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新年度が始まって、二週間が経過しました。

新年度のあわただしさの中で、誰もがこの時期疲れが溜まっていることと思われます。

ゴールデンウィークまでもう少しです。

すぐに出来ないことは適当にスルーして、少しペースダウンしながら、あと二週間頑張りましょう。

ところで、昨今職員研修などで、コミュニケーション(交換)の重要性について講義を受けることが多いと思われます。

では、何気なく使用しているコミュニケーション(交換)とは、一体何のことなのでしょうか。

おそらく、コミュニケーション(交換)とは、概念の交換に尽きるのではないかと思われます。

では、概念の交換とは、一体なんのことでしょうか。

つまり、言葉(概念)の交換ですね。

おそらく、言葉(概念)の交換とは、もともと多様で差異のある具体や抽象をカテゴリー化(分類化)し、違うはずのものを同じであると思い込む(勘違いする)錯覚のことではないかと思われます。

つまり、コミュニケーション(交換)とは、それぞれが多様で差異のある具体(柴犬など)や抽象(私の自由など)を想起しながらも、同じものにカテゴリー化(分類)された言葉(イヌや自由などという普通名詞)を使用することで、そもそも一致していないはずの意味を一致していると思い込む、錯覚のことではないかと言うことです。

むろん、誰もがこのような言葉の意味の不一致に気づき、錯覚に戸惑い違和感を覚えるわけではありません。

ただ、コミュニケーション(交換)の原理を突き詰めると、一見会話が成立しているかのように見えたとしても、その内実は言葉の不一致を一致と思い込む極めてリスクの高い臆断(おくだん)が繰り返されていることになります。

つまり、人間はこのようなお互いの不一致、つまり関係性の決定不可能性(決まった答えが得られない世界)を生きなければならない宿命にあるということになります。

かような宿命への諦念からか、やがて人は加齢とともに口数少なく寡黙になっていく傾向があるとされています。

おそらく、これは人の成熟の度合いとコミュニケーション(交換)の不具合の発生が反比例する関係にあるということかもしれません。

つまり、人は加齢とともに、「他者」との間に横たわる「話が通じない」という絶望(隔絶)にやがて気づいていくことになります。

そして、かような絶望(隔絶)は、人の根源である「孤独」を前景化させ、もうひとつの避けがたい絶望(隔絶)である「自分の死」を意識化させることになります。

おそらく、人が成熟するということは、かような日常のすぐそばに潜む「他者」や「孤独」や「自分の死」という非日常(デスコミュニケーション)と、いかに適切な関係を維持できるかということになるのではないでしょうか。

そして、かような諦念や死生観を超越し成熟するに至った日本人が、なによりも美徳としたコミュニケーションの方法は「饒舌」ではなく「寡黙」でした。

武士の一言です。

これは、他者との不具合(隔絶)を蓄積していく「饒舌」よりも、他者との不具合(隔絶)を遠ざていく「寡黙」の方が、より洗練されたコミュニケーション(交換)の方法とみなす文化があったということになると思われます。

例えば、長く連れ添った老夫婦がそうであるように、「成熟した人間関係にはもはや会話は必要としない」とする逆説的なコミュニケーションこそが、人間関係の根底に横たわる隔絶(デスコミュニケーション)を超越する究極のコミュニケーションになるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

【追記】
コミュニケーション(交換)の原理からすると、上記のとおり、人間関係は「何もしないのが一番」という身も蓋もない結論になってしまいます。

しかし、そうは言いながらも、比較的負荷の少ないコミュニケーション(交換)の方法を模索するのなら、それは詰まるところ「人には親切にすれば良い(意地悪はしない)」という人間関係の距離の確保(必要以上にかかわらない)に尽きるのではないかと考えますが、さていかがでしょうか。

ただし、いくら親切が大事と言っても、不逞の輩には、そこは慇懃無礼、さかさ箒、ぶぶ漬けの逆説的距離感の確保が適切なことは言うまでもありませんが(笑)。

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by kokokara-message | 2015-04-15 22:38 | 我流コミュニケーション論

