムが社会的格差で混迷する日本という国民国家を、自己コントロールが可能な範囲にとどめ置くこともできるようになるのではないでしょうか。

したがって、今後の日本は幻想的な金融資本主義に依拠した不安定な「経済成長優先型社会」ではなく、むしろ低成長であっても平準化を目指すがゆえに労働力の差異性に基軸を置くことができる「定常性(恒常性)が維持できる社会(定常型社会)」を目指すことになると思われます。

少し無理やりな結論になってしまいました。

グローバリズムではなく、ナショナリズム(愛国心)こそが、平準化志向にある資本主義システムを駆動させることによって、その結果国民国家内の経済格差を比較的小さく、相対的に平等と言える「定常型社会」を実現する原理(思想)になるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがなものでしょうか。

【蛇足ながら、終わりに】

グローバリズムに対応する概念は、一般的にはローカリズムであると思われます。

しかしながら、暫定的ではあっても国民国家を既定のものとするのなら、歴史、民族、言語、文化等による細分化プログラムが組み込まれたローカリズムは、グローバリズム以上に国民国家の枠組みを根底から揺るがすものになる可能性があると思われます。

つまり、両端にグローバリズムとローカリズムがあって、その真ん中に当たり(中庸)にナショナリズムがあるのではないかということです。

したがって、両端のグローバリズムとローカリズムが国民国家を不安定にさせる思想とするのなら、ナショナリズムは国民国家を社会文化的に安定させる保守に当たる思想ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

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by kokokara-message | 2016-06-26 08:52 | 我流日本論

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最近のことですが、「ミーハーですね。」と言われたことがありました。

おそらく、私の選択が結果的に多数派にあることが多いため、そのような指摘がなされたのかもしれません。

ウィキペディアによると、ミーハーの意味は、以下のようになっています。

ミーハーとは、昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。

元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。

現在では男性にも使われる言葉である。

最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味のものがほとんどである。


低俗な趣味や流行の意味するところは定かではありませんが、おそらくミーハーとは何かに熱しやすいタイプの人を指すのかもしれません。

また、ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく、という意味では、おそらくミーハーは横並び意識が強く、同じでないと不安になる人かもしれません。

昨今の賞味期限の短い、一過性ともいえる情報が飛び交う社会情勢では、ミーハーのような後追い型の付和雷同は極めてリスクの高い選択になるのかもしれません。

いずれにせよ、ミーハーとは、表層的な横並び意識を基盤とした多数派形成を志向する人たちといえそうです。

そして、ミーハーは多数派にあるということが、他には替えがたい自信になっているということのようです。

おそらく、かようなミーハーは、大衆社会において代表的な行動様式(エトス)を採る人たちのことといえるのかも知れません。

一方、多数派志向の「ミーハー」に対して、「普遍性」という一般性を表す言葉があります。

養老孟司氏によれば、普遍性とは偏在する多様な感性や価値観の極端な部分を除いた真ん中あたり、ということになるようです。

つまり、マニアの感性や価値観のような特殊性、つまり極端な例外を除いた一般性の部分が普遍性になるということです。

例えば、誰もが美しいと感じるものを美しいと感じることや、文化や共同体の論理に囚われない、誰もが納得できる価値や判断が下せることを普遍性と呼ぶのではないでしょうか。

おそらく、普遍性とは、人間であるのなら誰もが納得できる範囲に収まるような「一般性」を指す言葉であると思われます。

このため、見方によれば、普遍性は、相互参照や横並び意識で多数派を志向するミーハーの人たちと重なり合う感性や価値観を所持しているということにもなります。

つまり、マニアのような特殊性を除けば、普遍性であっても、ミーハーであっても、結果として一般性を所持する人たちということでは同じということになります。

また、数の上ではおそらく、どちらにしても多数派を形成する人たちということになるのではないでしょうか。

ただし、先にも述べましたように、大衆社会におけるミーハーの感性や価値観は、あくまでも相互参照や横並び意識の結果として形成されたものということになります。

つまり、ミーハーがもともと多数派志向の人たちであって、その行動様式の相互参照や横並び意識を繰り返した結果地滑り的に多数派が形成されていくことになります。

一方、普遍性はというと、個人の自由で内発的な選択の結果として、同じような傾向を示す人たちが寄り集まることで一般性が形成されていくということになります。

つまり、普遍性は、もともと人間に内在している至極当たり前な感性や価値観を各々が自ら確認した結果、当然のようにして多数派が形成されていくことになるわけです。

結果としてどちらも多数派にあるという点では同じように見えますが、そのアプローチの方法は真逆になっているということには注意しておく必要はあると思われます。

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最近私が気になることは、仕事や家庭の中で、考えても考えなくとも、またやってもやらなくても結果は同じという、なんとなく虚無的と感じる場面に出くわすことが多々あります。

おそらく、これは結果だけが高く評価される現代社会の風潮にあって、多数派にあるという事実だけを持って容易に勝ち負けが決定してしまうことが原因になっているのではないでしょうか。

つまり、民主的な手続きの結果として多数派にさえあれば、ミーハーであろうと普遍性であろうと、そのアプローチの方法には関係なく、同じ(勝ち組)として扱われることになるということです。

もちろん、民主主義社会において、自分が多数派に属しているということはとても大事なことです。

しかしながら、月並みな言い方ですが、結果の勝ち負けではない、その形成過程(プロセス)に対する考察がより重要になってくるのではないかということです。

つまり、現代社会において民主主義が重用されるのは、その単純な多数決の意思決定システムが全体意思をあらわすためではなく、むしろ民主主義という意思決定システムの中に「人間の持つ普遍性」に対する信頼が組み込まれているためではないでしょうか。

社会学者の橋爪大三郎氏は、その著書で「民主主義は最高の意思決定システム」とおっしゃっています。

少なくとも近代以降の日本の意思決定システムは、相互参照や横並び意識による多数派形成だけを意図して制度設計されたものではないと思われます。

あくまでも、個人の自由で内発的な選択を前提として、多数決の意思決定システムが機能するものと考えられていたはずです。

もちろん、残念なことではありますが、理念と実態がかい離している現象に出くわすことは多々あります。

おそらく、大衆社会とは、個々の感性や価値観が多様化する一方で、それらの感性や価値観が画一化されて行くという、拡散と収縮(選択と集中でもかまいません。)が同時に起こるカオスの状態のことではないでしょうか。

では、私たちは、このような両義的で複雑怪奇な大衆社会をいかにして生き延びれば良いのでしょうか。

まず、グローバリズムのトレンドからすると、文化や共同体という特殊性の枠を超えた、もともと人間に内在している「普遍性」に依拠した判断や決定が行われることが求められているといえそうです。

これは大変難しいことですが、いかに文化や共同体のバイアスから自由な(解放された)判断や決定ができるか、つまりは自分や自分を取り巻く環境をいかに相対化できるかが、今を生き延びるための能力(スキル)になってくるといえそうです。

そして、少し戦略的な話になってしまいますが、やはり民主主義社会で生き延びるということは、いかなる場合であっても、社会の多数派から零れ落ちない立ち位置をキープしておく慎重さは必要とされるということです。

つまり、今を生き延びるための能力(スキル)には「世を忍ぶ仮の姿」も必要になってくるのではないでしょうか。

先にも述べたとおり、ミーハーと普遍性では多数派形成へアプローチの方法は、真逆になっているということでした。

しかしながら、あらためて大衆社会における多数派の重要性を考えれば、ミーハーと普遍性はともに今を生き延びるために必要とされる能力(スキル)であって、しかもそれぞれは必ずしも対立する概念として位置づけられてはいないということです。

普遍性は多数派が形成されるうえで根源となる重要な能力(スキル)ですが、それだけでは十分ではなく、ミーハーの付和雷同がバランス良く補完し合える関係となって初めて、決まった答えのない一過性で両義的な大衆社会を生き延びることができるのではないでしょうか。

では、最後に、ミーハーと普遍性の関係性を洞察した小津安二郎監督の言葉で終わります。

「どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」

(終わり)
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by kokokara-message | 2016-05-30 21:38 | 我流日本論

昨今、新聞記事によれば、文部科学省では、教育と学習の達成度として絶対評価が重要視されていると聞きます。

但し、絶対評価を重要視して、相対評価を過小視する考え方は、今に始まったことではなく、おそらく1970年代頃にその方針が変わったと記憶しております。

そして、当時は自衛手段として、教育を受ける側が絶対評価と相対評価を上手に棲み分けしていたと記憶しております。

つまり、学校では絶対評価というフイクションに従い、学習塾では全国模試の相対評価のというリアルな自分の学力に向き合っていたということです。

以下の文章は、2年前に掲載した「教育と学習(「ゆとり教育」とは何であったのか)」の再掲です。

「ゆとり教育とは何であったのか」を「絶対評価とは何であるのか」と読み替えて、せめて赤色の部分だけでも、ご一読いただければ幸いです。

「師」のいない日本において、国是?となった絶対評価が、国是であったゆとり教育と同様に、国民全体の相対的学力の低下を招く高機能エンジンとして稼働しなければ良いと、ただただ祈るばかりです。      
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京都造形芸術大学芸術学教授の寺脇研さんと言えば、いわゆる「ゆとり教育」を推進した人物で、誤解、曲解も含めて、右と左からの批判の対象にされた元文部省のキャリア官僚です。

寺脇研さんの現状認識によれば、日本はもはや近代の徹底(資本主義や民主主義の徹底)だけでは生産もやがては消費もなりゆかなくなる、いわゆるポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代に入ったということのようです。

