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「どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」

これは映画監督小津安二郎の言葉です。

小津にとっての「芸術」とは映画であり、映画は小津のライフワークでした。

「どうでもいいことは世の中の流行に従う」とは、今風に言うのなら瑣末なことは社会的文脈から判断し、スルーした方がいいということになるのでしょうか。

どうでもいいこと(大抵のことはどうでもいいことですね。)に逆らうよりも、とりあえず合わせておく方が無理のない効率的な生き方ができるということです。

そして、道徳は社会における人間関係を処するルールといえますが、同時に時代や社会によって様々に変化していく流動的な行動規範でもあります。

つまり、道徳とは今自分が所属している時代や社会に適用されている、目には見えない社会的制度ということになると思われます。

小津が言う「重大なこと」とは、このような社会的制度に関わる大事であって、この場合はただ流れに合わせるのではなく、今自分が所属している時代や社会の「道徳」に従い、適切に振舞うということになるのではないでしょうか。

最後に小津が言う「芸術」は言うまでもなく映画の創造であり、「自分に従う」ということになります。

創造的行為は、自分と他者(社会)との関係性を十分に認識した上でも、他者(社会)との差異をいかに創出するかという営為に尽きると思われます。

他者(社会)と同じではない、つまりコピーではない亜種が生まれた時、初めてそれが創造的行為と呼ばれることになるのではないでしょうか。

ただし、創造的行為には、スタンダード(世間)からの破たん(ズレ)という大きな痛みが伴うことになります。

このため、スタンダード(世間)からの破たん(クレパス)は、必ずしも大きければ良いということにはなりません。

流行や道徳を参照しつつも、スタンダード(世間)から破たん(ズレ)してしまった感覚を、今一度スタンダード(世間)の中に回収することができた時、破たん(ズレ)の痛みは「逸脱」から「個性」と呼び名を変えることになるのではないでしょうか。

小津が言う「自分に従う」とは、おそらくこのようなスタンダード(世間)との拮抗関係を克己していく、長くて孤独な、それでいて至福でもあった「自分との闘い」のことではなかったでしょうか。

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by kokokara-message | 2015-11-27 23:59 | 我流映画論

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平安京の羅城門はJR京都駅の南側、九条通(千本九条)の辺りにあったとされています。

今は礎石さえも残っておらず、その推定地が羅城門址公園として公開され、児童の遊び場となっています。

映画「羅生門」は、黒澤明監督が、芥川龍之介の原作「羅生門」と「藪の中」を映画化した作品であり、1951年にベェネチア国際映画祭でグランプリを受賞しました。

今では「生きる」や「七人の侍」などとともに、寡作で知られる黒澤明監督の代表作になっています。

映画「羅生門」は、戦乱で廃墟となった羅生門に大雨が降るシーンから始まり、ラストは雨があがって薄日が差す羅生門が大きく写し出されて終わります。

この二つの羅生門をつなぐ物語が、芥川龍之介の原作「藪の中」という構成となっています。

原作「藪の中」で主題になるのは、ひとつの事件(現実)に対して証言者の数だけ証言内容(現実=リアリティ)が存在するという矛盾と混乱です。

物語は、治安が悪化した京都周辺の山中で発生した強姦殺人事件に関連があるとされる数人の男女が、検非違使庁から証人者として呼び出される場面から始まります。

そして、それぞれの証人者は自分の立場から見た事件(自分の現実=リアリティ)について、次々と証言をするというスタイルで物語は進行していきます。

このとき、おそらく映画を観ている観客の多くは、強い違和感を持つことになるのではないでしょうか。

それは、それぞれの証人の証言が大きく食い違っているにもかかわらず、それらの証言が等価なものとして順次並列するという構成になっているからです。

どれもが等価である多様な現実が並列するということは、自分の現実(リアリティ)だけが存在しているものと素朴に信じている人にとっては矛盾ということになります。

観客の多くは、このようなカオス(混乱)状態を受け入れることができないため、強い違和感を抱くということになってしまうのではないでしょうか。

さらに、それぞれの証人が語る内容は、自分にとっての正義(倫理)であるため、殺人や強姦という犯罪行為についてさえも、それが倫理的な行為であるか、非倫理的な行為であるかという判断が一義的に下せない両義的な構造を伴った映画となっています。

