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ハワイには、日本人の感覚からは馴染みのない時間帯で営業している店があります。

朝食専門店がそれであって、早朝の5時から昼の2時までが営業時間となっているようです。

朝食専門店のメニューは、パンケーキや卵料理(スクランブルエッグやオムレツなど)などが中心となっています。

今回ご紹介するオリジナル・パンケーキ・ハウスは、営業時間が早朝から昼過ぎまでで、パンケーキが食べ放題の店となっています。

オリジナル・パンケーキ・ハウスを訪れるのは2回目なので、今回はパンケーキではなく、隠れた人気メニューのワッフル(下の写真)をオーダーしました。
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オリジナル・パンケーキ・ハウスは、アラモアナ・ショッピング・センターとワードセンターの真ん中あたりに位置しています。

観光客があまり通行することのない、アラモアナ・ショッピング・センターから一本山側にあたるカピオラニ・ブルーバード沿いに店はあります。

オリジナル・パンケーキ・ハウスは、朝早くから昼食まで、いつも込んでいる人気店でもあります。

では、さっそく店内に入ることにしましょう。

レストランならどこも同じですが、店内に入ると、店員が客に気付いて座席案内にやって来るまで、店の入り口付近でじっと待機しなければなりません。

席が空いているからといって、勝手に自己判断で店内に入って行くことはご法度です。

そして、案内の店員がやってくると、こちらの人数を伝えれば(見れば分かることですが・・・)、空いた席へと案内されます。

もし案内された席が気に入らなければ、席をチェンジすることも可能です。

そして、席に座ったら、まずは何を飲むかを聞いてくるのので、カジュアルなレストランであれば、コーヒーを注文すれば十分ではないでしょうか。

もちろん、飲み物もいらないのなら、「ノー」と言えばいいのですが、むろん水はオーダーとなりますのでご注意を。

店員が飲み物を持ってくるまでの間、テーブルの上のメニューをじっくりと眺めながら、オーダーする食べ物の選定をします。

日本と同じで、メニューはあらかじめテーブルの上にセットされていることが多いようです。

今回オーダーしたものは、ブルーベリーとホイップクリームのワッフルです。

単品でもかなりのボリュームですので、朝食や昼食には十分といえそうです。

但し、パンケーキやワッフルはとても甘くておいしい高カロリー食品であるため、毎日食べていれば確実に太ることになります。

甘味は習慣にしないことがた肝要ということになるのでしょうか。021.gif
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ハワイは、アメリカンスピリットのプロテスタンティズムの影響下にあるため、お酒を飲むという習慣は少ないようです。

その代わりとしてケーキやアイスクリームなどの甘味を摂取して満足感を得るという習慣は、日本以上に強いように思われます。

日本では会合でお酒を飲むという習慣は多くありますが、ハワイでは週末に仲間とバーベキュー・パーティーをする習慣があるものの、お酒を飲むことはないようです。

これは、ハワイ州の法律によって公園やビーチなどの公共の場で飲酒が禁止されているからでもあります。

法律という制度そのものが、アメリカンスピリットの体現ということになりそうです。

従って、ハワイの人はその代替としてペプシなどの甘い飲料を好んで摂取することになります。

お酒も甘い飲料も高カロリーなのは同じで、多量に摂取すれば当然肥満を招くことになってしまいます。

おそらく、ハワイでも日本でも、太っている人は自制心が弱いと判断されてしまう傾向があるように思われます。

確かに、肥満と自己コントロールの関係性は否定できないところもあるようです。

ただ、お酒か甘い飲料かと言う志向性の話しになれば、その行動様式の差異は、思考のくせ(文化)の違いに起因するものであると思われます。

少し回り道になりますが、少しだけややこしい話しにお付き合いください。

心を分析していくと、人の心は感情と思考に区別できると思われます。

つまり、一見同じように考えられている感情と思考は、実は別なものであるということです。

そして、感情と思考が別なものであると認識できるようになれば、ある程度の行動は自己コントロールできるようになるということです。

例えば、精神療法でいう、認知行動療法がそれにあたります。

これは、あくまで認識の方法(哲学)の変化ということであって、医学的な専門知識が必要とされることではありません。

つまり、今の自分の気分(欲望)を言葉に置き換えることができるようになれば、自分の今の気分(欲望)が、感情(気分)によるものなのか、それとも思考の結果によるものなのかを区別できるようになるということです。

一般には、感情が自然に発生して、その結果として思考が生まれると認識されているところがあるようです。

しかしながら、認知行動療法ではこれとは真逆に、あることを考えた(思考の)結果として、ある感情が発生し、ある気分や欲望が生じたと認識することになります。

従って、自分の気分(欲望)を正確に言葉でいいあらわすことができれば、その気分(欲望)の原因となった思考にまでたどり着くことが出来るということです。

「なぜこのような気分(欲望)になったのか」と考えること(哲学)が、自分の中に客観性(自己の客体化)をもたらし、自分の思考から行動へとつながる思考のくせ(自明なパターン)に気づかせてくれるようになるということです。

理性(哲学)によって気分(欲望)をコントロールするということは、おそらくこのような思考のくせに気づき、自分を認識するということではないかと思われます。

このあたりの詳細は、少し前の本になりますが、リチャード・カールソン著の「小さなことにくよくよするな」などが参考になるかもしれません。

少々ややこしい話になりました。

下の写真は、マカデミアンナッツとクリームがのったワッフルです。

メープルシロップをたっぷりとかけて食べることにします。
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ただし、自分の感情を言葉に置き換えて自分の欲望がコントロールできているうちはいいのですが、このことが難しいという場面に出くわすことがあります。

より根源的な問題として、自分を取り巻く環境がすでにストレスフルな環境(構造)になってしまっているということです。

つまり、自分がそこにいるということが、環境からストレスを避け難く受け取ってしまうというストレスフルな環境(構造)の問題です。

このようなストレスフルな環境(構造)下で、自己コントロールしようとすれば、おそらく多種多様なストレスを抑圧するしかないことになります。

そして、ストレスの抑圧がもたらす心因反応は思いのほか根深く、人の自然な感覚(危険だから逃げる、疲れたから休む)さえも喪失させてしまう危険があります。

つまり、ストレスフルな環境(構造)に置かれてしまった人は、さらにストレスフルな環境(構造)に陥ることを合理化し、自ら選択する危険があるということです。

従って、自分の欲望を満たすかに見える行動であっても、その原因が意識レベルでコントロールされている問題なのか、意識レベルでコントロールができない抑圧された無意識レベルの問題であるのか、見極める必要があります。

そして、意識レベルでコントロールができないと直感的に判断する問題には、決して近づかない(距離をとっておく)ことが、最も賢明な選択ということです。

しかしながら、運悪く近づいてしまったら、危険が察知できるうちに、遠ざかる(逃げ去る)しかありません。

そして、所与のストレスフルな環境(構造)を察知して遠ざかるには、自己肥大のない謙虚な態度で臨むことが必要になると思われます。

かような等身大の判断が、自他を危険にさらす環境(構造)から躊躇なく退避させることを決断させることになるのではないでしょうか。

日本人とハワイ人が、ストレスに対して同じように強い反応を示すのは、人の脳の機能がもたらす自然であって、人間として至極当たり前のことといえます。

ただし、ストレスの結果として、嗜好品がお酒と甘味に分かれるのは、言うまでもなく文化の相違であって、脳への刷り込み(脳のくせ)の違いということになります。

日本人がストレスに対し飲酒するという行動パターンも、いわば日本人の脳のくせ(文化)であるのなら、これに気づくだけで自明な自らの行動や選択が客観視できることとなり、飲酒以外の行動パターンを採用するということも可能になるのではないでしょうか。

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現代社会はストレスフルな環境(構造)がいたるところに存在しています。