そして、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代は、明治以降日本が登りつめてきた「坂の上の雲」を目指す右肩上がりの時代とは全く異なった考え方や生き方が支配する時代でもあります。

また、寺脇研さんによれば、近代における教育の最大の目的は、産業資本主義を担うことのできる廉価で均一な多くの生産者を育成することにあったということです。

つまり、いまだ貧しく、多くの人口の糊しろを抱えた後発の日本が、廉価で均一な生産者をより多く育成することにより、近代の産業資本主義における右肩上がりの経済成長を可能にしたということです。

日本の華々しい高度経済成長の裏には、このような日本の相対的貧困があったということになります。

ただ、現在のグローバル化する世界経済を見回すと、もはや日本の国内には後背人口の糊しろは残されておらず、既存の産業資本主義を支える廉価で均一な労働力は外部(国外)の生産拠点に求めるしかありません。

国外に生産拠点を求めれば、当然日本の産業資本主義の空洞化を招くことになります。

おそらく、日本の産業資本主義の空洞化は不可逆的なものであり、多少の揺り戻しはあったとしても、今後ともこの趨勢は変わらないのではないでしょうか。

従って、日本の教育制度も、これまでの既定の教育システムを徹底させていく(近代の徹底)だけでは、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代に対応できる人材を育成できるとは限りません。

そして、このことに危機感を抱いた旧文部省が採用した政策が「ゆとり教育」であり、これは既定の集団中心の教育から個別中心の学習へと軸足を移していくというものでした。

一部では「ゆとり教育」がゆとりそのものを目的とした政策であるかのように報じられています。

しかしながら「ゆとり教育」は集団教育から個別学習に軸足を移すための手段(環境整備)であって、ゆとりそのものが目的ではなかったと言うことです。

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ところで、一般には、日本の教育は、学校での集団教育を指すとされているようです。

学校教育は既定のカリキュラムの履修を目的とするものですが、個別学習はむしろその既定の枠外にある教養や知識にアプローチしていくことを目的としています。

つまり、学習は教育カリキュラムの基礎学力をベースにしながらも、その既定の枠組を壊し、その枠外へと広がっていく志向性を持ったものということになります。

そして、この広がりには原則際限がないため、その途上で予測もできない危険に出くわすことがあります。

このようなリスクの存在が、「学習が知の冒険」と呼ばれる由縁であるのかもしれません。

ところで、学習は個別な営為と思われていますが、個別ではあっても孤独な営為ではありません。

むしろ、それとは正反対に「師」と伴に積み上げていく、二人三脚の地道な営為ではないでしょうか。

ここで言う「師」とは、自分の欠如感や欠足感を満たしてくれる経験豊かな先達(せんだつ)のことです。

そして、自分の欠如感や欠足感を満たしてくれる「師」は、自分の小さな枠組を壊してくれる人であり、さらに自分の外部にある芳醇な世界へと安全に導いてくれる人でもあります。

例えば、子供にとっての知識と経験が豊かな大人が「師」のイメージに当たるのではないでしょうか。

むろん、子供以外の人でも、自らの欠如感に気づき、その充足を目指す人であるのなら、やがて「師」とめぐり会うことはできます。

そして、めぐり会った「師」と対話を繰り返すことにより、飛躍的に自らの学習効果を向上させることができるわけです。

初めのうちは個別な学習であっても、やがては個人の領域を超えて、自らが所属する社会の領域にまで達することも珍しくはありません。

つまり、個人の瑣末を突き詰めていけば、やがては社会全体の総括にまで至るという、ミクロとマクロの逆転現象が起こるわけです。

ところで、「師」が弟子の欠如感を満たし、弟子に外部があることを気づかせる存在であることは先に述べました。

さらに、「師」には重要と思われるもうひとつの特徴があります。

それは、「師」は実在しなくとも「師」を「師」として仰ぐ弟子がいれば、弟子の学習効果は自ずと向上していくというものです。

つまり、「師」とは直接会わなくとも、また直接指南を受けなくとも、弟子が「師」から学びたいという欲求(欠如感、飢餓感)さえ持っていれば、弟子は「師」の実在とは関係なく、自らで学習を開始し、そして成長していくことができます。

例えば、弟子が困った時など、「師」であればどのように対処するであろうか、どのように考えるであろうかと考えを巡らせることが、弟子が自ら考えて答えを出すということであり、この思考のサイクルを起動させるのが「師」の存在(実在ではありません。)ということになります。

「師」は存在すればよく、実在は学習の絶対条件ではないということです。

むしろ、「師」が不在であることが「師」との対話を促進させることもあり、また弟子の思索を深化させることもあるということです。

以上のことから、教育と学習を比較すれば、教育とは「師」から伝授された知識や情報のアーカイブの部分のことを指し、学習はそのアーカイブを参照しながら、「師」の洞察までも想像し、「師」が実際には語っていない言葉の意味までも理解してしまう荒唐無稽な脳の働きということになります

このような脳の働きは、理想化され、幻想化された「師」との対話を通じてしか得られず、自分自身が自分自身を俯瞰する視点、つまりは自分自身を括弧に入れて、理想化された「師」とシンクロした(理想の「師」と同化した)視点を確保することが、学習の究極の目的と言えるのではないでしょうか。

もはや既存の思考のフレームワークだけでは対応のできない、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代をクールかつ創造的に生き抜くためには、このような醒めた客観的な視点(自己意識)を確保することが、なによりも重要になってくると思うのですが、さていかがでしょうか。

(閑話休題)
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日本社会は、大人がとても少ない社会であると言われることがあります。

おそらく、これは成熟した大人がとても生きにくい未成熟な社会ということを意味しているのかもしれません。

ここで言う成熟した大人とは、自分の立ち位置や役割が分かっている人という意味でご理解ください。

村上春樹さんの著書「ノルウェイの森」に出てくる紳士の定義「やりたいことをやるのではなく、やらねばならないことをやる」が、意味として近いのかもしれません。

そして、日本の社会は、父権的な「師」よりも、庇護してくれる母系的な「師」が慕われる傾向にあるとも言われています。

河合隼雄さんの著書「母系社会日本の病理」では、成人になれない日本人(永遠の少年)の精神病理が扱われています。

いずれにせよ、日本が母系的な社会であって、成熟した大人が生きにくい社会であるのなら、日本の社会には未成熟な若者に意味を与え(分節し)、成熟(自律)を促す父権的な意味合いの「師」は存在しづらくなってしまいます。

寺脇研さんの言われるとおり、日本を取り巻く世界経済のグローバル化の進展からすると、日本は近代(モダン)の徹底である集団教育を中心とする制度から早々に脱却し、個別学習を中心とした新たな教育制度への転換が喫緊の問題ではないでしょうか。

しかしながら、いくら集団教育から個別学習への転換の必要性を提唱したとしても、日本の社会に「師」が存在しない(いたとしても存在しづらい)となれば、結局は子供は学習(冒険)を体験することができず、空虚でゆとりだけの教育が残されることにもなってしまいます。

このため、日本の社会で「師」を得たいと欲すれば、希少な存在である「師」をどこからか見つけ出してくるしかありません。

そして、「師」に対する需給の関係からすると、希少な「師」の需要は当然高くなくなるため、「師」を得るためのコストも高くなってしまうことになります。

つまり「師」が存在しない未成熟な日本の社会では、子供が学習(冒険)体験をするのに大変なコストがかさむことになり、そのコストが負担できなければ、子供は学習を経験する機会さえなくなってしまうわけです。

ただし、付け足すと、「師」の不在と経済格差(貧富)の問題は現代にだけ見られる特殊な現象ではないということです。

むしろ、古来から日本の社会が受け継いできた日本の社会構造に組み込まれたものではないでしょうか。

では、日本は先祖がえりして、従来の詰め込み一辺倒の教育に戻ってしまえばどうなるのでしょうか。

一見機会均等の教育平等社会を標榜するように見える詰め込み一辺倒の教育でも、先に既述したようにグローバル化が進展していくと、現状がそうであるように、日本だけが経済における比較優位を維持できる保障はどこにもないということです。

むしろ、世界経済のグローバル化(資本と労働力の流動化)が進展して行くと、世界の賃金水準の平準化(フラット化)が進むこととなり、必然的に日本の賃金水準も平準化され、下方修正されてしまうことになるのではないでしょうか。

つまり教育平等社会を標榜する詰め込み一辺倒の教育だけでは、日本経済の優位性が維持できないばかりか、現行の賃金水準さえ維持できなくなってしまう可能性もあるということです。

旧文部省から「ゆとり教育」が提唱された背景には、このような世界経済のグローバル化とそれに伴う日本社会のパラダムシフト(世界観の変化)という難問が横たわっていたということになります。

しかしながら、それらの議論は十分になされないまま、「ゆとり教育」が経済格差を是認し、教育格差を助長するものと単純に理解されてしまい、誤解、曲解の中、いわゆる「ゆとり教育」は右からも左からも批判される対象となってしまったということのようです。

但し、蛇足ながら誤解がないよう申し上げれば、「師」と対話する個別学習(ゆとり教育)には、当然集団教育の詰め込みによる基礎的な知識や情報というアーカイブの存在が大前提になっているということです。

これにもかかわらず、誤解、曲解が先行し、「師」が不在(希少)なままの空疎な個別学習(ゆとり教育)が過大評価され、従来からの定型的・基礎的な集団教育(詰め込み)が非民主的と過小評価されてしまうと、基礎的な知識や情報のアーカイブを前提とする教育と学習の循環システムが底抜け状態となり、その結果国民全体の学力が雪崩を打って低下することにもなってしまうということです。