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今から十数年前、ハワイのオアフ島を数年間続けて訪れるという経験をしました。


ハワイへの観光旅行が珍しいという時代ではなかったのですが、やはりそこは異国の地、習慣と文化の違いを感じることになりました。


習慣や文化の違いは、頭では理解したつもりになっても、いざ現地の習慣を行動に移すとなるとなかなかできないものです。


習慣と文化という壁(思考パターンの相違)の高さを感じることになります。

最初に習慣の違いを感じたのは、ホテルのエレベーターの中です。


ハワイでは、エレベーターなどの狭い空間で知らない人と距離が急接近したときには、必ず相手に向かって笑顔を見せるという習慣があります。


日本では、このようなときに明るい笑顔を見せる人は少数で、おそらくは押し黙ったまま仏頂面をして我慢しているのが一般的ではないでしょうか。


日本では、知らない人に笑顔を見せるということが、親愛や敬愛、場合によっては愛情の表現と受け取られてしまうところがあります。


ハワイでは、知らない人に笑顔を見せる意味は、自分に敵意がないことを示すということであり、相手との距離を確保するための自己防衛手段といえます。


アメリカは、自分の安全は自分で守るということが徹底された社会であり、笑顔もインターフェースの媒体として使用されるマナーのひとつです。


マナーは、社会的な記号としての意味を持つことから、その記号の意味が社会で共有されていれば、マナーによるコミュニケーションの効率化が図られことになります。


要するに、ハワイでは知らない人と急接近したとき、とりあえず微笑みかけておけば、危険な目にはあわない蓋然性が高くなるというわけです。

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ところで、日本人(私)にとっては、笑顔がマナーであると理解はできても、いざ知らない人に笑顔を見せることには強い抵抗があり、私の場合では、ハワイで自然な笑顔が出るまでに数年かかることになりました。


ハワイへ出かけるようになってから5年は経っていたと思います。

ホノルル郊外にあるマノア・フォールズに滝見物のトレッキングに出かけたとき、山の中で突然アメリカ人ハイカーと出会うことになりました。


暗いジャングルの中のことです。


おそらく、お互いが緊張をする場面ですが、このときはじめて私の方から自然に笑顔を見せることができました。


相手も私に笑顔を返してきてくれて、お互いが笑顔で道を譲り合う光景となりました。


このように、ハワイで知らない人に笑顔を見せることには、日本の儒教的意味の上下関係はほとんど含んでおらず、ただお互いが自分の身の安全を守るため、合理的かつ効率的にメッセージを発信するだけです。


ただし、ハワイにおいても日本の長幼の序のような、年配者を敬うという習慣がないわけではありません。


むしろ、ハワイの街の方が歩道やバスの仕様などバリアフリーとなっている等、年配者や障害のある高齢者に配慮された街づくりになってるといえそうです。


つまり、ハワイでは笑顔や親切が日常の生活に組み込まれた社会のマナーになっていて、決して恣意的で個人的な感情の発露というわけではないということです。


ハワイでの笑顔や親切は、愛情や施しの感情表現ではなく、多様化社会を構成員が安心安全に暮らすための知恵(マナー)ということになりそうです。

ところで、日本語には敬語と言うコミュニケーションの表現手段があります。


むろん、外国にも似たものはあるのですが、日本語の敬語は、謙譲語、尊敬語、丁寧語などが入り混じる等、文法的には実にややこしいものになっています。


では、なぜ私たちは、日常生活の中でこのようなややこしい敬語を使用することになるのでしょうか。


一般的には、敬語は、敬愛や尊敬を表す意味で使用されていると考えられています。


日本の社会は儒教の影響を受けていることから、長幼の序という年長者を敬うルールがあり、年長者に対する敬愛や尊敬が求められるところがあります。


しかしながら、私たちが敬語を使用するというのは、果たして年長者に対する敬愛や尊敬を表現しなければならない場面だけなのでしょうか。


ハワイにおいては、知らない人に笑顔を見せることが、自分の身の安全を守る自己防衛手段ということでした。


日本においても、知らない人に敬語を使用することには、おそらく自己防衛のための手段という意図も含まれてはいないのでしょうか。


日本の社会では、誰もがいずれか(あるいは複数)の社会的文脈(世間)に所属しながら暮らしているというのが一般的です。


相手がどのような社会的文脈(世間)に所属しているか分からない場合は、とりあえず相手と距離をとって接することが、自分の安全確保につながることについては誰もが納得するところではないでしょうか。