このため、ストレスをかわすということが、逆にストレスフルな選択肢の連続ということにもなってしまいます。

まずはストレスフルな環境から距離をとって、身の丈にあった生活に自分の行動を戻すということが、おそらくストレスをかわす基本になると思われます。

そして、自分の行動を変えるという場合でも、他者との比較はあまり意味がないということです。

つまり、自分と他者では、求められる役割も社会的文脈も当然異なっているわけですから、自分の立ち位置からしか、自分の行動は選択できないということになります。

従って、自分の生活や行動を変える場合でも、外部にあるロールモデルを参照はしても、外部に回答を求めないということが肝要ではないでしょうか。

自分以外に回答を求める(外部には自分の知らない正解がある)という自虐的思考こそが、自分をさらにストレスフルな状況に追い込んでしまうということです。

ただし、等身大の生活に自分の行動を戻すとしても、自己評価(自己決定)だけで等身大の生活に戻れるというほど単純ではありません。

言うまでもなく、資本主義社会では、あらゆるものが評価の対象となり、自分の採った行動や決定も、やがて自分の元を離れて、他者や社会的文脈の評価にさらされることになります。

おそらく、自分と自分を取り巻く環境との評価の関係性は、この繰り返しではないでしょうか。

そして、ある時点で、自分と他者の評価にギャップが生じているとすれば、それは理想(自分)と現実(環境)のギャップという新たなストレスであると思われます。

この場合、まずは自分の手が届く範囲からギャップを埋めていくことが、結果として自分と環境とのストレス関係を緩和させることにつながると思われます。

そして、やがて自分と環境との評価のギャップが緩和されれば、自分の理想主義に傾倒しすぎることも、また環境を批判することでフラストレーションの解消を図るということももなくなり、暫定的なバランスの維持がなされることになります。

まずはストレスフルな環境から距離をとって身の丈にあった生活に行動を戻すことが、自分の欲望を自己コントロールできる環境(構造)を取り戻すことであって、その結果としてストレス反応のお酒や甘味という嗜好品に依存しない、自在感が得られる生活が送れることになるのかもしれませんね。
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話しは変わりますが、ハワイには、チィップの文化があります。

チィップの文化では、請求金額の15%程度を、1ドル紙幣単位でテーブルに置いて去ることがマナーとなっています。

今回のオリジナル・パンケーキ・ハウスでは、飲食代の請求金額が18ドルであったので、チィップの3ドルを、店の人に見えるようにしてテーブルの上に置きました。

よく見えるように置くのは、日本人客はチィップに慣れていないため、悪意がなくても、チィップを置かずにそのまま立ち去ることがよくあるためです。

店側としては、チィップを店員の給与の一部と考えているため、チィップを置かないということは店員のサービスに給与を支払わないということになってしまいます。

チィップはあくまで慣習(マナー)であり法的には支払わなくても問題はないと思われますが、現にレジなどでチップを催促されれば、お互いが不愉快な思いをするだけです。

店の側もチィップを置いたかどうかは、見ない振りをしながら、しっかりとチェックしています。

また、チィップには客の接客サービスへの評価の意味が含意されているので、店側からのチィップを催促することはほんとうはルール違反ということになります。

一方、日本人に悪意がなくても、チィップを置き忘れるということは、接客サービスを評価していないことを意味するため、これもまたルール違反になってしまいます。

このようなことを繰り返していると、店側の接客のモチベーションに混乱が生じてしまうことになってしまいます。(日本人は面倒だ。)

言語ゲームという考え方があります。

つまり、言語ゲーム(目に見えないルール)が理解できていない人がゲームに参入するということは、規定のルールを無視した傍若無人な行為行動を採りうる可能性があるということです。

このため、言語ゲームの主催者側(この場合なら店側)は、新規参入者による秩序のかく乱を回避するため、あらかじめルールを明文化して請求書に記述しておくか、あるいはゲームへの新規参入を制限するということになってしまいます。

しかしながら、市場社会にあっては、言語ゲームへの新規参入は日常的なことであって、参入と退出が次々と繰り返されていくということが現状です。

従って、一般論として新規参入者に求められることは、自分の価値観を相対化しながら、謙虚な姿勢で、先にゲームに参加している者の振る舞いをじっくり観察することをしなければなりません。

つまり、既視できる他者の振る舞いの中から、その言語ゲーム(世間)で汎用しているルールを察する(汲み取る)という能力が求められるということになります。

おそらく、「郷にいれば郷に従う」ということわざは、このような観察力と洞察力を指してのことではないでしょうか。

見方を変えれば、言語ゲームのルールを理解している人が共同体(世間)の仲間であり、同じ共同体(世間)における安心安全レベルのコミュニケーションを成立させる人になると考えられます。

食事を終えれば、席を立ち、テーブルに置かれた請求書を持ってレジで飲食代を支払うことになります。

また、店によっては、テーブルで支払いを済ませることもありますが、この場合もチィップは請求金額とは別に、テーブルの上に置くことが一般的であるようです。

なお、雑誌などで紹介されている日本人御用達の店では、あらかじめ請求金額にチィップが含まれていることがあります。

請求金書の内容ををよく見て、請求金額にチィップがオンされているようなら、当然テーブルの上にチィップを置く必要はないことは言うまでもありませんね。
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オリジナル・パンケーキ・ハウスでは、ぽっちゃりとした人も多く見かけましたが、アジア系の人は比較的痩せている人が多かったように思われました。

民族というカテゴリーは、おそらく文化や言語という文脈(関係性)から形成される概念であって、自然ではなく人工のものに近いものといえそうです。

また、人種というカテゴリーは、基礎代謝や疾病傾向などの遺伝子情報の差異から形成される概念であって、こちらは文化というよりも自然に近いものがあるといえそうです。

もちろん、アジア系の文化や自然(遺伝子情報)を持った人であっても、置かれている環境(食文化)によっては、痩せている人、太っている人の違いが現れることはいうまでもありません。

ところで、日本民族が単一民族ではなく、混合民族であることについては、現在では異論のない周知の事実ではないかと思われます。

これは、日本人の持つ遺伝子情報(自然)から説明できる科学的言明でもあります。

また、日本民族というカテゴリーは、日本文化や日本語などを共有している人間集団の分類といえそうです。

つまり、日本人は混合民族であったものが、固有の文化や言語を共有することで、日本民族という独自の文化圏を形成することになったということになります。

このことから、日本民族や日本文化の固有性や独自性(純粋性とは限りません)を評価し、日本人を賞賛するということが見られます。

これ自体は否定できるものではありませんが、評価や賞賛が外部(他者=外国)との相対評価ではない(つまり絶対評価)になっているということです。

つまり、日本文化は固有であるが故に素晴らしい、なぜなら日本は独自な伝統をもった美しい国であるから、という循環論法によって支えられた評価になってしまうからです。

私たちは、何事についても人(他者)が示す評価の内容が、必ずしも絶対的なものではないことについては経験的に理解していると思われます。

所詮、人(他者)が示す評価でしかないということです。

もし、人(他者)が示す評価が絶対的なものに感じられることがあるとすれば、それはむしろ共依存関係の母子密着関係に近いものかもしれません。

つまり、絶対評価とはキリスト教で言う最後の審判か、あるいは外部(他者)を持たない母子密着関係の中でのみ成立する幻想ということになります。

母子密着関係は年齢とは関係のない、外部(他者)を持たなくなった人ということでもあります。

人は外部(他者)を持つことによって、未熟な状態から成熟した大人へと脱皮していくのではないでしょうか。

そして、人(他者)は自分の外部にだけ存在するものではなく、自分の中にも無意識という他者が存在しています。

おそらく、成熟した大人が示す評価は、自分に対してだけではなく、他者に対しても、そして自明な日本文化や日本という国に対してさえも、節度のある暫定的で相対的なものになるのではないかと思われます。

日本文化の固有性や独自性を語ることは、とても大切なことといえます。

しかしながら、外国の文化に直接触れたうえで、日本文化を相対化する姿勢こそが、自分の知らない日本(他者)を再発見するチャンスであるように思われますが、さていかがでしょうか。
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評価の問題をもう少し考えてみることにします。