大変残念なことですが・・・。

最後に、もう一度学習を促進させる「師」について述べて、少々長い論考を終えることにします。

私事で恐縮ですが、私には「師」と呼ぶことのできる人が存在します。

ただし、私が勝手にその方を「師」と思っているだけで、先方はこちらを弟子とは思っていないかもしれません。

しかしながら、「師」はあくまで幻想(面影)である以上、私が「師」と思うことに論理矛盾はないと考えています。

とりあえず、自分に「師」が存在するということが大切なことであって、とても幸せなことであると思っていますす。

そして、先にも述べたとおり、学習のサイクルはいったん駆動を始めると、もはや「師」の実在はそれほど重要なことではなくなり、やがて「師」は幻想(面影)へと変わっていくことになります。

従って、昔「師」が実際に話された言葉でも、新たに自分だけの意味が付与されることとなり、自分の新たな記憶として生まれ変わることも多いように思われます。

「師」が不在でも、「師」を「師」として仰ぎ見る自らの立ち位置さえ見失わなければ、「師の面影」との対話は継続されることとなり、やがて「師」の視点を内面化することで、自らが自らを俯瞰できる客観的な視点(自己意識)を確保できることになるということです。

おそらく、原初のキリスト教などに見られたような「師の不在」と「残された弟子」との対話が、やがて教義として体系化されれば、残された弟子以外にも開かれた普遍的な意味と価値が新たに付加されたということになるのかもしれません。

つまり、ありありと語りかけることのできる「師」が存在さえすれば、勇気をもって「知の冒険」(自分の頭で考える)を試みることもできるというわけです。

そして、今以上に世界経済は流動化しグローバル化することが予測されますが、あくまで日本という国に機軸を置き、社会的文脈(関係性)から自ずと決まってくる自分の立ち位置と役割を坦々とこなしてくことが、「神」なき、「師」不在の日本のポストモダン社会に勇気をもってダイビングできる、つまり相互参照(物まね)ではなく、自分の頭で考える(創造的営為の)ための一番の近道ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

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by kokokara-message | 2015-08-19 22:09 | 我流日本論

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世の中が激動の時代に入ったといわれて久しく、私たちの周りの出来事がすさまじい勢いでどんどんと様変わりすることに、戸惑い覚えている人も多いのではないでしょうか。


世の中がどの方向に流れているのか、その流れて行く方向はいい方向なのか、それとも悪い方向なのか、方向性についての判断がつかないまま、変化している事実だけが目の前を過ぎて行くことになっています。


そもそも未来のことは分からない、もちろん人に聞いても分からない、ましてや人と比較しても自分の未来が分かるはずがない。


つまり、世の中のことは、あらかじめ決まった答えがないのが答えということです。


少し辛いけれどこれが真実のようです。


蛇足ながら申し上げると、決まった答えがないのは今の時代だけに限られた特徴ではなく、過去の時代も同じように決まった答えがなかったということです。


しかしながら、戦後の一時期、決まった答えがあると信じられていたため、今でも同じように決まった答えがあると信じている日本人が多いのかもしれません。


また、人は普通に生きていると、自分は特別な存在であり、自分にはあらかじめ決まった答えがあると信じ込んでしまう傾向があるようです。


おそらく、決まった答えがあると信じ込むことで、先の見えない自分の未来への不安や焦燥感を無意識のうちに打ち消しているのではないでしょうか。


そして、何よりも大事なことは、決まった答えがあるとするその根拠が、周りのみんなと答えが同じであるいうことです。


つまり、みんなの答えと自分の答えが同じであるから、それがあらかじめ決まった答えになるということです。


瑣末はいざしらず、大事を決める際の答えになるのでしょうか。


一般に、このような答えの導き方を相互参照(横並び)と呼ぶことがあります。


そして、この相互参照(横並び)は、日本人の行動様式の典型とされることもあります。


また、相互参照は横並びと同義であるがゆえに、外部にある法令や合理的解釈など面倒なものは必要としません。


あくまで、みんなで決めたという場の共有こそが、あらかじめ決まった答えの根拠になるということです。


確かに、独りだけの正しさを通すよりも、みんなと答えが同じである方が孤独感が和らぎ安心感が増すかもしれません。


しかしながら、みんなと同じ答え(あらかじめ決まった答え)だけでは、おそらく世の中の大半の事象に対応することができないのではないでしょうか。


なぜなら、みんなと同じ答え(あらかじめ決まった答え)はあくまでもリトルワールド(世間)の中の決まった答えであり、世の中の大半の事象はリトルワールド(世間)を超越したところにあるからです。


ここで言うリトルワールド(世間)とは、半径数十メートルの十数人程度の集まりのことです。


インターネットで言えば、LINEのイメージでしょうか。


したがって、リトルワールド(世間)の中で決めた答えが、それ自体を包括する上位レベルの世の中(より大きな世間)をコントロールできるはずがありません。


例えば、税金を払わないとみんなで決めても、その上位の審級である国や地方自治体は法令に従って粛々とみんなの財産を差し押えするだけです。


要するに、みんなで答えを決めるにしても、それが自分たちでコントロール可能な領域なのか、それともコントロール不可能な領域なのかくらいの感覚は持っていないと、大変な事故を起こすことになってしまいますので、
くれぐれもご注意を。

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先ほど、戦後の一時期あらかじめ決まった答えがあると信じられていたことに触れましたが、まさに日本の
高度経済成長期は、多くの日本人があらかじめ決まった答えがあると信じることのできた稀有な時代であったと思われます。


元来、日本の社会には多種多様な価値や信念の対立(差異)が存在し、地域や共同体ごとの文化が乱立する百花繚乱状態にあったと思われます。


特に戦後間もない日本の社会は、全体を総括できるような価値や信念は見当たらず、あらかじめ決まった答えがないという状況になっていたと思われます。


やがて日本経済が復興し、高度経済成長期になると、地域や共同体ごとの価値や信念の対立(差異)は社会の表面上から消え去り、まるで日本全体が一枚の岩盤で出来ているかのような安定感を示すことになります。


おそらく、これは、経済的に豊かになった日本人が、未来志向型の問題解決方法(つまりは問題の先送り)を採るようになったためではないかと思われます。


つまり、この時期の日本の社会には依然多くの信念対立が見られましたが、右肩上がりの経済成長がそれらの問題を先送りすることを可能としたため、矛盾は顕在化せず一見社会が安定しているかのように見えていたということです。


ところで、高度経済成長期には、多くの日本人が地方から都会部へと大移動することになりました。


これは、都市の後背人口である地方の低賃金労働者(差異)が経済成長のための生産手段に組み込まれたために生じた現象といえます。

やがて、地方から都市に流入した低賃金労働者は、日本の右肩上がりの経済成長とともに中産階級化(アッパーミドル化)していくことになります。


少し見方を変えれば、多くの日本人が大衆消費社会の中の購買力のある消費者になっていくことでもあります。


また、人口の大移動は流出した地方の地縁血縁関係の共同体を崩壊させ、
流出した都市部では地縁血縁関係の共同体が旧弊なものと敬遠され、都市の郊外化(ニュータウン化)が進展していくことになります。


いずれの地域社会も空洞化が進みますが、都市部においてはそれまでの地縁血縁関係の共同体に代わる新たな受け皿として会社共同体が登場することになります。


そして、疑似地縁血縁共同体の会社共同体は、社員とその家族に対する福利厚生のみならず、雇用問題や社会福祉という国や地方自治体が担う領域までカバーする存在になっていきました。


ところで、日本の地縁血縁の共同体(イエ制度)の最大の目的は、共同体(イエ制度)自体が存続することにあるとされています。


このため、日本の地縁血縁の共同体(イエ制度)は、経済合理性の観点から、構成員に対する包摂と排除の線引き(分節)を行うことになります。

つまり、有用な構成員は包摂される一方で、有用でない構成員は排除されることになるということです。


ただ、包摂と排除の線引き(分節)は曖昧かつ恣意的な部分が多かったため、構成員は包摂と排除の両義的で不安定な立場に置かれることになります。

包摂でも排除でもない、中途半端なある意味大変苦痛が強いられる立場といえるのではないでしょうか。

そして、このような日本の地縁血縁の共同体(イエ制度)の持つ特徴は、疑似地縁血縁共同体である会社共同体にも引き継がれていくことになります。


さて、資本主義の論理は差異の創出ということでした。


バブル経済崩壊を挟んだ日本政府は、男女雇用機会均等法(男女共同参画社会基本法)や労働者派遣法の施行、そして外国人労働者の受け入れ等の経済政策を実施してきました。

これらの経済政策は、戦後の高度成長期に民主化され、フラット化された日本の社会に新たな差異の創出(低賃金労働者の創出)を目的とするものであり、日本経済が再び成長路線に向かうための余力(糊しろ)を生み出すためのものであったと考えられます。


したがって、資本主義の論理からすると、今後とも差異の創出(低賃金労働者の創出)の方向性にブレが見られないことから、女性労働者や外国人労働者の労働市場への参入はますます増加していく傾向にあるのではないでしょうか。

また、現代の日本の労働市場で見られる、社員のリストラや非正規化、またブラック企業の存在などの問題は、単に資本主義の論理(差異の創出)という経済の側面からだけでは説明がつかないところがあるように思われます。


例えば、会社共同体における正規社員と非正規社員の「立場」の不明確性や長時間労働に見られる社員の「役割」の不明瞭性の問題などは、会社共同体が曖昧かつ恣意的に法令ルールを適用することだけではなく、それを暗黙裡に容認している日本の社会(共同体)の体質(土壌)にあるのではないのでしょうか。

