西洋石楠花です。今年は大輪の花をつけてくれました。
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わかり辛いと思われますので、少し説明を加えることにします。

カント倫理学には、「仮言命題」に対して「定言命題」と呼ばれるものがあります。

「仮言命題」とは、「幸福になりたいならば、嘘をつくな」というような、目的と手段の形式をとるものを指します。

しかしながら、「仮言命題」の目的と手段の関係に必然性が見られないということがあります。

このような場合には、「幸福になるためには、嘘をつく」という不道徳が成立するということにもなってしまいます。

これに対して、「定言命題」とは、経験的な目的(幸福)や感性的欲求の対象(保身)とは無関係に、端的に「・・・すべし」と命ずる無条件の絶対的命令法を指します。

カントによれば、各人の目的や欲求によって異なる主観的な行為(幸福や保身など)の規則は、「普遍的妥当性」を持たないことになるため、真の道徳律は経験や感性ではなく、「意思」そのものに関わらざるを得ないということになります。

(少し難しい内容ですけど、ゆっくりと読んでください。おそらく納得できますから)

つまり、「あなたの意思の格率(行為の基準)が、常に同時に普遍的な立法(ルール)の原理として妥当しうるように行為せよ」とする態度こそが、道徳の最高原則になります。

岩井克人氏によれば、カントのいうこのような「・・・すべし」という「定言命題」に対応するものが、資本主義の倫理の根拠になるということです。

少し言い方を変えるなら、普遍的妥当性を持った意思(=普遍的なルールとなることを自分自身が願う行動規準)に基づいてのみ行動せよという態度が、「資本主義の倫理」ということになります。

そして、このように普遍化された「資本主義の倫理」の根拠は、普遍的なルールとなることを願う「意思」のみによって支えられることから、自己循環論法ということになってしまうわけです。

普遍と特殊(貨幣論では貨幣と商品です)、あるいは基軸通貨と非基軸通貨といった非対称的な関係の中で、私たちは、普遍と特殊を同時に生きざる得をない現実の中に投げ出されているといえます。

日本は非西欧圏の中で最初に近代化したことによって、このような普遍と特殊という非対称的な構造を世界で最初に経験することになった国であったわけです。

そして、グローバル化によって、アメリカ以外の国に住むすべての人が、この非対称的な構造の中に投げ込まれてしまいました。

言語的にも、政治的にも、貨幣的にも、基軸の位置を占めているアメリカ以外の国の人間、そしてアメリカでもきちんとモノを考えている人間は、現在のこの非対称的な構造を経験しつつあるといえます。

おそらく、日本人は、西洋と東洋を超えるような普遍性を見出すのを諦めることが必要になってくるのかもしれません。

そして、日本人は西洋と東洋を超える普遍性を諦めることで、普遍と特殊、基軸と非基軸のような「非対称的な構造」という、より大きな普遍性を見出すことになるのではないでしょうか。

《終わり》

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by kokokara-message | 2010-05-10 21:51 | 読書(資本主義の不都合な真実)

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では、主体だけで評価することがダメで、他者からの評価だけを受け入れていればいいのかということになります。

もちろん、主体だけで評価することはダメであり、他者からの評価を受け入れて他者からの批評を許すという態度は常に必要となります。

このことを、資本主義の論理で言い換えると、つくったモノやサービスは売れなければダメということになります。

ただ、ここでさらに重要なことは、同時に売れたからといって、それだけでは何も証明したことにはならないということです。

つまり、売れなければならないのですが、売れたからといって、そのことだけでは資本主義の根拠(評価の基準)にはならないということです。

これが、資本主義のアポリアということになります。

従って、資本主義の根拠(評価の基準)は、主体でもないし、他者でもない、市場価値でもないし、労働価値でもない、ということになります。

このため、資本主義の根拠(評価の基準)は、自分自身で設定しなければならないということになりますが、同時にそれは普遍性を持たなければならないということにもなります。

岩井克人氏によると、これらを満たすものが「倫理」ということになります。

なぜなら、「倫理」とは、基本的にはカントの言う「定言命題」に対応するものであるからということになります。

そして、カントの言う「定言命題」とは、「それが普遍的な法となることを、自分自身が願う行動規準にのみ基づいて行動せよ」というものです。

つまり、自分の意思で以って、端的に「・・・すべし」と命ずるような無条件の絶対的命令法が「定言命題」であって、これに対応するものが資本主義の「倫理」になるということです。