このため、真実(現実)はひとつという素朴な世界観で生きている観客からすれば、映画「羅生門」は、その構成が複雑なだけではなく、物語としてのセオリーを無視した、無秩序な映画として映ってしまうことになるのかもしれません。

実際に映画が公開された当時(1950)の日本映画界は、多くの映画評論家のみならず、「羅生門」を製作をした映画会社の大映までが困惑と戸惑いに陥ることになり、興行面においても観客の好奇心から見放されてしまうということになってしまいました。

では、なぜこのように日本で低い評価しか受けることがなかった映画「羅生門」が、ベェネチア国際映画祭に出品されることとなり、さらに、グランプリの受賞という極めて高い評価を受けるまでになったのでしょうか。

当時の日本映画界は、まだ国際映画祭にはなじみが薄く、ベェネチア国際映画祭からの出品依頼があったものの何を出品すればいいのかという基準すらなかったという実情であったようです。

このため、イタリア映画会社から社員が派遣されることとなり、多くの日本映画の中から候補作品を探すという作業にあたりました。

そして、当時公開されていた作品のうちで、そのイタリア人の眼に留まった作品が「羅生門」であったということであり、ベェネチア国際映画祭の出品作として推薦されることになりました。

そのイタリア人の推薦の基準(映画批評)が、やがてグランプリの評価基準とも重なることになるわけですが、これは黒澤明監督の映画「羅生門」(おそらくその原作となった芥川龍之介の「藪の中」も同様ですね)が、ヨーロッパにおいても普遍的価値を持つ芸術作品として受け入れらたということを意味しているのではないでしょうか。

ところで、黒澤明の映画「羅生門」は、実にポストモダンな映画ということが出来そうです。

芥川龍之介は文学作品においては、ポストモダン的表現方法をとっていたようですが、日本映画においては、おそらく黒澤明が最初の試みではないでしょうか。

映画「羅生門」が公開された当時(1950)は、まだポストモダンという言葉が一般に使用されることもなかったのかもしれません。

しかしながら、構造主義という実体ではなく関係性を見るという世界観(パラダイム)は日本においてもすでに存在していたようです。

また、独我論としてみたフッサールの現象学は、まさに現実がひとつだけではないということを言い当てるための世界観(パラダイム)といえるのかもしれません。

映画「羅生門」の原作となった芥川龍之介の「藪の中」では、その作品のタイトルが暗示しているように、社会のすべての事象には「あらかじめ決まった答えはない」という世界観(パラダイム)を採用しています。

つまり、社会事象はその見る角度や感情(心理状態)、さらには恣意的な自分勝手な立ち位置によって、見える世界や、語る世界は大きく内容を変えてしまうことになってしまうということです。

社会の事象は、白か黒(今風に言えば勝ち組と負け組)という二項対立の語り口で済ますことが出来るほど単純な成り立ちにあるのではなく、おそらく社会の事象のすべてがその間のグレーゾーンのいずれかに存在することになっているのではないでしょうか。

誤解がないように付け加えるとすれば、世界観(ものの見方)は複雑なものが良くて、単純なものが低級(ダメ)といっているわけではないということです。

そのような批評自体が、二項対立に陥ってしまっていることを証明しています。

つまり、ほとんどの事象がグレーゾーンにあると考察する姿勢が、暫定的ではあっても求められることになるということです。

たとえば、自分が何かを言明するような場合でも、自分の意見は多くの意見の中のひとつでしかないという(謙虚な)姿勢を忘れずに持っていることが求められます。

おそらく白黒けりをつけるようなコミュニケーションでは、相互理解に破綻を来たすことは明白であり、その結果大きい声の意見が通ることにもなってしまっては、社会的利益の損失につながりかねません。

多元的なものの見方をするということが、コミュニケーション(交換)を図るためのメタルール(倫理的な約束事)として求められる姿勢といえるのではないでしょうか。

もし、お互いの話が通じないという状況にあるとすれば、おそらく、それはこのようなメタルールの共有ができていないことが原因になっているといえそうです。

お互いの文化は、その固有性を尊重するしかないといえるのかもしれません。

ところで、黒澤明の映画は、ヒューマニズムの映画という形容詞がつけられて呼ばれることがあります。

では、黒澤明のヒューマニズムとポストモダンとの関係については、どのようになっているのでしょうか。

まずは、ポストモダンについて少し考察をします。

ポストモダンは、とても分かりにくい世界観(ものの見方)といえるのですが、ポストモダンについて説明をしようとすればするほど、その核心がどんどん逃げてしまうようなところがあります。