つまり、社員の立場を不明確にし、その役割を不明瞭にさせるのは、日本の共同体の本音と建て前という規範の二重性(ダブルスタンダード)ではないかということです。

おそらく、日本の社会(共同体)の特徴は、近代的で合理的な法令ルールが支配する法治国家という側面がある一方で、社会(共同体)の不文律である暗黙の掟が法令ルールに優先するという前近代的で非合理な「世間」という側面を多く残しているのではないでしょうか。


したがって、日本が抱える多くの問題は、単に経済理論や法令ルールの合理的解釈だけではなく、むしろ恣意的で非合理とされる「世間」という鵺(ねえ)のような生き物を社会学的に解析する方法が必要になってくるのかもしれません。

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日本人は、もともと横並び意識(みんなが同じ)が強かったこともあり、戦後日本の民主主義の本質が「選択の自由」ではなく「結果の平等」にあると誤認していたところがあったように思われます。

そのため、国を挙げた「国民総中流」というプロパガンダは、マスコミなどを通じて、やがて日本人にとってのあらかじめ決まった答えになっていくことになります。


繰り返しなりますが、高度経済成長期の日本の社会が大きな矛盾を抱えながらも、それらを顕在化させることなく社会を安定化させることに成功したのは、おそらく日本人の多くがみんなが同じという、日本人のエートスに合った「国民総中流」という大きな物語(決まった答え)を信じていたためであると思われます。


また、日本の共同体の持つ特徴である包摂と排除の両義的な線引き(分節)は高度経済成長期に社会から消滅したわけではなく、右肩上がりの経済成長が共生(包摂)の論理を強調できたため、コインの表裏の関係にあった排除の論理がたまたま目立つことがなかったというだけのことです。


したがって、経済成長しなくなったバブル経済崩壊後の日本の社会では、それぞれの共同体が自らの存亡をかけてリストラを断行していくことになりました。


いずれにせよ、高度経済成長期の日本、しかも都市部にあっては、資本の論理(差異の創出)に基づく右肩上がりの経済成長と会社共同体に基づく社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の安定感が同時に達成されるという、まさにユートピアのような社会が出現したことになります。


このため、多くの日本人が、ユートピア社会の幻想(豊かさ)を求めて地方から都市部へと移動していくことになります。

これは、都市部で実現した社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)が、日本人に地方の旧弊な地縁血縁の共同体からの解放という「居住の自由」を可能にさせたということでもあります。


おそらく、高度経済成長期の日本人にとっての「豊かさ」は、右肩上がりの経済成長がもたらした経済的な「結果の平等」の感覚だけではなく、居住場所や人間関係を自らが選択するという「選択の自由」の感覚をも含んだ、まさに戦後民主主義の結節点にある言葉(概念)として受け入れられていたのではないでしょうか。


そして、多くの日本人は「豊かさ」の幻燈効果から目覚めておらず、「自由」や「平等」という普遍(抽象)概念が、地域限定、期間限定でしかなかったということにもいまだ気づいていないのかもしれません。


最後になりました。

現在の日本が置かれている経済情勢は、大変厳しいものがあります。


旧来からの日本の社会制度は疲弊し、もはや現在の日本の社会状況に耐えられなくなってきています。


このため、社会制度の早急な立て直しが求めていますが、昨今の論調は経済成長がすべての問題を解決することとしているため、社会制度改革が逆に経済成長を妨げる要因(犯人)とされてしまっているところがあるように思われます。


確かに、犯人が分かれば安心はできますが、これでは状況は何も変わりません。


つまり、最初に経済成長ありきの「あらかじめ決まった答え」が設定されてしまっているため、「本来の原因」である社会制度や社会構造の修繕(メンテナンス)と「その結果」である社会機能の改善(経済成長?)が逆立ちした形になってしまっているということです。


原因と結果が逆立ちした状態で「あらかじめ決まった答え」だけを信じていると、やがてリアリテイは現実世界から遊離し、自分が向いている方向さえ分からない、まさに先の見えない状況に陥ってしまうことになるわけです。


現在の日本の状況は、バーチャルリアリテイ(ゲーム的リアリズム)の感覚に近いものであるのかもしれません。

だからこそ、世の中の大事に「あらかじめ決まった答え」はない(疑ってかかる)という至極当たり前な真実を再認識し、刹那的で安心感が得られる相互参照(横並び)ではなく、少し面倒かもしれませんが、何を参照すべきかを「自分の頭で考える」ことから始めなければならないのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

   どうでもいいことは流行に従い、
   重大なことは道徳に従い、
   芸術のことは自分に従う。
                 (小津安二郎監督の言葉より)

(おわり)


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by kokokara-message | 2014-06-29 22:46 | 我流日本論

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「話せばわかる」なんて大うそとは、養老孟司氏の「バカの壁」の帯にあったキャッチコピーです。

わかり合おうとしなければ、わかり合えるはずがないことは、言うまでもありません。

しかしながら、わかり合おうと一歩踏み出すか否かはひとつの判断であり、その場における関係性や文脈に大いに依存するのが一般的ではないでしょうか。

つまり、話し合うという前提ができていない状況では、いくら話し合おうと努力しても、結局相手からの一方的な拒否権を行使されるだけということになってしまいます。

従って、こちら側が全面譲歩でもしない限り、相手の了解が得られないという危機的状況にあっては、もはやそこから何も生まれないと判断していいのかもしれません。

また、公共性や普遍性(あえてお互いの理性といいたいところですが)の前提が共有されていない関係では、お互いの共同性(自分の都合)だけを各々主張しあうだけとなり、結局は共通理解に至らないということになるのが落ちです。

それでも、あえて共通了解(共同)をしたいというのなら、たとえば、そこに仮想した危機的状況(クライシス)を作り出すことで、お互いが虚構(フィクション)の敵を介して、一時的に共通理解(共同)することは可能であるのかもしれません。

シンプルですが、「敵の敵は味方」はよく使われる戦略です。

しかしながら、原則(プリンシプル)を欠いたその場逃れの戦略だけでは、やがて仮想の敵が消滅すると、再び自分の共同性(自分の都合)だけを声高に繰り返すということになります。

確かに、「敵の敵は味方」のようなプラグマティズム(実用主義)は、覇権する側(支配者)にとって有効な戦略と言えるのかもしれません。

しかしながら、大多数の覇権される側(被支配者)にとってはいかなる解決ももたらさない、わざわざ関係性を複雑にするだけの厄介で後始末の悪い戦略ということになってしまいます。

元来共同性は、内向的、均質的であることが特徴と言われています。

たとえば、ナショナリズム(愛国心)が、国民国家を均質化するための有効な装置になるのはその一例です。

ただ一方で、外部と遮断された鎖国ともいえる共同性(リトルワールド)は、現実世界のリアリティ(現実感)から遊離し、大いなる幻想へと膨れ上がることもあるということです。

かってのオウム真理教がそれにあたるのではないでしょうか。

少し意地の悪い言い方をするのなら、「話せばわかる」と素朴に信じている人の中には、このような大いなる幻想の中にまどろみ、共同性(リトルワールド)には外縁があるということを見失っているのではないでしょうか。

つまり、外部を持たない共同性(リトルワール)の中では、自らの正義(善意)だけが絶対無二の普遍性となるため、自分の周りも同じ正義(善意)を信じる(信じなければならない)という素朴かつ頑迷な思い込みが生じることになります。

このため、自らの正義(善意)を自分の周りに押し付けるという、無知蒙昧なパターナリズム(おせっかい主義)が発生するということにもなってしまいます。

以前、NHKで「サラリーマン・ネオ」という番組がありました。

この番組では、生瀬勝久さんが演じる下請け会社の部長が、本社の視察の際、高い評価を得るためにシナリオ通りの模範的な仕事風景を演出する場面が繰り返し繰り返し登場します。

この番組が、コメディであることは言うまでもありません。

なぜなら、この番組の狂言回しのシーンは、明らかに現実の一場面を風刺する目的で描かれているからです。

この番組を見た多くの人が、自分の周りで実際に起こっている、似たようなパターナリズム(おせっかい主義)と狂言回しを思い出しながら苦笑することになるのではないでしょうか。

このように、会社組織は共同体(リトルワールド)の典型といえます。

むろん、外部を持たない共同体(リトルワールド)であれば、会社以外(官庁等)でも、同じようなパターナリズム(おせっかい主義)と狂言回しが繰り返されているのではないでしょうか。

もし自分が共同体(リトルワールド)から距離をとってパターナリズム(おせっかい主義)と狂言回しを俯瞰したとしたら、おそらくコメディ(風刺)の枠を逸脱した、「虚構(うそ)」と「矛盾(でたらめ)」の世界を目の当たりにすることになるのではないでしょうか。

つまり、外部を持たない共同体(リトルワールド)の中は、プリンシプル(原則)とリアリティ(現実感)が希薄となり、「虚構(うそ)」と「矛盾(でたらめ)」が跋扈する、何でもありの世界になるということです。

しかしながら、ここで重要なことは、たとえ「虚構(うそ)」や「矛盾(でたらめ)」が跋扈する世界であっても、ほんの少しのゆとり(自他を客観視する余裕)さえあれば、結果として幻想の共同体(リトルワールド)を「無化しない」で済むということも可能になります。

ここでいう「無化しない」とは、自分の側から見た共同体(リトルワールド)に対する究極の距離感のことであって、「棲み分け」の意味としてお考えください。

つまり、主体性(ボール)はいつも自分サイドにあり、「棲み分ける」べき共同体(リトルワールド)との距離感は、あくまで自分の側が決定するということです。

例えば、今自分が出したパス(ボール)が変幻自在にゲーム(現象)を進行させているとしたら、おそらく自分が居る共同体(リトルワールド)との関係は親和的であるといえるのかもしれません。