資本義社会は、あらゆるモノやサービスが評価の対象となる価値相対主義といえます。

そして、資本主義社会においては絶対評価はありえず、最終的にはあらゆるものが相対評価の対象になるということです。

たとえば、日本の文化はとても素敵であるという想いも、資本主義社会の論理からはまた同様ということになります。

つまり、日本の文化をロマン主義や理想主義のような内向的絶対評価で語るのではなく、他の国と比較したうえで日本文化が優れているというのであれば、それは相対評価ということになると思われます。

私たちは、あらゆるものが相対評価の対象になる市場原理主義の中に投げ出されています。

そして、同時に評価の尺度(ものさし)は多様に存在し、自分がどのような尺度(ものさし)で評価するかについては、あくまで自分が選択する問題でもあります。

つまり、資本主義社会は最終的には貨幣という尺度(ものさし)に還元される相対主義ですが、個人の価値の尺度(ものさし)は人それぞれであり、個人のライフスタイルやイデオロギーに係わる恣意的なレベルの問題になります。

ライフスタイルやイデオロギーに係る価値は、多元化ということになります。

従って、個人がどのような生活を求め、どのようにして働くのか、またそのためには何が必要で、何を捨てなければならないのか、ということをひとつひとつ自分自身に尋ねながら慎重に選択することが、すなわち自分の評価の尺度(ものさし)ということになります。

もちろん、自分が評価の尺度(ものさし)を選択したからといってすべて実現できるはずもなく、あくまで今の自分の立ち位置(経済状況や社会状況など)から実現可能と思われるものに優先順位をつけていくことになります。

従って、自分の尺度(ものさし)にあったものを着実に実現していくことが、価値多元的な資本主義社会を生き延びるために必要な遂行性(パフォーマティブ)ということになります。

資本主義社会では、お金が大事であることは言うまでもありません。

ただ、お金だけに偏重しないライフスタイル(自分の生き方)をあえて優先的に選択することが、自分の大切にしたいほんとうの生活や環境を明確にしてくれることもあるということです。

資本主義社会ではあらゆるモノやサービスが貨幣という指標に換算されてしまうため、貨幣の持つ幻想性に実体を見出してしまうことにもなってしまいます。

しかしながら、貨幣には実体はなく(ただの紙切れや金属片です)、モノやサービスを貨幣という媒介に換算した相対価値の幻想があるだけです。

一方、貨幣に換算できない信頼や信用というお互いが共有する物語の交換(コミュニケーション)も、また同様に幻想ということになってしまうのかもしれません。

貨幣はその貯蔵によって、未来の可能性や時間性をもたらしてくれるものといえそうです。

ただ、モノやサービスを介して得られる信頼や信用という物語性の交換(コミュニケーション)は、おそらく貨幣の持つ未来の可能性や時間性を担保する貨幣の貯蔵とは異なったレベルで行われるものであるように思われます。

おそらく、市場経済おいても、ほんとうに大切なものは可視化されない(人の目には見えない)ということなのかもしれません。

まず自分から相手に差し出さす(贈与する)ことでしか、自分に必要なものは得られないというレビィ=ストロースの洞見は、おそらく資本主義社会においても例外ではなく、今を生きるための参照(レファレンス)になると思われるのですが、さていかがお考えでしょうか。
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たとえば、アダムスミスの国富論に労働価値説という考え方があります。

この人が作ったもの、この会社の人がつくったものだから価値があるとする見方が、労働価値説ということになります。

つまり、労働価値説とは、労働にこそ価値があるとする、労働者からの主体論ということになります。

これに対して、資本主義の原理は、賃金や原材料の差異こそが経済的価値を生み出すという関係論ということになります。

従って、労働価値説では、たとえ市場主義において価値がないとされるものであっても、価値が創出されるまでの人間の関わりが重要とされるため、その物語性(幻想性)を共有する共同性の中では、価値があるものとして扱われることになります。

ところで、社会学では「価値」と言われるときに、交換価値、使用価値、象徴的価値に分類することがあるようです。

このうち象徴的価値とは、ブランド商品が指し示すような価値(社会的階層など)のことです。

ただ、象徴的価値は、その値段(価値)が示すほどに使用価値が高まることがないのが一般的とされています。

また、象徴的価値は、そのブランド商品の意味を知らない人にとっては、交換価値としては二束三文ということにもなってしまいます。

そして、象徴的価値は、ブランド商品が指し示す意味を共有できる人にとってだけ、社会的権威や社会的階層を表現するシンボルになるということです。

上記の記載の中に、「象徴的価値」と「ブランド商品」というキーワードが出てきます。

このふたつのキーワードを、それぞれ「労働価値説」と「労働力(あるいは人間中心主義)」に置き換えてみると、労働価値説の説明に変わってしまうのが不思議です。

労働価値説と象徴的価値は、同じような構造にあるものといえるのかもしれません。

先の使用価値や交換価値は、もともと相対的な価値(使用される状況によってその価値が変わる)でしかなかったものです。

これに対して、労働価値説や象徴的価値は、ある種の前提(物語性=幻想性)が共有されることによって成立する絶対的価値に近いものと言えそうです。

つまり、ある種の前提となる物語性(幻想性)が共有できている共同性の中では、労働価値説や象徴的価値は、相対的価値のように不安定なものとしではなく、絶対的に安定した価値として信じられることになるということです。

このことからすると、労働価値説や象徴的価値は絶対的な価値ということにもなり、あらかじめ決まった答えがあるという一元的なモノの見方ということになるのかもしれません。

あらかじめ決まった答えがあるという一元的価値の典型例は、宗教の原理主義ではないでしょうか。

一方、市場原理に基づく相対的価値は、あらかじめ決まった答えはないという多元的なモノの見方ということになります。

そして、グローバリゼーションが世界の資本主義化(市場化)を目指すものであるとするならば、労働価値説や象徴的価値のモノの見方は、グローバリゼーションの流れとは逆行したものになってしまうのかもしれません。

このため、グローバリゼーションの大きな流れは、労働価値説や象徴的価値の持つ物語性や幻想性、またそれらを支えてきた共同性の特権を障害物とみなし、障壁を押しつぶし他の相対的価値と同じように市場という俎上に並べらることになってしまうのかもしれません。

グローバリゼーションという奔流の中で、それぞれの共同性がいかに生き延びるかが、今問われているということであるのかもしれません。
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世界を資本主義化(市場化)することがグローバリゼーションの本質とすれば、物語性(幻想性)が市場で売買されるということも当然考えられることになります。

しかしながら、労働価値説や象徴的価値は、もともとは物語性(幻想性)を共有する、共同性の中だけで成立している絶対的価値に過ぎません。

従って、市場主義という俎上で売買されることになれば、外部にある多元的な共同性との相対評価にさらされるということになります。

そして、このような資本主義化(市場化)の流れの中にあっても、労働価値説や多くの象徴的価値が淘汰されることなく今まで生き延びることができたのは、おそらく経済成長という消費の拡大があったためではないでしょうか。

現在、多くの象徴的価値(ブランド商品)が多元化したマーケットにおいて苦戦を強いられていることと聞きます。

そもそも資本主義は、差異の創出による経済成長を前提として成立するシステムであり、セロサムゲーム(決まった総和を分け合うゲーム)を前提としていないからです。

しかしながら、経済成長の停滞に伴う消費の縮小の現況は、セロサムゲームの状況と近似ということになり、この経済の総和の縮小が労働価値説や象徴的価値の生き残りを困難にしてしまっているようにと思われます。

そして、残念なことに物語性(幻想性)を共有する共同性が、多元的価値で構成される市場主義のマーケットとの関係性を断ち切って、自律できることは現実にはありえないということのようです。

多元的価値で構成される資本主義社会の中の小さな共同性の持つ幻想性(物語性)は、果たして生き残こることができるのでしょうか。
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現代の資本主義社会において、どのような共同性にあっても、貨幣は重要な尺度であって、貨幣の尺度なしにいかなる経済活動も行うことができないのが現状であるようです。

