アメリカでは一年中で人の移動が一番多いといわれる、サンクス・ギビングディ休暇が終わり、いよいよクリスマスシーズンに突入です。
街は少しずつ、イルミネーションのきらめきで華やいできます。
ホノルル・シティライツの点灯が待ち遠しいですね。
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資本主義から市民主義へ

人格というのは「モノを所有する主体」として、社会的さらに法的に承認された存在といえます。

基本的には法的な概念ということになり、人間だけではなく、いわゆる法人も含んだ概念といえます。

人間と法人の大きな違いは、みずからを所有する人格、他の人に所有されない人格というものが人間といえます。

従って、法人とは、みずからを所有する人格(主体)はなく、他の人に所有される人格ということになります。

本来的に社会的な動物としての人間は、言語と法と貨幣によって、はじめて人間となったということができます。(ここは、岩井克人経済学の要諦といえます)

従って、言語と法と貨幣について思考するということは、人間の存立構造について思考することでもあるということです。

ポスト近代になって、労働価値説(労働そのものに価値があるとする説、ポスト近代では価値は差異から生まれると考えます)が没落し、言語(言語は言語記号の差異による構造とされます)について、法について、貨幣について思考しなおす必要に迫られているといえます。

また、時間があるから貸し借りがあるのではなく、貸し借りがあるから時間の観念があるといえるのではないでしょうか。(つまり、時間はいかにして生まれるかということですね)

貸し借りだけなら、農業の出挙(すいこ)のように、種まきから収穫という円環的時間構造の中で完結しうるものといえます。

従って、貨幣の成立が時間観念の転換においても、本質的な意味を持っているのではないでしょうか。

つまり、貨幣の成立ということが、円環的時間構造の中から抜け出して、外部に広っがていく直線的な時間観念の成立を可能とするからです。

貨幣とは、交換において、誰もがそれ自体を欲しているから受け取るのではなく、次から次へと先送りしていくことができるために受け取るものといえます。

このため、貨幣交換によって永久に突き進む直線的な時間観念が可能になり、貸し借りについても、その時間の流れに新たなリズムを付け加えることになったと思われます。

ユダヤは、エジプトとメソポタミアの中間で媒介する存在として商業に従事したことから、貸し借りの観念を強く持つことになったに違いないのではないでしょうか。(ユダヤは資本主義の精神を理解していたということになります)

つまり、ユダヤは、円環的な時間構造から抜け出して、直線的な時間構造(資本主義の精神である無限の可能性ということ)をもつにいたったということでしょう。

そして、このことがユダヤが一神教(絶対という概念ですね)をもつにいたった契機ではないでしょうか。

貨幣をもつということは、将来にどのようなモノでも買うことができる可能性をもつことであって、可能性ならいくらでも足していくことができるといえます。

その意味で、貨幣とは人間にけっして飽和しない無限の欲望を与えることになったといえます。

そして、この無限の欲望によって突き動かされているのが、資本主義にほかならないということになります。

無限を求める精神とは、まさに資本主義の精神なのであり、貨幣によって可能になった精神と言えるのではないでしょうか。

《おわり》

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by kokokara-message | 2010-11-29 22:50 | 読書(貨幣論)

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ユーロの発行自体が、ドルに基軸通貨国である世界経済全体の立場に立った規律を要請する批判となっています。

世界中央銀行が出来ることは理想ではありますが、今は足がかりになる国際機関や制度を地道に作り上げていくしかない現状にあるといえそうです。

ほんとうの基軸通貨ができるまで、なんとかドル基軸通貨体制をもたせるしかないということになりそうです。

貨幣は関係性によって成立しているのですが、世界経済のなかの主権の問題においては、外部に国家が必要となります。

つまり、世界経済には、いくつもの異なった国家(主権)が存在しうるということになります。

そして、それらの国家には異なった制度や機関が存在することになり、それらは必ずしも市場原理に従ったものとは限らないということです。

不均衡動学の理論の基本テーゼは、資本主義経済とは、本来的に不安定なシステムということになりますが、それがまがりなりにも、なんらかの安定性をもっていられるのは、その中に市場原理に従わない制度や機関が存在しているからということになります。