また、多少の不具合はあっても、ゲームが主体的に構成できていると確信が持てる瞬間があるのであれば、その共同体(リトルワールド)とおそらく同じ文脈に属しているということではないでしょうか。

少なくとも内面においては、幻想の共同体(リトルワールド)との「棲み分け」が図られているということです。

しかしながら、友人や会社の同僚同士のみならず、たとえ夫婦間であっても、感情的に、生理的に、どうにもならない、手に負えない、興味が持てない、生理的に嫌悪するという事態になってしまえば、もうその共同体(リトルワールド)との関係性は修復不可能、つまり位相の異なった次元に文脈(関係性)が移動してしまったということです。

自分と共同体(リトルワールド)との文脈(見えている世界観)が異なれば、もはや交信は不通状態となり、こちらは思考停止するしかない状態になってしまいます。

思考停止は、必ずしもネガティブな意味だけではなく、もはや自己コントロールができないため、共同体(リトルワールド)との関係は引きずらない、考えても仕方がないという身体からのメッセージでもあります。

つまり、心と身体の防衛機制によって、抑圧されることになった共同体(リトルワールド)は、やがて無化されてくことになります。

ここで言う「無化」とは、共同体(リトルワールド)が自分と異なる位相に移行してしまったため、もはや主体的にコミュニケーションを図ることができない諦観でもあります。

「去るものは追わず、来るものは選んで」とは、フォクシーの前田義子さんの至極の言葉です。

ここで言う「去るもの」とは、自分とは隔絶し埋めがたい距離感を持つことになった(従って無化せざるを得なかった)共同体(リトルワールド)とお考えください。

周りへの努力はとても大切なことですが、自分を取り囲む文脈や関係性は自分の努力だけではどうにもならないということもまた事実です。

したがって、標題の「話せばわかるなんて大うそ?」に戻れば、いくら会話をしようと努力しても、もはや会話(言葉)が通じなくなってしまえば、分かり合えることもないということもまた事実ではないでしょうか。

とても残念なことですが、諦める(明らかに極める)しかないということです。

そして、諦め(明らかに極め)ることができたのなら、次は自分の現在の価値観や人生観に合った共同体(リトルワールド)を、もう一度諦めずに自らが主体的に選択するということになります。

むろん理論上はですが・・・。

さて、共同体(リトルワールド)の持つ特徴としては、包摂と排除の両義的な関係性があげられることがあります。

共同体(リトルワールド)の内部では包摂と排除の関係が同時に起こるため、自分の側から共同体(リトルワールド)を無化するということは、一方では共同体(リトルワールド)の側から排除(追放)を宣告されるということでもあり、両者はコインの裏表の関係にあることが一般的と言えます。

そして、結果として共同体(リトルワールド)から排除(追放)の宣告がなされたならば、それは共同体(リトルワールド)との癒合関係からの自律の第一歩ということでもあります。

このような、少し辛いけれども居心地の良い、両義的ともいえる関係性の決定過程を経ることによって、やがて「個人」が生成されることになります。

「個人主義」などと言われることがありますが、「個人」とはあらかじめ存在しているのではなく、「共同体(リトルワールド)」から析出された(押し出された)結果として生成されたものが「個人」であって、少し言い方を変えるなら共同体(一般)からの破たんが「個人」(個性)ということになります。

「個性」とは、単に一般からの破たんのことであって、それほど御目出度いものではないということです。

少なくとも、日本の社会においては・・・。

したがって、共同体(リトルワールド)から析出された(押し出された)「個人」は、もはや無化した(無化された)共同体(リトルワールド)に固執する必然性はないということになります。

なぜなら、論理的に考えれば、一般から破たんすることは、自分の人生の目標や価値観にあった共同体(リトルワールド)を主体的に選択できる環境の奪取でもあるからです。

以上からすると、「話せばわかる」なんて大うそ?のテーマは、今在る自明な人間関係やコミュニケーションを相対化するための重要な命題ということになりそうです。

つまり、「話せばわかる」なんて大うそ?という命題は、主体的なコミュニケーションを実践するための方法論(懐疑論)であるとともに、その結果として自明な共同体(リトルワールド)から「個人」を析出するために必要な視座(自己意識)を共同体の構成員に付与するものであるからです。

懐疑することで、少し引いた視点から自他を観察することが可能となります。

最後に、「個人」と「共同体(リトルワールド)」との関係を整理してみると、自らが所属する共同体(リトルワールド)を懐疑できた人が、自らの共同体(リトルワールド)の外部に出ることのできる人であり、さらにその共同体(リトルワールド)の外部にまで軸足をずらすことができた人が、「共同体(リトルワールド)」を俯瞰する視点を確保した「個人」と呼ばれる自立(自律)した存在ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

蛇足ながら、上記の「共同体(リトルワールド)」は「世間(せけん)」の別名として使用しています。

したがって、「個人」とは、「出世間」、つまり「こころの出家」を指す言葉であるのかもしれませんね(笑)。

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by kokokara-message | 2014-04-08 23:06 | 我流日本論

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京都造形芸術大学芸術学教授の寺脇研さんと言えば、いわゆる「ゆとり教育」を推進した人物で、誤解、曲解も含めて、右と左からの批判の対象にされた元文部省のキャリア官僚です。

寺脇研さんの現状認識によれば、日本はもはや近代の徹底(資本主義や民主主義の徹底)だけでは生産もやがては消費もなりゆかなくなる、いわゆるポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代に入ったということのようです。

そして、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代は、明治以降日本が登りつめてきた「坂の上の雲」を目指す右肩上がりの時代とは全く異なった考え方や生き方が支配する時代でもあります。

また、寺脇研さんによれば、近代における教育の最大の目的は、産業資本主義を担うことのできる廉価で均一な多くの生産者を育成することにあったということです。

つまり、いまだ貧しく、多くの人口の糊しろを抱えた後発の日本が、廉価で均一な生産者をより多く育成することにより、近代の産業資本主義における右肩上がりの経済成長を可能にしたということです。

日本の華々しい高度経済成長の裏には、このような日本の相対的貧困があったということになります。

ただ、現在のグローバル化する世界経済を見回すと、もはや日本の国内には後背人口の糊しろは残されておらず、既存の産業資本主義を支える廉価で均一な労働力は外部(国外)の生産拠点に求めるしかありません。

国外に生産拠点を求めれば、当然日本の産業資本主義の空洞化を招くことになります。

おそらく、日本の産業資本主義の空洞化は不可逆的なものであり、多少の揺り戻しはあったとしても、今後ともこの趨勢は変わらないのではないでしょうか。

従って、日本の教育制度も、これまでの既定の教育システムを徹底させていく(近代の徹底)だけでは、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代に対応できる人材を育成できるとは限りません。

そして、このことに危機感を抱いた旧文部省が採用した政策が「ゆとり教育」であり、既定の集団中心の教育から個別中心の学習へと軸足を移していくというものでした。

一部では「ゆとり教育」がゆとりそのものを目的とした政策であるかのように報じられています。

しかしながら、「ゆとり教育」は集団教育から個別学習に軸足を移すための手段(環境整備)であって、ゆとりそのものが目的ではなかったと言うことです。
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ところで、一般には、日本の教育は、学校での集団教育を指すとされているようです。

学校教育は既定のカリキュラムの履修を目的とするものですが、個別学習はむしろその既定の枠外にある教養や知識にアプローチしていくことを目的としています。

つまり、学習は教育カリキュラムの基礎学力をベースにしながらも、その既定の枠組を壊し、その枠外へと広がっていく志向性を持ったものということになります。

そして、この広がりには原則際限がないため、その途上で予測もできない危険に出くわすことがあります。

このようなリスクの存在が、「学習が知の冒険」と呼ばれる由縁であるのかもしれません。

ところで、学習は個別な営為と思われていますが、個別ではあっても孤独な営為ではありません。

むしろ、それとは正反対に「師」と伴に積み上げていく、二人三脚の地道な営為ではないでしょうか。

ここで言う「師」とは、自分の欠如感や欠足感を満たしてくれる経験豊かな先達(せんだつ)のことです。

そして、自分の欠如感や欠足感を満たしてくれる「師」は、自分の小さな枠組を壊してくれる人であり、さらに自分の外部にある芳醇な世界へと安全に導いてくれる人でもあります。

例えば、子供にとっての知識と経験が豊かな大人が「師」のイメージに当たるのではないでしょうか。

むろん、子供以外の人でも、自らの欠如感に気づき、その充足を目指す人であるのなら、やがて「師」とめぐり会うことはできます。

そして、めぐり会った「師」と対話を繰り返すことにより、飛躍的に自らの学習効果を向上させることができるわけです。

初めのうちは個別な学習であっても、やがては個人の領域を超えて、自らが所属する社会の領域にまで達することも珍しくはありません。

つまり、個人の瑣末を突き詰めていけば、やがては社会全体の総括にまで至るという、ミクロとマクロの逆転現象が起こるわけです。

ところで、「師」が弟子の欠如感を満たし、弟子に外部があることを気づかせる存在であることは先に述べました。

さらに、「師」には重要と思われるもうひとつの特徴があります。

それは、「師」は実在しなくとも、「師」を「師」として仰ぐ弟子がいれば、弟子の学習効果は自ずと向上していくというものです。

つまり、「師」とは直接会わなくとも、また直接指南を受けなくとも、弟子が「師」から学びたいという欲求(欠如感、飢餓感)さえ持っていれば、弟子は「師」の実在とは関係なく、自らで学習を開始しそして成長していくことになります。