自分の意思で自分を支え、誰もが共有できる足場をつくっていくということなのでしょうか。

矩を超えてしまわないような自己コントロールができる自己意識を持つことなのでしょうか。

あるいは、自分の髪を自分でつかんで中空に吊り上げるようなアクロバシカルな芸当ということになってしまうのでしょうか。

いずれにせよ、カントの言う「定言命題」は、普遍化されうる自己循環論法と言い換えることができるのかもしれません。

《少しややこしいので次回に続く》

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by kokokara-message | 2010-04-13 21:24 | 読書(資本主義の不都合な真実)

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資本主義は、市場を通してその評価を常に行っていることから、主体論(絶対評価)への批評システムということができます。

これに対して、労働価値説を進めていくと、必然的にスターリニズムや毛イズムという独裁体制に至ってしまいます。

つまり、価値が自分ひとりで決められる(絶対評価)ということは、自分の仕事への批評は無視できるということにもなります。

このような発想では、権力さえ握れば、価値をすべて自分で決められるということにもなってしまい、必ず独裁者になってしまいます。

従って、資本主義とは、独裁者がすべての価値を決めてしまうことに対する批判システムということになります。

事実、第二次世界大戦前には、資本主義が自己崩壊した世界恐慌から、ナチズムやファシズムや軍国主義が生まれてきた歴史があります。

そして、マルクスは労働価値説(主体論)の立場から、市場で決まる価値の虚構性というものを糾弾することで、疎外論になってしまいました。

疎外論とは、個々の労働者が価値を作っているのに、それが市場によって疎外されてしまうというものです。

主体から出発する思想は、結局疎外論になってしまうということです。

そして、その疎外を取り払い、主体自身が作り出す本来の価値を、主体の側に取り戻そうとするプログラムが、社会主義ということでした。

しかしながら、このプログラムが、他者の評価を排除するということになり、人の自由をもっと抑圧するというスターリニズムのような社会システムにもなっていくことになります。

従って、主体論の立場をとらない資本主義(相対論)は、それ自体が社会主義的な疎外論への批判といえます。

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by kokokara-message | 2010-03-25 21:55 | 読書(資本主義の不都合な真実)

サンセットのワイキキウォークです。オープン(再開発)で、ワイキキの雰囲気も変わりました。
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アダムスミスからマルクスに至る「労働価値説」は、20世紀における諸悪の根源と考えることができます。

モノつくりと労働価値説については、混乱した理解がなされているようですが、この二つが違うということを明確にしておかなければなりません。

つまり、剰余価値、言い換えれば、利潤は、差異性からしか生まれないということです。

産業資本主義の時代には、労働価値説が成立していたように思われていました。

これは、今から見ると、生産の場である都市に対して、農村には人がたくさん余っていたからにすぎないことになります。

つまり、後背人口の賃金の差異性によって、主体である労働者が、価値を生み出しているかのように思われていたということになります。

このことは、人間中心主義、あるいは主体論、自分の労働が作ったものだから価値がある、その価値は本来自分のものであるということになっていました。

これが労働価値説というものです。

結局、安い賃金を前提として剰余価値を生み出していたという現実を考えると、労働価値説は、産業資本主義的な近代のイデオロギー(社会思想)でしかないということになってしまいます。

従って、資本主義は、客観的な関係性を問う「相対主義」ということになります。

つまり、資本主義は、労働価値説批判ということです。

いずれの価値でも、価値というものは、自分が評価するものではなく、他者からの認知ということになります。

他者によって評価されなければ、価値は存在しないということになります。

それは、価値だけのことではなく、法における権利義務、さらに根源的には言語の意味に関しても同じことが言えます。

つまり、価値や権利義務や言語は、自他の関係性によって決まってくるということになります。

価値とは、他人が認めなければならないものということになります。

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by kokokara-message | 2010-03-07 17:59 | 読書(資本主義の不都合な真実)

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話は変わりますが、経済学でいうほんとうの「富」とは何でしょうか。