また、同じような社会的文脈(世間)に属していたとしても、より多くの既得権益(地位や権力)を持った人は、それを持たない人よりも、不可知な部分をより多く抱え持った人でもあるということです。


つまり、
私たちが敬語を使用するのは、このような知らない人であったり、偉そうな人であったりということになり、必ずしも敬愛や尊敬の表現手段ではないということです。

私たちが敬語を使用する場面は、人間関係の十分な距離感が求められる緊張した場面といえそうです。


接客業における敬語の使用方法等は、まさにこのようなパターンになるのではないでしょうか。


以上からすると、日本語の敬語には、本来の敬愛や尊敬の表現とは真逆の、不可知な相手への警戒心と距離感の確保が含意されている言えそうです。


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「慇懃無礼」という四字熟語や「鬼神は敬してこれを遠ざく」ということわざは、皆様もご存知のことと思われます。


いずれの言葉も、どうしても近づきになりたくない人に対して、あえて丁重に振る舞って(敬語を使用して)早々にご退場をいただくというものです。


京都には「逆さ箒」や「京のぶぶ漬け」という抑圧された文化(カウンターカルチャー)が存在します。

嫌な客に対して、丁寧な敬語や丁重な接待で慇懃にもてなすという真逆で転倒した表現方法のことです。


この対応などを見ていると、まさに敬語に含まれた反語的意味がよく表れているのではないでしょうか。


先にも触れましたとおり、日本の社会では、知らない人や偉そうな人に対して敬語で接するということが一般的なマナーとなっています。


そして、このような敬語の使用方法が、日本の社会システムを安全かつ効率的に維持するうえで優れた記号的役割を果たしているといえそうです。


従って、アメリカ人の笑顔のマナーと日本人の敬語のマナーは、ともに社会の中の不可知な他者と距離感を確保するという目的では共通したものといえそうです。


ただし、日本人の笑顔のメッセージは未だ社会的に成熟した領域に達していないところがあり、笑顔が恣意的で多義的な愛情表現と受け取られてしまっているところがあるようです。

このため笑顔のメッセージが、不可知な相手との距離を確保するどころか、不可知な相手を逆に近づけてしまうことにもなってしまいます。


マナーとは社会の規範(公共ルール)であって、マナーは社会システムの安全と効率化を図ることを目的とした記号(笑顔や敬語など)であるはずです。


このことからすれば、日本人の笑顔は、受け取る側の恣意的な解釈によって評価されてしまう多義的なメッセージということになり、安心して使用できる一義的な意味の公共マナー(社会規範)の領域にはないということになります。


最初に触れましたが、私がハワイで自然な笑顔が出せるまで5年もかかったように、日本人にとっての笑顔は社会生活を円滑に送るためのスキル(マナー)としてではなく、どちらかと言えばありのままの自分の自然な感情の発露(でありたい)という意味合いが俄然強いように思われます。


もちろん自然な感情が劣等で、社会化されたマナーが高級というような短絡的な話しではありませんので、ご注意を。


日本の社会には、古来より社会的にニュートラルなポジションを維持するための方法として、人前でむやみに笑顔を見せない「武士の文化」がありました。


日本の社会では、人前で歯を見せないことや能面のように無表情でいることが、笑顔の表情よりも知的で洗練された表情であると評価されるところがあったようです。


おそらく、古来より日本人にとっての笑顔は自然であったからこそ、笑顔を見せない無表情の造作の方が自己機制の効いたより高度で知的な営為として評価されることになったのではないでしょうか。