例えば、弟子が困った時など、「師」であればどのように対処するであろうか、どのように考えるであろうかと考えを巡らせることが、弟子が自ら考えて答えを出すということであり、この思考のサイクルを起動させるのが「師」の存在(実在ではありません。)ということになります。

「師」は存在すればよく、実在は学習の絶対条件ではないということです。

むしろ、「師」が不在であることが「師」との対話を促進させることもあり、また弟子の思索を深化させることもあるということです。

以上のことから、教育と学習を比較すれば、教育とは「師」から伝授された知識や情報のアーカイブの部分のことを指し、学習はそのアーカイブを参照しながら、「師」の洞察までも想像し、「師」が実際には語っていない言葉の意味までも理解してしまう荒唐無稽な脳の働きということになります。

このような脳の働きは、理想化され、幻想化された「師」との対話を通じてしか得られず、自分自身が自分自身を俯瞰する視点、つまりは自分自身を括弧に入れて、理想化された「師」とシンクロした(理想の「師」と同化した)視点を確保することが、学習の究極の目的と言えるのではないでしょうか。

もはや既存の思考のフレームワークだけでは対応のできない、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代をクールかつ創造的に生き抜くためには、このような醒めた客観的な視点(自己意識)を確保することが、なによりも重要になってくると思うのですが、さていかがでしょうか。

(閑話休題)
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日本社会は、大人がとても少ない社会であると言われることがあります。

おそらく、これは成熟した大人がとても生きにくい未成熟な社会ということを意味しているのかもしれません。

ここで言う成熟した大人とは、自分の立ち位置や役割が分かっている人という意味でご理解ください。

村上春樹さんの著書「ノルウェイの森」に出てくる紳士の定義「やりたいことをやるのではなく、やらねばならないことをやる」が、意味として近いのかもしれません。

そして、日本の社会は、父権的な「師」よりも、庇護してくれる母系的な「師」が慕われる傾向にあるとも言われています。

河合隼雄さんの著書「母系社会日本の病理」では、成人になれない日本人(永遠の少年)の精神病理が扱われています。

いずれにせよ、日本が母系的な社会であって、成熟した大人が生きにくい社会であるのなら、日本の社会には未成熟な若者に意味を与え(分節し)、成熟(自律)を促す父権的な意味合いの「師」は存在しづらくなってしまいます。

寺脇研さんの言われるとおり、日本を取り巻く世界経済のグローバル化の進展からすると、日本は近代(モダン)の徹底である集団教育を中心とする制度から早々に脱却し、個別学習を中心とした新たな教育制度への転換が喫緊の問題ではないでしょうか。

しかしながら、いくら集団教育から個別学習への転換の必要性を提唱したとしても、日本の社会に「師」が存在しない(いたとしても存在しづらい)となれば、結局は子供は学習(冒険)を体験することができず、空虚でゆとりだけの教育が残されることにもなってしまいます。

このため、日本の社会で「師」を得たいと欲すれば、希少な存在である「師」をどこからか見つけ出してくるしかありません。

そして、「師」に対する需給の関係からすると、希少な存在の「師」の需要は当然高くなくなるため、「師」を得るためのコストも高くなってしまうことになります。

つまり、「師」が存在しない未成熟な日本の社会では、子供が学習(冒険)体験をするにもコストがかさむということになり、そのコストが負担できなければ、子供は学習を経験することさえできなくなってしまうわけです。

ただし、「師」の不在と経済格差(貧富)の問題は現代の日本社会にだけ見られる特殊な現象ではないようです。

むしろ、日本の社会が古来から引き継いできた社会構造に組み込まれたものではないでしょうか。

では、日本が先祖がえりして、従来の詰め込み一辺倒の教育に戻ってしまえばどうなるのでしょうか。

一見機会均等の教育平等社会を標榜するように見える詰め込み一辺倒の教育でも、先に既述したようにグローバル化が進展していくと、現状がそうであるように、日本だけが経済における比較優位を維持できる保障はどこにもないということです。

むしろ、世界経済のグローバル化(資本と労働力の流動化)が進展して行くと、世界の賃金水準の平準化(フラット化)が進むこととなり、必然的に日本の賃金水準も平準化され、下方修正されてしまうことになるのではないでしょうか。

つまり、教育平等社会を標榜する詰め込み一辺倒の教育だけでは、日本経済の優位性が維持できないばかりか、現行の賃金水準さえ維持できなくなってしまう可能性もあるということです。

旧文部省から「ゆとり教育」が提唱された背景には、このような世界経済のグローバル化とそれに伴う日本社会のパラダムシフト(世界観の変化)という難問が横たわっていたということになります。

しかしながら、それらの議論は十分になされないまま、「ゆとり教育」が経済格差を是認し、教育格差を助長するものと単純に理解されてしまい、誤解、曲解の中、いわゆる「ゆとり教育」は右からも左からも批判される対象となってしまったということではないでしょうか。

最後に、もう一度学習を促進させる「師」について述べて、少々長い論考を終えることにします。

私事で恐縮ですが、私には「師」と呼ぶことのできる人が存在します。

ただし、私が勝手にその方を「師」と思っているだけで、先方はこちらを弟子とは思っていないかもしれません。

しかしながら、「師」はあくまで幻想(面影)である以上、私が「師」と思うことには論理矛盾はないと考えています。

とりあえず、自分に「師」が存在するということが大切なことであって、とても幸せなことであると思っていますす。

そして、先にも述べたとおり、学習のサイクルはいったん駆動を始めると、もはや「師」の実在はそれほど重要なことではなくなり、やがて「師」は幻想(面影)へと変わっていくことになります。

従って、昔「師」が実際に話された言葉でも、新たに自分だけの意味が付与されることとなり、自分の新たな記憶として生まれ変わることも多いように思われます。

「師」が不在でも、「師」を「師」として仰ぎ見る自らの立ち位置さえ見失わなければ、「師の面影」との対話は継続されることとなり、やがて「師」の視点を内面化することにより、自らが自らを俯瞰できる客観的な視点(自己意識)を確保できることになるということです。

おそらく、原初のキリスト教などに見られるように、「不在の師」と残された弟子との対話が繰り返されることで、やがて教義が体系化されていくという過程をたどったのではないでしょうか。

ありありと語りかけることのできる「師」が存在さえすれば、勇気をもって「知の冒険」(自分の頭で考える)を試みることもできるというわけです。

そして、今以上に流動化しグローバル化することが予測される世界経済にあっても、あくまでも日本という国に機軸を置き、その社会的文脈(関係性)から自ずと決まってくる自分の立ち位置とその役割をきちんと果たすこと(結局は今までどおりですね。こそが、「神」なき、「師」不在の日本のポストモダン社会に勇気をもってダイビングをすること(「知の冒険」ですね。)ではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

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by kokokara-message | 2013-05-06 12:28 | 我流日本論

ミーハーと普遍性

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最近のことですが、私がミーハーではないかと言われたことがあります。

おそらく、私の選択が多数派にあることが多いため、そのように指摘されたのかもしれません。

ウィキペディアによると、ミーハーの意味は、以下のようになっています。

ミーハーとは、昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。

元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。

現在では男性にも使われる言葉である。

最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味でのものがほとんどである。


低俗な趣味や流行の意味するところは定かではありませんが、おそらくミーハーとは何かに熱しやすいタイプの人を指すのかもしれません。

また、ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく、という意味では、おそらくミーハーは横並び意識が強く、同じでないと不安になる人かもしれません。

昨今の賞味期限の短い、一過性ともいえる情報が飛び交う社会情勢では、ミーハーの付和雷同は極めてリスクの高い選択になるかもしれませんね。

いずれにせよ、ミーハーとは、表層的な横並び意識を基盤とした多数派形成を志向する人たちといえそうです。

そして、ミーハーは多数派にあるといううことが、他には替えがたい自信になっているのかもしれません。

おそらく、かようなミーハーは、大衆社会における代表的な行動様式(エトス)を採る人たちといえそうです。

一方、多数派志向の「ミーハー」に対し、「普遍性」という一般性を表す言葉があります。

養老孟司氏によれば、普遍性とは偏在する多様な感性や価値の極端な部分を除いた真ん中あたり、ということになるようです。

つまり、マニアの感性や価値観のような特殊性、つまり極端な例外を除いた一般性の部分が普遍性になるということです。

例えば、誰もが美しいと感じるものを美しいと感じることや、文化や共同体の論理に囚われない、誰もが納得できる価値や判断が下せるようなことを普遍性と呼ぶのかもしれません。

おそらく、普遍性は、人間であるなら誰もが納得できる範囲に収まるような「一般性」のことを指すのではないでしょうか。

このため、普遍性は、多数派を志向するミーハーの人たちと重なり合う感性や価値観を所持しているということになります。

つまり、マニアのような特殊性を除けば、普遍性であっても、ミーハーであっても、一般性を所持する人たちということでは同じということになります。

また、数の上ではおそらく、どちらも多数派を形成する人たちということになるのではないでしょうか。

ただし、先にも述べましたように、大衆社会におけるミーハーの感性や価値観は、あくまでも相互参照や横並び意識の結果として形成されたものということになります。

つまり、ミーハーがもともと多数派志向の人たちであったように、その行動様式である相互参照や横並び意識を繰り返すことによって、地滑り的に多数派が拡大していくということになります。