不均衡動学は、夜警国家(小さな国家)ではなく、固い石のような異物(市場原理に従わない大きな国家)が、資本主義の中に必要であると主張していることになります。

共通通貨システムというのは、労働がかなりの程度自由に移動するという前提がなければ機能しにくいものといえそうです。

ユーロについては、域内の文化差があるために、労働の移動は起こりにくい状態にあるといえます。

中央銀行では、ユーロ参加国のなかでもっとも停滞している地域にあわせて共通通貨を発行するという傾向が生まるため、長期においてはユーロの信任が揺らいでしまうことにもなりかねません。

ギリシア危機は、このような事例のひとつといえるのではないでしょうか。

世界中央銀行(共通通貨システム)ができることは、待望されていることといえるのかもしれません。

しかしながら、世界中央銀行ができると、ほんとうの意味の文明の衝突が起きることになるかもしれません。

つまり、世界中央銀行という制度が、労働者が地域の間を移動することを前提とした制度になっているからです。

労働者が移動すれば、つねに文化的な対立や摩擦をもたらします。

かつての国民国家の成立時においては、国語の統一、国民文化の教育というものが、近代国民国家の枠組みを作るのに決定的な役割を果たしたことからも分かることではないでしょうか。

資本主義から市民主義へ

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by kokokara-message | 2010-11-02 21:53 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(9)

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資本主義から市民主義へ

現在の基軸通貨は、いうまでもなくドルということになります。

基軸通貨としてのドルの信任問題は、一体どのようになっているのでしょうか。

基軸通貨とは、アメリカと関係ない国同士の貿易でドルが決済手段として使われるということになります。

例えば、日本と中国の間の貿易において、その決済手段が、円ではなく、人民元でもない、ドルによって行われているということがそれにあたります。

つまり、基軸通貨とは、貨幣の貨幣ということになるということです。

ドルが基軸通貨になったのは、もともとアメリカ経済力が強大であったことから、アメリカとの貿易のために多くの国がドルを必要したという経過がありました。

その経過から、ドルがいったん基軸通貨として認められてしまうと、ドルは独り歩きを始めることになります。

つまり、貨幣の自己循環論法と同じで、基軸通貨であることが、基軸通貨としてのドルの価値を支えるということになります。

しかし、ドルが基軸通貨として自己循環論法にすぎないということは、本質的には脆弱なものでしかないことを示唆しています。

従って、ドルの基軸通貨性について疑問を持ち始めると、手持ちのドルを処分しようとする動きになります。

具体的には、アメリカのモノを買おうとする経済活動になっていきます。

そうすると、アメリカで物価が高騰してインフレが起きます。

そして、ドルの価値が暴落することになり、ドルの基軸通貨としての信任をさらに引き下げてしまうことになるということです。

ドルが基軸通貨であることは、ドルの発行権をもっているアメリカが大いなる得をしているということでもあるわけです。

つまり、アメリカが発行したドルでもって、外国製品を買ったとしても、その支払い代金であるドルは、世界中を回り続けてアメリカ製品を買いには戻ってこないことになります。

アメリカは、タダで外国からモノをもらうのと同じことになっているわけです。

貨幣発行者の大もうけのことを、経済学では、シニョレッジ(王権利得)と呼んでいます。

ドルの過剰発行は、やがてドルの価値が下がりはじめて、基軸通貨の崩壊、世界経済の分断ということになってしまいます。

アメリカには、基軸通貨国としての世界経済全体の立場にたった規律が求められることになります。

しかしながら、アメリカは、モンロー主義に見られるように、伝統的には内向きの国といわれています。

一国の通貨であるはずのドルが、世界経済全体の通貨として使われていることの矛盾がやがて表面化することになる可能性があるということになります。

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by kokokara-message | 2010-09-24 21:49 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(8)

