新年あけましておめでとうございます。2016年も昨年同様に、どうぞよろしくお願いいたします。




1980年代後半のバブル期にヒットした、徳永英明の「輝きながら...」という曲があります。

きらめく時間が 僕たちの 
何時だって 記念日だった
Happy birthday そして Merry Christmas
戯いでた あの日
徳永英明「輝きながら・・・」より


今思えば、バブルの頃は、なんとお気楽で、にぎやかな時代であったことかと、懐かしくも、苦々しく思い出すことがあります。

おそらく、当時はまだ、坂の上に浮かぶ雲が陽の光をあびて輝いているものと、ほんとうに信じることのできた最後の時代と言えるのかも知れません。

現在の日本という国は、経済的にはもうすでにピークを過ぎてしまった老年期の国であると思われます。

おそらく日本という国は、再びきらめくような輝きを取り戻すことはおそらくできないのではないでしょうか。

このようなリアルな事実にも関わらず、日本人は「輝きながら...」の歌詞にあるような、昔のままの未熟であることを望んでいるようにさえ思われる時があります。

体力的に壮年期を過ぎてしまった日本人は、輝きながら大人(成熟)へのドアを開けるというリアリティのなさは、もはや許されることではないのかもしれません。

残酷なようですが、日本という国には、もうきらめくような明日などないと分かったうえでも、自分の未来(成熟)に向かって一歩ずつ着実に踏み出すことができる人が望まれているといえそうです。

現在の日本と日本人を取り巻く社会経済構造が、どのようなものになっているのか。

そして、日本人は、このような社会経済構造の中にあって、いかにして自分の未来(成熟)へと向かうことになるのか。

たいへん難しい問題ではありますが、日本人がいま考えなければならない喫緊の問題ではないでしょうか。

a0126310_2123836.jpg

現代社会は、とても複雑化しています。

いろいろな価値観が錯綜しているため、自分の足場を守ろうとすることが、かえって自分の足場を崩してしまうことにもなりかねません。

このような理不尽ともいえるような時代環境は、おそらくこれからも続くことになるのではないでしょうか。

まさに、先が見えない時代が到来したということになりそうです。

そして、このような社会状況は、私(あなた)だけに襲い掛かっている悲劇ではないということです。

おそらく、世の中(世界中)の誰もが、このような先の見えない状況に投げ出されているといえるかもしれません。

経済状況だけが不透明であるということではありません。

人間関係そのものが希薄になっているように思われます。

ただ、経済の不透明感や人間関係の希薄さに、社会の閉塞感の原因を求めるということは、あまりにも短絡的すぎるように思われます。

むしろ、経済の不透明感や人間関係の希薄さに至らざるを得ない価値の対立や錯綜があるがために、自信を持って経済関係や人間関係を構築することができなくなってしまっているのではないでしょうか。

社会事象として、経済関係が不透明であるということ、人間関係が希薄であるということは、すでに私たちの与件になっているといえそうです。

従って、私たちがこのような現代社会を生き延びるためには、これらの与件をまずは受け入れるということが必要になるのかもしれません。

つまり、経済の不透明感や人間関係の希薄さを嘆いたり、必要以上におびえたりするのではなく、これらの社会事象に自覚的である姿勢が求められるということです。

社会事象のあらゆるものは、白黒はっきりと区別できるようなものではありません。

どちらかと言えば、不透明で曖昧なグレーゾーンにあることが一般的なものの見方ということになります。

このため、たとえ戦略的ではあっても、決まった答えはなく、決まった見方はないという世界観(諦観)を持つことが、社会事象を客観視することができるメタレベルからの視点を与えてくれることになるのではないでしょうか。

a0126310_20283697.jpg

経済関係が不透明であるということは、もはや私たちを取り巻く与件になっているということでした。

では、経済関係の何が不透明であって、それはどういう理由からいえることなのでしょうか。

経済活動そのものは実体を伴うことになりますが、岩井克人氏の「貨幣論」によれば、実体経済の交換手段の貨幣は幻想でしかありません。

貨幣の価値とは、他者が、さらにその先の他者が、貨幣を受け取ってくれるという信憑性からもたらされた価値でしかないということです。

少し言い方を替えるなら、貨幣が貨幣として流通しているがゆえに、貨幣としての価値があるということです。

要するに、貨幣が幻想というのは、貨幣の価値には論理的な根拠となる底辺がなく、自己循環論法によって支えられた価値であるからということになります。

つまり、貨幣そのものは紙切れや、金属片という本来価値のないものに過ぎないが、自己循環論法によって成り立っている幻想的価値ということになります。

従って、もしハイパーインフレーションのような貨幣の持つ幻想性が消失してしまう事態が発生すれば、貨幣の持つ価値は、もとの木阿弥の紙切れや金属片に戻ってしまうということになります。

では、モノである実体こそが、ほんとうの価値なのかという問題が次に発生します。

経済活動に伴う人や土地や建物などは、まぎれもなく実体ということができます。

しかしながら、それらの価値も、市場原理主義という俎上に乗った瞬間に、貨幣という「ものさし」によって評価されることとなり、価値は幻想化することになります。

市場原理主義では、どのようなモノであっても例外なく、相対主義の対象になってしまうということです。

これは、金や原油などの稀少鉱物資源が、マーケットで投機対象となり、その価値が乱高下している現象からも理解できることではないでしょうか。

つまり、実体としてのモノの価値は、どれだけ貴重なものであっても絶対的価値とはなり得ず、すべてが相対的価値という文脈依存的な幻想性を帯びてしまうことになるわけです。

a0126310_21262636.jpg

もちろん、実体である土地や建物には、アダムスミスのいう使用価値(土地を耕作して果実を獲る)はあるということになります。

また、実体が人ということであれば、人の労働に拠った成果物だからこそ価値があるという、人間中心主義の物語(労働価値説)ということにもつながります。

しかしながら、これらの価値は「特定の与件」や「イデオロギーの枠組み」の中において安定していることに過ぎず、その枠組みが違えば当然その価値も変化することになります。

たとえば、同じボートであっても、池遊びに使用するボートと沈没しかかっているタイタニックで使用するボートでは、明らかに同じボートでも使用価値が異なってきます。

また、労働によって生み出す価値こそが本当の価値であると信じられている共同体(枠組み)の中では、労働価値説が極めて安定して成立しているように見えても、その内実は賃金と原材料の差異によってもたらされた剰余価値にすぎないということになります。

さらに、内部のみならず外部経済との関係性において労働価値説が成立しているようにみえたとすれば、それは外部経済との価格の比較優位(低い賃金、補助金、寄付金等)のうえに築かれた剰余価値にすぎないということになります。

つまり、労働価値説をいくら絶対化したしたとしても、必ずそこには差異(剰余価値)が生じて相対的価値となってしまうということです。

使用価値や労働価値は普遍的な原理に築かれた価値であるかのように思われていますが、実際は相対主義による差異から価値が創造されているだけに過ぎず、この原理についてはアダムスミスの時代からずっと変わっていないということができます。

ただ、このことを理解したうえでも、使用価値や労働価値を絶対的なものと見なしたいという欲望があれば、それはイデオロギー(社会思想)ということになってしまうのではないのでしょうか。

もともと、マルクス経済学では、政治問題である理想や幻想というイデオロギー(社会思想)が、経済問題を下部構造としたうえに構築される上部構造ということになるようです。

もちろん、このような上部構造にあたるイデオロギー(社会思想)が間違っているという議論をしているわけではありません。

現実的に経済要件の基礎となる市場主義(価値相対主義)を受け入れたうえで、労働価値説の理想化や幻想化を図る(物語を信じたい)ということであるのなら、物語を共有しない人との間に信念対立の問題が生じることはないと思われます。

つまり、理想化や幻想化というイデオロギー(社会思想)をいったん相対化したうえで(絶対化しないで)、あえて理想と幻想の共同体の構築を目指すということであるのなら、価値多元主義の立場からは尊重されるべきひとつの立場ということになります。

a0126310_2132539.jpg

近代以降の日本の社会で、アダムスミスの労働価値説が成立しているように見えたのは、日本の都市部と農村部の地域格差(差異)という相対関係がその前提になっていたからということになりそうです。

つまり、都市部の後背地として農村部があり、都市部には農村部から低賃金の労働力人口や安価に生産された食糧品等が供給されることになります。

一方、都市部は、農村部から供給される低賃金の労働力人口の需要の場であり、また流入する安価な食糧品等の消費の場になっているということができます。

日本の経済成長を支えた剰余価値の累計は、このような都市部と農村部の差異からもたらされた価値ということになります。

従って、90年代以降日本の経済成長が終焉を向かえた一番の原因は、このような農村部という剰余価値の供給地が日本から消滅してしまったということになります。

つまり、日本全体が都市化(均一化)してしまったということになるのではないでしょうか。

現在経済成長を続ける中国やインドでは、かつての日本の高度成長期と同じような現象が繰り返されているということができます。

つまり、国内に広大な後背人口と広大な消費者を抱える中国やインドでは、都市部と農村部にある地域格差(差異)が大いなる剰余価値を生み出す可能性を持った社会構造といえます。

また、情報通信の発展はめざましく、70年代当時の日本と現在の中国やインドでは比較ができないほどの変化の速さがあります。

情報通信の発展と都市化のスピードに相関関係があるとすれば、おそらく10年もしないうちに、世界唯一を競うほどの強大な経済力を持った二つの経済大国が、アジア経済圏の中に誕生することになるのではないでしょうか。

そして、このような中国やインドも都市化するスピードが速いほどに、経済成長が下り坂に向かう時期も早くなるといえるのではないでしょうか。

つまり、現在のヨーロッパ諸国や日本がそうであるように、経済成長を支える国内の差異が消滅してしまうことは、高度経済成長から低経済成長の国家へと社会構造が様変わりしているということになります。

このような世界経済のダイナミズムは、いずれも価値相対主義に基づく差異から引き起こされた現象ということができそうです。

つまり、世界経済の剰余価値の創造を演出しているのは価値相対主義に基づいた差異であって、アダムスミスが国富論で論じた労働価値説という主体論ではないということです。

貨幣とは、自己循環論法(循環参照ですね)によって成り立っている幻想的な価値のことでした。

また、実体としてのモノの持つ価値は、市場原理主義の俎上で貨幣という「ものさし」によって相対評価される幻想的な価値のことでした。

つまり、貨幣のみならず、実体としてのモノについても、絶対的な価値ではありえないということです。

要するに、価値とは絶対的価値ではなく、あくまで相対的価値ということになります。

そして、価値は差異によってもたらされるものであり、実体のない幻想そのものということになりそうです。

a0126310_2039548.jpg

また、人間関係の代表的なものとしては、イエ(共同性)があります。

イエ(共同性)とは、人や土地や建物の実体だけを指す言葉でないことはいうまでもありません。

イエ(共同性)とは、むしろフレーム(枠組み)のことであって、関係性ということになります。

つまり、イエ(共同性)は人間関係だけではなく、土地や建物などの実体との関係性ということでもあります。

イエ(共同性)が、フレーム(枠組み)ということであるのなら、その中の実体が常に同じであらねばならない必然性はありません。

つまり、イエ(共同性)というフレーム(枠組み)が存続していれば、実体の中身は変化してもかまわないということになります。

たとえば、世代交替によって構成員はどんどんと変わっていきますが、イエ(共同性)のフレーム(枠組み)はそのまま存続することになります。

ただし、イエは一番小さな社会(共同性)とされているように、具体的な実体が二つ以上あって、関係性が保たれることが前提とされるものでもあります。

しかしながら、核家族化、さらには個人化が進展していく中で、実際にはイエというフレーム(枠組み)だけが残り、その中身(実体)がなくなってしまうという事態も発生します。