一方、普遍性はというと、個人の自由で内発的な選択の結果、同じような傾向を示す人たちが集まり合うことにより一般性が形成されていくということになります。

つまり、普遍性は、もともと人間に内在している至極当たり前なことを自らが確認した結果、当然のように多数派が形成されていくというわけです。

どちらも多数派にあるという点では同じように見えますが、そのアプローチの方法は真逆になっていることには留意しなければなりません。

最近私が気になることは、仕事や家庭の中でも、考えても考えなくとも、またやってもやらなくても、結果は同じというような、なんだか虚無的に感じる場面に出くわすことが多くあるということです。

おそらく、これは結果だけが高く評価されることになるため、多数派にあるという事実だけで容易に勝ち負けを決定されてしまうということが原因ではないでしょうか。

つまり、民主的な手続きの結果として多数派にさえあれば、ミーハーであろうと普遍性であろうと、そのアプローチの方法には関係なく、同じよう(勝ち組)に扱われてしまうということです。

民主主義社会において、多数派に属することはとても重要なことです。

しかしながら、月並みな言い方ですが、結果の勝ち負けではない、形成過程(プロセス)に対する考察がより重要ではないかということです。

つまり、現代社会において民主主義が重用されるのは、その単純な多数決の意思決定システムが全体意思をあらわすためではなく、むしろ民主主義という意思決定システムの中に「人間の持つ普遍性」に対する信頼が組み込まれているからではないでしょうか。

社会学者の橋爪大三郎氏は、民主主義は最高の意思決定システムとされています。

少なくとも近代以降の日本の意思決定システムは、相互参照や横並び意識の多数派形成を意図して設計されたものではありません。

あくまでも、個人の自由で内発的な選択を前提として多数決の意思決定システムが機能するものと考えていたはずです。

もちろん、残念なことではありますが、現実と実態がかい離しているという現象も多々見られることといえそうです。

大衆社会とは、個々の感性や価値観が多様化する一方で、それらの感性や価値観が画一化されて行くという、拡散と収縮(選択と集中でもかまいません)が同時に起こるカオスの状態ということができます。

大衆社会に生きる私たちは、このようなカオス状態をいかに生き延びればいいのでしょうか。

まず、グローバリズムのトレンドからすると、文化や共同体という特殊性を超えた、もともと人間に内在している「普遍性」に依拠した判断や決定が行われることが求められているといえそうです。

これは大変難しいことですが、いかに文化や共同体のバイアスから自由な(解放された)判断や決定ができるか、つまりは自分自身をいかに相対化するかが、今を生き延びるためのスキルということになりそうです。

そして、少し戦略的な話になってしまいますが、やはり民主主義社会で生き延びるということは、いかなる場合であっても、社会の多数派からは零れ落ちないという立ち位置はキープしておくという慎重さは必要とされるかもしれません。

つまり、今を生き延びるためのスキルとして世を忍ぶ仮の姿も必要になるということではないでしょうか。

先にも述べたとおり、ミーハーと普遍性では多数派へアプローチする方法は、真逆になっているということでした。

しかしながら、あらためて大衆社会における多数派の立ち位置の重要性を考慮すれば、ミーハーと普遍性はともに今を生き延びるための重要なスキルということになり、それぞれが対立する概念という位置づけにはなっていないということです。

ミーハーであることと普遍性であることのスキルがバランスよく補完し合う関係になれば、両義的であり複雑怪奇ともいえる大衆社会を生き延びることができる活路も見出すことができるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2012-04-22 11:02 | 我流日本論

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最近では、屋外であっても喫煙できる場所が限定されてきたようです。

また、バブルの頃のように、夜の繁華街で酔っぱらったサラリーマンを見かけることも少なくなったように思われます。

喫煙や飲酒は個人の嗜好の領域へと追いやられ、もはや公共空間では楽しむことがでない習慣へと変わりつつあるといえるのかもしれません。

さらに、メタボリック。

健康増進法の施行以来、メタボリックであるということが反社会的行為とみなされ、先の喫煙や飲酒とともに社会にとって非効率でコストのかかる悪癖としてみなされるようになってきたのではないでしょうか。

もともと日本や東洋の伝統では、喫煙や飲酒の習慣はコミュニケーションの手段の一つとされてきたと考えられます。

煙草が御下賜されてきたことや般若湯と称し僧侶の飲酒が認められてきたように、喫煙や飲酒は特別な習慣として日本の社会の中で認知されていたといえそうです。

これにも関わらず、なぜこれほどまでに飲酒や喫煙が社会の悪癖とされることになってしまったのでしょうか。

傲慢に肥大化した欲望へのブレーキが要請されることになったということなのでしょうか。

十年以上前のことですが、ハワイを訪れていた時期がありました。

ハワイのホノルルにあっても、禁酒は確かに伝統的習慣とされていましたが、禁煙についてはいまだ厳しい規制は施行されておらず、禁煙の習慣がハワイの社会全体に広がるのは、1990年代後半の頃からであったように記憶しています。

また、同時期のヨーロッパでは、ドイツの某航空会社のキャビンアテンダントが、立ったまま水を入れた紙コップを持ち、喫煙をしている姿を見て大変驚いたことがありました。

ハワイやヨーロッパにおいて禁煙が習慣となるのはそれから後のことであり、禁煙の歴史はそれほど古いものではないといえそうです。

そうはいいながらも、現在ではアメリカ社会の習慣であったはずの禁酒や禁煙が、日本のみならずヨーロッパにおいても席巻するという状況になってきているようです。

なにより、ここ十年程のアメリカの習慣のグローバル化には、目を見張るものがあります。

ご存知のように、アメリカ合衆国の精神の源泉には、合理主義と禁欲主義がセットされています。

そして、これらのアメリカのイズムは、プロテスタントの「世俗内禁欲」に端を発した行動様式ということができます。

プロテスタントの「世俗内禁欲」については、以前にもこのブログで記述したことがあるのでここでは割愛しますが、アメリカの習慣の多くはプロテスタントの教義に基づく宗教的行事ということが多く、これらの行事が世俗化しものが生活習慣になっていると考えられます。

現在の日本社会にあっても、飲酒や喫煙そしてメタボリックが、反合理的、反禁欲的、さらに反社会的な習慣とみなされる風潮にありますが、その内実はプロテスタントの教義(キリスト教)の普遍化にあるということになります。

アメリカの習慣のグローバル化がプロテスタントの教義をの普遍化でもあるということに、果たしてどれだけの日本人が気付いているといえるのでしょうか。

もし、アメリカの習慣にセットされた宗教的な意味を知らないまま、表層的なルール(法律)だけを受け入れていれば、本来宗教に備わっているはずの「寛容」のブレーキが効かないまま、コンプライアンスだけを主張し暴走することにもなってしまうということです。

寛容はいうまでもなく共同性に対する寛容であり、さらにそれぞれの共同性が併存しうるための寛容(放っておく)になります。

ところで、飲酒や喫煙、そしてメタボの原因となる食生活を制御するとは、自己コントロールの問題になることはいうまでもありません。

そして、自己コントロールは、もともと日本人が古来から大切にしてきた生活態度であり、礼儀や節度、そして規範を重んじることにも見られるのではないでしょうか。

さらに、昨今の合理的、禁欲的なアメリカの習慣を受け入れてきたことを、もともと日本文化に内在していた武士道の精神の体現することとして読み替えることができるのかもしれません。

しかしながら、忘れてはならないことは、グローバリゼーションの本質は、アメリカの精神の普遍化にあり、その源泉がキリスト教(プロテスタントの教義)にあることを忘れてはならないということです。

ただ、私のような一個人が、世界を席巻するグローバリゼーションに、どのような思索を巡らしたとしても埒のないことであることはいうまでもありません。

また、グローバリゼーションという途轍もない荒波の影響のためか、最近では考えても考えなくても、またやってもやらなくでも、結果は全く同じというような極めて虚無的といえる経験をすることも少なくありません。

もはや、なすすべもなく、グローバリゼーションというトレンドに身を委ねること以外には、今を生き抜く選択肢はないのでしょうか。

余計なことは考えず、なるようにしかならないと諦めてしまうことが、逆説的ですが、グローバリゼーションを生き延びる唯一の方法であるのかもしれません。

つまり、諦めの境地、達観ですね。

そして、このような達観の境地に自らの意思で往還できるようになれば、考えても仕方ないことはもはや考えることはしない、ただ流していくだけということもあるように思われます。

かような達観の境地に至れば、もはや哲学ブログのような考えるためのフィールドも必要なく、従って哲学ブログのフラッグを下ろすことになる日も近いといえるのかもしれません。

最後になりましたが、あるがまま、なすがままに世の行く末をただ見据えていくという醒めた視点を維持することが、浮世から零れ落ちた達観の境地にある者の残されたささやかミッションではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2012-04-14 11:53 | 我流日本論

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グローバリゼーションとは、世界の情報化であり、資本主義化であり、世界通史からすれば、近代化の徹底ということになるのではないでしょうか。

グローバリゼーションは、言うまでもなく情報化や資本主義化により世界中の差異を平準化させていこうとする流れということになります。

ただし、グローバリゼーションによりフラット化される世界は、その差異の平準化が繰り返される度に社会の水準が低下していくという、つまりは底辺が見えなくなってしまう状況が続くことにもなるということです。

ところで、グローバリゼーションに対してコミュニタリアニズムという立場があります。

これはハーバード熱血教室のサンデル教授が依拠する立場と言えるのかもしれません。

もちろん、コミュニタリアニズムのいうコミュニティ(共同体)の中にも、グローバリゼーションと同様、差異を見つけては平準化させていく運動はあります。

しかしながら、コミュニティ(共同体)の中における平準化は、内部秩序と内部水準を維持することが目的となり、グローバリゼーションの世界では実感できない各人の足場でもある「底辺」を感じることがができます。