広い意味での「モノ」ということになります。

一国の貸借対照表で貸し方と借り方を差し引きすると、機械や在庫や土地、さらにはさまざまな知的財産といった「モノ」しか残らないことになります。

これを経済学では、純資産と呼んでいます。

金融の正しい役割は、あくまでも「ほんとうの富」=「モノ」を増やすという手段でしかないはずです。

例えば、技術革新によって富を増やすということはできますが、それは、技術革新のためのアイデアにお金を貸すということによって、モノが今まで以上に効率的に作ることができるようになり、結果として富が増えるということになります。

今回のバブルは、落語の花見酒ということができそうです。

つまり、酒の入った樽を前にした酒好きの両人が、一枚の一文銭をやり取りして名目的な支出を繰り返しながら、交代で樽の酒を飲んでいくというものです。

やがて、樽の酒はなくなってしまいますが、貨幣としては、もともとあった一文銭だけ残るということになります。

デリバティブ(金融派生商品)の帳簿上の取引が、実体経済の取引の何十倍にも膨れ上がってしまって、てっきり富だと思っていたものが、実際には富ではなかったということと同じですね。

花見酒のように、バブルが崩壊したら、貸し借りがチャラになって全部きれいさっぱり消えてしまうということになります。

さらに、貸し手側が不良債権を抱えることにでもなれば、チャラどころではありません。

貸借対照上はマイナスにさえなってしまい、その分の富が消えてしまったことにもなります。

今回の金融危機においては、グローバル資本主義の中における、国家の役割というものを浮上させることになりました。

資本主義とは、つねに国家と国家の間の差異(違い)を媒介することによって、国家を超越していくことになるものであって、グローバル化そのものといえます。

グローバル化は、このように資本主義が国家の上位に立って国家を支配するプロセスといわれてきたのですが、このような危機においては、主権を持つ国家しか頼れる存在がないということがあらためて示されたということになります。

資本主義は、必然的に危機を生み出す構造(効率と不安定、自由と危機)を持っていますので、たとえ資本主義が国家を超えていく傾向をつねに持ち続けていたとしても、このような危機が起これば、市場に対する不純物としての国家が必要になるということになります。

ケインズの系譜を引く「不均衡動学」的見地からの規制と介入の必要性が、再び認識され始めたということができます。

ただ、ドルの暴落については、世界中がドルを大量に持ち、アメリカ国債も大量に買っている現実を考えると、世界中の皆が、同じボートの中にいるといえるのではないでしょうか。

ドルの暴落が、アメリカに対する警鐘という意味で留まっていればいいのですが、その意図を超えて、実際にドルを暴落させてしまうことになる危険は常にあるといえそうです。

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by kokokara-message | 2010-02-19 21:32 | 読書(資本主義の不都合な真実)

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一方で、貨幣を使わないで、ため込むという選択も可能になります。

そうするとモノが売れなくなって、不況になり、恐慌を生み出してしまうことにもなります。

貨幣は、モノとしては、紙切れであったり、安っぽい金属であったり、ほとんど価値がないものといえます。

ただし、貨幣として流通しているかぎりは、貨幣としての価値を持つということになります。

貨幣の価値は、他の人がそれを貨幣であるとして受け取ってくれると予想しているからの価値であるといえます。

そして、その価値は、その他の人も、さらに誰か他の人が、それを貨幣と受け取ってくれると予想しているからに過ぎないということになります。

結局、貨幣とは、皆が貨幣として使うから貨幣であるに過ぎないという「自己循環論法」になってしまいます。

この「自己循環論法」が、何らかの理由で崩壊してしまうことがあります。

これが、ハイパーインフレーションといわれるものであり、貨幣は元の木阿弥で、単なる紙切れや金属片になってしまうことになります。

従って、このような「自己循環論法」で支えられた貨幣を根底に持つことになる資本主義では、効率性と安定性、自由と危機という二律背反の間のバランスをつねに認識していないといけないことになります。

サブプライムローンの問題では、結局、自由放任主義思想に縛られてしまったために、貨幣が必然的に生み出すことになるマクロ的不均衡(効率と不安定、自由と危機)の調整をしなかったことが原因で金融危機が生じたということになりそうです。