昨今、日本の社会でも、顧客満足度(CS)など、笑顔のマニュアル化が進んでいるようです。


日本人にとって敬語とは、敬愛や尊敬であるとともに、相手との適切な距離感を確保するための手段(マナー)ということでした。


顧客満足度(CS)の笑顔のマニュアル化の意味は、おそらく敬語のマナーと同じように、顧客との適切な距離感をいかに確保するかということに尽きると思われます。


今後、日本人の笑顔が、社会的なマナーとして認知されていくためには、まずは笑顔は自然な感情の吐露ではなく、人間関係を円滑にするための技術的な知的な営為であることの理解が図られることが必要であると思われます。


日本独自の儒教的な尊卑の社会的文脈を考慮しても、笑顔が人間関係の距離を確保する有効なスキルとして共通理解されるようになれば、おそらく人間関係は今よりもフラットなものとなり、パターナリズムは和らぎ、お互いがそのまま尊重し合える関係を構築することも可能になるのかもしれません。


そして、個人がありのまま尊重し合える関係が構築でされれば、もはや日本人は能面のままの無表情でいる必要はなく、各自がそれぞれのニュートラルなポジション(アジール)で、自分の所属する社会的文脈における自分の役割を果たすということも可能になるのではないでしょうか。

ここで言うニュートラルなポジション(アジール)とは、外部からの過度な同調圧力やパターナリズム、あるいは内面からの過度の忖度(そんたく)のような、内外からのストレスから自由になれるような立ち位置のことです。

そもそもコミュニケーションは、人間の創造性と深くつながっているところがあります。

内外のストレスによって、抑圧的されたコミュニケーションは、決して人間の創造力を活性化させるものではありません。


笑顔と敬語のマナーが、より積極的な形で他者との距離を確保する手段となれば、笑顔と敬語は、不可思議でストレスフルな他者とも創造的な関係性を可能にしてくれるコミュニケーションの魔法のツールになることも夢ではないと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

【追記】

「笑顔と敬語のコミュニケーション」をご一読いただきありがとうございました。

笑顔とは、端的にいうと、口角を上げ、目じりを下げるという顔の表情筋の運動のことです。

この運動は脳を活性化させるらしく、従って笑顔と幸せの間には因果関係があるといえそうです。

しかしながら、言霊文化を持つ日本では、饒舌な笑顔よりも、無口な無表情が重要視されるという傾向は今後も相変わらないように思われます。

日本では、アルカイックスマイル(飛鳥仏のような口元だけの微笑み)が主流という時代はしばらく続きそうですね。

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by kokokara-message | 2014-03-06 22:23 | 我流コミュニケーション論

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新年度が始まって、三週間が経過しました。

新年度のあわただしさの中で、誰もがこの時期疲れが溜まっていることと思われます。

ゴールデンウィークまであと少しです。

適当にスルーしながら、少しペースダウンして、あと一週間頑張りましょう。

ところで、職員研修などでは、コミュニケーションの重要性について講義を受けることが多いと思われます。

では、コミュニケーションとは、一体何なのでしょうか。

おそらく、コミュニケーションとは、概念の交換に尽きるのではないかと思われます。

では、概念の交換とは、一体どういうことなのでしょうか。

おそらく、概念の交換とは、もともと多様で差異のある具体や抽象をカテゴリー化(分類化)し、違うはずのものを同じであると思い込む(勘違いする)錯覚のことではないでしょうか。

つまり、コミュニケーションとは、それぞれが多様で差異のある具体(柴犬など)や抽象(私の自由など)を想起しながらも、同じものとしてカテゴリー化された言葉(イヌや自由などの言葉)を使用することで、一致していないはずの意味を一致していると思い込む、錯覚のことではないかと言うことです。

むろん、誰もがこのような意味の不一致に気づき、錯覚に違和感を覚えるわけではありません。

ただ、コミュニケーションの原理を突き詰めれば、一見会話が成立しているかのように見えても、その内実は不一致を一致と思い込む極めてリスクの高い臆断(おくだん)が繰り返されているということになります。