たとえば、事実上の地縁や血縁などの関係性がなくなってしまい、全くの個人(単身)になってしまったような場合です。

このような場合でも、いまだそこにイエ(共同性)があると信じている人がいれば、イエ(共同性)は存続していることになります。

イエ(共同性)は、観念的(バーチャルリアリティ)に一人歩きすることもできるということです。

つまり、個人(単身)が構成員としての関係性を維持することができなくなっても、いまだイエ(共同性)を体現しているという認識さえあれば、社会的には個人(単身)がイエ(共同性)を代表しているものとみなすことになるということです。

イエ(共同性)は、人や土地や建物という実体との具体的な関係性を喪失してしまっても、幻想の中で生き続けることができるものということではないでしょうか。

このような抽象化が可能になるのは、現代社会におけるイエ(共同性)は、制度として存続するものになっているからといえそうです。

以上のことからすると、イエ制度からみた現代社会における関係性は、必ずしも具体的な実体を前提とはしない、幻想であっても十分可能ということになります。

関係性が幻想ということであれば、目の前の現実(リアリティ)が、具体性を欠いた曖昧なものであっても構わないということになってしまうのかもしれません。

従って、目の前で起こっている現象(クオリア)が、果たして本物なのか、幻想にすぎないのか、このことを明確に区別できる根拠さえも失ってしまうことになります。

関係性とは、幻想(抽象)であって、必ずしも実体(具体)を必要とはしない。

かように割り切ることが、現実(リアリティ)の虚構性をクールに流していくことであり、迷わない生き方につながると考えるのですが、さていかがでしょうか。

a0126310_21273597.jpg

現代社会は、自分だけの夢を見ているという人であふれているように思われます。

日本人が未熟であるということと、自分だけの夢を見て満足していることとは、無関係ではないと思われます。

また、イエ(共同性)の細分化(個人化)と、経済活動における消費単位の細分化(個人化)とは、同時に起こった現象であるということができそうです。

つまり、イエ(共同性)が細分化されていくということは、社会の構成単位が細分化されて個人化していくことでもあるからです。

このことを市場原理主義から説明すると、共同性が細分化されることによって、個人という消費単位が増加していくということになります。

そして、消費単位の増加は、消費(需要)を押し上げることになり、その結果供給が促されて経済全体のパイは拡大するということになります。

要するに、共同性の解体による消費単位の増加(個人化)は、右肩上がりの経済成長主義の方向性と利害が一致していたということになります。

また、資本主義経済は、相対主義の支配する世界であるため、実体と乖離した幻想が支配する世界でもあるということです。

つまり、実体に備わっている価値は絶対的なものではなく、あくまで相対的に決定される価値に過ぎないということです。

当たり前のことですが、価値や評価というものは、必ずしも実体そのものを表現しているわけではありません。(株価と実体経済の関係を見れば一目瞭然です。)

このため、資本主義を通して見る社会のリアリティは、市場原理の効率化や合理化が進めば進むほど、不透明感と幻想性が増加するということになってしまいます。

つまり、資本主義の市場原理を進めていくと、確かに経済効率や経済成長はもたらされることになりますが、その一方で社会は不安定化することとなり、実体がつかめない不安や焦燥感が高まるということになります。

資本主義の本質とは、効率化や合理化というような経済の純度を高めて行くほど、資本主義そのものが不安定化するというパラドックスにあることです。

自分の足場を守ろうとすることが、かえって自分の足場を崩してしまうというパラドクシカルな危うい経験をした人も少なくはないと思われます。

おそらく、このようなパラドックスは経済関係だけに限定されたことではなく、人間関係やその他あらゆる社会事象においても、同様にあてはまることであるのかもしれません。

もはや、私たちを支えてくれる絶対的な足場はどこにもなく、相対主義における価値と評価は、私たちに底の知れない混沌(カオス)をもたらすことになってしまいます。

「あらかじめ決まった答えがない」とは、このような不安と孤独の中を生きることであるのかもしれません。

従って、自分の夢(物語)だけを信じながら自足しているようでは、「あらかじめ決まった答えがない」グレーな世界を生き延びることさえ難しい状況になってしまいます。

では、一体私たちはどのようにして生き延びれば良いのでしょうか。

おそらく、私たちは、この底の見えない不安と孤独という混沌(カオス)の状況をいったん受け入れるしかないと思われます。

そして、不安と孤独の絶望の底から、絶対的な足場などはどこにもないと諦めるしかないと思われます。

諦める(諦観)という立ち位置が、効率性と不安定性のパラドクシカルな危うい状況を絶妙のバランスで生き延びるという透徹した視点(支点)を与えてくれるのではないでしょうか。

a0126310_21442996.jpg

資本主義の論理でもある価値の相対主義と価値の幻想性からすると、あらゆる社会事象はグレーゾーンのどこかに帰結することになります。

そして、グレーゾーンのどこに帰結するかは、あらかじめ決まった答えがあるわけではなく、結局自分で決めるしかないということになります。

また、自分で決めるとしたとしても、その立ち位置は暫定的なものでしかなく、バランスをとるために社会的文脈から一度定めた軸足をずらすことも必要になってきます。

つまり、社会的文脈とのバランスを維持するためには、それまでの経験や勘という暗黙知に頼りながら、軸足の位置を探ることも必要になってくるということです。

確かに経験や勘がもたらす直観(暗黙知)は、曖昧なものということのなるのかもしれません。

しかしながら、このような曖昧さに依拠しながらも、結果としてバランスが採れているとしたら、それはどこかで普遍性とつながった視点(直観)といえるのかもしれません。

そして、おそらくこのような普遍性につながった視点(直観)こそが自己意識と呼ばれるものではないかと考えます。

自己意識とは、時間性と空間性を伴った四次元の視点であり、自分自身を一望俯瞰する客観的な視点ということになります。

あらゆる社会現象はグレーゾーンのいずれかに位置するということでした。

このような社会現象の持つ曖昧さを嘆いているだけではなく、時代の要請として曖昧さを引き受けながら、自分自身の足場をどこに築くのかを決定しなければならないということです。

自分の足場を築くということは、自分がいかに生き延びるかということでもあり、その選んだ場所によっては、自分を取り巻く環境は大きく変わってくることになります。

おそらく、実際には、現実の中で自分の足場を作っては壊わし、壊わしては作るという作業を繰り返しながら、やがて自分の足場を固めていくことになると思われます。

やがて、作った足場(支点)が自分自身を支えるものであるという直観があったとすれば、その足場(視点)が自己意識と呼ばれるものであるのかもしれません。

自己意識とは、自分自身の生き方に普遍性や倫理性を支えてくれる、メタレベルからの(一望俯瞰する)視点ということになりそうです。

そして、自分が直観した(信じた)足場であるのなら、たとえ不透明で幻想的な現代社会に困惑をしながらも、自分自身で大事に守っていくことができるはずです。

本編のはじめでは、現在の日本人には、もはや輝きながら大人(成熟)へのドアを開けるというリアリティのなさは許容できなくなってしまっており、厳しい社会経済情勢の中での一日も早い成熟が求められるという考察をしました。

さらに、現在の日本人には、もはや輝くような明日が待っていないと分かっていても、なお一歩ずつ自分の未来へと踏み出していく淡々とした日常性の積み重ね(宮台真司氏によれば、終わりなき日常になるのでしょうか。)が重要となってくるということでした。

そして、大人になる(成熟する)ということは、自己コントロールできる自己意識の確保が目標とされるということになります。

ただ、このような不透明で幻想的な現代社会に困惑をしながらも、なお自分自身を俯瞰できる視座の確保を目指して、淡々と日常を積み重ねることのできる行動様式こそが、そもそも成熟の領域に至った「心性」になるのではないのでしょうか。

おそらく、自己意識(普遍性)の確保へのプログラム とは、自己コントロール(前頭葉による感情と欲望の制御)をその方法論に組み込んだ「大人の流儀」のことではないかと思われます。

つまり、自己意識(普遍性)の確保へのプロセスこそが大人であるための条件ということになり、従ってそもそも成熟とは大人であろうとする者に許された円環関係のプログラムの実践ではないかと考えていますが、さていかがでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

[PR]
by kokokara-message | 2016-01-01 17:10 | 我流ポップス論(80')

a0126310_239326.jpg
古いアルバムの中に 
隠れて 想い出がいっぱい
無邪気な笑顔の下の 
日付は遥かなメモリー

時は無限のつながりで
終わりを思いもしないね
手に届く宇宙は 限りなく澄んで
君を包んでいた

大人の階段上る 君はまだシンデレラさ
幸福(しあわせ)は誰かがきっと 運んでくれると信じてるね
少女だったと いつの日か 想う時がくるのさ
少女だったと 懐かしく 振り向く日があるのさ


H2Oの「想い出がいっぱい」(作詞 阿木燿子)より抜粋


1983年は、TVアニメ「みゆき」のエンディングテーマソング「想い出がいっぱい」が巷に流れていました。

あだち充原作のTVアニメ「みゆき」の詳細は忘れてしまいましたが、H2Oが歌う「思い出がいっぱい」だけは鮮明に覚えています。

メロディーと歌詞がとても印象深く、今でもこの曲をウォークマンで繰り返し聞くことがあります。

そして、作詞が阿木燿子さんと知ったのは、ごく最近のことで、あらためてその才能に感服することとなりました。

1983年と言えば、日本の社会は坂の上の雲を目指していた時代で、政治的に冷戦体制の終結を願いつつも、その内実は冷戦体制から大いなる経済的恩恵を受けているという矛盾した時代でした。

そして、冷戦体制終結後のバブル経済までは、かような日本社会のコンプレックス状態は顕在化せず、誰もが素朴に未来を信じることができたということです。

日本人は、まだ無垢なまま(未熟なまま)でいることが許されていたということです。

H2Oの「思い出がいっぱい」は、このような時代に作られました。

歌詞は、ひとりの少女が大人になっていくプロセスを、誰もが知っているシンデレラストーリーを舞台にして描かれています。

その中で、シンデレラを演じている少女と古いアルバムの中にいる少女は、同一人物です。

そして、もうシンデレラを演じなくなった少女と古いアルバムを見ている少女は、同一人物です。

つまり、大人に成長した未来の自分(少女)が、子どもであった頃の自分(少女)を懐かしく思い出しながら、大人へのプロセス(苦い経験など)を想起しているという設定です。

歌詞にある「幸福(しあわせ)は誰かがきっと 運んでくれると信じていた」という幻想(シンデレラ・コンプレックス)からの卒業ですね。

そして、この歌詞は未来完了形で描かれていることで、少女が無事に大人になれたことを告げています。

では、この少女が大人になれたように、無垢な状態(未熟な状態)のままであった日本人はその後大人になることができたのでしょうか。

1989年に東西冷戦体制が終結すると、1991年にバブル経済が崩壊し、その後日本経済は長い長い停滞期に入っていきます。

今にも手が届きそうな未来(幸福)は遠くへと去って行き、気が付けば日本人は独り立ち(自立)することを世界から強く迫られることになります。

独り立ち(自立)を迫るのは、言うまでもなく米国発のクローバル社会で、日本人はそれまでの依存(未熟)体質から、経済的・政治的自立(成熟)を強いられることになります。

その後日本人が大人になれた(成熟した)かどうかは後で触れるとして、H2Oの「思い出がいっぱい」という曲だけは、このような時代の閉塞感や焦燥感とは一線を画して、大事な日本人の記憶に残っていくことになります。