確かに、強欲な金融機関の連中などは断罪するべきといえますが、それによって金融市場が完全に崩壊してしまえば、結局一番苦しむのはメインストリートの人たちということになってしまいます。

金融とは、世の中を効率的にするものということでした。

つまり、金融市場が破綻してしまうと、世の中のさまざまなリスクについて、それを避けたい人と避けなくていい人を繋ぐということが出来なくなってしまうことになります。

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by kokokara-message | 2010-02-03 21:19 | 読書(資本主義の不都合な真実)

アラワイ・ヨット・ハーバーです。ワイキキといよりもアラモアナに近いですね。
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岩井克人氏によれば、社会の中における人間の自由は、言語と法と貨幣の産物であるということになります。

しかしながら、一般的には、これら言語と法と貨幣によって、人間の自由が拘束されていると考えられているところがあります。

貨幣とは、本来単なるモノとモノを交換する目的のための媒体といえるのですが、どこかでこの交換の手段が、交換を目的とするように転化してしまっているといえます。

モノに対する人間の欲望は有限ですが、貨幣の場合は、あらゆるものが買える可能性を与えてくれることになるため、この可能性には限りがないことになります。

そして、その可能性を与えてくれるお金に対する欲望にも限りがないことにもなります。

従って、貨幣を求める行為は、常に無限を求め続ける行為となってしまいます。

古代ギリシアのアリストテレスの時代にあっては、都市国家の統一性をより高いものにするものがお金でした。

しかしながら、お金が一度できてしまうと、手段が目的に転化して、お金だけを求めてしまうことになります。

そうすると、お金の目的化が、今度は共同体の統一性を破ってしまうことになります。

このようなアポリア(難問)は、岩井克人氏の不均衡動学の基本的な考え方でもあり、効率性と安定性の二律背反という関係に通じるものがあるといえます。

現在における貨幣の目的は、都市国家の統一性というよりも、交換の自由を図る手段として捉えていることが一般的といえます。

そして、貨幣は交換手段であるはずですが、やがて交換そのものが目的化してしまうことになります。

それは、貨幣をたえず投資して、さらにその利潤も投資していくという、価値の無限の増殖を自己目的化するという資本主義を生み出すことになります。

貨幣は、人間から無限の欲望を引き出すことになってしまいました。

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by kokokara-message | 2010-01-19 21:18 | 読書(資本主義の不都合な真実)

カイルアビーチです。オアフでは一番美しいビーチといわれています。
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では、貨幣の働きとは何なのでしょうか。

そして、貨幣を媒介とする金融とは一体何なのでしょうか。

金融とは、世の中を効率的にすることにあるとされています。

つまり、金融とは、世の中にあるさまざまなリスクに関して、それを避けたい人と避けなくていい人とを繋ぐことが仕事といえます。

これは、様々な差異性を媒介としていく商人資本主義そのものといえそうです。

商人資本主義とは、産業革命以前の製造業ではない通商によって差益を得るという商業資本主義のことです。

そして、普通の経済学の立場からは、このような差異性による利潤というものは、決して悪いことではなく、極めて正しいことになります

しかしながら、バブルの頃には、金融の利ざやを執拗に追求する強欲性やバブルにうかれた人間の根拠のない非合理性の追求(みんなが投機するから自分も投機する)は、確かに目にあまるものがあったといえそうです。

このような強欲や非合理性の当事者(ほりえもんや村上ファンド)に対して、共同体はスケープゴート的な議論を繰り返すことになりました。

ただし、「理想状態」から不純物を排除することが問題解決になるという発想においては、先の新古典派経済学やネオコンの「理想状態」からの不純物の排除と同じ発想ということになってしまいます。

従って、より根源的な問題として考えなければならないことは、資本主義の根底にある「貨幣」という存在です。

この貨幣の存在が、人間の自由を可能にしているといえますが、一方でこの自由の結果として、資本主義の危機が必然化されてしまっているということにもなります。

このことからすると、人間の非合理的な行動や強欲な投機というものも、貨幣が与えた人間の自由の結果に過ぎないということにもなります。

人間が自由を求める無限の欲望というものは、貨幣によって作られたと考えるべきということになるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-01-05 22:36 | 読書(資本主義の不都合な真実)