つまり、言葉の表現で埋め合わせようとすればするほど、逆にグレーゾーンが増えて蓄積されていくという関係になっているように思われます。

詰まるところ「底がない」(答えがない)という足場のなさこそが、ポストモダンという世界観(ものの見方)の大きな特徴といえるのかもしれません。

ポストモダン的な世界観(ものの見方)は、現代においては特に珍しいことではないといえるのかもしれません。

しかしながら、原作の芥川龍之介や映画化した黒澤明の時代にあっては、このような世界観(ものの見方)を持ち合わせていることが稀有なことであったのではないでしょうか。

おそらく当時の日本人の感覚(一元的なものの見方)からすれば、芥川龍之介や黒澤明の持っていた感覚(多元的なものの見方)は異質なものとして映っていたのではないでしょうか。

原作の「藪の中」は、事象のすべては相対的なものでしかなく、絶対的な真実は藪の中という唐突な結末で短編小説は突然終わってしまうことになります。

しかしながら、黒澤明監督は映画「羅生門」では、その物語の終了後もう一度廃墟となった羅生門を登場させ、先に検非違使庁で証言者した人物たちをその舞台である羅生門に登場させることになります。

そして、羅生門に登場した証言者のひとりには、そばに捨てられていた赤ん坊の身包みを奪い取るという悪行を採らせることになります。

そして、もうひとりの証言者には、その捨てられ身包みをはがされた赤ん坊を自ら引き取って家に連れ帰る善行を採らせています。

この非対称的なふたつの行動は、映画のラストシークエンスの中で実に淡々と描かれています。

現実の社会は、真実(正義)などどこにもなく事象はすべて藪の中と高をくくり、次々と悪行を重ねる極悪人が跋扈する荒廃たる弱肉強食の世の中なのかもしれません。

そして、私たちは、このような救いのない世の中に無常を感じながらも、一方では流されていくしかないことを知っている諦念の存在であることもまた事実と言えそうです。

しかしながら、どれだけ人倫が荒廃した世の中であっても、ほんの少しの救いがまだ残っていることを知れば、ひょっとすれば、人はそのわずかな希望に明日をつないで生きていくことが出来る存在であるのかもしれません。

最後は、戦乱で廃墟し、大屋根も大柱もすでに倒壊してしまった羅生門に、雨があがりの薄日が差し込むシーンで映画「羅生門」は終わります。

このラストシーンは、まさに「黒澤明のヒューマニズム」を象徴しているのではないでしょうか。

ヒューマニズムとは何か。

荒廃してしまった人の世(の倫理)に、まだ「底があった」(真実が残っていた)ことを伝令してくれる、希望の陽ざしといえるのではないでしょうか。

・・・・・・・・

(おわり)

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by kokokara-message | 2011-07-14 22:37 | 我流映画論

黒澤明の映画は、ヒューマニズムの映画という形容詞がつけられて呼ばれることがあります。

では、ポストモダンとヒューマニズムとの関係はどのようになるのでしょうか。黒澤明のヒューマニズムの最終回をご覧ください。
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ポストモダンとは、とても分かりにくいものといえますが、ポストモダンを説明しようとすればするほどその核心はどんどんと逃げていくようなところがあるようです。

言葉で表現しようとすればするほど、グレーゾーンが増えて蓄積されていくという関係になるのでしょうか。

詰まるところ「底がない」(答えがない)という足場のなさこそが、ポストモダンの特徴と言えるのかもしれません。

ポストモダン的なものの見方は、現代においては特に珍しいものではないのかもしれませんが、原作の芥川龍之介や映画化した黒澤明の時代においては、このような世界観を持ち合わせていることが稀有な存在であったのかもしれません。

おそらく当時の日本人の感覚(一元的なものの見方)からすれば、芥川龍之介や黒澤明の持っていた感覚(多元的なものの見方)は異質なものとして映ったのではないでしょうか。

原作の「藪の中」は、事象のすべては相対的なものでしかなく、真実は藪の中というように終わってしまうのですが、黒澤明監督は映画では、その後に再び廃墟となった羅生門のシーンを設定し、検非違使庁に呼び出された証言者たちを登場させています。