もはや、貨幣は市場経済から派生した媒体(通貨)の意味だけではなく、自己循環論法によって支えられた市場経済の本源そのものということになりかねません。

貨幣が経済の本質にあるということが、資本主義の経済原理ということであって、経済構造ということになります。

しかしながら、このような経済原理や経済構造を十分に踏まえたうえでも、さらに重要になってくるのが、その貨幣を使ってどのような物語性(幻想性)を実現していくのかという、「自己実現」の問題ということになります。

つまり、貨幣だけを目的としているだけではダメであって、だからと言って夢(幻想)だけを追いかけていても破綻を来たすことになってしまいます。

では、資本主義(市場主義)にある現代社会を、夢を持って生き延びていくためには、どのような経済バランスの感覚が必要になってくるのでしょうか。

世間では、よく「お金で買えないものはない」と言われることがあります。

このような論調が、世間の大勢を占めてしまっていることも承知しているつもりです。

しかしながら、私はお金で買えるものは、ほんとうのところ限られたものでしかないのではないか、と考えています。

このこと逆さまから見てみれば、お金で済ますことができるものは、さっさとお金で済ませた方が効率的な生き方ができることになるということです。

つまり、自分が大切にしたいことに割くことができる時間は限られているのであって、従ってそれ以外の瑣末は市場主義に任せてしまった方が、効率かつ効果的な選択ができるのではないかということです。

そして、このような考え方も、決して特殊で異端なものではないということです。

今から200年以上も前に、アダムスミスが「国富論」において、分業制の効率化として、このことを既に論じているところでもあります。

夢とその根拠となる共同性を大切にしたい人にとっては、市場主義にゆだねる分業制(業務委託)は、打算的な共同性の破壊行為と見えてしまうかもしれません。

しかしながら、市場主義にゆだねる分業制は、少し見方を変えれば「生きたお金を使う」ということであるのかもしれません。

繰り返し申し上げますが、人や共同性に与えられた時間は無限ではなく、有限でしかないということです。

かような普遍的事実を前提にすれば、いかなる選択が自己実現に近づくのかという、天命ともいえる命題(テーゼ)に対しショートカットで答えを出すことの重要性が理解できるのではないでしょうか。
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おそらく、経済活動(労働)の持つ意味とは、資本主義(市場主義)が手段であって目的ではないように、貨幣とはあくまでも交換手段であって、その蓄積が目的にはならないということです。

つまり、貨幣は可能性(時間)を蓄積することにはなりますが、その貨幣によって、どのような物語を実現するか(自己実現)が、経済活動(労働)の持つ本当の意味ではないでしょうか。

そして、経済活動(労働)を通じた自己実現は、むろん自己完結ができるようなものではなく、市場や社会という関係性の中で構築されていくものということになります。

従って、労働価値説や象徴的価値が含有する物語性(幻想性)を市場や社会に理解して欲しいのであれば、その物語性(幻想性)の持つ客観的な位置づけや裏づけを詳細に説明する必要があるといえます。

つまり、物語性(幻想性)を共有する共同性を大切にしたいのなら、自分たちの絶対性をただ主張するだけではなく、その外部にある他者や他の共同性の存在に配慮しながら、市場や社会における客観的な役割や立場をきちんと説明する必要があるということです。

自分を大切にしたいのなら、他者を大切にすることが求められます。

自分を守りたいのであれば、まずは他者を守ることが必要となります。

つまり、自分だけの価値観を一方的に押し付ける同化主義(パターナリズム)ではなく、お互いの価値観を尊重し合い、上手に棲み分けるということが必要になってくるのではないでしょうか。

もちろん、市場や社会の公共空間には、多くの規範(ルール)が存在しています。

公共空間とは、それぞれの共同性よりもさらに上位にある多くの規範(ルール)が適用される場所です。

このため、個人や共同性が公共空間の規範(ルール)を破ることになれば、やがて公共空間からの退場を強いられることにもなってしまいます。

ただ、公共空間の持つ規範性(ルール化)は、多元的な共同性を抑圧することを目的とすることではなく、むしろ多元的価値の調整の場として機能することになります。

このため、公共空間は、個人や共同性がその限界を超えて自己実現を果たす場でもあるということです。

そして、共同性と公共性の関係性は、おそらく特殊性と一般性という関係性に置き換ることができるのではないでしょうか。

つまり、一般性である公共性とは、特殊性である共同性の枠を超えた視点から、多元的価値を調整する規範性(ルール化)ということになります。

このような公共性を伴った公共空間は、社会モデルの仮説としてではなく、多元化した日本社会の価値調整の場として、早急な実現が求めらるということです。

また、オリジナル・パンケーキ・ハウスのあるハワイは、100年以上前から移民による多文化共生社会にあったということができます。

ハワイ社会では、公共性(一般性)についての試行錯誤が繰り返された結果、やっと現在のような公共空間(上位のルール)が出現することになったのではないでしょうか。

世界が多元化しつつある中、公共性を伴った公共空間の確保は、世界のコンプレックス状態をバランスよく乗り切るための、必須の前提となってくるのかもしれません。(ピケティ教授の言う全世界共通累進課税も、公共性を伴った公共空間の確保ではないでしょうか。)

最後に、公共空間に適用される規範性(ルール)には、法律という外部からのルール(制度)と、倫理性という内面からのルール(自己制御)のふたつがあると思われます。

法律は、制度内ルールの手続きによってやがて改変されていくものですが、倫理性とは地域や期間の限定で実現されるものではなく、むしろ普遍性を持った汎用ルールとして内面化されることが目指されるところでもあります。

一般論としての倫理性は、自分の夢(立場)を守りたいのであれば、人の夢(立場)を排除することなく、むしろ尊重するという態度が、結果として自分の夢(立場)を生き延びさせることになるという、人間関係の方法論になるのかもしれません。

つまり、自分の命や財産を確保したいのなら、他者の命や財産も確保する、また自分が容認できない振り舞いは決して他者には強要しないということ。

かような「立場可換性」こそが、自分自身の倫理性を担保する最低基準(底辺)になるのではないかと考えています。

最後の最後ですが、自分自身を支えてくれる倫理の自己ルール化(カントなら定言命題になるのでしょうか。)が「立場可換性」であると考えているのですが、さて皆様はいかがでしょうか。

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【追記】
「オリジナル・パンケーキ・ハウスのワッフル」をご一読いただきまして、ありがとうございました。

最後にハワイを訪れてから、はやくも6年が経過してしまいました。

記事の内容は古くなった箇所や気になった箇所に加筆修正をしました。

私の論考は、今回の「オリジナル・パンケーキ・ハウスのワッフル」に関わらず、そのタイトルと内容が直接関係しないことがよくあるように思われます。

これは、私がタイトルを切り口として、その時々に考えていること、つまり自分の中の未整理なグレーゾーンを整理するために記事を書いているからです。

自分が何を考えているのかを一番知りたいのは、私自身ということになります。

このため、ブログの記事が完成するまでには、何度かの推敲を経由することから、1週間近くかかることもあります。

従って、最初にアップした内容と、数日後に完成した内容では、論理構成だけではなく、結論までも大きく変わってしまうこともあるように思われます。(あしからず)

このように原稿用紙感覚でブログを活用するのは、珍しいことなのかもしれません。

ただし、人の一生はせいぜい80年、この短い人生の間にも人の考えはどんどん変わっていきます。

このような人間の営為の未確定性こそが、人間の本質といえるのかもしれません。

内田樹先生によれば、ユダヤの経典のタルムードは、2000年前から書き始められたものが、現在も書き加えられていて、今後も完成を見ることがないということです。

人や物事が万物流転していくことは、ごく自然なことといえます。

むしろ、同じである続けることや絶対的である続けることは、暫定的には可能であっても恒久的にはあり得ない、無理であると思われます。

従って、有限実行も大切なことですが、より柔軟に対応できることの方が、人や社会の選択の幅を広げていくことになるのではないでしょうか。

自分の卑小さやその有限性に少しでも配慮があれば、他者との話が通じないという切実な問題に対しても、ほんの少しの謙虚さでもって、コミュニケーションを再起動させることもできるのかもしれません。