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資本主義から市民主義へ

貨幣には、使わない自由(溜め込む自由、可能性を留保する自由)があります。

人間にとっては、「・・・しない自由」というのが、もっとも本質的な自由のあり方とされているようです。

「・・・する自由」は、他人に対して何かを強制し、他人から何かを強制されるという可能性を常にもっているといえます。

つまり、他人から強制されない自由、つまり「・・・しない自由」の領域を、最初に人間に確保することができたものが貨幣といえるのではないでしょうか。

自由とは何でしょうか。

本書によると、それは、経済学的には貨幣になります。

従って、みんなが自由を行使して、貨幣を使わなくなると、モノが売れなくなって不況になってしまいます。

逆に、みんなが貨幣を使わない自由を放棄してしまうと、ハイパーインフレーションになって、貨幣の価値がなくなり、自由(貨幣)も失われてしまうことになります。

これは、自由(貨幣)のパラドックスといえそうです。

貨幣は、もともと無限延長の信用という連続する保証によって成立しているものであり、それ以外では成立していない(根拠がない)といえそうです。

つまり、貨幣は慣性によって保証されているといえそうです。

しかしながら、この場合でも、国家の役割は大きいといえます。

ご存知のように、通貨も国債も国家の問題であることはいうまでもありません。

つまり、通貨や国債には、その国の信用度が直接的に影響を及ぼしていることになります。

従って、現在の通貨制度を支えているのは国家の信用ということになります。

そして、国家への直接の投資が国債の購入ということになります。

これは、国家に信用があるから、信用して投資するという自己循環論法にすぎないということです。

それゆえ、少しの不安材料があると、あっという間に信用が消えてしまい、連鎖反応的に資金が引き上げられて、通貨が暴落するという通貨危機に見舞われることになります。

ケインズの美人投票の心理と同じといえそうです。

つまり、自分が美人と思う人に投票するのではなく、むしろみんなが美人と思うであろう人に投票をするという心理のことです。

みんなが信用していないと分かれば、雪崩を打って信用は失墜していく運命にあるということになります。

(筆者談)
米ドルは基軸通貨という特権的地位にありますが、通貨危機の原理からすれば、米ドルもその例外とはいえないようです。

また、将来人民元が自由化されることになれば、不安定化した人民元がアジア通貨危機の引き金となる可能性は高いといえるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2010-09-01 21:29 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(7)

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資本主義から市民主義へ

貨幣の成立は、物々交換の困難を解消するということであり、商品交換の可能性を飛躍的に拡大させたといえます。

貨幣の成立は、経済交換(コミュニケーション)を促進させることになりました。

また、貨幣の存在は、溜め込むこと(可能性を留保すること)によって、売りと買いとを分離してしまうということが可能となります。

そして、この売りと買いの分離こそが、恐慌やハイパーインフレーションという、資本主義にとってのもっとも根源的な不安定性を惹き起こしてしまうことになるということです。

恐慌やハイパーインフレーションは、実体経済の需要と供給の不一致が直接の原因となり引き起こされるものですが、そこには貨幣の滞蔵という投機性要素が潜んでいるということです。

貨幣を持つということが、もともと未来に向けての投機に他なりません。

共同体的な規制を離れた自由な経済活動の可能性を生み出すことと、その経済活動をかく乱してしまうような投機活動の可能性があることは、貨幣経済の持つ二面性ということができます。

つまり、両者は同じコインの表裏の関係にあるということです。

従って、投機をなくせばいいのだという安易な議論は、そのまま自由な経済活動、ひいては人の自由そのものをなくせという議論にもつながってしまうことになってしまいます。

貨幣が、人間に自由をもたらすということであるのなら、貨幣とは遊戯(遊び)そのものということにもなります

もともと、人間の場合は、遊びが仕事になったものであり、仕事の起源は遊びということになるようです。

従って、同じように貨幣の起源も、実は遊びということになります。

そして、遊びとは、いまここで実用性のないことをやるということです。

いまここでの実用性のないこと(自由)が遊びであるとするのなら、人生の大半は実用性のない遊びということにもなり、人間性の中心には遊び(自由)があるということになります。