そして、今では学校の教科書の教材として取り上げられて、時代を超えた日本のポップスを代表する曲として知られるようになっています。

a0126310_2140415.jpg


自分の子ども頃を振り返ってみると、自分の時間と自分の空間が無限に続いている感覚があったように記憶しております。

むろん、あくまでも漠然とした感覚ですが、自分の時間と自分の空間の無限性は、どこかで信じていたように思われます。

そして、両親や友達についても、その関係性が永遠に続くものと、どこかで信じていたように思われます。

おそらく、自分の可能性は無限にあると信じているように、自分の時間と自分の空間の無限性も信じていたのかもしれません。

いわゆる、子どもの世界、つまり幼児的万能感でしょうか。

しかしながら、このような無限性を信じている子どもの世界(幼児的万能感)は、それとは真逆に短く狭いものでしかありません。

つまり、子どもの世界は短く狭いがために、根拠のない無限性を信じることが可能となり、幼児的万能感を抱くことができたというわけです。

むろん、子ども自身は、このような矛盾に気づくことはありません。

子どもが、このような矛盾に気づくためには、長い時間をかけて、広く多様なこの世界を旅して(経験して)行くことが必要になります。

そして、長い旅を終えた後、やっと子どもは自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになります。

おそらく、その気づきは、自分自身の「死」の意識を介してのことではないでしょうか。

つまり、観念や概念の「死」ではなく、自分自身の「死」を意識することで、はじめて自分の時間と空間の有限性(無限ではない)に気づくということです。

そして、さらには、自分自身の「死」の意識を介することで、今在る現実(自分を取り巻く関係性)の唯一無二性に気づくことになるということです。

ここで言う唯一無二性とは、今在る現実(自分を取り巻く関係性)は二度と再帰しないということです。

つまり、自分自身の「死」の感覚も、今在る現実(自分を取り巻く関係性)の万物流転(諸行無常)という世界観の中の一部でしかないということです。

そして、自分自身の「死」を取り込んだ万物流転(諸行無常)の世界観は、あらゆるものが失われてしまう喪失感を生み出し、やがてその喪失感は今在る現実(自分を取り巻く関係性)への執着や焦燥感へと反転して行きます。

自分自身の「死」が唯一無二であるのと同様に、今在る現実(関係性)も唯一無二であって、それゆえに失したくはない(大事にしたい)という「今」への執着や焦燥感の感覚ということでしょうか。

古文の「徒然草」などで使用されている「いとかなし」が、この感覚に近いのかもしれません。

このような万物流転(諸行無常)の世界観と「今」への執着を習得し、やがて幼児的万能感を持った子どもたちは、自分の役割と責任を知った節度ある大人になっていくということです。




繰り返しになりますが、人は、自分の死をリアルに意識できたときから、大人になることができるということです。

子どもが、自分が無限であると信じることができるのは、短く狭い閉ざされた仮構の世界で生きているためです。

大人が、自分が有限であると思い知らされるのは、長い間広く多様な現実の世界を経験してきたためであるということです。

子どもと大人では、有限と無限のあり方が正反対(真逆)になっているということです。

ところで、有限と無限の認識を分ける一番の要因が、自分自身の「死」をどのくらいリアルに意識できているかということでした。

最近とくに気になるのですが、年齢とは関係なく、自分の時間と空間が無限であるとどこかで信じている人が年齢が高くなっているように思われ驚かされます。

耳順(60歳)の年になっても、いまだ時間と空間が無限であると信じられるのは、世の中がそれほど不老不死のパラダイスに見えているからなのでしょうか。

むろん元気なのは大変良いことですが、自分の天命(50歳)を知ったうえでの行動とは考えられないことも多く起きているようにも思われます。

天命(50歳)と耳順(60歳)は、ともに孔子の論語の中に出てくる言葉です。

天命について、私なりに解釈すると、自分の時間と空間の有限性、つまり自分の死をリアルに自覚できたとき、自分と自分の生きられる現実の唯一無二性にやっと気が付き、その時からもう一度生き始めるということのように思われます。

そして、唯一無二性は、永遠に確証が得られない焦燥感や喪失感につながっているがゆえの、コンセントレーション(集中力)のようにも思われます。

マックス・ウェーバーの「プロテスタンチィズムの倫理と資本主義の精神」によれば、プロテスタンチィズムの予定調和説によって救済されるかどうか分からないという焦燥感が、人を倫理的にさせ、勤勉にさせたということです。

もちろんキリスト教徒でもない日本人が、マックス・ウェーバーの言うプロテスタンチィズムの救済への焦燥感をほんとうに理解できるとは思いません。

従って、日本人にとっての唯一無二性は、自分自身の「死」という決定的な喪失感を自覚することでしか、高めることのできないコンセントレーション(集中力)ではないのでしょうか。

日本人は、他の国と比べると大人への成熟度が低い、幼児的万能感のあるアダルト・チルドレンが多いと言われることがあるように思われます。

この背景には、共同体の文化的、宗教的な意味での大人への通過儀礼が欠落してしまったことがその原因と考えられるところがあるのかもしれません。

卑近な例になりますが、女子フィギアスケートのキム・ヨナと浅田真央では、技術的な差異というよりも、むしろ大人の成熟度の差異が大きく結果に影響を及ぼしたところがあるようにも思われます。

おそらく、これは成熟度を評価するような文化圏(父性社会)にいるのか、それとも成熟を共同性からの離脱とみなすような文化圏(母性社会)にいるのか、という決定的な差異から生じた行動様式(エトス)であるように思われるのですが、さていかがでしょうか。

a0126310_7594343.jpg

欧米人によれば、日本人の死生観には、今でも仏教の輪廻転生があると思われているように聞きます。

しかしながら、現代の日本人が強いリアリティを持って仏教の輪廻転生を信じるは、もはや希少となっているのではないでしょうか。

ただ、生きてるうちは楽しみたいという志向性の強さだけを見れば、自分の人生の有限性(80年程度しかない)を信じられているとも言えなくはないようです。

つまり、死後の世界観のリアリティはなくても、現世の余命を計算しながら貪欲に生きる(損はしない)ことへのリアリティは強いということのようです。

もちろん、計算上の余命が数値的に短くなれば、自分のできることは確実に限られてきます。

従って、できる内にやれることはやっておくという生き方は、自分自身の「死」から逆算した積極的な生き方と受け止められることになるのかもしれません。

今在る現実を精一杯生きるという姿勢は、自分の唯一無二性がやがて失われてしまうことへの執着と焦燥感、そして今へのいとおしみの感情から説明ができることについては、先に記述したとおりです。

つまり、今在る現実を精一杯生きるということは、前向きな積極性という表層的な動機ではなく、むしろ無常感がもたらした諦観(いとかなし)という深層心理から理解する方がより動機の根源に近づくことになるのかもしれません。

ところで、唯一無二性は、茶の湯における一期一会ととても近い感覚があるように思われます。

幕末の大老井伊直弼は、その著書「茶湯一会集」の冒頭で、茶の湯における大切な言葉として一期一会を選んでいます。

「茶湯一会集」によれば、一期一会は「本日の出会いは、再び同じ出会いではないと考え、主人は全てのことに気を配り、客も亭主の趣向を何一つおろそかにせず、心に留めて、双方が誠意をもって交わるべきである」というものです。

そして、「茶湯一会集」の完成は安政5年(1858)とされており、同年は、井伊直弼が大老に就任するとともに、孝明天皇の勅許が得られないまま日米修好通商条約を強行調印した年でもありました。

大老就任後まもなく、大老井伊直弼は、条約反対派を封じ込めるため、多くの公家や大名、藩士らを処罰することになります。

安政の大獄と呼ばれる事件です。

安政の時代は、思想的には大老井伊直弼が進めた開国ではなく、むしろ王政復古の尊王攘夷の嵐が強く吹き荒れていました。

また、国家存亡の危機にあったとはいえ、政府(幕府)の事実上の最高責任者(大老)が、律令制度の頂点にある天皇の勅許(許し)を得ぬままに、外国との条約を締結するということは、おそらく法制上の明白な服務違反に当たるということです。

つまり、条約の調印の強硬という時代からの突出と天皇を頂点とする律令制度からの逸脱というふたつの高度な政治判断は、大老井伊直弼が自らの死を覚悟することなしには決することのできない決断ではなかったのでしょうか。

その2年後の万延元年(1860)に、大老井伊直弼は桜田門外で急襲され、その生涯を閉じることになります。

享年、44歳という若さでした。

大老井伊直弼に限らず、人が自分の唯一無二性(天命)について、考え始めることになるのは、おそらく年齢の老若とは関係なく、自らが投げ出された社会的文脈から、自らの死を覚悟しなければならなくなった時ではないかと思われます。

自らの死を覚悟することによって、関係性の唯一無二性(一期一会)のみならず、自分自身の唯一無二性(天命)に気づかされることになるのかもしれません。

ただ、極力大きな決断は避けたいという思いもまた人の情けであって、ひとそれぞれ天命の時期には差が生じるは仕方のないことかもしれませんね。

ところで、孔子の論語によれば、50歳で天命を知り、60歳で耳順するということになるようです。

耳順とは、その字の通り、我を張らずに、人の話に素直に耳を傾けることができるようになることです。

順番からすると、自分の唯一無二性(天命)を知ったうえで、やっと人の話に耳を傾けること(耳順)ができるようになるということのようです。

しかしながら、現代社会では、自分の唯一無二性(天命)を知ることがないまま、従って耳順することもないままに、老いていく人が多いように思われます。

このことは、自分の有限性(無常感)に気づかなくても、永遠の命(いつまでも若い)と変わらない同質性(いつもみんな同じ)を信じているだけで、生きることができるということではないでしょうか。

このことからすると、現代人には、もはや唯一無二性(天命)は必要ではなくなったということになってしまうのかもしれません。

そして、現代人が、自らの役割でもある唯一無視性(天命)をなくしてしまったのは、自らの死に対するリアリティを抱くというチャンスを失ってしまったからということかもしれません。

以上のことをまとめると、人の「死」そのものが社会の背景に押しやられてしまった結果、他人の「死」のみならず自分の「死」についても自覚するというチャンスがなくなってしまったということです。

その結果、自らの有限性(無常感)に気づくどころか、永遠の若さといつも同じという幻想の中を彷徨うことで、自らの唯一無二性(天命)さえに気づくことなく、平気で手放すことになってしまったのが、現代人の自然(死生観)であるのかもしれませんね。

a0126310_20544894.jpg

大人の階段上る 君はまだシンデレラさ
幸福(しあわせ)は誰かがきっと 運んでくれると信じてるね
少女だったと いつの日か 想う時がくるのさ
少女だったと 懐かしく 振り向く日があるのさ


H2Oの「想い出がいっぱい」(作詞 阿木燿子)より抜粋


「想い出がいっぱい」の歌詞のラスト部分を抜粋したものです。

幸福(しあわせ)は、自分の努力だけで得ることができない、ということはいうまでもありません。

幸福(しあわせ)には、自分が今置かれている社会的文脈や偶然の運というものが、大きく影響してくるからです。

また、幸福(しあわせ)は、外部の誰かが運んで来てくれたものを、ただ受け取るだけのことではありません。

つまり、幸福(しあわせ)とは、自分だけで創れるものでもなく、誰かから与えられるだけのものでもないとすれば、自分と外部の誰かが、共同で一緒に創り上げていくものといえそうです。

では、自分と外部の誰かと創り上げていく幸福(しあわせ)を得るためには、どのようにすればいいのでしょうか。

子どもの時間と空間は、観念として無限にあるということでした。

このため、あらゆる選択をネクスト・ワンとして先送りすることもは可能ということになってきます。

つまり、いくらでもやり直しがきく代替可能性ということになり、場合によっては、無責任に誰かが自分に代わりやってくれるということにもなりかねません。

すべての選択が、唯一無二(一期一会)である必要がない、つまり代替可能性ということになれば、いまここにいる自分も唯一無二である必要はなく、誰かが代替可能であるということにもなってしまいます。

これに対して、大人のリアリテイは、自分の時間と自分の空間は有限ということでした。

このため、「今」眼前に発生している現象と誠実に向き合う態度(唯一無二性)が、逆に自分の有限性の枠組みを守ることになり、自分の足場を固めるスタンスになるということです。

つまり、大人が採る態度の選択は、目の前の現象が消えてなくなるか、変貌してしまわない限りは、それと相対(あいたい)することが前提になるということです。

従って、大人は眼前の現象から逃げ出すことができず、このため、いかに距離をとって向き合うかが一番の大事となり、この距離感こそが自分の有限性を守るための要諦になるということです。