この論考では、労働価値説や象徴的価値の幻想性について考察をしてきましたが、その物語性や幻想性を決して否定するつもりはありません。

いかなる物語性や幻想性も公共空間の中で承認され、そして認知されていれば、ひとまずは自由自在な存在ということではないでしょうか。

ただ、ひとつだけ確かなことは、その物語性や幻想性に無知な人にとっては、稀代の英雄や英傑もただの人でしかなく、また貴重な財宝や伝統もただのガラクタでしかないという事実も、またリアリティ(現実)であるということです。

茂木健一郎氏のお話しによれば、東京大学は日本人の誰もが認める日本最高の学術機関ですが、アメリカのアカデミーにおいてはその存在はあまり知られておらず、その評価も低いものでしかないという厳しい現実があるということです。(最近では世界大学ランキングがマスコミによって報道されるようになりました。)

従って、評価とは、あきまで関係性から構築されるものであって、その関係性が変化すれば評価も当然変わっていくことになります。

評価が実体を反映していないということも、珍しいことではありません。

昨今の投機的要素の強い株式市場などは、まさにそのような現象ではないでしょうか。

このことからすると、そもそも評価とは、関係性の幻想(物語)でしかないということになってしまいます。

評価が関係性の幻想(物語)であるのなら、個人単独と言うよりも、共同的なものとして成立していると考えるのが自然です。

従って、同じ共同性、つまり同じ文脈(関係性)にない人に対して、「自分の幻想性」を説いて回るという行為は、「自分の妄想性」を声高に主張しているだけとみなされて、とてもかっこの悪い、ある意味病的な行為と「評価」されかねないので、ご注意を。(幻想は共同的なものであるのなら、自分の幻想性は論理矛盾ということになるのかもしれませんね。)

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by kokokara-message | 2015-07-02 22:42 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

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おそらく、経済活動(労働)の意味とは、市場主義が手段であって目的ではないように、お金とはあくまでも交換手段であって、その蓄積が目的にはならないということです。

つまり、お金は可能性(時間)を蓄積することにはなりますが、そのお金によって、どのような物語を実現するかということ(自己実現)が、経済活動(労働)の持つ本当の意味ではないでしょうか。

そして、経済活動(労働)を通じた自己実現は、むろん自己完結ができるようなものではなく、市場や社会という関係性の中で構築されるものということになります。

従って、労働価値説や象徴的価値が含有する物語性(幻想性)を理解して欲しいのであれば、その物語性(幻想性)の持つ客観的な位置づけや裏づけについても、同時に説明する必要があるといえます。

つまり、物語性(幻想性)を共有する共同性を大切にしたいのなら、自分たちの絶対性を主張するだけではなく、その外部にある他者や他の共同性の存在に配慮しながら、市場や社会における客観的な立場をきちんと説明する必要があるということです。

自分を大切にしたいのなら、他者を大切にすることが求められます。

自分を守りたいのであれば、まずは他者を守ることが必要となります。

つまり、自分だけの価値観を一方的に押し付けるような同化主義ではなく、お互いの価値観を尊重し合い、上手に棲み分けるということが必要になってくるのではないでしょうか。

もちろん、市場や社会の公共空間には、規範(ルール)が存在することになります。

公共空間とは、共同性よりもさらに上位にある規範(ルール)が適用される場所です。

このため、公共空間の規範(ルール)を破れば、公共空間から退場を強いられることにもなってしまいます。

ただ、公共空間の持つ規範性(ルール化)は、多元的な共同性を抑圧するだけのものではなく、むしろ多元的価値を調整する場として機能しているということです。

このため、公共空間は、共同性を超えて自己実現を果たすことができる場所でもあるということです。

そして、共同性と公共性の関係性は、おそらく特殊性と一般性という関係性に置き換ることができるのではないでしょうか。

つまり、一般性である公共性とは、特殊性である共同性の枠を超えた視点からの多元的価値を調整する規範性(ルール化)ということになります。

このような公共性を伴った公共空間は、絵に描いた餅として仮定しておくだけのものではなく、多元化した日本社会の価値調整の場として、早急な実現が求められているということです。

また、オリジナル・パンケーキ・ハウスでも紹介したように、ハワイは100年以上前から多文化共生社会にあったということができます。

ハワイ社会では、公共性(一般性)についての試行錯誤が繰り返された結果、やっと現在のような公共空間(上位のルール)が出現することになったといえるのではないでしょうか。

世界が多元化しつつある中、公共性を伴った公共空間の確保は、世界のコンプレックス状態をバランスよく乗り切るための、必須の前提となってくるのではないでしょうか。

最後に、公共空間に適用される規範性(ルール)には、法律という外部からのルール(制度)と、倫理性という内面からのルール(自己制御)のふたつがあると思われます。

法律は、制度内ルールの手続きによりやがて改変されていくことになりますが、倫理性とは期間や地域限定で実現されるものではなく、むしろ普遍性を持った汎用ルールとして内面化されることが目指されるところでもあります。

一般論としての倫理性は、自分の夢(立場)を守りたいのであれば、人の夢(立場)を排除することなく、むしろ尊重するという態度が、結果として自分の夢(立場)を生き延びさせることになるという、人間関係の方法論といえるのかもしれません。

つまり、自分の命や財産を確保したいのなら他者の命や財産も確保する、また自分が容認できないような振り舞いは決して他者には強制しないということ。

かような「立場可換性」こそが、自分自身の倫理性を担保する最低基準(底辺)になるのではないでしょうか。

最後の最後に自分自身を支えてくれる倫理の自己ルール化(カントなら定言命題になるのでしょうか)が「立場可換性」であると考えているのですが、さて皆様はいかがでしょうか。
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【追記】
「オリジナル・パンケーキ・ハウスのワッフル」をご一読いただきまして、ありがとうございました。

昨年末にハワイを訪れてから、はやくも7ヶ月が経過してしまいました。

今年の夏はおとなしくしているつもりですが、年末頃には、またぜひハワイを訪れて、リフレッシュしたいと思います。

私の論考は、「オリジナル・パンケーキ・ハウスのワッフル」に関わらず、そのタイトルと内容が直接関係しないということがよくあるように思われます。

これは、私がタイトルを切り口として、その時々に考えていること、つまり自分の中の未整理なグレーゾーンを整理するために記事を書いているからです。

自分が何を考えているのかを一番知りたいのは、私自身ということになるようです。

このため、ブログの記事が完成するまでには、何度かの推敲を経由することから、1週間近くかかることもあります。

従って、最初にアップした内容と、数日後に完成した内容では、論理構成だけではなく、結論までも大きく変わってしまうこともあるように思われます。(あしからず)

このように原稿用紙感覚でブログを活用するのは、珍しいことなのかもしれません。

ただし、人の一生はせいぜい80年、この短い人生の間にも人の考えはどんどん変わっていきます。

このような人間の営為の未確定性こそが、人間の本質といえるのかもしれません。

ユダヤの経典のタルムードは、2000年前から書き始められたものが、現在も書き加えられていて、今後も完成を見ることがないといわれているようです。

人やものごとが万物流転していくことは、ごく自然なことといえます。

むしろ、同じである続けることや絶対的である続けることは、暫定的にはありえますが、恒久的には無理であるように思われます。

有限実行も大切ですが、より柔軟に対応できることが、人や社会の選択の幅を広げていくことになるのではないでしょうか。

自分の卑小さやその有限性に少しでも配慮があれば、他者との話が通じないという切実な問題にも、ほんの少しの謙虚さでもって、コミュニケーションを再起動させることができるのかもしれません。

この論考では、労働価値説や象徴的価値の幻想性について考察をしてきましたが、その物語性や幻想性を否定するつもりではありません。

いかなる物語性や幻想性も公共空間の中で認知されていれば、ひとまずは自由な存在ではないでしょうか。

ただ、ひとつだけ確かなことは、その物語性や幻想性を知らない人にとっては、せっかくの英雄や英傑もただの人でしかなく、また大切な財宝や伝統もただのガラクタにしか過ぎないという事実も、リアリティ(現実)ということになります。