再び登場した証言者のひとりには、羅生門に捨てられている赤ん坊の身包みを奪い取らせるという行動をとらせます。

そして、もうひとりの証言者には、その捨てられている赤ん坊を引き取って家まで連れ帰るという行動をさせています。

これらの非対称的な行動は、実に淡々と描かれています。

現実の社会には真実などはどこにもなく、事象はすべて藪の中と高をくくって、次々と犯罪を重ねていく悪人が跋扈しているような荒廃した世の中と言えるのかもしれません。

また、私たちが、このような救いのない世の中に無常を感じながらも、流されるしかないことをどこかで知ってしまっている存在と言えるのかもしれません。

しかしながら、どれだけ荒廃した世の中にあっても、ほんの少しの救いがまだ残っていることを知れば、人はほんのわずかな希望でも明日につないでいくことが出来る存在であると思います。

最後は、戦乱で廃墟し屋根も柱も倒壊してしまった羅生門に、雨があがりの薄日が差し込むというシーンで映画は終わります。

このラストシーンは、まさに黒澤明のヒューマニズムを象徴していると言えるのかもしれません。

ヒューマニズムとは何か。

荒廃してしまった人の世(の倫理)に、まだ「底があった」(真実が残っていた)ことを伝えてくれる、希望の陽ざしと言えるのではないでしょうか。
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by kokokara-message | 2009-07-12 07:59 | 我流映画論

黒澤明の映画「羅生門」は、実にポストモダンな映画ということが出来ます。

芥川龍之介は文学でポストモダンな表現方法をとっていたようですが、日本映画では黒澤明が最初ではないでしょうか。

黒澤明のヒューマニズムの2回目をご覧ください。
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映画「羅生門」が公開された当時は、ポストモダンという言葉が使われることも少なかったのかもしれません。

しかしながら、構造主義のような実体ではなく関係性を見るという世界観はすでに存在していましたし、独我論としてみた場合の現象学は、現実がひとつだけではないということを説明するための世界観になっていたかもしれません。

映画「羅生門」の原作となった芥川龍之介の「藪の中」では、その作品のタイトルが暗示しているように、社会のすべての事象にはあらかじめ決まった答えはないというものの見方を採っています。

つまり、社会事象はその見る角度やその心理状態、さらには恣意的な立ち位置によって、見える世界や、語る世界は大きくその内容を変えてしまうことになるということです。

社会の事象とは、白か黒(今風に言えば勝ち組と負け組み)という二項対立の語り口で済ますことが出来るほど単純な成り立ちをしているのではなく、おそらく社会の事象のすべてはその間のグレーゾーンのどこかに存在するということになるのでしょう。

誤解がないように付け加えると、ものの見方は複雑なものが良くて、単純なものはダメと言っているのではありません。

そのこと自体が二項対立に陥っています。

ほとんどの事象がグレーゾーンにあるものとして考察する姿勢が求められるということです。

たとえば、自分が何かを言明するような場合でも、自分の意見は多くの意見の中のひとつでしかないという(謙虚な)姿勢を忘れずに持っていることが求められます。

白黒けりをつけるようなコミュニケーションの方法では、相互理解に破綻を来たすことは明白であり、その結果大きい声の意見が通るようになってしまっては、社会的利益の損失にもつながりかねません。

多元的なものの見方をするということが、コミュニケーション(交換)を図るためのメタルール(倫理的な約束事)として求められる姿勢と言えるのではないでしょうか。

もし、お互いの話が通じない状況にあるとすれば、おそらく、それはこのようなメタルールの共有ができていないことが原因と考えられそうです。

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by kokokara-message | 2009-07-11 18:36 | 我流映画論

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平安京の羅城門はJR京都駅の南側、九条通(千本九条)の辺りにあったとされていますが、今はその礎石さえも残っておらず、推定地が羅城門址公園として公開され、児童の遊び場となっています。

映画「羅生門」は、黒澤明監督が、芥川龍之介の原作「羅生門」と「藪の中」を映画化した作品で、1951年にベェネチア国際映画祭でグランプリを受賞し、今では黒澤明監督の代表作のひとつとなっています。

