カテゴリ:我流政治学( 23 )

私たちの暮らしている社会において、「市民」とは一体誰のことでしょうか。


現在の私たちの社会は、大衆社会にあるといわれています。


大衆社会とは、ニーチェやオルテガが
100年ほど前に指し示した社会のことです。


横並びのための相互参照と相互模倣を行動原理とし、常に多数派であることが生存戦略となるような社会のことです。


そして、個人であることの義務と責任を決して引き受けようとしない人間で構成された社会とされています。


また、大衆社会は、前近代的な地縁的血縁的共同体である同質均一な「世間」とは異なり、現代のように階層化、分極化する過程で大衆が横並び意識から癒合してできた小集団が群雄割拠する社会のことであり、その小集団が敵対し、さらに分裂して行く社会であるといえそうです。


大衆社会における大衆は、社会全体を俯瞰するだけの視座を持たないことが特徴といえます。

このため、たとえ多数派形成のために癒合(アモルフォス)したとしても、自分の回りの比較的強いと思われる人間にだけに服従する小集団でしかないということになってしまいます。


従って、大衆は社会全体の中における自分の立ち位置も自分自身で指し示すことさえできず、自分に与えられた役割や責任を果たすことができない、つまりは自らの根拠(アイデンティティ)が極めて希薄な存在ということになります。


また、大衆は隣の人の思いや言いたい事が分かるという程度の共感(思い込み)だけを頼りに、癒合関係(アモルフォス)を広げていくことで快感と安心感を覚える存在といえます。


そして、大衆の特徴として、傲慢が挙げられることがあります。

つまり、大衆は今ある自分の能力を過信(過大評価)する傾向があるとされています。


これは、おそらく母子密着関係のような癒合(アモルフォス)関係がもたらす未成熟さが原因ではないかと考えられます。


つまり、機動戦士ガンダムを操縦しようとする未成熟な幼児(子供)がそうであるように、未成熟な大衆はいとも簡単に他人や社会を操縦できると勘違いする幼児的万能感を抱くこととなります。


しかしならがら、一方では、癒合(アモルフォス)による自己の肯定感と満足感によって快感と安心感を覚えるようになった大衆は、自分の外部に対する関心を失ってしまう傾向があります。


つまり、自己の肯定感と満足感によって快感と安心感を覚えるようになった大衆は、自分の置かれた社会的文脈を無視して、「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」を平気で下すことを可能とさせるということです。


そして、幼児的とも言える万能感を抱くようになった大衆の行き着く先は、社会における上位の審級である法律や道徳という社会的制度からの審判にさえにも関心がなくなることになってしまいます。


昨今報道された元ポプコン歌手の例ではありませんが、おそらく自己の肯定感と満足感によってもたらされた「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」の揚句に、法律や道徳という社会的制度が突然目の前に立ちはだかり、厳しい審判(社会的制裁)が下されることになったのではないでしょうか。


このように、大衆社会とは、幼児的な万能感を持った未成熟な者が、社会から遊離した(切り離された)ふわふわした状態で、自分勝手に自己肯定し、自己満足し、その結果として自己充足に至ることになります。


つまり、自己の肯定感と満足感から「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」を下すに至った大衆は、快感と安心感を求めて癒合(アモルフォス)はできても、統合することはなく、ただ分裂した状態にだけ置かれる、まさに原子化した存在ということになりそうです。


では、あらためて問うことにします。


このような原子化した大衆社会において、一体どのような者が「市民」と呼ばれることになるのでしょうか。


現代の私たちの社会は、わずかな差異にこだわり差別化が行われ、癒合と分離、そして、癒合(アモルフォス)する小集団が敵対し合う関係にあるといえそうです。


例えば異民族を排除したり、どうでもいい自他の差異にこだわってみたりと他者とのコミュニケーションを拒絶するその態度は、まさに社会に公共レベルのコミュニケーション空間を構築することを困難なものにさせています。


古代ローマ帝国において「寛容」の精神が大切にされたように、おそらく文明とは、他者という、異質で多様な自分とは明らかに別なものを、自分の中に包摂し、その他者とコミュニケーションがとれる公共的レベルの制度を構築する能力のことではないでしょうか。


そして、文明とは、個人的レベルでの思いやりや優しさや包容力という「共生」を可能とする個人の資質とは明らかに次元の異なる問題と思われます。


おそらく、文明とは、公共的レベルにおける各種の手続きや規範や礼節・マナーといった社会的な制度や常識を構築するために必要な能力のことであり、つまりは「共生のために必要な意思と能力」のことを指すのではないかと思われます。


では、現代の私たちの社会に、理解不能とも言える他者と「共生して行くための意思と能力」は備わっているといえるのでしょうか。


大衆の行動原理は、先に見たように横並び意識が強く多数派であることを生存戦力上の最大の目標にするということでした。


そして、多数派にあることが快感と安感心をもたらす大衆心理の自足状態から導かれる結論は、大衆とは自己の内部にも外部にも、他者を持たずに癒合(アモルフォス)だけを求めている存在ということになりそうです。


大衆は、このように外部のみならず自己の内部にも他者を抱え込まないため、論理的には自己の内部は同質化、均一化している状態ということになります。


このような自己内部の一致(同質化、均一化)が、おそらく大衆に「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」という自己完結型の万能感をもたらす結果となり、一方癒合(アモルフォス)の内部における自足感がもたらす快楽や安心感は、現実との不一致(ギャップ)さえも自覚できなくさせてしまうということです。


このため、大衆はさらに外部(自分以外)に対する関心を失ってしまい、自分の中の欠如を外部から得ようとする動機付けはもはや訪れなくなり、逆に癒合(アモルフォス)による自足感がますます深化することになります。


一方で、「市民」は、自分の中に他者という自分以外の者を抱え込んだ存在といえるのかもしれません。


つまり、「市民」は、自分の中にある多様な価値や美意識や判断という自己内部の不一致を引き受けたうえで、複雑に絡まりあった自己と共生しながら折り合って行くことができる存在ということができます。


そして、自己の中の多様な他者と対話し、そして「共生できる意思と能力」を持った「市民」が、現実の社会においても異質で多様な理解しがたい他者とコミュニケーションを図る公共的レベルでの制度や常識を共有することとなり、さらに制度を構築・改変していくことができると考えられます。


少し言い方を変えれば、「市民」は、自己の内外に存在する現実と理想の埋めがたい欠落感(ギャップ)に常に悩まされる存在といえるのかもしれません。


人はこの欠落感(ギャップ)に自覚的になることによってのみ、自己の欠落感を外部に求める動機付け(努力)が可能となります。

欠落感(ギャップ)こそが人を創造的にさせるものということができそうです。


従って、「市民」とは、その血統や権力や保有している資産や文化資本の有無に関係なく、自分とは異質で多様な他者と共生し得ることができる意思と能力、対話する力を所持している者のことを指すのではないかと思われます。


以上、「市民」と大衆の行動規範(エトス)の相違について考察をしてきました。


唐突ですが、「市民」には、紳士や淑女のノーブレスオブリージュ(高貴な責務)が求められているのではないでしょうか。


ノーブレスオブリージュ(高貴な責務)とは、高い身分の者に相応した高貴な責務という意味で使用されることが一般的といえます。


作家の村上春樹氏の著書「ノルーウェイの森」では、紳士とは「自分のやりたいことをやるのではなく、やらねばならないことをやるもの」と定義されていました。


つまり、村上春樹氏の描く紳士の定義は、その身分の高貴さや所有する権利に由来するものではなく、あくまで自己への要求である責任と義務を果たすことによるものということになります。


少し見方を変えるのなら、紳士とは、社会的文脈から自分の内部に帰属するはずの責任と義務を感じ取ることのできる者であるのかもしれません。


また、紳士は自分のためにより多くの責任と義務を引き受けることができる者のことであって、より少ない特権を要請することのできる者でもあるのかもしれません。


むろん、極めて困難な実践ではあるのですが。

おそらく、大衆社会における「市民」には、このような紳士の持つノーブレスオブリージュ(高貴な責務)が求められているのではないでしょうか。


いや、むしろノーブレスオブリージュ(高貴な責務)を果たすことが、大衆社会における「市民」に生まれ変わるための条件になっているのかもしれません。


従って、大衆社会における「市民」の存在は、残念なことですが、いつも少数ということになってしまいます。


たとえ少数ではあっても、またどのような社会にあっても、ノーブレスオブリージュ(高貴な責務)を果たすことができた「市民」こそが、その社会の地位や既得権益に一切関係なく「紳士(淑女)」と呼ばれることにふさわしい存在になるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2014-11-15 22:37 | 我流政治学