「底辺」という言い方が適切でないとしたら、共同体のセーフティ・ネットと言い換えてもいいのかもしれません。

つまり、グローバリゼーションとコミュニタリアニズムの相違点は、ともに平準化をその方向性としながらも、そこに「底辺」、つまりセーフティ・ネットがセットされているかどうかが相違点ということになりそうです。

先に示したように、グローバリゼーションが近代化の徹底(平準化の徹底)ということであるのなら、グローバリゼーションは世界の大きなトレンドであり、ここからは誰も逃れることができないといえるのではないでしょうか。

たとえ反グローバリゼーションの立場の反論であっても、それは差異の平準化というグローバリゼーションの言説を使用ことでしか、できない限界があるといえるのかもしれません。

ただし、グローバリゼーションとコミュニタリアニズムでは、平準化の方向性は異なっています。

前者は既存のコミュニティ(共同体)と外部世界を平準化させるのに対し、後者は既存のコミュニティを維持するための内部の平準化が中心になるということです。

そして、後者の平準化が既存のコミュニティ(共同体)を維持することを目的ということから、もともとコミュニティ(共同体)にセットされた足場(それが共同性ですね。)であるセーフティ・ネットを保存させることにもなるというわけです。

ここで、今一度セーフティ・ネットという言葉を言い換えるなら、それは生き延びるための方策ということになるのかもしれません。

つまり、そもそも底なしのグローバリゼーションの世界にセーフティ・ネットという足場を築こうとする営為が論理矛盾であり、生き延びるための理想の差異をグローバリゼーションの世界に求めるということは、ロマン主義(拝金主義?)と、あきらめるしかないようにも思われます。

従って、グローバリゼーションで生き延びるための方策は、ひとまずは自分の足場であるコミュニティ(共同体)の中に足場を築く、つまりは底辺であるセーフティ・ネットに気づくことから始めることしかないのではないでしょうか。

そして、今あるコミュニティ(共同体)に内在するセーフティ・ネットの意味や機能が理解できれば、おそらくグローバリゼーションの世界においてコミュニティ(共同体)が必要とされる意味にも気づくことになるのではないでしょうか。

さらに、コミュニティ(共同体)が生き延びる方ための足場であるとすれば、コミュニティ(共同体)の中のどのような差異を平準化し、どのような差異を温存していけばいいのかも見えてくるのかもしれません。

「同じであるからうまくいく」という発想は、グローバリゼーションからすると逆説的に聞こえることになるかもしれません。

しかしながら、先の見えない世界にあって、まずは生き延びなければならないことを優先するとしたら、コミュニティ(共同体)の中に旗をたてるような晴天型の芸当を演じるのではなく、むしろ悪天であっても生き延びられるような「同じであるからうまくいく」という消極的ともいえる方策が、、グローバリゼーションを生き抜く勇気ある選択であるようにも思えるのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2012-01-28 10:21 | 我流日本論

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2011年6月27日の朝日新聞朝刊に、『「終わりなき日常」今は』という宮台真司首都大学東京教授のインタビュー記事が載っていました。

「終わりなき日常」とは、同氏が1995年にオウム真理教事件に際し、もはや輝ける未来もハルマゲドンもない、ただ終わりなき日常が続くだけと、日常性を問い直すことになった著書「終わりなき日常を生きろ」によるものです。

同氏によれば、「終わりなき日常」という言葉はここ15年ほど使用していなかったということですが、「終わりなき日常」が永遠に続くという現実認識自体については今でも変わっていないということのようです。

また、東日本大震災の後に顕在化したことは、被災地からの疎開の可否を分けたものがソーシャルキャピタル(人間関係の資本)の有無であったことを指摘されています。

そして、津波においても、想定にとらわれず各自がばらばらに逃げたケースで多くの人が助かったことをあげ、システムへの過剰な依存が災厄を招くことになるとも指摘されています。

最後に「終わりなき日常」が続く現実の中で幸せになることはとても難しいことであり、依存しているだけでは便利や快適は得ることが出来ても、幸福や尊厳までは得ることが出来ない。

つまり、自分たちが自分たちをコントロールしているという感覚が得られなければ、幸福や尊厳も獲得することができないということでした。

**********************

では、「終わりなき日常」という感覚は、一体どのようなものなのでしょうか。

「やがて終わりのある日常」、つまり大きな夢の達成というようなグランドビジョンがもはや共有できない、その喪失感と敗北感をベースにした感覚といえるのかもしれません。

つまり、経済成長や科学技術の大いなる進歩、また一方でマルクス主義という社会実験が実体のない幻燈効果であることが明らかになり、もはや大きな夢を見ることができない、小さな差異の繰り返しの中で生きるしかないという現実認識(リアリティ)が「終わりなき日常」といいうことなのでしょうか。

少し言い方を変えるなら、みんなで共有できるような大きな物語(グランドビジョン)はもはや存在せず、あらかじめ決まった答えのないグレーな時代を生きなければならないということになるのかもしれません。

おそらく、今となっては、グランドビジョン自体が幻想(イリュージョン)でしかなかったといえそうです。

このため、いくら自分の外部に答えを求めたとしても、充実感や達成感、共感を得ることはできず、多様性といえば聞こえは良いものの、実際には人と人の関係性がバラバラになってしまっているということです。

小さな差異の繰り返しとその結果としての多様性が「終わりなき日常」の内実であるとすれば、同氏が、これとは相反する、人間関係としてのソーシャルキャピタル(社会資本)の重要性を指摘されているのはどうしてなのでしょうか。

人間関係が社会資本ということであるなら、その原型は家族(イエ制度)や地域社会に求めることができそうです。

ただ、日本の家族(イエ制度)は、養子制度に見られるように、必ずしも血縁を原則とした集団ではなく、むしろイエ(共同体)の存続を目的とする機能集団としての側面が強いのではないでしょうか。

このため、共同体の一員であったとしても、機能性がないと分かれば、容赦なく排除されることになります。

また、日本の地域共同体が人間関係としてのソーシャルキャピタルであるなら、その中に包摂されることが危険から身を守ることになるはずです。

しかしながら、日本の地域共同体は包摂と排除の両義性があるため、包摂されるためにはそれ以上の束縛を受けなければならず、また共同体への利他的な忠誠を強く求められることになります。

つまり、地域共同体がアジールとしての役割を担っているとは限らないということです。

従って、今の自分が地域共同体から包摂されているとしても、それは現在の機能性が評価されているだけのことであり、これは裏を返すと、機能性がなくなれば排除されることにもなってしまうということです。

このように、日本のイエ制度や地域社会は構成員の機能性を重視する特徴から、機能性を欠いた個人を包摂するという社会資本の機能は果たしていないといえるのかもしれません。

以上のことを踏まえると、宮台氏が指摘する人間関係の資本の考え方は重要なことなのですが、それ以上に、どのような人間関係、つまりいかなる共同性にいかにコミットするかがさらに重要な問題となってくるということです。

では、伝統的かつ自然発生的といわれる共同体は、現在どのようになっているのでしょうか。

おそらく、その多くの共同体(家族や地域)は高度経済成長期に解体されてしまい、現在残っているものも、昨今の経済情勢から、従来以上に機能性重視の傾向が強まっているのではないでしょうか。

つまり、包摂よりも排除の論理がより強くなっているということです。

そして、さらに厄介なことは、一度解体された共同体を再び復活させるという試みも行なわれているということです。

しかしながら、このようなレディメイドな共同体では、おそらく江戸時代以降の統制と依存を中心とする伝統的な共同体となんら変わらないものになってしまうのではないでしょうか。

つまり、ほんとうに共同体を統制と依存の関係性から自治と参加の関係性へと切り替えたいのであれば、自分たちが自分たちをコントロールするという自在感のある共同体を構築しなければなりません。

そして、構築した共同体の中で自在感を維持できるためには、自分たちがどのような位置にあり、その地点から何を目的とし、そのために自分たちは何を保有し、何を保有していないか、を知ることが出来る地図が必要となります。

ここでいう地図とは、自分たちの位置をマッピングしてくれるメタレベルからの視点であり、「自分たちが何を知らないか」を教えてくれるものが文化資本(教養)ということになります。

つまり、文化資本(教養)とは、先人の知恵のアーカイブを一望俯瞰できる視点を与えてくれるものといえるのかもしれません。

ただ、現実的な対応としては、このようなメタレベルから見える全体像はいったん括弧に入れて、今の自分の社会的文脈にあった生き方を優先させることになるのではないでしょうか。

つまり、モデル化された二項対立構造(右か左か、勝つか負けるか)に陥ってしまうのではなく、むしろ日本社会がいまだ伝統的な統制と依存の社会システムにあるのなら、好むと好まざるに関わらず、重層的ないくつかの共同性(世間)にコミットすることが必定となります。

自己コントロールとは、このような多くの矛盾を孕んだコンプレックス状態を対象とするものです。

決まった答えを持たず、小さな差異を繰り返すだけの「終わりなき日常」の中、自らの幸福と尊厳を獲得しなければならないとしたら、たとえ暫定的なものにはなっても、自らの着地点をそのコンプレックス状態のいずれかに定めなければならないということになります。

このような着地点が、微妙で繊細なバランス感覚と距離感によって、やっと支えられる危ういものであるになることはいうまでもありません。

しかしながら、この絶妙ともいえるアクロバットな芸当を可能にしているものは、外部にある伝統的な統制と依存という社会資本ではなく、自治と参加のメッセージを発している身体化された文化資本(教養)になるのではないかと、同氏のインタビューを読みながら考えたのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

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by kokokara-message | 2011-07-03 09:49 | 我流日本論