一期一会は、茶の湯においてとても大切にされる言葉のひとつでした。

また、現代日本のホスピタリティを代表する言葉のひとつでもあります。

但し、いくら一期一会が大切とはいっても、偶然や必然の唯一無二性である出会いが自分の有限性(時間や空間)を危険にさらすものまで関わりを求めるものではないということです。

例えば、悪質なクレーマーがいたとします。

このようなクレーマーとの出会いを一期一会と勘違いし有難く思っていては、そもそも自分の有限性である時間と空間を守ることはできず、逆に自分の有限性である生命を危機にさらしてしまうことになってしまいます。

自分の有限性を危険にさらすオープンマインドは、ニーチェの言うルサンチマンとも似ており、まさに本末転倒という事態にもなりかねません。

※ルサンチマン [ ressentiment]
〔哲〕 ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨。大辞林 第二版 (三省堂)より


自分の有限性を危険にさらしてまで成さねばならないとしたら、それは自分の限定された時間と空間を前提にした上で、しかも自分の限定された能力と役割の範囲に限定した上で実践するのがせいぜいではないでしょうか。

たとえば、仕事と割り切った専門家による(有料の)カウンセリングや営利目的と割り切った豊富な専門知識を持ったプロパー(相談員)の接遇などがそれにあたるのかもしれません。

したがって、自分がほんとうに幸福(しあわせ)を得たいのなら、まずは自分の時間と空間の有限性を知り、それらを自分自身で守らなければならないということです。

自分の「分」を知ることは、大人にに求められた大事な能力と言えそうです。

もう一度、言っておきます。

仕事のことであれ、家族のことであれ、趣味のことであれ、自分の時間と空間が有限であると自覚できている人が、大人と呼ばれる人です。

自分の時間や自分の空間とそれを支える自分の体力や気力まで含めて無限と信じている人は、子どもということになってしまいます。

従って、自分の時間と空間の有限性を知ている人は、幸福(しあわせ)を見つけるために、「自分探し」に出かける無謀な振る舞いはしません。

幸福(しあわせ)は、自分の身近な日常の中の関係性の中でしか見つけることができないことを知っているからです。

つまり、自分が有限な存在であるのなら、自分の周りを見回す程度の努力は行っても、求められてもいない遠くまでわざわざ出かけることはしないということです。

幸福(しあわせ)は、自分が見落としてる身近な生活の中にそっと潜んでいるものです。

それに気付くのが、有限性を生きる大人の責任であって、大人であるための試金石と言うことになるのではないでしょうか。

最後になりましたが、自分の時間と空間の有限性を突き詰めて行けば、やがて自分の死に至ることは述べてきました。

そして、自分の死を受け入れることができた人が、大人(幸せ)の階段を登りはじめることができるということも述べてきました。

このことからすると、自分の死(有限性)について受け入れることができたとき、つまり、無限という観念を捨てたときに、はじめて「自分の幸せ」の答えが得られる仕組みになっているのかもしれません。

では、自分の幸福(しあわせ)とはいったい何なのでしょう。

おそらく、自分の「死」を受け入れることで、はじめて、人は生かされていることの意味を知り、生かされていることの喜びを覚えるということではないでしょうか。

これは、他力と呼ばれる思想です。

このような他力思想を受け皿にすることで、その上に生まれて来るものが、自ら生きはじめるという自力思想ではないでしょうか。

つまり、他力の掌(たなごころ)に乗っている小さな自分という存在が自力であるのなら、他力とは自分の有限性(自力)を自覚せざるを得ない、自力を超越した無限性や永遠性ということになるのかもしれません。

このような無限性や永遠性という他力に抱かれて、いまここに自分の足で歩き始めることができた自力の有難さこそが、自分が生まれ変わったことの証しであり、大人になれたことへの驚嘆ではないでしょうか。

ただ生きるのではなく、自ら生きはじめるということが、祝福すべき第二のバースディ(誕生日)になるというわけです。

黒澤明監督の映画「生きる」でも、ただ生きる(存在すれば良い)のではなく、自ら生きはじめることの大切さが主要なテーマになっていたと記憶しております。

そして、かように生きはじめた自分も、やがては年老いて死を迎えるという必然は、有限性から永遠性へと回帰していく「大きな物語」を想起させるものでもあります。

私は、日本人として、かような有限性から永遠性へと回帰していく日本人の「大きな物語」の存在に、どこかしら安寧(幸せ)を覚えることになるのですが、さて皆様はいかがお考えになるのでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2015-09-05 08:42 | 我流ポップス論(80')

a0126310_22314670.jpg
「会いたい」
作詞;沢ちひろ 
作曲;財津和夫 
編曲;芳野藤丸 
歌 ;沢田 知可子

ビルが見える教室で 
ふたりは机 並べて
同じ月日を過ごした
すこしの英語と
バスケット そして
私はあなたと恋を覚えた

卒業しても私を
子供扱いしたよね
「遠くへ行くなよ」と
半分笑って 半分 真顔で
抱き寄せた

低い雲を広げた 冬の夜
あなた 夢のように 
死んでしまったの

今年も海へ行くって 
いっぱい映画も観るって
約束したじゃない 
あなた 約束したじゃない
会いたい・・・

 
波打ち際 すすんでは 
不意にあきらめて戻る
海辺をただ独り
怒りたいのか 泣きたいのか
わからずに 歩いてる

声をかける人を つい見つめる
彼があなただったら
あなただったなら

強がる肩をつかんで
バカだなって叱って
優しくKISSをして 
嘘だよって 抱きしめていて
会いたい・・・

遠くへ行くなっと言って 
お願い一人にしないで
強く 抱き締めて
私のそばで生きていて

今年も海へ行くって 
いっぱい映画も見るって
約束したじゃない 
あなた 約束したじゃない
会いたい・・・
a0126310_22322999.jpg


自分の過去を振り返ると、数年の間記憶が飛んでしまっている時期があるようです。

私にとっては、1990年前後が、自分の記憶からどうも飛んでしまっているように思われます。

もちろん、すべての記憶が喪失状態になっているわけではなく、当時の事件や流行などの断片的な情報が飛んでしまっているということです。

もともと、当時からそれらの情報にアクセスしていなかったということも考えられます。

しかしながら、今振り返れると1990年前後は、仕事だけではなく、仕事以外においても大変忙しい時期であったため、多くの情報が私の記憶のネットからもれてしまっていたのかもしれません。

当時は、まだインターネットが普及していなかったことから、ニュースソースは新聞やテレビという従来型のメディアでした。

いずれのメディアでも、現在のiPhoneを使用するようには簡単に情報収集をすることはできません。

おそらく、当時の新聞やテレビにじっくりとアクセスできなかったことが、私の多くの記憶が飛んでしまっている原因といえるのではないでしょうか。

原因の究明はこれくらいにして、確かに不思議な気はしますが、人生の内で記憶が喪失している時期があったことは紛れもない事実のようです。

そして、ちょうどこの時期(90年頃)に流行していた曲が、沢田知可子さんの「会いたい」でした。

繰り返しになりますが、当時の記憶が飛んでしまっているため、この曲が巷に流れていたことも、マスコミで話題になっていたことも、沢田知可子さんのことも、私の記憶にはまったく残っておりません。

私が「会いたい」という曲が存在していることを知ったのは、つい最近のことです。

つまり、私は「会いたい」がリリースされてから20年近く経過して、やっとこの曲を聴くことになったというわけです。

そして、「会いたい」を初めて聴いた時のインパクトは、大変衝撃的なものでした。

a0126310_22280870.jpg

それは、歌詞の内容が、いままでにない新鮮な感受性と、これとは矛盾する、昔観た映画のワンシーンを思い出させるような懐かしさ(既視感)を、同時に想起させるものでした。

斬新なまでの感受性(特殊性)と懐かしいまでの既視感(一般性)が、入れ子状態になった感動といえます。

例えば1990年以降に生まれた人なら、最近になってからこの曲を初めて聴いたという人もいるのかもしれません。

では、この曲を初めて聴いた人が、私と同じような新鮮さ(特殊性)と既視感(一般性)を同時に覚えるということはあるのでしょうか。

もちろん、90年前後のバブルの時代を経験した人とそれを知らない人では、この曲から受ける印象が違うのは当然のことです。

また、歌謡曲のみならず、映画などのポップカルチャーが、それらの創られた時代を反映していることは自然なことといえます。

もちろん、沢田知可子さんの「会いたい」も、このような時代という文脈の中で創作されたポップカルチャーのひとつということになります。

しかしながら、この「会いたい」という曲には、他の曲に見られない、時代の経過や変化を感じさせることのない、どこか普遍的ともいえるような感覚が備わっている気がしてなりません。

ここでいう普遍的な感覚とは、時代や場所を超えて、誰もが同じように共感できる感覚ということです。

ここでは、沢ちひろさんの歌詞がその感覚を表現しているのではないでしょうか。

つまり、誰もがどこかで知っているけれども、いまだ誰も言語化することができなかった感覚を、作詞という手法によって普遍的に表現したのがこの「会いたい」という曲ではないでしょうか。

沢ちひろさんの「会いたい」の歌詞には、かような普遍性が含まれているということです。

茂木健一郎氏によれば、創造性とは思い出すことと似ている、ということになるようです。

つまり、この「会いたい」という曲は、誰もがどこかで知っているけれども、言葉にできなかった女性のせつなさや心細さ、そして繊細さを、波打ち際の女性のしぐさや女性の両義的な感受性によって言語化することで、見事なまでに表現しているといえるのではないでしょうか。


おそらく、私たちがどこかに置き忘れて来た感覚を思い出させてくれるものが、この「会いたい」という曲であり、この新鮮さと懐かしさが入り混じった感受性を多くの人が受け取って、普遍性へとつながる感動と共感を享受することになるのではないでしょうか。

******************************

【閑話休題】You Tubeで「会いたい」を聴きながら、ご一読いただければ。003.gif



沢田知可子さんは「会いたい」を、「永遠の詩 one by one」(2005)、「花心」(2007)でも、アレンジを変えて歌われています。

いずれも素晴らしい歌唱力ですが、私は若く澄んだ声で歌い上げている、「I miss you」(1990)の「会いたい」がとくに気に入っています。

沢田知可子さんの「会いたい」は、1990年6月27日に発売された曲です。

もともと「I miss you」というタイトルのアルバムに入っていた曲が、深夜番組のエンディングのテーマ曲として採用されて話題となり、その年から翌年にかけてのロングヒットになりました。

そして、沢田知可子さんは、翌年(1991年)には全国有線放送大賞のグランプリを受賞し、また同年の紅白歌合戦にも出場されています。

「会いたい」の作詞は沢ちひろさん、作曲は財津和夫さんです。

作曲家の財津和夫さんは、いわずと知れたヒットメーカーであり、ポップス界の大御所的存在でもあります。

一方、作詞家の沢ちひろさんはというと、残念ながらあまり多くの情報はないようです。

そして、沢ちひろさんは、「会いたい」以外にも、沢田知可子さんのアルバムに作詞を提供をされていますが、それ以外のことは、あまり知られていないようです。(もちろん、私が知らないだけかもしれませんが)

また、初めて沢ちひろさんから「会いたい」の歌詞を渡された沢田知可子さんが、偶然にもこの歌詞と同じような内容の経験をかってしたことがあることに気づき、大変驚いたという話をテレビでされています。

これはオカルト的なように聞こえますが、共時性(シンクロニシティ)と呼ばれる現象で、「意味のある偶然の一致」と呼ばれるものです。

作詞家の沢ちひろさんにまつわる謎の多いことや沢田知可子さんが語る共時性(シンクロニシティ)のオカルト的な要素も重なり、この「会いたい」という曲は、さらに謎めいたものになっているように思われます。