プロローグ~自由と民主主義の危機


この論考は、今から十年近く
前に記述したものです。

十年一昔と言いますが、当時はまだ
新自由主義の意味も十分に理解されないまま、言葉だけが日本の社会を席巻し始めていた時期であったように思われます。


そもそも自由には限界があると思ったことがこの論考の着眼点になったわけですが、記述した当時はこの論旨が十分には理解されず、真逆の新自由主義謳歌の論考として理解されてしまった(曲解されてしまった)ように記憶しております。


もし「自由」を規定できるものがあるとすれば、それは「立場可換性」のルールであって、この「立場可換性」が無ければやがて自由は自己崩壊してしまうと考えるのが私の立場です。


また、民主主義についても、その前提には多様性の土壌があって初めて成立し得る制度であって、この土壌が均質化されてしまえばやがて民主主義は自己崩壊してしまうと考えるのが私の立場です。


そして、現在の日本の社会の状況を見回してみると、誰の目にも明らかなように、自由と民主主義が危機的状況に追いやられているといえるのではないでしょうか。

論考のタイトルは当初のものから現題に変更しています。


また、内容が古いと思われる箇所は除くこととし、論旨を整理するという目的の範囲での加筆修正を行いました。


しかしながら、この十年近くの歳月
を経ても、幸か不幸か私の考えそのものに大きな変化はなかったように思います。


むしろ、今の時代が、十年前の私の考え方に接近してきていると言った方が実感に近いのかもしれません。

昨今の国際情勢からすれば、「自由の限界と民主主義の限界」という政治のタームよりも、むしろ経済学と資本主義の限界という経済のタームの方がよりタイムリーであるのかもしれません。

しかしながら、民主主義と資本主義を駆動させている根本原理は、言うまでもなく「自由」という概念です。

その「自由」の概念に限界があるとするならば、現代の社会制度である民主主義と資本主義にも当然限界があるということになります。

ここで言う限界とは、自己崩壊していく境界線(ボーダーライン)のことです。

少し言い方を変えるれば、グローバリぜーションによって大衆化し、均質化した世界では、差異を前提とする民主主義や資本主義は生き延びることが困難となり、やがて「自由」の方向性は幻想化(金融バブル)や評価の引き下げ(格差)という自己崩壊の方向に向かっていくことになるということです。

つまり、グローバリぜーションによって大衆化し、均質化した世界において自由を純化させていけばいくほど、民主主義や資本主義は不安定になって自己崩壊してしまうということです。

民主主義や資本主義に賞味期限が来ているということなのかもしれません。

では、前置きはこれくらいにして、少々長い論考となりますが「自由の限界と民主主義の限界」を最後までご一読いただければ幸いと考えております。

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自由の限界と民主主義の限界
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第1章 日本文化の多様性と明治維新


現代の日本社会の中には、アイヌ文化や琉球文化などにみられるような多様な文化が存在しています。


そして、多様な文化を支えているのは、多様なヒトの感覚や言葉や宗教であって、これらは多様な共同性を支えるものともいえます。


このような文化的な共同性の境界は、民族や国家によって区分されることもありますが、その差異が小さいような場合には、県民性や地域性などとされて区切られることもあります。


人の感覚は本来的には多様なものといことができますが、その感覚は自分が所属する社会からの影響を受けているということが一般的です。


また、人はいずれかの社会に属しているのですが、同時に複数の社会に属しているということもあります。


人は、自分が属する社会の支配的なパラダイム(世界観)から影響を受けることによって社会化されていく存在であるということになります。


さて、日本においての近代国家の成立は、明治維新とされています。


それ以前には、国民や国家というものが存在したということはできず、明治政府によってはじめて国民と国家が誕生したとされています。


近代国家は、多様な文化を持った複数の民族がひとつの国家を形成するということになります。


このような場合には、領土によって統一された国家が、これらの国民を統治するということになります。


このように近代国家は、多様な文化や民族の集合体としての国民と排他的な境界の意味を持つ領土とそれらを統治する機構によって成立するものといえます。


では、幕末の頃の日本人には、果たして国民(日本人)としての自覚はあったのでしょうか。


おそらく、当時の日本人は、未だ国家という意識は持っておらず、国民(日本人)という意識も存在しなかったと考えられます。


幕末は、多様な文化を持った多くの藩が割拠していたという時代です。


おそらく当時の百姓にとっては藩より小さなムラが小宇宙(世間)のすべてであり、統治されている事実行為から藩までの意識はあっても、国家や国民という意識は発生していなかったのではないでしょうか。


このため、明治政府が取り組んだということは、日本という国家の輪郭を形成することとその国家に属することになる国民としての意識を育成することに力を注いだようです。


それぞれの地域が持つ多様なムラの共同性を、国家というシステムの中に統合するということが、なにより近代国家を成立させるための条件であったということになります。


但し、その試みも国民に西洋的近代自我といわれる「個人」の意識を生じさせるには至らず、近代国家を形成するための前提とされる「個人」が発生するには至らなかったということです。


明治政府は、近代国家の基礎を築くための手段として、初等教育制度と徴兵制度を採用することとしました。


また天皇制を中心とする国家神道のシステムは、国家の中央集権化(もともと大宝律令以来の律令制度は中央集権体制となっています)をすすめていくことになります。


国家神道は、前近代的な宗教色の強い共同性を目指すものであるといわれることがあります。


しかしながら、バラバラな状態にあった共同性を、より大きな国家という共同性に統合するという目的においては、たいへん効果的な装置としてその役割を果たしたということにはなります。


しかしながら、一方では国家の中央集権化という理念に馴染むことができないような思想や宗教は、明治政府によって排除されていくことにもなります。


明治維新直後の世界の情勢は、欧米の列強諸国が、世界全体を植民地化(近代化)と市場化(資本主義化)するために、軍事力による国際秩序の再編成が進められた時代でした。


このように国際秩序の急激な再編が行われる時代にあって、日本が世界の植民地化(近代化)と市場化(資本主義化)という流れから自衛するための手段としては、近代国家としての体制を整えることは避けて通ることができないことであり、喫緊の問題であったということができます。


つまり、日本を政治的に統一するということで近代国家を樹立することが、欧米列強から植民地化や市場化を逃れることになり、日本が独立を守るための唯一の選択肢であったといえるのかもしれません。


日本にとっては、国民国家として政治的な統一を図ることが最重要課題であったということになります。


このような時代に、明治政府がとった文化政策が、アイヌ文化や琉球文化に対する同化政策というものであり、また国家神道以外の宗教を排斥するという廃仏毀釈運動であったと考えられます。


このことによって、それまでの日本にあった多種多様な文化は、社会の背景へと押しやられ、近代国家樹立のためという理念が、社会の前面に押し出されてくるということになります。


日本には、そもそも八百万の神といわれるような多神教的な土壌があって、明治政府が進める一神教的な国家神道の理念とは、かなり異なった文化的な構造にあったとされています。


つまり、日本の社会には、八百万の神が支配するという宗教観が根強く残っており、また
6世紀以降にみられる神仏習合などのような原初的な宗教観の側面も数多く残していました。


欧米の社会においても、
12世紀頃の中世までは原初的な多神教の世界観を持った土壌は残っていたとされています。


フランス革命以後、近代国民国家というものが成立していく過程において、欧米における多神教の宗教観や多種多様な世界観というものは、公の世界から個人(内心)の世界へと移されていくことになったとされています。


公の世界では、近代国民国家の決めたルールに従うことになりますが、内心の世界では、多種多様な自由の世界が広がることということが可能になるということです。


内面の形成が、「個人」の発生ということになります。


政策的には、近代国民国家が、政教分離政策を採用することによって、個人の内面が形成され、個人が確立するということになります。


つまり、国家という権力から個人の内心(宗教心や思想など)を守るという政策が、個人の内面を形成することになり、やがて個人が確立されていくという過程になるということです。


しかしながら、明治政府では、国家神道を中心とした国家を樹立するという目的があったため、実質的な政教分離政策は採用されるということはなかったということになりました。


日本は近代国家として歩み始めることになりますが、個人の内面に関しては、政策として保護するということはなかったことになります。

このように、日本は国家神道を中心とした前近代的ともいえる統治装置を採用しながらも、一方では西欧近代国家の「個人」を前提とする社会政治システムとしての民主主義体制の樹立を図るという大きな矛盾を抱え込んでしまうことになります。

第2章 民主主義の限界


明治維新以降、日本は近代国家を樹立させていくことになりますが、明治政府のとった国家神道を中心とする政教一致の政策は、価値相対的な多様性を前提とする民主主義という政治システムとは相性のいいものではなかったといえます。