従って、投機のように、いまここで実用性のないことをやることは、まさに人間性の本質に根ざした行為ということになるようです。

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by kokokara-message | 2010-08-05 20:35 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(6)

私の趣味のひとつに大学めぐりがあります。ここは、いわずと知れた都の西北です。
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資本主義から市民主義へ

資本主義のグローバル化によって、世界がひとつの巨大な市場になりつつあるため、世界から大きな差異性が消えてしまったようにも思われます。

しかしながら、新商品や、新技術や商品としての情報をめぐる競争などは、ゼロサム・ゲームではないということです。

ゼロサム・ゲームとは、参加者の選択する行動がどのようなものであれ、各参加者の得失点の総和がゼロになってしまうゲームのことです。

つまり、高度情報化による新商品の開発などの差異性をめぐる競争においては、必ずプラスの価値が生み出されているということになります。

これに対して、差異性をめぐる競争でもっとも退廃した形態が、ギャンブルということになるのではないでしょうか。

ギャンブルは、純粋のゼロサム・ゲームということになりそうです。

つまり、ギャンブルでは各参加者の得失点の総和がゼロになるうえに、さらに総和から胴元のしのぎ分を除いた残りを争奪しあうゲームになるということです。

ところで、投資については、従来までは株や債券などの伝統的投資が一般的といえました。

もちろん、これ以外にも公募によって一般から広く小口の資金を集めて大規模なファンドを形成する投資信託と呼ばれる投資があります。

さらに、私募によって機関投資家や富裕層等から私的に大規模な資金を集めて、先物、オプション、スワップといったデリバティブ(金融派生商品)などに投機をしながら、様々な手法で資金を運用するヘッジ(垣根)ファンドと呼ばれる投資もあります。

経済学における投資とは、資本(生産手段)を増加させることを指すのが一般的です。

資本形成(資本的支出)とも呼ばれることもあり、広義には、自己研鑽や人間関係も含まれるとされています。

また、投機と言う言葉は投資とは対義語のように扱われ、否定的に語られることがあるようです。

しかしながら、投機は投資という行為の一形態ということであり、市場においては流動性を高める働きや、広義のリスクヘッジ(リスクの回避や低減)の機会を提供するものといえます。

先のヘッジ(垣根)ファンドなどは、投機があってはじめて可能になるものといえます。

そして、ヘッジ(垣根)の中では、必然的にゼロサムゲームのギャンブルの要素が入り込むということになってしまいます。

つまり、ヘッジ(垣根)に囲い込まれたファンドの中では、参加した投機者の得失点の総和が必ずゼロになるようになっているということです。

そして、ヘッジ(垣根)ファンド全体の価値が低下してしまうと、その小さくなったパイを争奪し合うゼロサムゲームが始まることにもなります。

先のサブプライムローン問題は、このように縮小してしまったパイのゼロサムゲームであったといえそうです。

では、デリバティブ(金融派生商品)市場とは、一体どのようなものなのでしょうか。

デリバティブ(金融派生商品)市場とは、何かを直接売りに出す市場ではなく、何かを売り買いするための権利や義務を売り買いする市場といえそうです。

権利や義務を売り買いするという点では、デリバティブ(金融派生商品)市場は、貨幣を売買する為替市場と似ているといえるのかもしれません。

また、伝統的投資である株式市場についても、一方では投資の効率性を高めて、資本主義の発展を促す作用を持つことになります。

しかしながら、他方では投資の投機化を促すことにもなり、資本主義の不安定化に寄与してしまうという二律背反性をもつことになってしまいます。

つまり、銀行による資金の供給が株式や土地(土地は実体ですが)を担保とした場合には、投機資金として流用されることになり、やがてバブルの市場の混乱や不安定を引き起こす要因になることはよく知られています。