つまり、人間はこのようなお互いの不一致、つまり関係性の決定不可能性(決まった答えが得られない世界)を生きなければならない宿命にあるということになるのかもしれません。

かような諦念からか、人間は加齢とともに寡黙になっていく傾向があると言われています。

おそらく、これは人間の成熟の度合いとコミュニケーションの不具合の割合が反比例する関係にあるということではないでしょうか。

つまり、人間は加齢とともに、他者との間に横たわる「話が通じない」という隔絶に気づいていくことになります。

そして、この隔絶は、人間の根源でもある孤独を経由し、やがてもうひとつの避けがたい隔絶である「自分の死」を意識化させることになります。

人間の成熟の度合いとは、このような日常のすぐそばに潜む「他者」や「孤独」や「自らの死」という非日常(デスコミュニケーション)と、いかに適切な関係が維持できるかということにかかっているのかもしれません。

かような死生観を持つ日本人が美徳としたコミュニケーションの方法は、饒舌よりも寡黙でした。

武士の一言です。

これは、他者との不具合(隔絶)を蓄積する「饒舌」よりも、他者との不具合(隔絶)を遠ざける「寡黙」の方が、コミュニケーションの方法としては、より成熟し洗練されたものとみなす文化があったということではないでしょうか。

従って、長く連れ添った老夫婦がそうであるように、「成熟した人間関係には会話は必要としない」とする逆説的なコミュニケーションこそが、人間関係の根底に横たわる隔絶(デスコミュニケーション)を超越できる究極のコミュニケーションの方法になるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2013-04-20 23:24 | 我流コミュニケーション論

奥明日香には稲渕、栢森、入谷の集落があります。稲渕は棚田百選になっています。
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私が、ハワイで自然な笑顔が出るまで5年もかかったように、日本人にとって笑顔は、自然な感情表現という意識が強いように思われます。

つまり、笑顔は、社会化されたメッセージを伝える記号としての意味ではなく、あくまで個人の自然な感情の発露ということになります。

もちろん自然な感情表現が劣等で、社会化されたマナーが高級というような短絡的な話しではありません。

日本においては、社会的にニュートラルなポジションを維持するためには、人前で笑顔を見せないことが望ましいこととされてきました。

人前で歯を見せないことや能面のような無表情でいるということが、知的な表情とされてきたということです。

従って、日本のマナーでは、表情を崩さない、笑顔を見せないということが他者との距離を確保する手段とされてきたことになります。

昨今、日本の社会でも、顧客満足度(CS)などによって、笑顔のマニュアル化が進んでいるようです。

日本人にとっての敬語の意味は、適切な距離を確保するというものでした。

顧客満足度(CS)におけるマニュアル化された笑顔の意味も、おそらく敬語の使用法と同じで、顧客との適切な距離をいかに確保するかということになっていると思われます。

笑顔の意味が少し変わり始めているのかもしれません。

笑顔がマナーとして社会に浸透するためには、笑顔の意味が、自然な感情表現ではなく、他者との適切な距離を確保する手段として認識される必要があります。

このことが、日本社会の儒教的な上下の文脈を考慮したうえでも、人間関係をよりフラットなものとすることになるのではないでしょうか。

フラットとは、お互いの置かれている立場をそのまま尊重するという意味です。

やがて、日本でも、笑顔を見せることが、ニュートラルなポジションとして認識される日もくるのかもしれません。

また、コミュニケーションは、創造性と深くつながっています。

ストレスフルで、抑圧的なコミュニケーションは、創造性の芽をつんでしまうことになります。

敬語や笑顔のマナーが、より積極的な形で他者との距離を確保する手段となれば、コミュニケーションは、より創造的な関係性に変化していくものと考えますが、いかがでしょうか。