多様性(内心)の否定と民主主義における価値相対的な多様性の採用という矛盾は、西欧で遅れて近代化することになる、ドイツにおいても見られた現象といえます。


ドイツにおいても、国家による上からの文化的な同一化政策が採られることで国家の統一が図られるということになります。


このような近代国家における多様性を前提とした民主主義制度に、多様性を否定する同化政策を採用するという矛盾を抱くことになったドイツと日本では、
20世紀に入ってから奇しくも同じように「全体主義」という政治システムを成立させることになります。


ドイツと日本においては、「全体主義」による国民の経済的自由と精神的自由が制限される状態が、第二次世界大戦末まで続くということになります。


では、戦前における文化政治的体制としての「全体主義」とはどのようなものであったのでしょうか。


そして、戦前思想の象徴として語られることになるナショナリズムや愛国心とは、どのような関係にあったのでしょうか。


ナショナリズムや愛国心は、日本においては政治的な領域で語られることが多いように思われます。


しかしながら、ナショナリズムや愛国心とは、本来政治的な領域の問題として扱われるものではなく、むしろ文化の領域の問題として扱われるものではないでしょうか。


つまり、民族や国家にもともと存在する、固有の文化を守って行くという姿勢や態度が、愛国心やナショナリズムといわれるものではないでしょうか。


このような姿勢や態度のことを、「保守」と呼ぶということがあります。


しかしながら、現実の政治問題で「保守」という言葉が使用される場合は、現在の政治体制を維持することを目的として使用されるということが一般的といえます。


また、文化の志向性が進歩的か復古的かということによっては、「革新」と「保守」とに分けられることもあります。


たとえ文化的には進歩的な立場であったとしても、政治的には現体制を守るという立場をとれば、それは「保守」ということになります。


つまり、崩壊前の旧ソ連は、唯物史観という歴史の法則性を信じるという当時においては進歩的と考えられた革新体制とされていたはずです。


しかしながら、唯物史観からは旧態とされることになった資本主義が、生産性においては計画経済より明らかに優勢になったことから旧ソ連は崩壊します。


この場合では、革新といわれた崩壊前の旧ソ連の体制を守るということが「保守」であるように、文化的に「革新」といわれた立場が、政治的には「保守」になるという言葉のねじれが生じることもあるといえます。


「保守」とは、民族や国家に固有する文化に対するロマン主義的な志向性であるともいわれます。


ロマン主義とは、実際に存在したかどうであるのか定かでは過去に対する郷愁のようなものといわれています。


詩人、室生犀星の詩集「抒情小曲集」では、ふるさとへの想いが「ふるさととは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの、・・・」と詠われています。


このような文学的な過去への郷愁が、ロマン主義といわれる代表的なものであるのかもしれません。


もともとナショナリズムや愛国心は、国家や民族、家族などの共同性を大切にする態度であるといえます。


従って、ナショナリズムや愛国心が、国家や民族、家族という共同性に回収されていくような関係性で扱われる限りでは、多くの中のひとつの文化、ひとつの思想ということになるだけです。


しかしながら、ナショナリズムや愛国心が実体のあるものとして扱われるようになれば、それらは国民経済や国民思想を統制するための装置として機能することになり、政治的に利用することも可能ということになります。


このようなナショナリズムや愛国心が象徴化されているだけではなく、実体化されてしまい同化のための装置として機能することになると、全体主義のような危険な政治体制を招くことにもつながることになります。


全体主義とは、一部の指導者が前近代的ともいえるような宗教や好悪という感情(ナショナリズムや愛国心など)によって、大衆全体を指導者個人の感情や文化によって同一化するというものです。


このような全体主義における文化の同化政策は、当然文化の多様性を排除するということにつながります。


多様性が排除された結果、均質化された文化によって統制された社会は、計画経済による経済的自由だけではなく、精神的自由にも大きな制限を加える社会ということになってしまいます。


ナショナリズムや愛国心も、ひとつの思想であって、多様な文化のひとつということでは保持されていることは必要なことです。


しかしながら、このような多様性を維持するための社会の前提条件としては、個人の自律が図られるということが求められます。


つまり、国家(あるいは指導者)から自由な内面を持っているということが、自律した個人ということになります。


そして、このような内面の自由を持った個人が、民主主義制度という多様性を前提とした政治システムを構成することになる個人であることはいうまでもありません。


このような自律した個人が、合理的かつ民主的な手続きによって制定した法律のよって支配される国家が、法治国家ということになります。


そして、民主的な手続きにより適正に制定された法律に従うということが、法治主義ということになるということです。


合理的な判断ができず、共同性に依存的であるがために、未だ自律ができていない個人は、内面において多様性が所持できているとはいえません。


このような多様性を所持しなくなった個人のことを大衆と呼ぶことがあります。


このような大衆が、民主主義の手続きによって、適法に制定することになった法律(ドイツの全権委任法など)が、全体主義を招いてしまうことになってしまったということです。


そもそも民主主義とは、必ずしもエリートではない、選挙で選出された普通の人たちが、政治に参加することができる制度です。


民主主義は、少数のエリートが正しいことを決めるという制度ではなく、普通の人たちが多数決によって表決する(価値相対的)というように、リスクヘッジ機能が内在されている政治システムといいことでした。


つまり、民主主義は、価値相対主義の多様性を前提としますが、自己制御できた自律した個人だけで構成される政治システムではないということです。


このため、表決された結果も、必ずしもベストなものではなく、相対的優位が実現されるということにすぎません。


逆に言えば、ワーストなものにはならないというリスクヘッジがあるということです。


しかしながら、民主主義の持つ価値相対主義によるリスクヘッジが機能しないような場合には、民主主義そのものを一部の指導者に全権委任しまうということになってしまいます。


民主主義には、民主主義そのものを否定する手続きが含まれているということです。


このことには自覚的である必要があります。


このように民主主義が自己崩壊する危険から防衛するには、価値相対的なものの見方(絶対的なものはない)がもたらす多様性という土壌が必要になってくるのではないでしょうか。


民主主義の前提とされている多様性を維持するためには、文化が同質化するということに十分な注意を払わなければならないということになります。


現在における同質化の問題は、政治システムによるものよりも、むしろ経済システムによる効率性の追求の側面から、文化の多様性が同質化してしまうという危険性があるといえるのかもしれません。


このように政治システムや経済システムの持つ権力性から、自分たちの文化の多様性を維持していくということは、文化的には保守化することになるのは必然といえるのかもしれません。


また、民主主義というシステムはエリートでない普通の人の政治システムであるため、必ずしも自律した個人ばかりで構成されることはないということでした。


しかしながら、社会が自律した個人を育成するということは、民主主義が有効に機能するための必須の投資ということであり、ひとりでも多くの多様で、自律した個人が構成するという社会が求められることになります。


文化はもともと多種多様であり、それぞれが共同性の強いものであるということは先に述べました。


ある特定の文化に保守的という姿勢が、他の文化に対する優位性を主張するということになると、それは政治的な問題に発展しまう。


つまり、他の文化に対する優位性を示すということは、他の文化を排外し除外するということでもあり、これは政治的な権力関係を意味することになります。


「保守」が、もともと文化の問題であるにもかかわらず、政治の問題として理解されることになるのはこのためです。


現実に、相対的に優位に立つ文化が、主流を占めるような「保守」の政治体制が、組まれていることは一般的といえます。


このため文化の優位性を保持することが、「保守」の政治体制を保持することになり、その結果文化の多様性を排外するということにつながりやすくなるということです。


法治主義と民主主義、そして自由と基本的人権などは、現代社会における基本的なルールということができます。


これらの原則は個人の多種多様な文化を前提としていますが、これらの文化は法のもとでは平等の関係にあるといえます。


しかしながら個人の置かれている状況や役割というものは、多種多様でありそれぞれの立場がどれも同じということにはなりません。


つまり、個人の自由や基本的人権という「概念」は、法のもとでは等価な関係といえますが、民主主義の前提が価値相対主義に置かれていたように、価値というものは相対的であって絶対的なものではないということです。


従って、立場は人それぞれということになり、私たちは自分の立ち位置からしか自分の目標を持つということも、自己実現を果たすということもできないという自由の限界を持っているということになります。