茂木健一郎氏の話しによると、東京大学は日本人の誰もが認める日本最高の学術機関ということですが、アメリカのアカデミーにおいてはその存在はあまり知られておらず、その評価も低いものでしかないという厳しい現実があるということです。

評価とは関係性から構築されるものであり、その関係性が変われば評価も当然変わっていくことになります。

評価が実体を反映していないことは、珍しいことではありません。

昨今の投機的要素の強い株式市場などは、まさにそのような現象といえるそうです。

このことからすると、評価は幻想(物語)でしかないということにもなってしまいます。

また、幻想(物語)そのものも、単独ではなく、共同的なものとして成立しているといます。

同じ文脈にない人に対し、「自分の幻想性」を説いて回るという行為は、「自分の妄想性」を声高に主張しているだけのことにもなるため、これはとてもかっこの悪い(ある意味病的な)行為として周りには映ってしまうようにも思うのですが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。(幻想は共同的なものであるので、自分の幻想性は形容矛盾といえそうですね)

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by kokokara-message | 2013-06-13 22:13 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

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世界を市場化することがグローバリゼーションの本質とすれば、物語性(幻想性)が市場で売買されるということも当然考えられることになります。

しかしながら、労働価値説や象徴的価値は、もともとは物語性(幻想性)を共有する、共同性の中だけで成立している価値に過ぎません。

従って、市場主義という俎上で売買されることになれば、外部にある多元的な共同性との相対評価にさらされるということになります。

そして、このような市場主義の中にあっても、労働価値説や多くの象徴的価値が淘汰されることなく生き延びることができたのは、経済成長という消費の拡大があったからではないでしょうか。

現在、多くの象徴的価値(ブランド)が多様化したマーケットの中で苦戦を強いられていると聞きます。

そもそも資本主義は、差異の創出による経済成長を前提として成立するシステムであり、セロサムゲーム(決まった総和を分け合うゲーム)ではないとされているようです。

しかしながら、経済成長の停滞に伴う消費の縮小は、セロサムゲームの状況と近似になっているようであり、この総和の縮小が労働価値説や象徴的価値の生き残りを困難にしてしまっていると思われます。

また、物語性(幻想性)を共有する共同性が、多元的価値で構成されている市場主義のマーケットとの関係を断ち切って、自律できるということは現実にはありえないと思われます。

つまり、現代社会においては、どのような共同性であっても、お金(貨幣)は重要な尺度ということであり、お金(貨幣)という尺度なしにはいかなる経済活動もなすことができない、ということになってしまっているのではないでしょうか。

もはや、お金(貨幣)は市場経済から派生した媒体だけではなく、自己循環論法によって支えられた市場経済の本源そのものということになるのかもしれません。

そして、これが市場主義の経済原理であり、経済構造ということになります。

しかしながら、このような経済原理や経済構造を十分に踏まえたうえでも、さらに重要になってくるのが、そのお金(貨幣)を使ってどのような物語性(幻想性)を実現していくのかという、「自己実現」の問題ということになります。

つまり、お金(貨幣)だけを目的としているだけではダメであり、だからと言って夢(幻想)だけを追いかけていても破綻を来たすことになってしまいます。

では、市場主義にある現代社会を、夢を持って生き延びていくためには、どのようなバランス感覚が必要になってくるのでしょうか。

世間では、よく「お金で買えないものはない」と言われることがあります。

このような論調が、世の中の大勢を占めてしまっていることも承知しているつもりです。

しかしながら、私はお金で買えるものは、ほんとうのところ限られたものではないか、と考えています。

このことを反対から見れば、お金で済ますことができるものは、お金で済ませた方が効率的な生き方ができることになるということです。

つまり、自分が大切にしたいことに割くことができる時間は限られているのであり、従ってそれ以外の瑣末なことは市場主義に任せてしまった方が、効率かつ効果的な選択ができるのではないでしょうか。

そして、このような考えは、決して特殊なものではないということです。

今から200年以上も前に、アダムスミスが「国富論」において、分業制の効率化として、既に論じているところでもあります。

共同性を大切にしたい人にとっては、市場主義にゆだねる分業制(業務委託)は、打算的な共同性の破壊行為のように見えてしまうかもしれません。

しかしながら、市場主義にゆだねる分業制は、少し見方を変えれば「生きたお金を使う」ということであるのかもしれません。

人や共同性に与えられた時間は無限ではなく、有限でしかないということです。

かような普遍的事実を前提にすれば、いかなる選択が自己実現に近づくことか、という天命ともいえる命題にショートカットで答えを出すことの必要性が理解できるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-06-06 21:21 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

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たとえば、アダムスミスの国富論に労働価値説という考え方があります。

この人が作ったもの、この会社の人がつくったものだから価値があるとするような見方は、労働価値説ということになります。

つまり、労働価値説とは、労働にこそ価値があるとする、労働者からの主体論ということになります。

これに対して、資本主義の原理は、賃金や原材料の差異こそが経済的価値を生み出すという関係論ということになります。

従って、労働価値説では、たとえ市場主義では価値がないとされるものであっても、価値が創出されるまでの人間の関わりが重要とされるため、その物語性(幻想性)を共有する共同性の中では、価値があるものとして扱われることになるということです。

ところで、社会学では価値といわれるものに、交換価値、使用価値、象徴的価値などをあげることがあります。

このうち象徴的価値とは、ブランド商品が指し示すような価値(社会的階層など)のことです。

ただ、象徴的価値は、その値段(価値)が示すほどにはその使用価値が高まることはないということが一般的です。

また、象徴的価値は、そのブランド商品の意味を知らない人にとっては、交換価値としては二束三文ということにもなってしまいます。

そして、象徴的価値は、ブランド商品が指し示す意味を共有できる人にとってだけ、社会的権威や社会的階層を表現するシンボルになりうるということになります。

上記の文章には、象徴的価値とブランド商品というキーワードが出てきます。

このふたつのキーワードを、それぞれ労働価値と労働力(あるいは人間中心主義)に置き換えてみると、労働価値説の説明に変わってしまうのが不思議です。

労働価値と象徴的価値は、同じような構造にあるものといえるのかもしれません。

先に出てきた使用価値や交換価値は、もともと相対的な価値(使用される状況でその価値が変わってくる)ということでしかなかったものです。

これに対して、労働価値や象徴的価値は、ある種の前提(物語性=幻想性)が共有されることによって成立する絶対的な価値といえそうです。

つまり、ある種の前提となる物語性(幻想性)が共有できている共同性の中では、労働価値や象徴的価値は、相対的価値のように不安定なものとしではなく、絶対的に安定したものとして信じられることになるということです。

このことからすると、労働価値や象徴的価値は絶対的な価値ということにもなり、あらかじめ決まった答えがあるという一元的なモノの見方ということになるのかもしれません。

一方、市場原理に基づく相対的価値は、あらかじめ決まった答えはないという多元的なモノの見方ということになりそうです。

そして、グローバリゼーションが世界の市場化を目指すものであるとするならば、労働価値や象徴的価値のモノの見方は、グローバリゼーションの流れとは逆行したものということになってしまうのかもしれません。

このため、グローバリゼーションの大きな流れは、労働価値や象徴的価値の持つ物語性や幻想性、またそれらを支えてきた共同性の特権までも押し流してしまうことになり、他の相対的価値と同じように市場という俎上に並べられるということになってしまうのかもしれません。

グローバリゼーションという奔流の中で、それぞれの共同性がいかに生き延びるかが、今問われているのかもしれません。

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by kokokara-message | 2010-05-08 10:48 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

本日エキサイトブログ・レポートのユニーク訪問者数が5000人を超えました。
約10ヶ月間での達成となりましたが、皆様のご厚意に心から感謝しております。
ありがとうございます。
まだまだ続く予定ですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
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資本義社会は、あらゆるモノやサービスが評価の対象になる価値相対主義といえます。