そして、同様なことは、先物、オプション、スワップといったデリバティブ(金融派生商品)市場においてもいえることではないでしょうか。

つまり、株や債券のような伝統的投資であっても、デリバティブ(金融派生商品)を扱うヘッジ(垣根)ファンドであっても、資金を供給して運用するということでは、同じ投機ということになります。

このため、どのような資金であっても投機をすれば、必ず効率性と不安定化の二律背反性を背負うということになってしまいます。

効率性と不安定化という二律背反性は、資本主義の持つ宿命(本質)といえそうです。

そして、この二律背反性がもっとも先鋭的に現れるのが、資本主義の本源ではなく派生でしかない貨幣(投機)において、ということになりそうです。

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by kokokara-message | 2010-07-03 19:31 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(5)

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資本主義から市民主義へ

現代は、ポスト産業資本主義の時代といわれています。

そして、次の二点が、ポスト産業資本主義を特徴づけていることであると思われます。

1.情報そのものを商品化すること、高度情報化と呼ばれるものです。

2.グローバル化、安い賃金を求めて海外に投資を行う海外投資です。

このような経済活動が要請されるのは、産業資本主義的な利潤創出機構(差異の構造)を失ってしまった結果であり、原因ではないということです。

つまり、資本主義そのものが持続するためには、みずから高度情報化もグローバル化も作り出すということになります。

ところで、創造性はいいことであるが、デリバティブは子供のテレビゲームと同じではないかといわれることがあります。

デリバティブとは、伝統的な金融取引(借入、預金、債券売買、外国為替、株式売買等)や実物商品・債権取引の相場変動によるリスクを回避するために開発された「金融派生商品」のことです。

デリバティブには、先物取引、スワップ取引、オプション取引などのデリバティブ取引といわれるものがあります。

これらのデリバティブは、レバレッジ(てこ)効果を有するため、たびたび投機的な運用資産としての多額の利潤や損失を発生させることになります。

デリバティブはそのゲーム性の強さから、究極的には反射神経の問題(ただマウスをクリックするだけ)として見えてしまうことがあるようです。

しかしながら、重商主義やそれよりずっと以前の狩猟時代では、究極の反射神経こそが人間が生き延びるために必要とされていた身体能力ではなかったのでしょうか。

このことにもかかわらず、19世紀から20世紀にかけての国民国家では、経済における投機的な問題が、社会の前景から隠蔽されてしまったということができるのではないでしょうか。

つまり、人間中心主義の時代ということになるのかもしれません。

しかしながら、実際の富は、人間の勤勉がもたらすものというより、運や不運という要素、つまり人間の置かれている社会的文脈や偶然によって決まってしまうという側面が強いのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-05-26 21:54 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(4)

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資本主義から市民主義へ

もともとと富とは、自然発生的なものであったということができます。

産業資本主義の時代が終焉し、ポスト産業資本主義の時代では、商人資本主義の原理が全面に出てくるようになったと考えられます。

18世紀後半以降の国民国家の成立とは、国家内部において利潤を生み出すことができるシステムが成立したということに他なりません。

従って、国民国家が成立できるシステムとして、国家内に差異性を伴う価値体系が共存していないといけないことになります。

つまり農村と都市の関係ということです。

これは、アダムスミスが描いたような全面的に市場化された世界ではありません。

むしろ、国民国家の中に、市場的な部分と非市場的な部分とが共存しているということが、産業資本主義を可能にしていたということができます。

つまり中心(都市)と周縁(農村)の価値体系の差異性こそが、産業資本主義的な利潤の源泉であったということになります。

従って、中心と周縁という価値体系の差異性の結果に過ぎない利潤を、労働者の生産活動が生み出す剰余価値として実体化してしまったことに幻想があったといえそうです。

いわゆる、労働価値説です。

これは、差異性の物象化(フェティシズム)に他ならないことになります。

つまり、実体をもたない関係性に実体を見出してしまったということになります。

現代においては、資本家は差異性を意識的に作り出さないといけなくなったということがいえます。

従って、ポスト産業資本主義の時代は、新技術や新製品といった差異性をめぐる競争となることになります。

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by kokokara-message | 2010-04-30 21:29 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(3)