私たちは自分の所属する共同体の文化からの影響を受けていることが一般的ということは先に述べたところです。


そして、自分の身体に、所属する共同体の文化が刷り込まれていくことが、社会化ということです。


社会化された結果、その共同体の文化は身体化するということになります。


共同性は、空気のように自然なものであるため、その自然こそが唯一絶対のものと思い込むことにもなってしまいます。


他者を排外するということは、自分の文化が唯一絶対なものと強く思い込んでいることが原因です。


自分の文化である共同性が相対化できていないということです。


自分自身の文化を相対化し、相手の文化を尊重するということがなにより求められる姿勢であると考えられます。


人の持つ文化だけではなく、人の持つ感覚が多様なものであるということに気付くためには、違った文化や感覚に出くわすことが必要といえます。


そこで戸惑い、困惑するという経験を踏むことが必要ではないでしょうか。


つまり、自分自身の文化を絶対化するのではなく相対化するためには、自分以外にも多種多様な文化が存在していることを、当たり前なこととして受け入れる必要があります。


人は、「同じ」なのではなく、それぞれ「違う」ということを知るということが、人を文化的成熟へとつなげていくことになるのではないでしょうか。


先に示したように民主主義は、多種多様な自律した個人の存在を前提としています。


多種多様なものとは、人そのものであるということになります。


従って、人が自分らしく生きることができるような多様化された社会においてほんとうの民主主義は機能するといえそうです。


社会において多様な感覚と文化を持った個人が、ありのままに尊重されるということが必要条件です。


また、他方で感覚や文化という個人や共同性の領域を超越するような公共空間が存在しているということが、自由や基本的人権を保障するための十分条件となるのではないでしょうか。


そして、このような公共空間を維持することができる社会政治システムが、民主主義や法治主義というように考えています。

さて、皆様はいかがお考えでしょうか。



第3章 自由の限界


イギリス、フランス、アメリカ合衆国などの西欧諸国と日本などアジアの諸国では、それぞれの国家によって自由と平等があり、それぞれの国家で自由と平等のあり方が異っているというのが現状です。


自由と平等のあり方は、それぞれの国家における歴史的経過や民族的特徴という個性を踏まえたものになっているということができます。


自由と平等は概念としては普遍性を持っていますが、その実現方法としては、全くどれも一様ということにはなっていません。


現在において、経済格差の問題が政治問題として取り上げられることがあります。


経済的な公平の原理については、ある現実が、事実行為として政策的に実現されているという限界があるために、全く一様であるということはありえず、ある程度幅をもった形で実現されるのが現実といえます。


これに対して、自由の原理については、より人間の本来の自然なあり方に根ざした原初的(プリミティブ)で、根本的(ラディカル)な自然権(人権)であるということがいえそうです。


つまり、自由は法の支配のもとでは、それぞれが等価なものとして考えられ、法令や社会倫理から逸脱をしない限り、自由は保障されるものということになります。


従って、自由は法の下では、原理として平等な関係にあることになりますが、経済的な平等というものは、ひとつの事実行為でしかなく、ある公平な現実というものを一時的に出現させることはできますが、現実にはすべての個人が結果として平等な関係に至るということはありえないといえます。


また、原理としては法の下に平等な関係にある自由であっても、その行動の結果として社会的に価値のあるものと価値のないものという、客観的な評価がなされて区分されるということは必然ということです。


つまり、自由は価値的相対主義ということになります。


自由とは、いずれかの思想、信条、表現を選択する、あるいは選択しない自由ということですが、何を選択するのか、あるいは選択しないかは、本人の自由ということになります。


これらの自由を、元来人が所有していると考える思想が、基本的人権と呼ばれるものであって、近代国民国家の成立要件のひとつとされる人権思想ということになります。


基本的人権が、国家などの統治権力から保障されていることが必要なことは言うまでもありません。


しかしながら、個人が選択した、あるいは選択しなかった結果についてまで自由でいられるということではありません。


当然その自由を行使した本人が、その結果について責任を引き受けるということになります。


つまり自己責任とは、本人が自分の意思を自由に行使できる状態にあって、本人が選択した、あるいは選択しなかった結果の事態に対して、本人が負うべき責任ということになりそうです。


従って、自由とは、人が行動を起こすにあたって、その意思を自由に行使できる権利のことをさし、またその権利が行使できる状態にあることをさすということができそうです。


このような精神的自由と身体的自由が保障されている状態を、基本的人権が保障されているということができそうです。


自由については、その権利を行使した結果に対する社会的影響や社会的評価という結果の平等まで保障されるものではないということについては、先に示したとおりです。


従って、選択した思想や信条や表現によっては、社会的には少数派(マイノリティ)に属するということも想定されることになります。

このことによって現に社会的な行動が制約されるという事態が発生することということになるかもしれません。


しかしながら、たとえ、少数派(マイノリティ)になることによって、制約が加わることになったとしても、私たちはあくまで自由が行使できるという、選択の自由が尊重された社会を目指す必要があるのではないでしょうか。

このように、すべての結果がおしなべて等価であって平等であるという、ある意味自己責任が曖昧になってしまった幻想社会が果たして存続していくことが出来ると言えるのでしょうか。


おそらく、そのような放埓(ほうらつ)ともいえるような幻想を抱くようになった社会は、もともと備わっていた社会の秩序を自ら崩壊させてしまうことになるのではないでしょうか。


そして、社会における倫理である人間関係というつながりさえも、放埓(ほうらつ)は喪失させてしまうことになるのではないでしょうか。


社会に秩序や倫理というものが欠けてしまうと、社会システムの基盤(受け皿)となっている「立場可換性」が機能しなくなってしまいます。


つまり、好き勝手に何をしてもよい社会というのは、自分が他者の人権(権利)を侵害しても責任を採らないで良い社会ということになります。


このことは他者からいつ自分の人権(権利)が侵害されるかわからないというハイリスクな危険極まる社会でもあるということでもあります。


自由を行使した結果の個人への社会的影響や社会的評価は、あくまで社会的文脈から決定されることになるため、誰かが特権的に制御できるようなものではないということです。


つまり、経済的な平等というものは、文脈依存的(世界経済の予測不可なことは自明ですね)であるために、あらかじめ国家などが政策的に操作することによって、制御された公平な現実までは創造することは事実上できないということです。


近代国家における自由には、自由を行使した結果の責任をあくまでその本人が引き受けなければならないという自己決定、自己責任という基本原則が存在していることになります。


私たちは、このような自由の限界を知ることによって、自分の振る舞いに節度をもたせるということが可能になるといえるのではないでしょうか。


また、法令等の社会規範に従って振る舞うということの方が、逸脱するよりも生存戦略上有利に働くという、ルール重視ということを知るようになるのではないでしょうか。



第4
章 結論


人権とは、近代西欧社会が創造した概念といえます。


人権は、自由や民主主義や法治主義と同じようにキリスト教という一神教の価値体系の中で創造されてきた概念ということができます。


そして、人権は近代西欧社会が創造した概念ですが、欧米社会だけにしか適応できない地域的な概念ということではなく、時代や地域を越えた普遍的な概念と考えることができます。


また、自由や平等は、それぞれの国家のあり方によって、多様な形で具体的に実現されるものであるということができそうです。


ヒトはその感覚や文化が同じではなく、人それぞれにバラバラな感覚や文化を持っているということができます。


人権は、そのような感覚や文化の多様性を前提としているものといえます。


また、自由も、同様に多様な選択ができる自由ということを前提としています。


そして、民主主義はそのような多様性を持った自由な選択ができる、自律した個人を前提として成立するということになります。


多様性を前提としないような同質化した社会においては、たとえ民主主義という方法をもってしても、全体主義という危険な状況を招くおそれがあることは先に示したとおりです。


つまり、多様で自由で自律した個人が民主主義という手続きによって制定する法律が支配するような社会のあり方を法治主義と呼ぶと考えられます。


そして、この法治主義こそが、本来人に備わった自由や平等という基本的人権を、私たちに保障することができる社会政治システムということができるのではないでしょうか。


つまり、私たちの自由や平等は、前近代的なほんの一部の指導者によって恣意性に分配されるような自由や平等であってはならないということができます。


自由や平等という基本的人権は、ただ与えられるものではなく、私たちが不断の努力によって保持していくことが求められているといえます。


私たちは、人と自分は同じであると自然に思い込んでいるところがあるのではないでしょうか。


この思い込みの根拠は、そもそも脳の持つ機能に由来することになり、異なったものを同じと認識するということになります。


言葉の概念化が、その際たるものと言えるのではないでしょうか。


つまり、それぞれ形も色も大きさも異なった机であるにもかかわらず、人は言葉を使用することで、同じ机と認識できる機能を持ち合わせているということになります。


従って、人間は自然な状態に置かれていると、脳の機能によって人と自分は「同じ」と認識してしまうことが自然ということになるのかもしれません。


このため、私たちが同じ(同質)ではなく、多様で異なった存在であることを知っておくためには、自分以外にも多種多様な文化が存在していること、つまり外部のあることを知っておく必要があります。