そして、資本主義社会において絶対評価はありえず、最終的にはあらゆるものが相対評価の対象になるということになります。

たとえば、日本の文化はとても素敵であるという想いについても、同様なことがいえるのではないでしょうか。

つまり、日本の文化をロマン主義のように内向的な絶対評価をするのではなく、他の国と比較したうえで日本の文化が素敵であるということであるのなら、それは相対評価ということになると思われます。

ここでいう相対評価の尺度(ものさし)は、お金や貨幣ということだけではありません。

私たちは、あらゆるものが相対評価の対象になる市場原理主義の中に投げ出されていますが、同時に評価の尺度(ものさし)は多様に存在しており、自分がどのような尺度(ものさし)で評価するかについては、あくまで自分が選択する問題ということになります。

つまり、資本主義社会は最終的には貨幣が尺度(ものさし)となる相対主義ですが、個人の価値の尺度(ものさし)は人それぞれのものであり、個人のライフスタイルやイデオロギーに係わる恣意的なレベルの問題ということになります。

従って、個人がどのような生活を求めるのか、どのようにして働くのか、またそのためには何が必要であって、何を捨てなければならないのか、ということをひとつひとつ自分自身に尋ねながら慎重に選択していくことが、すなわち自分の評価の尺度(ものさし)になるということです。

もちろん、自分が選択したからといってすべてのことが実現できるはずはなく、あくまで今の自分の立ち位置(経済状況や社会状況など)から実現可能と思われるものに優先順位をつけていくということになります。

できることから着実にこなしていくという遂行性が、自分の評価の尺度(ものさし)そのものということです。

お金は大事なものであることはいうまでもありません。

ただ、お金だけに偏重しないライフスタイル(自分の生き方)を優先的に選択してみるということが、自分の大切にしたいほんとうの生活や環境を明確にしてくれることになるかもしれません。

資本主義社会ではあらゆるモノやサービスがお金という指標で換算できることになるため、お金に実体を見出してしまうことにもなってしまいます。

しかしながら、お金には実体はなく(ただの紙切れや金属片です)、モノやサービスをお金という媒介に換算した相対価値という幻想があるだけです。

一方、お金に換算できないような信頼や信用というお互いが共有する物語の交換(コミュニケーション)も、また同様に幻想ということになるのかもしれません。

もちろん、お金は可能性や時間性をもたらしてくれるものといえます。

ただ、モノやサービスを介して得られる信頼や信用という物語の交換(コミュニケーション)は、このような貨幣の可能性や時間性を担保することになる経済の基盤(関係性)そのものを構築することになるといえるのではないでしょうか。

ほんとうに大切なものは、人の目には見えないものです。

そして、経済の基盤となる人と人の関係性も必ずしも目で見て確認できるものではなく、またお金で人から奪い取れるようなものでもありません。

人と人の関係性は自分自身で創造していくしかなく、そのためにはまず自分から相手に差し出さす(贈与する)ということでしか、自分の求めるものは得られないというレビィ=ストロースの洞見に従うことが肝要であると考えますが、さて皆様はいかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-04-11 18:19 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

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オリジナル・パンケーキ・ハウスでは、太った人も多く見かけましたが、アジア系の人は比較的痩せている人が多いように思われました。

民族というカテゴリーは、おそらく文化や言語という文脈(関係性)から形成される概念であって、自然ではなく人工に近いものといえそうです。

また、人種というカテゴリーは、基礎代謝や疾病傾向などの遺伝子情報の差異から形成される概念であって、こちらは文化というよりも自然に近いものがあるといえそうです。

もちろん、アジア系の文化や自然(遺伝子情報)を持った人であっても、置かれている環境(食文化)によっては、痩せている人、太っている人という違いが現れることはいうまでもないことです。

ところで、日本民族が単一民族ではなく、混合民族であるということについては、現在では周知の事実になっているように思われます。

これは、日本人の持つ遺伝子情報(自然)から説明できる科学的言明とされています。

また、日本民族というカテゴリーは、日本文化や日本語などを共有している集団についての分類といえそうです。

つまり、日本人はもともと混合民族であったものが、固有の文化や言語を共有することによって、日本民族という独自の文化圏を形成することになったということになります。

このことから、日本民族や日本文化の固有性や独自性(純粋性とは限りません)を評価し、賞賛することがあります。

これは否定できないことかもしれませんが、このような賞賛が、外部(他者=外国)を見聞したうえで、日本文化を評価するということにはなっていないように思われます。

つまり、日本文化は固有なものであって素晴らしい、なぜなら日本は独自な伝統をもった国であるからという循環参照(円環関係)によって支えられた評価でしかないといえそうです。

私たちは、他者が示す評価が絶対的なものにはならないことを経験的に理解していると思われます。

もし、他者の示す評価が絶対的なものに感じられるとすれば、それは共依存関係にある母の嬰児に対する無償の愛に近いものを感じているのかもしれません。

絶対評価とは、外部(他者)を持たない母子密着の関係の中で成立する幻想のようなものといえそうです。

年齢に関係なく母子分離ができていない人は、外部(他者)を持つことができていないといえそうです。

人は外部(他者)をもつことによって、未熟な幼児から成熟した大人へと脱皮していくのではないでしょうか。

そして、他者とは自分の外部にだけ存在するものではなく、自分の中にも無意識という他者が存在しています。

おそらく、成熟した人が示す評価は、自分に対してだけではなく、他者に対しても、そして日本文化や日本という国に対してさえも、節度ある暫定的で相対的なものになると思われます。

日本文化の素晴らしさを語ることは、確かに大切なことといえます。

しかしながら、外国の文化にも直接触れたうえで、日本文化を相対化するという姿勢こそが、自分の知らない日本(他者)を再発見するチャンスであるように思われますが、いかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-03-24 21:56 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

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ハワイには、チィップの文化があります。

このため、チィップとして請求金額の15%程度を、1ドル紙幣単位でテーブルに置いて去ることがマナーとなっています。

今回のオリジナル・パンケーキ・ハウスでは、飲食代の請求金額が18ドルであったので、チィップの3ドルを店の人によく見えるようにしてテーブルの上に置きました。

よく見えるように置くのは、日本人客はチィップに慣れていないため、悪意はなくても、チィップを置かずにそのまま立ち去るということがよくあるためです。

店側としては、チィップを店員の給与の一部と考えているため、チィップを置かないと店員のサービスには給与を支払わないということになってしまいます。

チィップはあくまで慣習(マナー)なので、法的には支払わなくても問題はないと思われますが、現にレジなどで催促されるようなことになれば、お互いが不愉快な思いをするだけです。

店の人もチィップを置いたかどうかは、見ない振りをしながら、しっかりとチェックしています。

また、チィップの文化には、客側からの接客サービスへの評価という意味合いが含まれているので、店側からチィップを催促をするということは、ほんとうはマナー違反ということになるようです。

一方、日本人が悪意がなくてもチィップを置き忘れるということも、接客サービスを評価していないということを意味することになるため、これもまたマナー違反ということになってしまいます。

これでは、店側の接客モチベーションが混乱してしまうことになってしまいます。

つまり、言語ゲーム(目に見えないルール)が理解できていない人がゲームに参入するということは、規定のルールを無視した傍若無人な行為行動を採りうる可能性があるということです。

このため、言語ゲームの主催者側(この場合なら店側)は、新規参入者による秩序のかく乱を回避するため、あらかじめルールを明文化して請求書に記述しておくか、あるいはゲームへの新規参入を制限するということになってしまいます。

しかしながら、言語ゲームへの新規参入は日常的なことであり、参入と退出が次々と繰り返されていくということが現実です。

従って、一般論として新規参入者に求められることは、自分の価値観を相対化しながら、謙虚な姿勢で、先にゲームに参加している者の振る舞いをじっくり観察することをしなければなりません。