ラニカイは、オアフ島で一番きれいなビーチといわれています。
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前者の見方が、今までの数十年間世界を席巻した新自由主義といわれる世界観であることはいうまでもありません。

そして、このような「理想状態」を想定する世界観が、経済的にも政治的にも、世界全体を極めて不安定なものになってしまった事実は否定することができません。

確かに、資本主義と人間の自由とは、密接に結びついているということはできます。

つまり、人間が自由を求める存在であることは、そもそも人間の存在規定でもあるといえます。

従って、人間の自由に結びつくことになる資本主義を超えるものは、おそらく今後とも出てこないのかもしれません。

しかしながら、一方では、資本主義の土台にある貨幣の存在は、人間に自由を与えることになりますが、その自由を放任していると自己崩壊してしまうことにもなってしまいます。

貨幣を使うということは、人間に自由を与えることになりますが、それを突き詰めていくと不安定をもたらすという二律背反を持った仕組みということになります。

岩井克人氏の不均衡動学の立場からは、資本主義を純粋化して市場を覆い尽くせば、確かに効率性は増すし、成長はすることになりますが、逆に、資本主義に大きな不安定をもたらすことにもなるということです。

資本主義では、効率性と安定性とは二律背反するということになります。

経済の効率性を増すと安定性は減少し、経済の安定性を増そうとすると、効率性を犠牲にしなければならないという、資本主義の不都合な真実があるということです。

今回の金融危機の背後にはグローバリゼーションがありました。

グローバリゼーションとは、世界中を市場で覆いつくすということであり、資本主義をまさに純化する動きに他ならないといえます。

アダムスミスの「神の見えざる手」とは、需要と供給の不均衡は市場の価格の動きによって、自動的に解消されるというものでした。

グローバリゼーションや、金融革命は、世界を市場で覆い尽くせば「理想状態」が実現するという、アダムスミスからフリードマンに至る自由放任主義の壮大なる実験であったといえます。

しかしながら、実験の結果は、世界を資本主義や市場で覆いつくしたとしても、自由をもたらすことになる貨幣の働きによって、世界が不安定化するということが判明しました。

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by kokokara-message | 2009-12-27 00:14 | 読書(資本主義の不都合な真実)

羽田空港のANA格納庫です。2003年に放映された「GOOD LUCK!!」はここで撮影されました。
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岩井克人氏によれば、世界を政治や経済の観点から見る場合には、二つの見方があるということです。

ひとつは、現実の世界のあり方を「理想状態」の不純なあり方、と見る見方です。

このような見方は、資本主義においては、ミルトン・フリードマンなどの新古典派経済学がこれにあたるといえます。

つまり、経済における市場が、ちゃんと機能していれば、効率性も安定性も達成できる「理想状態」があるというような見方になります。

従って、「理想状態」が達成できないのは、政府の規制や労働組合による賃金引下げの抑制や労働力の非流動化などの不純物があるからだということになってしまいます。

このため、新古典派経済学では、市場から政府の規制や労働組合などの不純物を排除するという政策が採られることになります。

同じように、現実の政治の世界を「理想状態」の不純なあり方とする見方は、アメリカにおける、かつてのネオコン的な見方がこれにあたるといえます。

つまり、議会制度さえ、ちゃんと機能していれば、自由と民主主義がともに実現できる「理想状態」があるというような見方になります。

従って、理想状態が達成できないのは、宗教的狂信者や独裁者などの不純物が存在するからだということになってしまいます。

このため、ネオコン的な見方の政治学では、国際紛争に訴えてでも、これらを排除するという政策が採られることになります。

これに対して、そもそも世界は「理想状態」にあるのではなく、資本主義や議会制度などは純化させればさせるほど、世界は不安的になってしまうという見方が存在します。

例えば、ケインズ経済学などはこのような立場にあるといえます。

つまり、資本主義は危機をはらみながらもある程度安定していられるのは、貨幣の硬直性や資本移動の規制といった不純物があるために安定していられるという見方です。

岩井克人氏の経済理論である「不均衡動学」も、市場は純化すればするほど不安定になるという見方をとっているといえます。

市場には「理想状態」はなく、市場のバランスを重視することで、やっと安定を図ることができるという見方といえます。

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by kokokara-message | 2009-12-03 21:53 | 読書(資本主義の不都合な真実)