そして、このような多様な文化が林立している外部の存在を知るということは、自分の文化を相対化するということにつながるということです。


また、教養を身につけるということは、優劣ではない多様な文化の関係性について考察するためにはとても重要なもとといえます。


ここでいう教養とは、先人から受け継いできた知の財産という程度にお考えください。


人が一生かけても達成できることは限られています。


先人からの知恵である教養を身につけるということは、このような財産をショートカットで手に入れるということになります。


自分持つ文化を相対化するということは、主観的な価値にとらわれないということです。


そして、教養は自分の今持っている知識のありかをマッピングしてくれるものでもあり、自分の知識や文化がどのように位置づけられているのかを一望俯瞰させてくれるものといえます。


自由や平等という基本的人権を不断の努力によって保持していくためには、このような自分だけではなく他者も含めた全体を一望俯瞰できるような視点がなにより必要とされるのではないでしょうか。


また、社会が自律した個人を育成していくためには、それぞれの個人が「自分の頭で考える」ことを実践していくしかないと思われます。


つまり、自由や平等という基本的人権について、原初的(プリミティブ)、根本的(ラディカル)に考えるということが重要であると思われます。


もちろん、その答えはあらかじめ自分の外部に用意されているものでも、人に教えてもらったことを暗記するものでもありません。


あくまで自分の頭で考えて、その答えを自分なりに生成していくということが求められるのではないでしょうか。


まずは、大きなことからではなく、自分自身の自由と平等について考えてみることから始めることになるのではないでしょうか。


つまり、自分自身の自由と平等について考えることができるということが、そもそも基本的人権に基づく、極めて自由で平等な振る舞いであるといえるのかもしれません。


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by kokokara-message | 2014-10-27 22:46 | 我流政治学

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自由や平等という基本的人権は、ただ与えられるものではなく、私たちが不断の努力によって保持していくものということができます。

ところで、私たちは人と自分が同じであると、自然に思い込んでいるところがあるのではないでしょうか。

この思い込みは脳の機能に由来するものであって、異なったものを同じであると認識する脳の能力がその根拠になっているといえそうです。

そして、脳が同じであると認識するその際たるものが言葉であり、異なったものを同じとみなす言葉の概念化という機能です。

たとえば、家や会社などには、形も色も大きさも異なった「椅子」というモノが存在します。

それぞれの「椅子」は様々な点で相違しているにもかかわらず、人は「椅子」という言葉を使用することで、異なった「椅子」を類型化(カテゴリー)し、同じ「椅子」として認識することができます。

つまり、人は脳の機能である言葉の概念化によって、たとえ違うモノであっても、同じ類型(カテゴリー)にあるとみなせば、同じモノとして認識することができるということになります。

従って、自分と他者が異なった存在であるにもかかわらず、ヒトという同じ類型(カテゴリー)にあるということになれば、人と自分は同じと思い込むことにもなってしまいます。

おそらく、この心性は、自分と他者を比較することで行動化されるのですが、その内実はといえば、自分と他者が同じであることを確認するという作業になるのではないでしょうか。

このため、自分と他者の間に違い(差異)があることが判明すれば、人は不安になり、相手を同化させてでも、安心感を得ようとすることになります。

一方、人の創造性は、思考の枠組みがズレ(ブレークスルー)ることによって発生するとされています。

つまり、ここでは、違い(差異)が人を創造的にさせる源泉ということになります。

人にとっての違い(差異)は、不安にさせることもありますが、人を創造的にさせるという側面も持っているということです。

不安はネガティブであり、創造性はポジティブであると区分されることが一般的です。

確かに、その方向性は正反対のようにも見えますが、差異に対する反応という点では、不安と創造性は同じ構造にあるものといえるのかもしれません。

従って、人が創造的に生きるためには、人と同じであることよりも、違い(差異)に着目することの方が重要になってくるのではないでしょうか。

このことは、自分と他者が同じという素朴な思い込みを疑ってかかることでもあります。

つまり、他者とは自分に外部があることを教えてくれる貴重な存在ということになります。

そして、自分に外部があることが確認できれば、自分を絶対化することもなくなるはずです。

少し言い方を変えれば、自分自身が相対化できるようになったということですね。

また、このこと以外にも、自分自身を相対化する方法としては、一般教養を習得するということがあります。

つまり、一般教養は、ものの優劣をつけるためにあるのではなく、多種多様な文化の関係性を考察するための貴重なツール(道具)ということです。

ここでいう一般教養とは、先人から受け継いだ知の財産(知恵)程度にお考えください。

人が一生かけても、到達できる地点はたかが知れたものでしかありません。

しかし、先人から受け継いだ知の財産を習得することで、先人の知恵にショートカットでコミットすることができます。

実際的には、一般教養は、自分が今保持している知識や文化の在りかを、マッピングしてくれるものといえます。

つまり、自分の知識や文化が、自分の外部を含めた全体図のどの位置にあるのかを、一望俯瞰できるような視座を与えてくれるものといえます。

あくまでも、自分は全体の中の一部という当たり前なことが理解できていれば、自分自身を絶対化することもなくなり、自分自身を相対化することも可能になるということです。

一般教養は自分以外の他者や外部を告知してくれるものであり、その最も大きな効用が、自分自身を相対化するということなると思われます。

*私の若い頃の高校や大学では、一般教養の重要性を、かのように教わった記憶があるのですが、今は高校や大学ではどのような教授がなされているのでしょうか?

(閑話休題)
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本編の中でも触れたように、民主主義はもともと十分な制度とはいえず、これらの欠陥を補完するためには、自律した個人の存在が必要になってくるということでした。

このことが、民主主義システムに内在した限界にもなっているということでした。

自律した個人とは、自己決定をし、自己責任を負うだけの個人ということではないように思われます。

つまり、自ら設定した目標を自らで達成していくという、ある程度の時間性を含んだ個人の在り方を指す概念ではないでしょうか。

このため、自律した個人には、孤独な営みではありますが、「自分の頭で考える」ということを我慢強く繰り返すということが求められます。

民主主義とは、議論を尽くしても、最後は価値相対主義の相対的優位が暫定的に正しいとみなされるというシステムでしかありません。

従って、民主主義の持つこのような欠陥を補完するためには、自由や平等という価値について、原初的(プリミティブ)、根本的(ラディカル)に「自分の頭で考える」ということが必要になります。

そして、そのうえに自己決定、自己責任が可能となるような、自律した個人が求められているということです。

「自分の頭で考える」とは、あらかじめ外部に用意されたレディメイドな答えや人に教えてもらった受け売りの答えをそのまま暗記して諳んじるようなことをいうのではありません。

「自分の頭で考える」とは、自分の答えは自分の中で生成するということです。

ただ、自分で答えを生成するといっても、「無」から「有」を生み出すことではありません。

もともとある「価値」に、少しだけ別な「価値」を積み重ねるような、地道な作業ということになります。

つまり、「自分の頭で考える」とは、一般教養によってマッピングされた知識と知識の関係性を考察しながら、そこに生じる差異から新たな価値を創造して行こうという試みといえるのではないでしょうか。

少し話がややこしくなりましたので、これまでのところを整理しておきます。

自分とは、絶対的な存在ではないということでした。

なぜなら、自分には必ず外部が存在するからです。

そして、自分に外部が存在することは、全体の一部でしかないということでもあり、従って自分だけの身勝手な自己決定や振る舞いが容認されることはないということになります。

もちろん、外部がどこまで広がっているのか分からなくても、自分はその一部でしかないことが分かっていれば、自分が絶対的な存在と思い込むこともなくなるはずです。

つまり、自分自身が相対化できているということです。

しかしながら、相対化された自分が考える価値(自由や平等)は、やはり全体の中の一部の価値(自由や平等)でしかありません。

あくまでも、自分という固有性(特殊性)に依拠した価値(自由や平等)ということになってしまいます。

もちろん、何が自由であって、何が平等であるかについて、最終的に決定するのは自分自身ということになります。

外部との関係からいえば、外部は参照(レファレンス)するものではあっても、複写(コピー)するものではないということになります。

そして、自分が決定したことには、それに応じた責任が伴うということになります。

自己決定と自己責任の関係は、そのまま自己ルール化するときの根拠にもなりそうです。

つまり、自己ルール化は、個々人の倫理性に担保されたものであるということが一般的です。

この場合の倫理性は、人間関係のルールという意味でお考えください。

ただ、倫理性は共同性からの影響を受けることが一般的であり、必ずしも共同性を越えた汎用的を帯びたものとは限りません。

従って、それぞれの個人が自分の倫理性(利害も含む)に基づいた自己ルール化を図ることになれば、バラバラな自己ルール(価値)が乱立するということにもなってしまいます。