そして、沢田知可子さんの高く澄んだ声とその歌唱力は、「会いたい」をただ悲しいだけの曲で終わらせるのではなく、愛おしさもあわせ持つキュートな名曲へと昇華させているのではないでしょうか。

a0126310_22304787.jpg

2001年には、「会いたい」がインターネット投票で、「21世紀に残したい泣ける名曲」の1位に選ばれています。

このことからも分かるように、「会いたい」という曲の素晴らしさは、私だけが感じている特別な価値なのではなく、多くの人が同じように感じている普遍的価値ということになりそうです。

先ほど、「会いたい」という曲は、斬新な独自性と既視感のような一般性が入れ子状態になっいると説明しました。

では、「会いたい」が持つ独自性と一般性では、どちらがその主軸になっているといえるのでしょうか。

私は、やはり一般性の方ではないかと思います。

そもそも、独自性(特殊性)があまり強いと、多くの人から受け入れられることはないと思われます。

一般的であるからこそ、多くの人に受け入れられ、21世紀に残したい名曲として選定されることになるわけです。

「会いたい」のメッセージは、「I miss you」です。

そして、「I miss you」というメッセージが、一般的であるということになります。

少し言い方を変えると、恋人を失うという経験は、決して珍しい出来事ではなく、誰もが一度は経験する、ごく一般的な出来事ということです。

もちろん、これは実体験だけを指すのではなく、映画や文学におけるイマジネーションの世界も含めてのことです。

そして、「I miss you」、つまり愛する人を失うことがテーマになるのは、日本だけのことではありません。

世界の映画や文学作品においても、普遍的なテーマとして扱われています。

では、「I miss you」を一般化した表現にすれば、どのようなものになるのでしょうか。

おそらく、人間関係(関係性)の構築とその喪失(破綻)になるのではないでしょうか。

たとえば、韓流のブームのさきがけとなった「冬のソナタ」は、まさに「I miss you」、つまり人間関係の構築(地道な積み重ね)とその喪失(一瞬の破綻)をテーマとした作品といえそうです。

誰もが知っているけれども、実際にその経験を一般化するとなれば、とても長くて孤独な時間と深い忘却の痛みが伴うことになります。

つまり、「I miss you」とは、誰もが経験する「失恋」のことです。

では、なぜ、誰もが経験するはずの「失恋」が、人間にとって重要かつ普遍的なテーマとして、世界中の映画や文学作品で繰り返し取り上げられることになるのでしょうか。

「失恋」とは、愛する人を失うことです。

おそらく、愛する人を失うということ、つまり関係性の構築(積み重ね)とその喪失(破綻)という経験の意味を突き詰めていけば、やがて他者の死、そして自分の死という人間が避けて通ることのできない有限性の問題へと行き当たることになるからではないでしょうか。

少し飛躍があるので、分かりにくいかもしれません。

今一度「会いたい」の歌詞に戻りたいと思います。

a0126310_22341020.jpg

波打ち際 すすんでは 
不意にあきらめて戻る
海辺をただ独り
怒りたいのか 泣きたいのか
わからずに 歩いてる

上記の「会いたい」の歌詞を私なりに分析すると、自分を海や映画に連れて行ってくれる恋人との経験が不在になってしまったこと。

そして、愛すべき人の死によって自分にとっての唯一無二性が不在(不安定)になってしまっているということ。

この二つのことが重なり合って、主人公の喪失体験が形成されているといえるのではないでしょうか。

つまり、自分を残して死んでしまった理不尽ともいえる恋人へのやり場のない怒りともいえる気持ちとその恋人が死んでしまった事実をいまだ受け入れることができない戸惑いと畏れの気持ち。

これらの感受性が振り子のように揺れ動く様を、主人公の心象風景として表現したのが、この「会いたい」という曲ではないでしょうか。

そして、なによりも沢ちひろさんの「会いたい」の歌詞には、このような喪失体験に対して人間が抱く両義的ともいえる多感な感受性がきめ細やかに描写されていることです。

このような多感な感受性を繊細に表現することで、人間が潜在的に抱いている死(有限性)への畏れや苦悩というものを暗喩(メタファー)することになっているのかもしれません。

つまり、もともと死(有限性)とは、日常生活の背景にあって非日常(無意識)の領域の中に隠されているものということができそうです。

しかしながら、暗喩(メタファー)された喪失体験(失恋)に触れることにより、他者の死、そして自分の死という無意識の領域にあったものが、やがて前景化してくることになるのではないでしょうか。

そして、前景化(意識化)した他人の死、自分の死が意味するものは、自分の時間と空間の「有限性」に他ならないと思われます。

つまり、自分ができる経験や出会える人というのは、所詮限られているという「諦念」でもあるということです。

少し言い方を変えれば、人間には観念としての無限は存在しても、事実として無限はありえないという至極当たり前なことは覚悟しておく必要があるということです。

だからこそ、今在ることのかけがえのなさ(唯一無二性)に気づいておく必要があるのであり、この唯一無二性こそが人を成熟させる、つまりは節度のある有限な生き方を実践させることにつながるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

a0126310_2126271.jpg

ところで、人間は時としてアンビバレンスな状況に置かれることが多々あります。

会いたいけれども、会うことができない。

一緒にいたいけれども、別れなければならない。

また逆に、会いたくないのに、会わなければならない。

これらは、人間のアンビバレンスな心理を表現したものといえます。

アンビバレンス(ambivalence)とは、ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すこと。「両価感情」や「両面価値」などと翻訳されることもあるが、そのまま「アンビバレンス」と表現するのが一般的。形容詞は「ambivalentアンビバレント」  (ウィキぺディアより)

どうも、人間の悲劇は、このアンビバレンスな状況にあるのかもしれません。

仏教の教えには、四苦八苦があります。

四苦とは、生・老・病・死のことであり、これに、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく) 、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を合わせて八苦とされています。

そして、四苦八苦の「苦」のひとつに、愛別離苦があります。

愛別離苦の意味を素直に解釈すれば、一緒にいたいにもかかわらず、離別しなければならないことが、苦しい(辛い)ということになるのでしょうか。

これが、人間の「苦」であり、運命(さだめ)でもあると仏教では考えるようです。

そして、愛別離苦と相対するような「苦」には、怨憎会苦があります。

怨憎会苦とは、会いたくないにもかかわらず、会わねばならないことが、苦しい(辛い)ということになるのでしょうか。

これも、人間の「苦」であり、運命(さだめ)でもあると考えるわけです。

そして、愛別離苦にしても怨憎会苦にしても、「苦」の原因になっているものは、関係性、つまり縁ということになります。

縁(関係性)を結ぶということが、結果としてさまざまな苦の原因になってしまうということです。

少し言い方を変えるなら、縁(関係性)が、「苦」の始まりということになります。

たとえば、愛する人と出会えた縁(関係性)は、確かに喜びや幸せと感じることは自然なことといえます。

そして、このような日が1日も永く続くことを願い、努力することは、人間の素晴らしい営みではないでしょうか。

しかしながら、その出会いという縁(関係性)も、やがては愛別離苦や怨憎会苦という「苦」につながっていくことは必定です。(夫婦であれば死別や生別、あるいは家庭内離婚ですね)

このことは、縁(関係性)の中に、もととも「苦」がセットされているということではないでしょうか。

では、「苦」とはなんでしょうか。

おそらく、「苦」とは、人間が変わってしまうということではないでしょうか。

つまり、人間は、時間の経過とともに変化してしまう存在ということになります。

従って、四苦八苦のうちでも生老病死が、人間のより根源的な「苦」になるのではないでしょうか。

そして、人間が変化するということになれば、当然その関係性も変化していくことになります。

つまり、四苦八苦は、人間とその関係性の変化を「苦」として捉える考え方でといえます。

さらに、「苦」の本質は、変化していくことを制御することができない、思うようにならない、人間の根源的な無力感にあるのではないでしょうか。

もちろん、出会いという縁(関係性)が、ある期間、人間に喜びや幸せをもたらすということはあります。

しかしながら、このような喜びも幸せもやがては変化し、同じであり続けることはできないということです。

これは、悲しみや不幸せというネガティブな感情についても同じことがいえます。

つまり、人間にとって望ましいことも、嫌悪することも、そのすべてが時間の経過(あるいはその空間の変化)と伴に変化していくのは、例外のない普遍的真理ということになります。

もし、永遠に不変なものがあると考えているとしたら、それは実体を見ているのではなく、実体のない幻想(観念)を見ているだけということです。

古来からの万物流転、諸行無常の世界観は、普遍的真理を語ったものといえそうです。

a0126310_22333676.jpg

そして、「会いたい」のストーリーには、私の、愛する人(他者)とのささやかな、日常(関係性)が、私の愛する人(他者)の突然の死によって、一方的に終結(変化)させられたことを不条理とする考え方がその根底になっているといえそうです。

つまり、私の日常(関係性)が、私の意思とは関係なく、他者の一方的な都合によって、変化してしまったことが「苦」なのではないでしょうか。

人間が生きている以上、縁(関係性)を避けて通ることができないことは必定といえます。

そして、いかなる出会いや縁(関係性)の中にも、愛別離苦や怨憎会苦という「苦」が必ずセットされているということでした。

このような人間の置かれたアンビバレントな状況が、仏教の教えから理解することができるのかもしれません。

では、人間にとって他者や縁(関係性)は必定でありながらも、その変化(苦)に対して無力でしかないのなら、人間は、ただ頭をたれて、なすすべもなく、流れに翻弄されるだけの存在ということになってしまいます。

確かに、達観としての諦めは必要と言えそうですが、それがために厭世観が強くなりすぎると、やがて人間は抑うつ状態に陥ってしまうことになります。

仏教の教えを大切にしながらも、目の前の日常を生きていくためには、もう一歩踏み込んだ生きるための知恵が必要になってくるのではないでしょうか。

つまり、人間がほんとうに必要としているのは、普遍的思想が語る真実を知ることだけではなく、むしろ厳しい真実の中を生きるためのスキル、つまり生きるためのワザを習得することではないでしょうか。

フォクシーのオーナー兼デザイナーである前田義子は、その著書「前田義子の強運に生きるワザ」のあとがきの中に、とても洞察に富んだ「生きるためのワザ」を紹介されています。

「去るものは追わず、来るものは選んで」

人間は、変化(苦)そのものを制御することができない存在でしたが、その原因となる他者や縁(関係性)については、主体的に選択するという生き方は残されているということです。

つまり、主体的に選択できた他者や縁(関係性)であるのなら、それにセットされた変化(苦)についても、折込み済みと自分を納得させ、合理化させることもできるはずです。

そして、将来予期しない変化(苦)が出現することになっても、その変化(苦)を受け止めるだけの覚悟と論理はすでに保持できているということになるわけです。

では、「会いたい」の作詞家である沢ちひろさんは、主人公の少女に、どのような癒しと生きるためのワザを伝授されたのでしょうか。

おそらく、主人公の少女が、恋人を失ったことによる「喪の仕事」を済ませることが、なによりも先決であると伝授されたのではないでしょうか。

「喪の仕事」とは、愛着した人の死を受け入れる(諦める)ことであって、その目的は他者性(もう愛着関係にないこと)の再認識にあるといえるのではないでしょうか。

他者性とは、この場合は死者との距離ということであり、この距離感覚の確保が、やがて癒しと立ち直りのプログラムを起動させることになるとされています。

そして、主人公が、厭世気分にも、臆病にもならないで、
(つまり、去るものは追わずという生きるためのワザ、執着しないことの実践ですね)

たとえ、新しい出会いに「苦」がセットされていると分かっていたとしても、
(つまり、普遍思想でもある万物流転(諸行無常)を、辛くとも受け入れるということですね)

自分の意志と勇気をもって、新たな出会いを自らが選択していくという生きるためのワザ、
(まさに、来るものは選んでという生きるための究極のワザ、主体的に生きることの実践ですね)

を、沢ちひろさんは少女に伝授しようとされたのかもしれませんね。

(おわり)