【追記】
「笑顔と敬語のコミュニケーション」をご一読いただきありがとうございました。

笑顔とは、端的にいうと、口角を上げ、目じりを下げるという表情筋の運動のことです。

この運動は脳を活性化させるらしく、笑顔と幸せには因果関係があるといえそうです。

しかしながら、言霊文化を持つ日本では、饒舌な笑顔よりも、無口な無表情が重要視されるという傾向は今後も相変わらないようですね。

アルカイックスマイル(飛鳥仏のような口元だけの微笑み)が主流の時代は続きそうですね。

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by kokokara-message | 2009-09-08 00:49 | 我流コミュニケーション論

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慇懃無礼という言葉や「鬼神は敬してこれを遠ざく」ということわざがあります。

どうしても近づきになりたくない人に対しては、あえて丁重に扱って(敬語を使用して)早々にご退場をいただくというものです。

京都には「逆さ箒」という抑圧文化があるようですが、これは嫌な客に丁寧な敬語を使用して慇懃にもてなすという「転倒」したふるまいを象徴的に表現したものとされています。

敬語の持つ反語的な特徴をよく表しているのではないでしょうか。

日本の社会では、知らない人や既得権益をより多く持っている人に対しては、敬語で接するということがマナーになっているといえます。

そして、このように敬語を使用することが、社会システムを安全かつ効率的(記号的)に維持するという役割を果たしているといえそうです。

従って、日本人の敬語は、アメリカ人の笑顔と同様に、他者に対する距離を確保することを目的とした社会のマナーということができそうです。

しかしながら、日本人の知らない人への笑顔は、親愛や敬愛という意味で受け取られる可能性があることから、相手との距離を確保するどころか、逆に近づけることにもなりかねません。

日本人における笑顔の意味は、人と人の曖昧な関係性や距離感を象徴しているものといえそうです。

マナーとは、社会の規範(ルール)であり、社会システムの安全と効率化(記号化)を図ることが目的のはずです。

受け取る側の恣意的な判断で解釈が変わってしまう日本人の笑顔の意味は、ハワイにおける笑顔のように、記号的なものとして機能しているとはいえないようです。

このことからすれば、日本人の笑顔は、マナー(社会規範)とはなっていないということなのかもしれません。

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by kokokara-message | 2009-08-31 18:27 | 我流コミュニケーション論

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日本には敬語という表現方法があります。

外国にも似たものはあるようですが、日本語の敬語は、謙譲語、尊敬語、丁寧語などが入り混じって、文法的にも実にややこしいものといえます。

では、なぜ私たちは、このようなややこしい敬語を使用するのでしょうか。

一般には、敬語は、敬愛や尊敬を表現する目的で使用されていると考えられています。

日本の社会は、儒教からの影響を受けているため、長幼の序のようなルールも存在し、道徳として年長者を敬うことが習慣になっている社会といえます。

しかしながら、私たちが実際に敬語を使用するのは、このような敬愛や尊敬を表す場面だけといえるでしょうか。

ハワイにおいては、知らない人に笑顔を見せるというマナーが、自分の身の安全を守るという自己防衛の意味をもっているということでした。

日本で知らない人に敬語を使用することは、適切なふるまい(マナー)とされています。

このような敬語のマナーは、ハワイの笑顔と同じように、自己防衛を目的として使用されているのではないでしょうか。

日本の社会では、誰もがいずれかの社会的文脈に属し生活していると思われます。

相手がどのような社会的文脈に所属しているのか分からない場合には、まずは相手と距離をとって接することが、自分の安全確保につながることは誰しも経験的に認識していることです。

また、同じような社会的文脈に属していたとしても、既得権益を多く持った人は、分からない部分をより多く持った人であるということも一般的に認識されていることです。

従って、既得権益を多く持った人に対しては、知らない人に対するのと同じように、相手と距離をとって接するということが、結局自分の安全確保につながるということになります。

インターフェイスで私たちが敬語を使用する場面は、相手が知らない人であったり、既得権益を多く持った人であるということが、多いといえるのではないでしょうか。

接客(CS)などは、まさにこのパターンにあてはまることになります。

つまり、敬語には相手との距離を確保するという、自己防衛の意味が含まれて使用されているといえそうです。
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by kokokara-message | 2009-08-20 22:45 | 我流コミュニケーション論