そして、自己ルール(価値)が乱立した状態は自由放任状態ということでもあり、それぞれの自己ルール(価値)は比較考量が不可能であるため、原理として価値の混迷状態は解消することにはなりません。

このような価値の混迷状態でも、価値相対主義による相対的優位を暫定的に正しいとみなす民主主義システムは機能します。

ただ、それは相対的優位を決定するということだけであって、それぞれの自己ルール(価値)の信念対立状態を解消することはならないということです。

従って、民主主義システムだけに頼っていては、社会全体の効用最大化や社会正義の実現は図ることができないということになってしまいます。

さらに、民主主義システムだけでは、価値の混迷状態から脱することができないばかりか、社会全体の価値を低下させてしまいことにもなってしまう可能性があるということです。

ここで重要になってくることがひとつあります。

それぞれの個人が、何が自由であり、何が平等であるかを自ら決定をするときに、その答えがどこかで普遍性とつながっているということを、自分自身に要求しているかということです。

普遍性を定義するのは大変難しいのですが、養老孟司氏によれば、極端な両端を切り落とした真ん中ということになるようです。

簡単にいえば、レアなものには普遍性はないということになるのでしょうか。

卑近な例では、クレーマーの声をいくら積み上げても、商品の売り上げや社員の質の向上にはつながらないということになるのでしょうか。

話が少しそれてしまいしたが、自己決定と自己責任の関係において、自己決定がどこかで普遍性につながっているということを、自己責任として引き受けているのかということです。

少し言い方を換えれば、自己ルール化をする価値(自由や平等)が、必ずどこかで普遍性とつながったものであらねばならないということを、自己ルール化するときの根拠にしているかということです。

大変難しい問題になってきました。

では、普遍性につながっているという確信がもてるような自己決定ができるためには、一体何が必要とされるのでしょうか。

少し飛躍しているように思われるかもしれませんが、おそらく、一般教養である先人の知恵を習得するということが、普遍性に近づく一番の地道であり、一番の効率的な方法ではないでしょうか。

一般教養とは、知識全体を俯瞰できるような視座を与えてくれるものということでした。

また、自分の今いる場所(立ち位置)を指し示してくれるものでもありました。

つまり、一般教養とは、知識全体を俯瞰できるような視座とその中にいる自分の視座を、同時に提供してくれるものということができそうです。

養老孟司氏の定義からすると、知識全体を俯瞰する視座のうち極端な両端を切り落とした真ん中あたりが普遍性になるということでした。

また、自分の視座とは、普遍性からすると、特殊性(固有性)ということになりそうです。

自分の固有(特殊)な視座は、一般的には親密圏にある人間関係から得るということが多いと思われます。

これに対して、普遍的な視座は、公教育というシステムから得られるということが一般的ではないでしょうか。

それぞれが、教育されることで身につくものといえそうです。

そして、一般教養とは、親密圏から得られたもともとは特殊性(固有性)でしかなかったものが、やがて公教育によって全体である普遍性にまで広がっていく過程における先導者といえるのかもしれません。

従って、一般教養が特殊性(固有性)を普遍性にまで転換させる公教育を支えるものであるのなら、公教育とは、個人の自己決定(自己ルール化)を普遍性にまで高めていくことを可能にする、いわゆる「自律した個人」を創造することができる社会システムと考えられるのですが、さていかがでしょうか。

*教養主義というと何か偉そうに聞こえますが、変化の激しい時代であるからこそ、回り道をしてでも、普遍(不変)を足場にしておくことは大切なことと思います。でも、ツイッターのフォロワーの数の増加の方が大事なのでしょうかね。

(もういちど閑話休題)                
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現在は、価値混迷の時代ということができます。

おそらく、社会経済の価値混迷状態は収束する方向ではなく、むしろ混乱状態に拍車がかかる方向になっているのが現状ではないでしょうか。

価値混迷の時代にあって、私たちは、信じることができるものを見失ってしまっているのかもしれません。

自由や平等という基本的人権や民主主義制度という現代の資産は、「近代」(モダン)という時代が生み出したものといえます。

そして、「近代」が生み出した資産が古いからと、これを超越していくことだけが望まれることなのでしょうか。

今一度「近代」という時代を検証し、「近代」が生み出したプラスの資産を徹底させるという選択もあると思われます。

「近代」が生み出したプラスの資産(自由、平等、民主主義制度など)は、もともと近代の人が自分たちの身近な問題を考えるために使用した概念や仕組みであったと思われます。

現代人が、今一度自分たちの身近な問題として自由や平等、そして民主主義という制度を、原初的(プリミティブ)、根本的(ラディカル)に考えてみてはいかがでしょうか。

おそらく、自分の特殊性(固有性)という限界に気づくことによって、普遍性という社会全体につながる扉を開くことになるものと私は信じているのですが、さていかがでしょうか。

長い論考になりました。

当初考えていた結論とは、少し変わってしまったようにも思われます。

ただ、今このように考えているということでは、素直な自分の考えといえるのかもしれません。

最後までご一読いただきまして、ありがとうございました。

《おわり》

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by kokokara-message | 2010-08-13 22:41 | 我流政治学

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第4章 結論

人権とは、近代西欧社会が創造した概念といえます。

人権は、自由や民主主義や法治主義と同じようにキリスト教という一神教の価値体系の中で創造されてきた概念ということができます。

そして、人権は確かに近代西欧社会が創造した概念といえるのですが、欧米社会だけにしか適応できない地域限定の概念ということではなく、時代や地域を越えた普遍的な概念ということができます。

また、自由や平等というものは、それぞれの国家のあり方によって、多様な形で具体的に実現されるという特徴があるといえます。

最初に取り上げたように、人の持っている感覚や文化は同じものではなく、人それぞれにバラバラな感覚や文化を持っているということでした。

人権は、このような感覚や文化という多様性を前提として成立するものといえそうです。

また、自由については、このような多様性が選択できる自由を前提としているということができます。

そして、民主主義とは、このような多様な自由を選択することができる、自律した個人がその前提となって成立することができる制度といえそうです。

従って、多様性を前提としない同質化してしまった社会においては、たとえ民主主義という方法論をもってしても、全体主義という危険な状況を招くおそれがあることについては、先にも指摘したとおりです。

つまり、多様かつ自由な選択ができる自律した個人が、民主主義という手続きによって制定されることになった法律で、支配される社会のあり方を法治主義と呼ぶのではないでしょうか。

そして、この法治主義こそが、本来、人に備わている自由や平等という基本的人権を私たちに保障することができる社会政治システムということになるのではないでしょうか。

つまり、私たちの自由や平等というものは、前近代的なほんの一部の指導者によって、恣意的に分配されるようなものであってはならず、法治主義というルールに従った自由や平等でなければならないということです。

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by kokokara-message | 2010-06-27 16:23 | 我流政治学

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このように、すべての結果がおしなべて等価で平等という、ある意味自己責任が曖昧になってしまった社会が存続しえることは、おそらくありえないのではないでしょうか。

もはや自由とは呼ぶことができない、放埓(ほうらつ)ともいえる幻想を抱くようになった社会は、もともと社会に備わっていた規範(ルール)や人間関係の繋がりである倫理さえも喪失させてしまうことになるのかもしれません。

社会から規範(ルール)や倫理が欠落してしまうと、社会システムの基盤であり、社会の受け皿になっている立場可換性というお互いの立場を思いやる想像力も機能しなくなってしまいます。

立場可換性とは、自分が耐えられないような行為は、他者に強いることはしないという、極めてシンプルで明快な想像力のことです。

このため、放埓な社会は好き勝手に何をしてもよい社会ということになり、自分が他者の権利を侵害してもその責任が問われない社会ということにもなってしまいます。

しかしながら、実際に他者の権利を侵害しながら、誰からも咎められることがないような特権的な立場(封建的な身分)は、価値相対主義の現代社会では存在することはありません。

つまり、放埓な社会とは、他者の権利を侵害すると同時に、他者からも権利の侵害を受けることになる、ハイリスク、ハイリターンな極めて危険な社会ということになります。

従って、立場可換性に対する意識の有無にかかわらず、身勝手な行動(自分は良いが他者はだめ)が意味するところは、自分の身勝手さと同量分だけ、他者からの権利侵害を受け入れることに同意署名したとみなされるということです。