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

a0126310_23053160.jpg

[PR]
by kokokara-message | 2015-06-02 23:06 | 我流ポップス論(80')

a0126310_2126271.jpg

会いたいけれども、会うことができない。

一緒にいたいけれども、別れなければならない。

また逆に、会いたくないのに、会わなければならない。

これらは、人間のアンビバレンスな心理を表現したものといえます。

アンビバレンス(ambivalence)とは、ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すこと。「両価感情」や「両面価値」などと翻訳されることもあるが、そのまま「アンビバレンス」と表現するのが一般的。形容詞は「ambivalentアンビバレント」  (ウィキぺディアより)

どうも、人間の悲劇とは、このアンビバレンスな状況にあるのではないでしょうか。

仏教の教えには、四苦八苦があります。

四苦とは、生・老・病・死のことであり、これに、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく) 、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を合わせて八苦とされています。

そして、四苦八苦の「苦」のひとつに、愛別離苦があります。

愛別離苦の意味を素直に解釈すれば、一緒にいたいにもかかわらず、離別しなければならないことが、苦しい(辛い)ということになるのでしょうか。

これが、人間の「苦」であり、運命(さだめ)でもあると仏教では考えるようです。

そして、愛別離苦と相対するような「苦」には、怨憎会苦があります。

怨憎会苦とは、会いたくないにもかかわらず、会わねばならないことが、苦しい(辛い)ということになるのでしょうか。

これも、人間の「苦」であり、運命(さだめ)でもあると考えるわけです。

そして、愛別離苦にしても怨憎会苦にしても、「苦」の原因になっているものは、関係性、つまり縁ということになります。

縁(関係性)を結ぶということが、結果としてさまざまな苦の原因になってしまうということです。

少し言い方を変えるなら、縁(関係性)が、「苦」の始まりということになります。

たとえば、愛する人と出会えた縁(関係性)は、確かに喜びや幸せと感じることは自然なことといえます。

そして、このような日が1日も永く続くことを願い、努力することは、人間の素晴らしい営みではないでしょうか。

しかしながら、その出会いという縁(関係性)も、やがては愛別離苦や怨憎会苦という「苦」につながっていくことは必定です。(夫婦であれば死別や生別、あるいは家庭内離婚ですね)

このことは、縁(関係性)の中に、もととも「苦」がセットされているということではないでしょうか。

では、「苦」とはなんでしょうか。

おそらく、「苦」とは、人間が変わってしまうということではないでしょうか。

つまり、人間は、時間の経過とともに変化してしまう存在ということになります。

従って、四苦八苦のうちでも生老病死が、人間のより根源的な「苦」になるのではないでしょうか。

そして、人間が変化するということになれば、当然その関係性も変化していくことになります。

つまり、四苦八苦は、人間とその関係性の変化を「苦」として捉える考え方でといえます。

さらに、「苦」の本質は、変化していくことを制御することができない、思うようにならない、人間の根源的な無力感にあるのではないでしょうか。

もちろん、出会いという縁(関係性)が、ある期間、人間に喜びや幸せをもたらすということはあります。

しかしながら、このような喜びも幸せもやがては変化し、同じであり続けることはできないということです。

これは、悲しみや不幸せというネガティブな感情についても同じことがいえます。

つまり、人間にとって望ましいことも、嫌悪することも、そのすべてが時間の経過(あるいはその空間の変化)と伴に変化していくのは、例外のない普遍的真理ということになります。

もし、永遠に不変なものがあると考えているとしたら、それは実体を見ているのではなく、実体のない幻想(観念)を見ているだけといことです。

万物流転、諸行無常の世界観は、普遍的真理を語ったものといえそうです。

「会いたい」のストーリーには、私の、愛する人(他者)とのささやかな、日常(関係性)が、私の愛する人(他者)の突然の死によって、一方的に終結(変化)させられたことが不条理とする考え方がその根底にあるといえそうです。

つまり、私の日常(関係性)が、私の意思とは関係なく、他者の一方的な都合によって、変化してしまったことが「苦」なのではないでしょうか。

人間が生きている以上、縁(関係性)を避けて通ることができないことは必定です。

そして、どのような縁(関係性)にも愛別離苦や怨憎会苦という「苦」が、必ずセットされているということでした。

仏教の教えからは、このような人間の置かれたアンビバレントな状況が理解できるのかもしれません。

では、人間にとっての他者や縁(関係性)は必定でありながらも、その変化(苦)に対しては無力でしかないのなら、人間は、ただ頭をたれて、なすすべもなく、流れに翻弄されているだけの存在ということになってしまいます。

確かに、達観には諦めが必要と言えそうですが、そのため厭世観が強くなりすぎると、やがて人間は抑うつ状態に陥ってしまうことになります。

仏教の教えを大切にしながらも、実際に生きていくためには、もう一歩踏み込んだ生きるための知恵が必要になってくるのではないでしょうか。

つまり、人間がほんとうに必要としているものは、普遍的思想が語る真実を知ることだけではなく、むしろ厳しい真実の中を生きるためのスキル、つまり生きるためのワザを習得することになるのではないでしょうか。

フォクシーのオーナー兼デザイナーである前田義子は、その著書「前田義子の強運に生きるワザ」のあとがきの中で、とても洞察に富んだ「生きるためのワザ」を紹介されています。

「去るものは追わず、来るものは選んで」

人間は、変化(苦)そのものを制御することができない存在ですが、その原因となる他者や縁(関係性)については、主体的に選択するという生き方は残されているということです。

つまり、主体的に選択できた他者や縁(関係性)であるのなら、それにセットされた変化(苦)についても、折込み済みと自分を納得させ、合理化させることもできるはずです。

そして、将来予期しない変化(苦)が出現することになっても、その変化(苦)を受け止めるだけの覚悟と論理はすでに保持できているということになるわけです。

では、「会いたい」の作詞家である沢ちひろさんは、主人公の少女に、どのような癒しと生きるためのワザを伝授されたのでしょうか。

おそらく、主人公の少女が、恋人を失ったことによる「喪の仕事」を済ませることが、なによりも先決と伝授されたのではないでしょうか。

「喪の仕事」とは、愛着した人の死を受け入れる(諦める)ことであり、その目的は他者性(もう愛着関係にないこと)の再認識にあるといえるのではないでしょうか。

他者性とは、この場合には死者との距離ということになり、この距離感覚が、やがて癒しと立ち直りのプログラムを起動させることになるとされているようです。

そして、主人公が、厭世気分にも、臆病にもならないで、
(つまり、去るものは追わずという生きるためのワザ、執着しないことの実践ですね)

たとえ、新しい出会いに「苦」がセットされていると分かっていたとしても、
(つまり、普遍思想でもある万物流転(諸行無常)を、辛くとも受け入れるということですね)

自分の意志と勇気をもって、新たな出会いを自らが選択していくという生きるワザ、
(まさに、来るものは選んでという生きるための究極のワザ、主体的に生きることの実践ですね)

を、沢ちひろさんは少女に伝授しようとされたのかもしれませんね。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村


[PR]
by kokokara-message | 2011-01-09 00:08 | 我流ポップス論(80')

沢田知可子さんは「会いたい」を、「永遠の詩 one by one」(2005)、「花心」(2007)でも、アレンジを変えて歌われています。

いずれも素晴らしいのですが、私は若く澄んだ声で歌い上げている、「I miss you」(1990)の「会いたい」が気に入っています。



沢田知可子さんの「会いたい」は、1990年6月27日に発売された曲です。

もともと「I miss you」というタイトルのアルバムに入っていた曲が、深夜番組のエンディングのテーマ曲として採用されて話題となり、その年から翌年にかけてのロングヒットになりました。

そして、沢田知可子さんは、翌年(1991年)には全国有線放送大賞のグランプリを受賞し、また同年の紅白歌合戦にも出場されています。

「会いたい」の作詞は沢ちひろさん、作曲は財津和夫さんです。

作曲家の財津和夫さんは、いわずと知れたヒットメーカーであり、ポップス界の大御所的存在でもあります。

一方、作詞家の沢ちひろさんはというと、残念ながらあまり多くの情報はないようです。

そして、沢ちひろさんは、「会いたい」以外にも、沢田知可子さんのアルバムに作詞を提供をされていますが、それ以外のことは、あまり知られていないようです。(もちろん、私が知らないだけかもしれませんが)

また、初めて沢ちひろさんから「会いたい」の歌詞を渡された沢田知可子さんが、偶然にもこの歌詞と同じような内容の経験をかってしたことがあることに気づき、大変驚いたという話をテレビでされています。

これはオカルト的なように聞こえますが、共時性(シンクロニシティ)と呼ばれる現象で、「意味のある偶然の一致」と呼ばれるものです。

作詞家の沢ちひろさんにまつわる謎の多いことや沢田知可子さんが語る共時性(シンクロニシティ)のオカルト的な要素も重なり、この「会いたい」という曲は、さらに謎めいたものになっているように思われます。

そして、沢田知可子さんの高く澄んだ声とその歌唱力は、「会いたい」をただ悲しいだけの曲で終わらせるのではなく、愛おしさもあわせ持つキュートな名曲へと昇華させているのではないでしょうか。

2001年には、「会いたい」がインターネット投票で、「21世紀に残したい泣ける名曲」の1位に選ばれています。

このことからも分かるように、「会いたい」という曲の素晴らしさは、私だけが感じている特別な価値なのではなく、多くの人が同じように感じている普遍的価値ということになりそうです。

先ほど、「会いたい」という曲は、斬新な独自性と既視感のような一般性が入れ子状態になっいると説明しました。

では、「会いたい」が持つ独自性と一般性では、どちらがその主軸になっているといえるのでしょうか。

私は、やはり一般性の方ではないかと思います。

そもそも、独自性(特殊性)があまり強いと、多くの人から受け入れられることはないと思われます。

一般的であるからこそ、多くの人に受け入れられ、21世紀に残したい名曲として選定されることになるわけです。

「会いたい」のメッセージは、「I miss you」です。

そして、「I miss you」というメッセージが、一般的であるということになります。

少し言い方を変えると、恋人を失うという経験は、決して珍しい出来事ではなく、誰もが一度は経験する、ごく一般的な出来事ということです。

もちろん、これは実体験だけを指すのではなく、映画や文学におけるイマジネーションの世界も含めてのことです。

そして、「I miss you」、つまり愛する人を失うことがテーマになるのは、日本だけのことではありません。

世界の映画や文学作品においても、普遍的なテーマとして扱われています。

では、「I miss you」を一般化した表現にすれば、どのようなものになるのでしょうか。

おそらく、人間関係(関係性)の構築とその喪失(破綻)になるのではないでしょうか。

たとえば、韓流のブームのさきがけとなった「冬のソナタ」は、まさに「I miss you」、つまり人間関係の構築(地道な積み重ね)とその喪失(一瞬の破綻)をテーマとした作品といえそうです。

誰もが知っているけれども、実際にその経験を一般化するとなれば、長く孤独な時間と忘却の痛みが伴うのが「I miss you」ではないでしょうか。

つまり、「I miss you」とは、誰もが経験する「失恋」のことです。

では、なぜ、誰もが経験するはずの「失恋」が、人間にとって重要かつ普遍的なテーマとして、世界中の映画や文学作品で繰り返し取り上げられることになるのでしょうか。

「失恋」とは、愛する人を失うことです。

おそらく、愛する人を失うということ、つまり関係性の構築(積み重ね)とその喪失(破綻)という経験の意味を突き詰めていけば、やがて他者の死、そして自分の死という人間が避けて通ることのできない有限性の問題へと行き当たることになるからではないでしょうか。