つまり、既視できる他者の振る舞いの中から、その言語ゲーム(世間)で汎用しているルールを察する(汲み取る)という能力が求められるということになります。

おそらく、郷にいれば郷に従うということわざは、このような観察力と洞察力を指しているのではないでしょうか。

従って、言語ゲームのルールを理解していることが共同体(世間)の仲間とあり、同じ共同体(世間)における安心安全レベルのコミュニケーションを成立させることになると考えられます。

その後、席を立ち、請求書を持ってレジで飲食代を支払うということになります。

また、店によっては、そのままテーブルで支払いを済ませることもありますが、この場合でもチィップは請求金額とは別に、テーブルの上に置いて去ることが一般的であるようです。

なお、雑誌で紹介されているような日本人客が利用する店では、あらかじめ請求金額にチィップが含まれている場合があります。

請求金書の内容ををよく見て、請求金額にチィップがオンされていたら、当然テーブルにチィップを置いておく必要はないということになります。

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by kokokara-message | 2010-03-06 12:28 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

ユニーク訪問者の累計が、エキサイトレポートで4000件を超えました。
ちょうど8ヶ月でした。ご愛読ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
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現代社会は、ストレスフルな環境がいたるところに存在しているため、ストレスをかわすということが、逆にストレスフルな選択の連続となってしまうこともあるようです。

まずはストレスフルな環境から距離をとって、身の丈にあった生活に自分の行動を戻すということが、おそらくストレスをかわすための基本になると思われます。

そして、自分の行動を変えるという場合には、他者との比較はあまり意味がないといえます。

つまり、自分と他者では、求められる役割も社会的文脈も当然異なっているわけですから、自分の立ち位置からしか、自分の行動は選択できないということになります。

従って、自分の生活や行動を変える場合でも、外部のロールモデルは参照しても、答えそのものは外部に求めないということになります。

自分以外に正解を求めるという自虐的な思考こそが、さらに自分をストレスフルな状況に追い込んでしまうことになります。

ただ、等身大の生活に行動を戻すといっても、自己評価(自己満足)だけで完結できるほど単純なものではないようです。

資本主義社会では、あらゆるものが評価の対象となり、自分の採った行動も、やがて自分の手を離れて、他者や社会的文脈の評価にさらされることの繰り返しとなっていきます。

そして、ある時点で、自分と他者の評価の間にギャップが生じているとすれば、それは理想(自分)と現実(他者)とのギャップという新たなストレスの発生と思われます。

このようなギャップが構造化してしまわないうちに、まずは自分の手が届く範囲からギャップを埋めていくということが、結果として自分と他者とのストレス関係を緩和させることにつながると思われます。

そして、やがて自分と他者との評価のギャップというストレスが緩和されることになれば、あえて理想主義に傾倒することも、他者を引き摺り下ろすことで満足感を得るという必要もなくなるということです。

ストレスフルな環境から距離をとって、身の丈にあった生活に自分の行動を戻すという微調整を繰り返していくことが、やがて自分の欲望をコントロールすることができるような環境を取り戻すことになり、お酒や甘味という嗜好品に、あえて頼らなくてもいいような生活になるということができるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-02-24 22:11 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

マカデミアンナッツとクリームがのったワッフルです。メープルシロップをたっぷりとかけます。
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このように自分の気分を言葉に置き換えることで、自分の欲望がコントロールできるというレベルにあるうちはいいのですが、このことが難しい場合もあります。

より根源的な問題は、自分を取り巻く環境がすでにストレスフルな構造になってしまっているということです。

つまり、自分がそこにいるというだけで、その環境からのストレスを避け難くしてしまっているということになります。

このようなストレスフルな状態で、自己コントロールをしようとすれば、多種多様なストレスを一時的ではあっても、抑圧するしかないということになります。

そして、抑圧がもたらす心因反応は、思いのほか根深いものがあるようで、人の自然な感覚(危険だから逃げる、疲れたから休む)さえも失わせてしまうことになってしまいます。

つまり、ストレスフルな構造に置かれている人は、さらにストレスフルな構造に陥ることを自ら合理化してしまう惧れがあるということです。

従って、欲望を満たすために飲食物を摂取するという行動ではあっても、意識でコントロールができるようなレベルにある問題と、すでに意識ではコントロールができないような深層心理の領域にある無意識レベルの問題があることになります。

このため、自己コントロールができないストレスフルな環境には、できるだけ近づかない(距離をとっておく)ということが、一番賢明な選択ということになります。

しかしながら、もし近づくことになってしまったら、まだ自己コントロールができているうちに、自らが遠ざかるという決断をするしかないと思われます。

構造は自ら変えることができるものではなく、次第に変わっていくのを待つしかないといえるのかもしれません。

所与の構造に対し謙虚であることが、肥大化した自己を抑え、ストレスフルな環境から退避するという選択を躊躇なく採らせることになるのではないでしょうか。

日本人とハワイの人が、ストレスに対して同じように強い反応を示すことについては、人の脳の機能がもたらす普遍性(自然)ということであると思われます。

ただ、それがお酒と甘味に分かれるのは、文化の相違という特殊性になりそうです。

従って、お酒は百薬の長であるが甘味はいけないという議論もありますが、そもそも欲望の対象が文化や嗜好という比較考量できないものであることからすれば、飲酒を合理化することにはなっても、ストレスフルな構造を考察することにはつながらないのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-02-16 19:33 | オリジナル・パンケーキ・ハウス

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ハワイでは、アメリカンスピリットであるプロテスタンティズムの影響を強く受けているため、お酒を飲むという習慣はないように思われます。

その代わりに、ケーキやアイスクリームなどの甘味を摂取して満足感を得るという傾向は、日本人以上に強いように思われます。

日本では、打ち上げや忘年会などでお酒を飲むという習慣がありますが、ハワイでは、週末に仲間とバーベキュー・パーティーをするという習慣があります。

しかしながら、アルコールを飲むということはありません。

これは、公園やビーチなど公共の場で、お酒を飲むことがハワイ州の法律で禁止されてからです。

その代わりには、ペプシやジンジャエールなどの甘い飲料水やアップルパイやケーキなどの甘味をふんだんに摂取する傾向があるようです。

お酒も甘味も、高カロリー食品であることには代わりがないため、多量に摂取すれば当然太ることになってしまいます。

ハワイでも、日本でも、太っているということは、自己コントロールとの関係から、自制心が弱い人と思われてしまうところがあるようです。

確かに、そのような因果関係があることは否定できないところがあります。

しかしながら、もともとは、ストレスに対する行動パターン(思考のくせ)の差異ということになるのではないでしょうか。

少しややこしい問題になってしまいますが、人の心でも、感情と思考は別なものとされています。

従って、感情と思考が別なものであると認識できるようになれば、ある程度の行動は自己コントロールできるようになるといわれています。

精神療法でいう、認知行動療法がそれにあたります。

これは、認識の方法(哲学)を変えるということで、医学的な専門知識が必要になるということではありません。

つまり、今の自分の気分(欲望)を言葉に置き換えることができるようになれば、自分の気分(欲望)が、感情によるものなのか、それとも思考の結果なのかという区別ができるようになるということです。

一般には、感情が自然に発生して、その結果思考が生まれると認識されているところがあるようです。

しかしながら、認知行動療法では、あることを考えた(思考の)結果、ある感情が発生して、ある気分や欲望が生じたと考えるようにします。

従って、自分の気分(欲望)を正確に言葉でいいあらわすことができれば、その気分(欲望)の原因となった思考についても、やがて気づくことができるようになるということです。

「なぜこのような気分(欲望)になったのか」と考える(哲学)ことが、自分の中に客観性をもたらし、やがて自分の思考から行動へとつながるパターン(思考のくせ)を認識させてくれるようになります。

理性によって自分の気分(欲望)をコントロールするとは、おそらくこのような思考のくせを認識するということになるのではないかと思われます。

このあたりの、詳細については、リチャード・カールソン著の「小さなことにくよくよするな」などが参考になるかもしれません。

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by kokokara-message | 2010-02-15 19:57 | オリジナル・パンケーキ・ハウス