トマス・ホッブスという「万人の万人に対する闘争」の自然状態といえるのかもしれません。

結局、立場可換性について配慮がなく意識が欠如しているような人は、短期的にはともかく、中長期的には、極めてリスクの高い自然状態で生きることになり、自己保存することさえ難しい状況に追いやられてしまうことになるということです。

ところで、人が自由な選択をした場合、その結果の意味や評価について、誰かが特権的に決定をするということはありえるのでしょうか。

おそらく、評価とは、その時代のその社会の文脈に依存して決定されるものであって、特権的立場や自己言及によって決定できるものではないと思われます。

たとえば、経済的な自由を担保する方法として、結果の平等を目指すものに社会保障があります。

社会保障はナショナルミニマムといわれるように、結果の平等についての具体的な基準(最低基準)を示すものといえそうです。

ただし、社会保障の基準については、社会経済情勢からの大きな影響を受けることになります。

70年代初めまでのヨーロッパの諸国は、福祉国家を理想像として標榜していました。

しかしながら、70年代以降の多くの先進国で高度経済成長が止み低成長社会へと移行していく中で、福祉国家像も大きく修正されていくことになりました。

経済成長と社会保障の間には、強い相関関係があることが想定されます。

そして、世界経済の行方が誰にも予測できないように、社会経済情勢の影響を真っ向から受けた社会保障がどのような形に変化していくのか、誰にも予測できないことではないでしょうか。

また、社会保障は結果の平等を目指すものといえますが、結果の平等は公平な社会という具体的な基準を示す事実行為ということでもあります。

かつて高度経済成長期の日本では、9割近くが中流意識を持っていたとされています。

しかしながら、当時の日本の社会保障は低負担低福祉なものでしかなく、国民の中流意識は右肩上がりの経済成長によって支えられていたことが実態といえそうです。

つまり、日本国民の多くが高度経済成長が将来も持続すると考えていた文脈の中では、当時の社会保障の基準であっても、中流意識、つまり公平な社会が実現しているとみなされていたということになります。

従って、社会保障の基準は、国家がその時代の社会経済情勢を踏まえながら、民主主義の手続きに基づき決定されることになります。

そして、その内容は抽象的なものではなく、ひとつの具体的な基準(事実行為)として実現されることになります。

従って、すべての人が、おしなべて等価で平等な社会という結果の平等が実現することはありえないといえます。

また、普遍的に正しいといえるような結果の平等も存在することはないといえそうです。

民主主義の手続きがユートピアを実現させるという考えは、社会保障に対する幻想といえるのかもしれません。

少し話がそれてしまいましたが、人が自由な選択をした結果の意味や評価については、あらかじめ誰かが特権的に決定できるようなものではなく、その時代のその社会の文脈に依存しながら決まっていくということでした。

つまり、自由な選択の結果や評価は、自己コントロールができない領域にあるということになるようです。

では、自由は、どのような原則に基づいて行使されることになるのでしょうか。

先に指摘したように、身勝手な行動(自分は良いが他者はだめ)の意味するところは、立場可換性に対する想像力の欠如ということでした。

つまり、自分が耐えられない行為を他者に強いることは、もはや自由ではなく、放埓になるということでした。

自由とは、自由な意思に基づき、自由な選択を行使できることといえそうです。

そして、自由な選択の結果については、文脈依存的という限界はありますが、やがて本人に帰属することになるということです。

つまり、自由とは、自己決定、自己責任が基本原則になっているということです。

見方を変えれば、自由には、自己決定、自己責任という限界(制約)があるということになります。

私たちは、自由に限界があることを知ることによって、はじめて自分の振る舞いに節度を持たせることができるようになるのかもしれません。

つまり、自分の振る舞いから生じる責任と他者が受けるリスクを考量して(立場可換性)、自分が耐えることができないことは他者に強いることはしないという、シンプルかつ明快な倫理性(人間関係)が身につくことになるということです。

また、同様に自由の限界を知ることによって、あらためて法令等の社会のルールを遵守することが、自分の身を守るための防御策になるということに気づくようになるのかもしれません。

つまり、社会のルールから逸脱した限界のない自由(放埓)よりも、社会のルールに従って振る舞う限界のある自由の方が、生存戦略上有利に働くという、自己保存のための遵法意識が身につくことになるということです。

以上を総括すると、自由に限界があることが、社会のバランス維持につながるのではないかということです。

このような考え方は、岩井克人氏の「不均衡動学」の原理にも通じるものがあるといえるのかもしれません。(勝手に結び付けてしまって申し訳ございません)

さて、自由の限界について、皆様はいかがお考えでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-05-20 07:13 | 我流政治学

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自由とは、いずれかの思想、信条、表現を選択する、あるいは選択しない自由ということですが、何を選択するのか、あるいは選択しないかは、本人の自由ということになります。

これらの自由を、元来人が所有していると考える思想が、基本的人権と呼ばれるものであって、近代国民国家の成立要件のひとつとされる人権思想ということになります。

基本的人権が、国家などの統治権力から保障されていることが必要であることは言うまでもありません。

しかしながら、個人が選択した、あるいは選択しなかった結果についてまで自由でいられるということではありません。

当然その自由を行使した本人が、その結果について責任を引き受けるということになります。

つまり自己責任とは、本人が自分の意思を自由に行使できる状態にあって、本人が選択した、あるいは選択しなかった結果の事態に対して、本人が負うべき責任ということになりそうです。

従って、自由とは、人が行動を起こすにあたって、その意思を自由に行使できる権利のことをさし、またその権利が行使できる状態にあることをさすということができそうです。

このような精神的自由と身体的自由が保障されている状態を、基本的人権が保障されているということができそうです。

自由については、その権利を行使した結果に対する社会的影響や社会的評価という結果の平等までは保障されるものではないことについては、先ほどに示したとおりです。

従って、選択した思想や信条や表現によっては、社会的には少数派(マイノリティ)に属するということも想定されることになります。

このことによって現に社会的な行動が制約されるという事態が発生するということになるかもしれません。

しかしながら、たとえ、少数派(マイノリティ)になることにで行動に制約が加わることになったとしても、私たちはあくまで自由が行使できるという、選択の自由が尊重された社会を目指す必要があるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-04-26 22:07 | 我流政治学

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第3章 自由の限界
イギリス、フランス、アメリカ合衆国などの西欧諸国と日本などのアジアの諸国では、それぞれの国家に自由と平等があり、それぞれの国家にとって自由と平等のあり方が異なっているということが現実であるといえます。

自由と平等のあり方は、それぞれの国家における歴史的経過や民族的特徴という個性を踏まえたものになっているということができます。

そして、自由と平等は抽象概念としては普遍性を持っていますが、その具体的な実現方法としては、どれも一様ということにはなっておりません。

現在、経済格差の問題が、政治における喫緊の問題として取り上げられることがあります。

経済的な公平は、事実行為として、ひとつの現実が政策的に実現されるということになる限界を持っているため、いつでも同じように公平な実現されるということにはならず、ある程度の幅をもった形でしか公平は実現できないということになります。

これに対して、自由の原理は、より人間の本来の自然なあり方に根ざした原初的(プリミティブ)で、根本的(ラディカル)な自然権(人権)ということがいえそうです。

つまり、自由は、法の支配のもとではそれぞれが等価な関係にあるものとして考えられ、法令や社会倫理から逸脱をしない限り、自由は保障されることになります。

従って、原理として自由は、法の下で平等な関係にあるということになりますが、経済的な平等は、ひとつの事実行為でしかなく、ある公平な現実というものを一時的に出現させることはあっても、現実にはすべての個人が結果として経済的な平等関係に至ることはありえないといえます。

ただ、自由にしても法の下では平等な関係にあっても、自由な意思を持った個人が採ったそれぞれの行動までが同じように平等になるということではありません。

つまり、法の下の平等が保障された自由な意思に基づく行動ではあっても、その行動の結果(自己責任)までが自由であることというはできず、社会的には価値があるものか、あるいは価値がないものかという評価がなされることになります。

自由は、抽象的な意味では普遍的なものといえるかもしれませんが、具体としてはそれぞれが相対評価の対象にしかならないということになります。

従って、現実の社会における自由のあり方とは、普遍ではなくむしろ特殊(個別)ということになり、また抽象ではなくむしろ具体(個別)ということになるのではないでしょうか。

自由が個別性や具体性をともなったものであるのなら、自由の結果も同様に個別的、具体的なものということになり、その評価(自己責任)についても相対的で恣意的なものになってしまうことになります。

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by kokokara-message | 2010-03-30 21:58 | 我流政治学