少し飛躍があるので、分かりにくいかもしれません。

今一度「会いたい」の歌詞に戻りたいと思います。

波打ち際 すすんでは 
不意にあきらめて戻る
海辺をただ独り
怒りたいのか 泣きたいのか
わからずに 歩いてる


上記の「会いたい」の歌詞を私なりに分析すると、自分を海や映画に連れて行ってくれる恋人との経験が不在になってしまったこと。

そして、愛すべき人の死によって自分にとっての唯一無二性が不在(不安定)になってしまっているということ。

この二つのことが重なり合って、主人公の喪失体験が形成されているといえるのではないでしょうか。

つまり、自分を残して死んでしまった理不尽ともいえる恋人へのやり場のない怒りともいえる気持ちとその恋人が死んでしまった事実をいまだ受け入れることができない戸惑いと畏れの気持ち。

これらの感受性が振り子のように揺れ動く様を、主人公の心象風景として表現したのが、この「会いたい」という曲ではないでしょうか。

そして、なによりも沢ちひろさんの「会いたい」の歌詞には、このような喪失体験に対して人間が抱く両義的ともいえる多感な感受性がきめ細やかに描写されていることです。

このような多感な感受性を繊細に表現することで、人間が潜在的に抱いている死(有限性)への畏れや苦悩というものを暗喩(メタファー)することになっているのかもしれません。

つまり、もともと死(有限性)とは、日常生活の背景にあって非日常(無意識)の領域の中に隠されているものということができそうです。

しかしながら、暗喩(メタファー)された喪失体験(失恋)に触れることにより、他者の死、そして自分の死という無意識の領域にあったものが、やがて前景化してくることになるのではないでしょうか。

そして、前景化(意識化)した他人の死、自分の死が意味するものは、自分の時間と空間の「有限性」に他ならないと思われます。

つまり、自分ができる経験や出会える人というのは、所詮限られているという「諦念」でもあるということです。

少し言い方を変えれば、人間には観念としての無限は存在しても、事実として無限はありえないという至極当たり前なことは覚悟しておく必要があるということです。

だからこそ、今在ることのかけがえのなさ(唯一無二性)に気づいておく必要があるのであり、この唯一無二性こそが人を成熟させる、つまりは節度のある有限な生き方を実践させることにつながるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2010-11-23 22:18 | 我流ポップス論(80')

本日もホノルル・シティ・ライツの紹介です。
12月初旬からの約1ヶ月間、ホノルル・シティ・ホール(ホノルル市役所)周辺をクリスマス・イルミネーションが飾ります。
a0126310_21333465.jpg

「会いたい」

作詞;沢ちひろ 
作曲;財津和夫 
編曲;芳野藤丸 
歌 ;沢田 知可子

ビルが見える教室で 
ふたりは机 並べて
同じ月日を過ごした
すこしの英語と
バスケット そして
私はあなたと恋を覚えた

卒業しても私を
子供扱いしたよね
「遠くへ行くなよ」と
半分笑って 半分 真顔で
抱き寄せた

低い雲を広げた 冬の夜
あなた 夢のように 
死んでしまったの

今年も海へ行くって 
いっぱい映画も観るって
約束したじゃない 
あなた 約束したじゃない
会いたい・・・

 
波打ち際 すすんでは 
不意にあきらめて戻る
海辺をただ独り
怒りたいのか 泣きたいのか
わからずに 歩いてる

声をかける人を つい見つめる
彼があなただったら
あなただったなら

強がる肩をつかんで
バカだなって叱って
優しくKISSをして 
嘘だよって 抱きしめていて
会いたい・・・

遠くへ行くなっと言って 
お願い一人にしないで
強く 抱き締めて
私のそばで生きていて

今年も海へ行くって 
いっぱい映画も見るって
約束したじゃない 
あなた 約束したじゃない
会いたい・・・


a0126310_2354045.jpg
自分の過去を振り返ると、数年の間記憶が飛んでしまっている時期があるようです。

私にとっては、1990年前後が、自分の記憶からどうも飛んでしまっているように思われます。

もちろん、すべての記憶が喪失状態になっているわけではなく、当時の事件や流行などの断片的な情報が飛んでしまっているということです。

もともと、当時からそれらの情報にアクセスしていなかったということも考えられます。

しかしながら、今振り返れると1990年前後は、仕事だけではなく、仕事以外においても大変忙しい時期であったため、多くの情報が私の記憶のネットからもれてしまっていたのかもしれません。

当時は、まだインターネットが普及していなかったことから、ニュースソースは新聞やテレビという従来型のメディアでした。

いずれのメディアでも、現在のiPhoneを使用するようには簡単に情報収集をすることはできません。

おそらく、当時の新聞やテレビにじっくりとアクセスできなかったことが、私の多くの記憶が飛んでしまっている原因といえるのではないでしょうか。

原因の究明はこれくらいにして、確かに不思議な気はしますが、人生の内で記憶が喪失している時期があったことは紛れもない事実のようです。

そして、ちょうどこの時期(90年頃)に流行していた曲が、沢田知可子さんの「会いたい」でした。

繰り返しになりますが、当時の記憶が飛んでしまっているため、この曲が巷に流れていたことも、マスコミで話題になっていたことも、沢田知可子さんのことも、私の記憶にはまったく残っておりません。

私が「会いたい」という曲が存在していることを知ったのは、つい最近のことです。

つまり、私は「会いたい」がリリースされてから20年近く経過して、やっとこの曲を聴くことになったというわけです。

そして、「会いたい」を初めて聴いた時のインパクトは、大変衝撃的なものでした。

それは、歌詞の内容が、いままでにない新鮮な感受性と、これとは矛盾する、昔観た映画のワンシーンを思い出させるような懐かしさ(既視感)を、同時に想起させるものでした。

斬新なまでの感受性(特殊性)と懐かしいまでの既視感(一般性)が、入れ子状態になった感動といえます。

例えば1990年以降に生まれた人なら、最近になってからこの曲を初めて聴いたという人もいるのかもしれません。

では、この曲を初めて聴いた人が、私と同じような新鮮さ(特殊性)と既視感(一般性)を同時に覚えるということはあるのでしょうか。

もちろん、90年前後のバブルの時代を経験した人とそれを知らない人では、この曲から受ける印象が違うのは当然のことです。

また、歌謡曲のみならず、映画などのポップカルチャーが、それらの創られた時代を反映していることは自然なことといえます。

もちろん、沢田知可子さんの「会いたい」も、このような時代という文脈の中で創作されたポップカルチャーのひとつということになります。

しかしながら、この「会いたい」という曲には、他の曲に見られない、時代の経過や変化を感じさせることのない、どこか普遍的ともいえるような感覚が備わっている気がしてなりません。

ここでいう普遍的な感覚とは、時代や場所を超えて、誰もが同じように共感できる感覚ということです。

ここでは、沢ちひろさんの歌詞がその感覚を表現しているのではないでしょうか。

つまり、誰もがどこかで知っているけれども、いまだ誰も言語化することができなかった感覚を、作詞という手法によって普遍的に表現したのがこの「会いたい」という曲ではないでしょうか。

沢ちひろさんの「会いたい」の歌詞には、かような普遍性が含まれているということです。

茂木健一郎氏によれば、創造性とは思い出すことと似ている、ということになるようです。

つまり、この「会いたい」という曲は、誰もがどこかで知っているけれども、言葉にできなかった女性のせつなさや心細さ、そして繊細さを、波打ち際の女性のしぐさや女性の両義的な感受性によって言語化することで、見事なまでに表現しているといえるのではないでしょうか。

おそらく、私たちがどこかに置き忘れて来た感覚を思い出させてくれるものが、この「会いたい」という曲であり、この新鮮さと懐かしさが入り混じった感受性を多くの人が受け取って、普遍性へとつながる感動と共感を享受することになるのではないでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2010-11-14 10:02 | 我流ポップス論(80')

想い出がいっぱい(5)

a0126310_20544894.jpg

おとなの階段上る 君はまだシンデレラさ
幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてるね
少女だったと いつの日か 思う時がくるのさ
少女だったと 懐かしく 振り向く日があるのさ

H2Oの「想い出がいっぱい」(作詞 阿木燿子)より抜粋


これは、「想い出がいっぱい」の歌詞のラスト部分をあらためて抜粋したものです。

幸せは、自分の努力だけで得ることができないことはいうまでもありません。

幸せには、自分が置かれている社会的文脈や運というものが、大きく影響してくることになります。

また、幸せは、外部の誰かが運んできたものを、ただ受け取ることではありません。

つまり、幸せとは、自分だけで創るものでもなく、人から与えられるだけのものでもないとすれば、自分と外部にいる誰かが、一緒に創り上げていくものといえるのかもしれません。

では、かような幸せを得るためには、どうすればいいのでしょうか。

子どもは、時間と空間が無限にあるということでした。

このため、あらゆる選択をネクスト・ワンとして先送りすることも、論理的には可能ということになります。

つまり、いくらでもやり直しがきく代替可能性ということであり、場合によっては、誰かが代わりやってくれるものということにもなります。

すべての選択が、一期一会である必要がないということになり、従って、いまここにいる自分も唯一無二である必要がないということになります。

これに対して、大人は時間と空間が有限であるということでした。

このため、眼前に発生している現象と誠実に向き合うという唯一無二性が、自分の有限性の枠組みを守る、つまり自分の足場を固めるために必要なスタンスになるということです。

つまり、大人にとっての選択は、目の前の現象が消えてなくなるか、変貌してしまわない限り、それらの現象と相対(あいたい)することが前提となるわけです。

従って、大人は眼前の現象から逃げ出すことができず、いかに距離をとって向き合うかということが大事となり、この距離感こそが自分の有限性を守るための要諦になるということです。

一期一会は、茶の湯において大切にされる言葉のひとつといえます。

また、現代日本のホスピタリティを代表する言葉のひとつでもあります。

但し、いくら一期一会が大切といっても、あくまでもその場の(偶然や必然の)出会いの唯一無二性を大切にするということであって、その出会いが自分の有限性である時間や空間に危害を及ぼすことになるまで、関わりを求められるものではないということです。

例えば、悪質なクレーマーがいたとします。

このようなクレーマーとの出会いを一期一会として有難く思っているようでは、そもそも自分の有限性である時間と空間を守ることはできず、危機にさらしてしまうことになってしまいます。

自分の有限性を危険にさらすようなオープンマインドは、ニーチェの言うルサンチマンということになり、まさに本末転倒ということになってしまうのではないでしょうか。

※ルサンチマン [ ressentiment]
〔哲〕 ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨。大辞林 第二版 (三省堂)より


どうしても対応しなければならない理由があるとすれば、時間と空間を限定したうえで、しかも限定された役割の範囲で実践するのが得策(せいぜい)といえそうです。

たとえば、仕事と割り切ったうえでの専門家によるカウンセリングや営利目的と割り切ったうえでの豊富な専門知識を持ったプロパーによる接遇などがそれにあたるといえるのかもしれません。

あくまでも、自分の幸せを得るためには、自分の時間と空間の有限性を、自分自身で守らなければならないということになるということです。

もう一度、言っておきます。

仕事のことであれ、家族のことであれ、趣味のことであれ、自分の時間と空間が有限であると自覚できている人が、大人と呼ばれるということです。

自分の時間や空間、それを支えることになる体力や気力までも含めて無限であると信じている人は、子どもということになってしまいます。

従って、自分の時間と空間の有限性を知った人は、幸せを見つけるための自分探しに出かけるような無謀な振る舞いはしません。

幸せは、自分の身近な日常の中でしか見つけることができないことを知っているからです。

つまり、自分が限定的(有限)な存在であるなら、論理的にはそのようになるはずです。

従って、自分の周りを見回す程度の努力はしても、わざわざ遠くまで出かけて行くまではしないということになります。

幸せとは、自分が見落してしまっている身近な生活の中に潜んでいるものであり、それに気付くことが大人としての責任であり、大人の条件といえるのではないでしょうか。

最後になりましたが、自分の時間と空間の有限性を突き詰めて行けば、やがて自分の死に至ることを述べてきました。

そして、自分の死を受け入れることができた人が、大人(幸せ)の階段を登りはじめることができるということも述べてきました。

このことからすると、自分の死(有限性)について受け入れることができたとき、はじめて自分の幸せとは何かという答えも得られるような仕組みになっているのではないでしょうか。