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日本人(私)にとっては、笑顔がマナーであると理解はできても、いざ知らない人に笑顔を見せることには強い抵抗があるものです。

私の場合には、自然な笑顔が出るまでに数年もかかることになりました。

ハワイを訪れるようになって5年は経過していたと思います。

ホノルル郊外のマノア・フォールズ・トレッキングコースへ滝見物に出かけたとき、山の中でアメリカ人ハイカーと出会うことになりました。

平日だったので訪れる人も少なく、薄暗いジヤングルの中の小道のことです。

すれ違うときにお互いの緊張が高まる場面といえますが、このときはじめて私の方から自然な笑顔を見せることができました。

相手も私に笑顔を返してきて、お互いが笑顔で道を譲り合うという光景となります。

このように、ハワイで知らない人に笑顔を見せることは、身の安全を守ることを目的とした合理的なメッセージの交換であり、日本のような儒教的なメッセージはほとんど含まれていません。

ただ、ハワイにおいても日本の長幼の序のように年配者を敬うという考えがないわけではありません。

むしろ、ハワイの方が、歩道やバスの仕様などバリアフリーになっていてることやバスの優先座席のマナーが日本と比較できないほど徹底されていることなど、障害者や高齢者にはより配慮された街づくりになっていると思われます。

ハワイでは、知らない人に対する笑顔や親切は、愛情や施しというような個人的、かつ恣意的で不安定な感情の表現というものではなく、社会の構成員が安心安全に暮らすことができるための社会的、かつ規範的で安定したマナーということができます。

笑顔とは、日常生活に組み込まれた人間の知恵ということができそうですね。

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by kokokara-message | 2009-08-13 22:28 | 我流コミュニケーション論

今から十数年前、ハワイのオアフ島を数年間続けて訪れるという経験をしました。

ハワイへの観光旅行が珍しい時代ではなかったのですが、やはりそこは異国の地、ハワイの習慣と文化の違いを肌で感じることになりました。

習慣や文化の違いは、自分の頭で理解したつもりになっていても、いざ行動に移すとなるとなかなか体は動いてくれないものです。

習慣と文化の壁(行動と思考パターンの相違)の高さを知ることになります。

はじめて、習慣の違いを感じたのはホテルのエレベーターの中でした。

ハワイでは、エレベーターなどの空間で知らない人と距離が急接近したときには、必ず相手に向かって笑顔を見せて「ハイ」という習慣があります。

日本では、このようなときに明るい笑顔が見せられる人は少数と思われます。

おそらく大半の人は、仏頂面をしたまま、押し黙って、我慢をするというのが一般的ではないでしょうか。

また、日本では、知らない人に対して笑顔を見せるという行為が、親愛や敬愛、場合によっては愛情の表現として受け取られてしまうことがあります。(困ったものですね)

これに対して、ハワイで知らない人に対して笑顔を見せるという行為は、自分には敵意がないことを示すという意図があり、相手との距離を適正に確保するための自衛手段ということができます。

アメリカは、自分の安全は自分で守るという思想が徹底された社会です。

笑顔もインターフェースの重要な媒体であり、自衛のための効果的なマナーとしてアメリカ社会では共有されているといえます。

また、マナーは、記号的な意味で機能することになることから、その記号の意味が共有されている社会では、コミュニケーションの効率化が図られることにもなります。

要するに、ハワイでは、知らない人に接近するということは危険行為とみなされるということであり、このため敵意がないことを示すためのシンボルとして「笑顔」が機能しているということです。

笑顔の持つ意味が、ハワイと日本ではずいぶん違うということです。

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昨日は立秋、暦の上ではもう秋になりました。奈良で一足早い小さな秋を見つけましたのでご覧ください。
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by kokokara-message | 2009-08-08 22:33 | 我流コミュニケーション論