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人の持つ文化だけではなく、人の持つ感覚が多様なものであるということに気付くためには、違った文化や感覚に実際に出くわすという経験が必要になると思われます。

異質な他者との出会いによって戸惑い、困惑するという経験を踏むことが、異文化を理解するためには必要となってくると思われます。

つまり、自分自身の文化を絶対化するのではなく相対化するためには、自分以外にも多種多様な文化が存在していることを、アクテュアリティ(皮膚感覚)の問題として受けとることが必要といえます。

人は、「同じ」なのではなく、それぞれ「違う」ということを知ることが、人を文化的成熟へと引き上げてくれることになるのではないでしょうか。

先に示したように民主主義は、価値相対主義であって多種多様な自律した個人を前提としています。

多種多様な個人とは、内面を持ったありのままの人そのものということになります。

従って、人が自分らしく生きることができるような多様化社会が、民主主義を十全に機能させることになるのではないでしょうか。

つまり、社会における多様な感覚と文化を持った個人が、内面をありのまま尊重されるということが、民主主義の必要条件になると思われます。

また、一方では、個人の自由や平等を保障するために、個人の感覚や文化の領域を超越した公共空間が存在していることが、民主主義の十分条件になると思われます。

そして、このような個人や共同性を超越した公共空間が維持できる政治システムが、法治主義ということになるのではないでしょうか。

法治主義以外にも、市場主義における消費単位としての個人を超越したマーケットが、公共空間といえるのかもしれません。

このような公共空間では、多様性をありのままの状態に放置しておくということはできません。

従って、公共空間内のルール化や価値調整による効率化などによって多様性を標準化してある一定の範囲内に治めるという役割が求められます。

つまり、個人の自由や平等を保障していくための公共空間(十分条件)においては、多様な感覚と文化を持った個人をありのままに尊重すること(必要条件)とは、矛盾する関係ということになります。

個人の自由や平等が公共空間において保障されるためには、個人が持つ自由や平等の権利の一部を自ら公共空間に譲渡しなければならないということになるようです。

このことは、民主主義と自由を考えるうえで、何を意味しているのでしょうか。

公共性そのものを否定してしまうような、行き過ぎた自由や平等が主張されることがありますが、このような行為行動は、たとえ公共ルールに沿ったものであっても、自ら公共空間の効率性や合理性を破壊してしまう危険性を孕んでいるということになります。

自由は個人の存在規定であって、事実行為である平等(公平)とは性格を異にするものといえますが、いずれにせよ個人の自由と平等の持つ多様性をありのままの状態で公共空間に放置することになれば、公共空間は信念対立の場になってしまうということです。

公共空間(議会制民主主義)では、合法的な多数派形成がなされていくことになりますが、一方では少数派となった不純物がどんどん排除されていくということにもなります。

ナショナリズムが排外主義につながりやすいのは、このような民主主義の純化システムに沿った形で機能しているからかもしれません。

そして、公共空間(議会制民主主義)における多数派形成が志向されていくということは、公共空間(議会制民主主義)そのものが均質化したものに変容していくということでもあります。

また、公共空間(議会制民主主義)の均質化は、社会全体の均質化や硬直化を進展させることにもなり、社会全体が信念対立(二項対立)の構図の中に投げ出されてしまうことにもなります。

このような状況は、社会が安定する方向とはいえず、社会が多様性を失って、ますます不安定化していくということがいえそうです。

つまり、議会制民主主義が信念対立によって十全に機能しない状態になったまま、民主主義システムの純化(法治主義)だけがどんどん進んでいくと、いとも簡単に自由と平等の限界(排除)の隘路に迷い込んでしまうということになります。

議会制や法治主義などの民主主義の行き過ぎた純化は、社会を不安定なもの(信念対立)にさせることになり、その結果個人の自由と平等の限界(排除)が顕在化する形で、民主主義制度の限界が露呈することになると思われます。

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by kokokara-message | 2010-03-13 14:32 | 我流政治学

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法治主義と民主主義、そして自由と平等は、現代社会における基本ルールということができます。

これらのルールでは、個人の多種多様な文化が前提とされていて、それぞれの個人が法の下で平等な関係にあることが基本とされています。

しかしながら、実際の個人が置かれる立場や役割は多種多様なものであり、それぞれの個人の立場や役割が同じになることはありえないように思われます。

つまり、個人の自由や平等という概念は、抽象的には等価な関係にあるものといえそうですが、民主主義そのもののが価値相対主義を前提としていたように、具体的な価値は、あくまで相対的なものでしかなく等価な関係にはないといえそうです。

また、生活実感としても、抽象的な個人の立場は確かに等価なものといえるかもしれませんが、具体的な個人の立場は人それぞれということになっているのではないでしょうか。

このように私たちは、具体的な立ち位置からしか目標を持つことも、自己実現を果たすこともできないという限界の中に置かれているということができます。

つまり、自由と平等の限界の中に投げ出されてしまっているといえそうです。

私たちが、自分の所属する共同体から影響を受けていることが一般的なことは先に述べたとおりです。

そして、個人が社会化されるとは、個人の身体に所属する共同体の文化が刷り込まれていくことでもあります。

つまり、社会化とは、身体化された共同性(文化)ということであるのかもしれません。

身体化された共同性(文化)は、空気のように自然なものということができます。

このため、今ある自然(文化)こそが唯一絶対のものと信じ込むことにもなってしまいます。

そして、自分の自然(文化)が唯一絶対なものと強く信じ込んでいるあまりに、他者の自然(文化)を排外するということにつながっていくことがあるようです。

つまり、身体化された共同性(文化)を相対化することができずに、絶対化してしまっているということです。

従って、自分の文化を相対化し、相手の文化を尊重するという態度こそが、法治主義と民主主義、そして自由と平等という現代社会の基本ルールを守るための前提条件になるといえるのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-02-25 22:18 | 我流政治学

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このように民主主義が自己崩壊してしまう危険から防衛するためには、絶対的ではない、価値相対的なものの見方がもたらす、多様性という土壌が必要になってきます。

そして、民主主義の前提とされる多様性を維持するためには、一定以上に文化の同質化が進むということには、十分な注意を払っておく必要があります。

同質化の問題は、政治システムによることもありますが、むしろ現代社会においては、経済システムによる側面が大きいといえるのではないでしょうか。

つまり、市場原理による合理性や効率性を追求した結果、標準化が促進されることになり、文化が同質化するという側面が強いということです。

また、文化はもともと多種多様であり、それぞれが共同性の強いものであるということは先に述べたとおりです。

ある特定の文化に保守的という姿勢が、他の文化に対する優位性を主張するということになれば、それは政治問題になります。

つまり、他の文化に対する優位性を主張するということは、他の文化を排除するということにもつながり、これは権力関係を意味することになるからです。

「保守」が、もともと文化の問題であったにもかかわらず、政治の問題として理解されるのは、このためであると考えられます。

現実の社会では、相対的優位をにある文化を主流に持つ勢力が、政治体制として「保守」と呼ばれることが一般的といえます。

従って、政治システムで相対的優位に立つ権力が文化的に多様化していくという選択はありえず、同化圧力が強まることで保守化が進み、勢力の拡大方向へと向かうことが一般的といえそうです。

ただ、政治システムには、相対的優位に立つ権力であっても、分裂によって相対的関係を変化させてしまうような局面が生じることがあります。

政治システムに内蔵された、硬直性からの脱却というフレキシブルな自己防衛本能といえるのかもしれません。

このように経済システムや政治システムの持つ権力性は、文化を同質化(標準化)させる圧力として働くということになってしまいます。

従って、経済システムや政治システムの権力性から、ある一定の多様性(差異)を維持していくためには、逆説的なように聴こえますが、ある程度までは文化的に保守化するということも、やむを得ない選択になるといえるのかもしれません。

現代社会では、多様化と同質化、あるいは差異化と標準化が、同時に進展しているという両義的な側面があるということができそうです。

つまり、多様化(差異化)だけでも、また同質化(標準化)だけでも、現代社会の構造は解明することはできないということになりそうです。

また、民主主義はエリートでない普通の人が行う政治システムであることから、必ずしも自律した(多様な)個人ばかりで構成されることを前提にしないということでした。

しかしながら、自律した(多様な)個人がひとりでも多く育っていくということは、民主主義という政治システムを支えるうえでは根幹に関わる重要な問題といえます。

つまり、非対称的な構造(多様化と同質化、差異化と標準化)を同時に生きなければならない現代社会では、卓越したバランス感覚を持った、自律した(多様な)個人の存在が、民主主義を支える必須条件になるということになりそうです

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by kokokara-message | 2010-02-09 21:42 | 我流政治学