では、自分の幸せとはいったい何なのでしょう。

おそらく、自分の死を受け入れることによって、はじめて、人は生かされていることの意味を知り、生かされることに大いなる感動を覚えることになるのではないでしょうか。

これは他力と呼ばれる思想です。

そして、このような他力を受け皿にすることでようやく生まれて来るものが、自ら生きはじめるという自力ということではないでしょうか。

つまり、他力の掌(たなごころ)に乗っている小さな自分という存在が自力であるとするなら、他力とは自分の有限性(自力)を自覚せざるを得ない無限性や永遠性ということになるといえるのかもしれません。

このような無限性や永遠性に抱かれつつ、いまここに自分の足で歩き始めること(自力)ができた有難さこそが、自分が生まれ変わった象徴であり、大人になることができた驚嘆といえるのではないでしょうか。

ただ生きるのではなく、自ら生きはじめるということが、祝福すべき第二のバースディ(誕生日)というになるわけです。

かように生きはじめた自分自身も、やがて年老いて死を迎えることになる必然は、有限性から永遠性へと回帰していく大きな物語を信じさせてくれるものであると思われます。

私は、この大きな物語に深く安寧(幸せ)を覚えることになるのですが、さて皆様はいかがお考えになるのでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2010-11-06 21:17 | 我流ポップス論(80')

想い出がいっぱい(4)

a0126310_7594343.jpg

日本人の死生観には、仏教の輪廻転生があると思われているところがあるようです。

しかしながら、現代の日本人が強いリアリティを持って輪廻転生を信じるということは、もはや少数となっているのではないでしょうか。

ただ、自分の人生の(80年程度しかない)期間の有限性については、生きてるうちに楽しむという志向を見れば、比較的多く受け入れられているといえるのかもしれません。

つまり、死後の世界観についてのリアリティはなくても、現世における余命を計算をしながら貪欲に生きることについてのリアリティはあるということになります。

もちろん、計算上の余命が短くなれば、自分ができることは限られてくることになります。

従って、できる時にやれることはやっておくという生き方は、人生を逆算した積極的な生き方として受け取られることになるのかもしれません。

しかしながら、与えられていた現実を精一杯生きるという姿勢は、自分の唯一無二性がやがて失われてしまうことへの焦燥感(あせり)やいとおしみという感情から説明ができるものではないでしょうか。

つまり、眼前の現実を精一杯生きることは、前向きな積極性という単純な動機からではなく、むしろ無常感がもたらす感情(いとかなし)から理解する方がより根源に近づくことになるのかもしれません。

唯一無二性は、茶の湯における一期一会と近い感覚にあるもののように思われます。

幕末の大老井伊直弼は、その著書「茶湯一会集」の冒頭で、茶の湯における大切な言葉として一期一会を選んでいます。

「茶湯一会集」によれば、一期一会は「本日の出会いは、再び同じ出会いではないと考え、主人は全てのことに気を配り、客も亭主の趣向を何一つおろそかにせず、心に留めて、双方が誠意をもって交わるべきである」というものです。

そして、「茶湯一会集」の完成は安政5年(1858)とされており、同年は、井伊直弼が大老に就任するとともに、孝明天皇の勅許が得られないまま日米修好通商条約を強行調印した年でもありました。

まもなく、大老井伊直弼は、条約反対派を封じ込めるために、多くの公家や大名、藩士らを処罰することになります。

安政の大獄と呼ばれる事件ですが、安政の時代は、思想的には開国よりもむしろ尊王攘夷の嵐が強く吹き荒れていたということができそうです。

また、国家存亡の危機にあったとはいえ、政府(幕府)の事実上の最高責任者(大老)が、律令制度の頂点にある天皇の勅許(許し)を得ぬままに、外国との条約を締結することは、おそらく法制上、明白な服務違反になるのではないでしょうか。

つまり、条約の調印という時代背景からの突出と天皇を頂点とする律令制度からの逸脱は、大老井伊直弼が自らの死を覚悟することなしには決することができない、高度な政治判断といえるものではなかったのでしょうか。

その2年後の万延元年(1860)には、大老井伊直弼は桜田門外で急襲され、その生涯を閉じることになります。

享年、44歳という若さでした。

大老井伊直弼に限らず、人が自分の唯一無二性(天命)について、考え始めることになるのは、おそらく年齢の老若とは関係なく、自らが投げ出された社会的文脈から、自らの死を覚悟しなければならなくなった時ではないかと考えるのですが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。

ところで、孔子の論語によれば、50歳で天命を知り、60歳で耳順するということになるようです。

耳順とは、その字の通り、我を張らずに、人の話に素直に耳を傾けることができるようになることです。

順番からすると、自分の唯一無二性(天命)を知ったうえで、やっと人の話に耳を傾けること(耳順)ができるようになるということのようです。

しかしながら、現代社会では、自分の唯一無二性(天命)を知ることがないまま、従って耳順することもないままに、老いていく人が多いように思われます。

このことは、自分の有限性(無常感)に気づかなくても、永遠の命と変化のない同質性を信じるだけで、生きることができるということではないでしょうか。

このことからすると、現代人には、もはや唯一無二性(天命)は必要ではないということになっていまうのかもしれません。

そして、現代人が、自らの役割でもある唯一無視性(天命)をなくしてしまったのは、自らの死に対するリアリティを抱くというチャンスを失ってしまったからではないでしょうか。

以上のことをまとめると、人の死そのものが社会の背景に押しやられてしまった結果、他人の死のみならず自分の死についても自覚するというチャンスがなくなってしまい、このため、自らの有限性(無常感)に気づくどころか、永遠の命と若さという幻想の中で生きることとなってしまい、自らの唯一無二性(天命)さえも手放すことになったというのが、現代人の自然(死生観)ということになるのではないでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2010-10-02 21:43 | 我流ポップス論(80')

想い出がいっぱい(3)

本日(9月4日)、エキサイトブログ・ユニークユーザー数が、10,000人を超えました。
2009年6月12日にブログを開設以来15ケ月間かかっての快挙となります。
次は、20,000人を目指して「心と体の癒しのメッセージ」を送ります。
今後ともよろしくお願いします。



別な言い方をするとすれば、人は、自分の死をリアルに意識できたときから、大人になることができるということになると思われます。

子どもが、自分が無限であると信じることができるのは、狭く閉ざされた世界しか経験していないからです。

大人が、自分が有限であると思い知らされるのは、長く、広範で多様な人生を経験してきたからです。

子どもの世界観と大人の世界観では、有限と無限のあり方が正反対になっているといえるのかもしれません。

そして、有限と無限の認識を分ける一番の要因は、自分の死をどのくらいリアルに意識できているかということになるのではないでしょうか。

ところで、最近とくに気になるのですが、年齢とは関係なく、自分の時間と空間の無限性を信じている人が多いことには驚かされます。

耳順(60歳)の年になっても、いまだ時間と空間が無限であると信じることができるのは、世の中がそれほど不老不死のパラダイスに見えているということなのでしょうか。

もちろん元気なことはよいことですが、自分の天命(50歳)を知ったうえでの行動であるとも思えないことが多いようにも思われます。

天命(50歳)と耳順(60歳)は、ともに孔子の論語の中に出てくる言葉です。

天命について、私なりに解釈すると、自分の時間と空間の有限性、つまり自分の死をリアルに自覚できたとき、自分と自分の生きられる現実という唯一無二性にやっと気が付くようになると思われます。

唯一無二性とは、永遠に確証が得られない焦燥感や取り戻すことが出来ない喪失感ともつながったコンセントレーション(集中力)のようにも思われます。

マックス・ウェィバーの「プロテスタンチィズムの倫理と資本主義の精神」によると、予定調和説によって救済されるかどうか分からないという焦燥感が、人を倫理的にさせ、勤勉にさせたということになっています。

もちろんプロテスタントではない日本人が、予定調和説がもたらす焦燥感をほんとうのところ理解できないということは当然のことと思われます。

従って、日本人にとっての唯一無二性とは、自分の死という決定的な喪失感を自覚することによってしか、高めることができないコンセントレーション(集中力)ということになるのかもしれません。

日本人は、他の国家と比べると人の成熟度が低く、幼児的万能感が強い大人(アダルト・チルドレン)が多いとされているように思われます。

この背景には、共同体における文化的、宗教的な意味での大人への通過儀礼が欠落してしまっていることが原因になっているのではないでしょうか。

卑近な例になりますが、女子フィギアスケートのキム・ヨナと浅田真央では、技術的な差異というよりも、むしろ成熟度の差異が大きく影響したようにも思われます。

おそらく、これは人の成熟度を評価する文化圏(父性社会)にいるのか、それとも人の成熟を共同性からの離脱とみなす文化圏(母性社会)にいるのか、という決定的な差異から発生した行動様式(エトス)であるように思うのですが、さていかがでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2010-09-04 06:54 | 我流ポップス論(80')

想い出がいっぱい(2)

時は無限のつながりで
終わりを 思いもしないね
手に届く宇宙は 限りなく澄んで
君を包んでいた

H2Oの「想い出がいっぱい」(作詞 阿木耀子)より抜粋
a0126310_2140415.jpg

自分の子ども頃を振り返って思うのですが、子どもは自分の時間と自分の空間が無限に続いていると信じていたのではないでしょうか。

もちろん、漠然とした感覚でしかないのですが、有限か無限かということであれば、おそらく時間と空間の無限性を信じていたように思われます。

また、親や友達との関係性についても、どこかで永遠に続くものと信じていたのではないでしょうか。

おそらく、子どもにとっての自分の時間と自分の空間、そして自分の関係性が無限に続くということは、自分の可能性が無限に広がっていることと同じ意味で信じることができたのかもしれません。

そして、このような無限を信じている子どもの実際の世界はというと、いまだ短いものでしかなく、また狭いものでしかないということになります。

つまり、無限を信じている子どもが、いまだ限定された短く、狭い世界しか経験していないということは、子どもの観念と子どもの現実とは正反対の矛盾した関係にあるということになります。

もちろん、子どもはこのような矛盾を抱えていることには気づいていません。

子どもがこの矛盾に気づくためには、この後永い時間をかけて、広く多様な空間を経験しなければならないことになります。

では、人が永い時間をかけて、広く多様な空間を経験することで、どのような感覚や感情がもたらされることになるのでしょうか。

おそらく、人は自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになると思われます。

そして、自分の時間と自分の空間の有限性を知るということは、自分の「死」を意識するということでもあります。

人は観念の「死」ではなく、自分自身の「死」を意識することによって、はじめて自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになると思われます。

つまり、虚しくも避けがたい「死」という存在に、向き合わなければならないということです。

また、確実に迫り来る、逃れがたい「死」のリアリティは、人を驚愕させるだけではなく、絶望の淵に追いやることになってしまうのかもしれません。

しかしながら、人はこのような驚愕と絶望を経験することで、はじめて自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになると思われます。

また、時間と空間の有限性がもたらす焦燥感(あせり)は、眼前の現実に唯一無二性を見出させることになるのかもしれません。

唯一無二性とは、同じ現象とは二度と出会うことができないという、考えてみれば当たり前の現実を再認識するだけのことです。

唯一無二であるからこそ、それを失なう喪失感が強くなり、大切にしたいと思う気持ちが、執着や焦燥(あせり)となり、一時的には人の生産性を向上させることになるかもしれません。

しかしながら、消え行く定めは逃れがたく無常感となって、やがて人に有限性(できることしかできない)をもたらすことになります。

古語でいうところの「いとかなし」という表現がこれに近い感覚であるのかもしれません。

このような諸行無常(万物流転)の感覚を習得し、やがて子どもは、大人と呼ばれるようになっていくのではないでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

blogram投票ボタン
[PR]
by kokokara-message | 2010-08-07 21:41 | 我流ポップス論(80')