「プルメリアの伝説」という松田聖子主演の映画が懐かしいですね。
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資本主義から市民主義へ

金本位制であろうが、変動相場制であろうが、金融危機は起こるものといえます。

デリバティブ(派生)やヘッジ(垣根)ファンドとかは、もともと経済の周縁にあるものと信じられていたのですが、現実は周縁が経済の中心になっているということになります。

おそらく、18世紀後半のフランス革命からソ連が崩壊するまでの200年間は、労働価値説が信じられてきた時代といえそうです。

労働価値説は、人が労働によって生み出し成果物であるからこそ価値がある、というモノの見方です。

つまり、人間中心主義の時代ということになります。

従って、モノに備わった差異を利用することで利益を得るということになる重商主義(遠隔地貿易など)はナンセンスとされた時代ということになります。

ところで、貨幣とは何かと考えた場合、次のような説が主張されることになります。

まずは、貨幣法制説です。

これは、共同体の申し合わせか、王様の権力によって指名されたものが貨幣となるという考え方です。

もうひとつは、貨幣商品説です。

これは、広範な欲望を集める商品が、交換過程のなかで自然に転化したものが貨幣になるという考え方です。

そもそも、商人資本主義とは、差異性を利潤に転化する経済活動であって、遠隔地貿易がその代表的な経済活動として考えられます。

産業革命までは、重商主義の時代であったということができます。

ところが、産業革命による18世紀後半からの産業資本主義によって、資本主義が構造的に安定することになると、それ以前の重商主義は抑圧されてしまい、人間中心主義的なアダムスミスの古典派経済学が登場することになるということです。

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by kokokara-message | 2010-04-02 21:01 | 読書(貨幣論)

貨幣論/岩井克人(2)

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資本主義から市民主義へ

貨幣を持つということは、未来に向けての投機の要素が入り込むということになります。

従って、株式や先物のような金融商品だけに関わらず、人類は貨幣を使い始めたときから、投機という現象に直面せざるを得ないことになったということができます。

つまり、貨幣を蓄えるということは、未来における可能性を購入しているということになります。

このことからすれば、投機としての貨幣の貯蔵が、未来を実体化することになります。

そして、投機をするということが、時間の起源になっているのかもしれません。

貨幣を貯蔵する(投機をする)という欲望が、人に時間という観念を発生させることになったのではないでしょうか。

また、貨幣は富の代替物であって、そして富は労働の代替物というような幻想があったようです。

労働価値説がそのような考え方といえますが、しかしながら現実を動かしているのは、残念ながら労働ではなく、投機(貨幣)ということになります。

もし、労働価値説が成り立っているように見えたとしたら、それは労働価値説が信じられている共同性の中に限ってのことかもしれません。

そういう意味では、労働価値説はひとつの共同幻想といえそうです。

金や銀といったものが、貨幣として流通し始めると、金や銀というモノとしての価値をはるかに上回る価値をもってしまうことになります。

つまり、人は貨幣の中に、無から有が生まれるという神秘を見出したことになります。

錬金術とは、鉛を金に変えようとした試みといえました。

金が金以上に価値のある貨幣になったということは、ある意味錬金術といえることであるのかもしれません。

これと同じように、洋服にあったアクセサリーを着用しようとすることが一般的なファション感覚といわれています。

しかしながら、文化人類学的な見方からは、アクセサリーが洋服の起源であって、呪物としての首飾りが上着に替わったという逆転した見方を採ることになっています。

もともと金という鉱物資源が貨幣の起源であったのですが、現在では貨幣で金を購入する(投機する)ように替わったということです。

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by kokokara-message | 2010-03-18 20:39 | 読書(貨幣論)