映画「羅生門」は、戦乱で廃墟となった羅生門に大雨が降っているシーンから始まり、ラストは雨のあがった羅生門が映し出されて終わります。

この二つの羅生門をつなぐ物語が、芥川龍之介の原作「藪の中」という構成になっています。

原作「藪の中」で主題になるものは、ひとつの事件(現実)に対して証言者の数だけ証言内容(現実)が存在するという矛盾と混乱です。

物語は、治安の悪化した京都周辺の山中で発生した強姦殺人事件に関連があるとされた数人の男女が、検非違使庁から証人として呼び出されるところから始まります。

そして、それぞれの証人は自分の立場から見た事件(自分の現実)について次々と語る形式で物語は進んでいきます。

このとき、映画を観ている観客は強い違和感を持つことになります。

それは、それぞれの証人の証言が大きく食い違っているにもかかわらず、それらの証言が等価なものとして、順次並んで配列させていくという構成に対してです。

どれもが等価である現実が並んで存在するということは、ひとつの(自分だけの)現実だけが存在していると素朴に信じている観客にとってはあきらかに矛盾です。

多くの観客はこのようなカオス(混乱)を受け入れることができないために、強い違和感を抱くということになります。

さらに、それぞれの証人が語る内容は、自分にとっての倫理であるために、殺人や強姦という犯罪行為についてさえも、倫理的な行為であるか、非倫理的な行為であるかという一義的な判断が下せないような映画の構造になっています。

このため、真実(現実)はひとつという世界観で生きている観客にすれば、「羅生門」という映画は、その構成が複雑なだけではなく、物語としてのセオリーを無視した、無秩序な映画に映ってしまいます。

実際に映画「羅生門」が公開された当時の日本映画界は、多くの映画評論家だけではなく、製作した大映までもが困惑と不快感でとらえることになっており、興行面においても観客が入らなかったことは言うまでもありません。

では、なぜこのように日本で低い評価しか受けなかった映画が、ベェネチア国際映画祭に出品されることになり、そしてグランプリを受賞するまでに至ったというのでしょうか。

当時の日本映画界は、まだ国際映画祭になじみが薄く、ベェネチア国際映画祭からの出品依頼にも何を出品すればいいのかという基準を持っていなかったという実情があります。

やむなくイタリア映画会社から人が派遣され、多くの日本映画の中から候補作品を探すことになります。

そして、当時公開されていた作品のうちそのイタリア人の目に止まった作品が「羅生門」であり、ベェネチア国際映画祭への出品作として推薦されることになります。

その推薦の基準(映画批評)が、やがてグランプリの評価基準とも重なっていくことになるのですが、これは黒澤明監督の映画「羅生門」(おそらくその原作となった芥川龍之介の「藪の中」も同様ですね)が、ヨーロッパにおいて普遍的価値を持つ芸術作品として受け入れらたことを意味しています。

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by kokokara-message | 2009-07-11 00:36 | 我流映画論

小津安二郎の言葉

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「どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」

これは映画監督小津安二郎の言葉です。

小津にとっての「芸術」とは映画であり、映画は小津のライフワークでした。

どうでもいいことは世の中の流れに従うとは、今風に言うのなら瑣末なことは社会的文脈から判断してスルーした方がいいということになるのでしょうか。

逆らうよりも合わせておくほうが無駄の少ない生き方ができるのは事実です。

道徳は社会における人間関係を処するルールといえますが、所属する社会や時代によっても変化していく流動的な規範ともいえます。

従って、道徳はその社会やその時代にあって目に見えない社会的制度として機能しているものと言えます。

小津が言う重大なことは、おそらくこのような社会的制度に関わる大切な事案であり、これに対しては、ただ世の中の流れに従うのではなく、自分が習得した知識や経験にからその社会や時代に適用されている社会的制度を参照し適切に振舞うということになるのでしょう。

最後に小津が言う芸術とは映画の創造です。

創造行為とは自分と社会との関係性を十分に認識した上でも、人との差異をいかに創出するかということに尽きると言えます。

世の中や社会的制度をただコピーして参照するだけでは、創造行為と言うことはできません。

そこにズレが生じて、コピーではない亜種が生まれることによって創造性の芽を見出すことができるようになるのでしょう。

このようにコピーではない亜種が「差異の創造」ということになりそうですが、これは映画の創造だけについて言えることでないことは言うまでもありません。

創造性が求められるすべての行為は、創造者の感覚の破綻という痛みによって支えられていると言えるのではないでしょうか。

従って、差異のクレパスはただ大きいほうがいいというものではありません。

あくまで世の中の規範や社会的制度を参照しつつも、一般感覚(というフィクション)から逸脱してしまった個性が、やがて社会の中に受け入れられるようになったとき、その個性は「創造性」と呼び名を変えることになるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2009-06-28 22:59 | 我流映画論