自由の限界と民主主義の限界(8)

ワイキキのサンセット直後の空模様です。
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このような多様な(自律した)個人が、合理的かつ民主的な手続きによって制定した法律で統治される国家が、法治国家ということになります。

そして、民主的な手続きにより適正に制定された法律に従うということが、法治主義ということになります。

ただし、合理的な判断ができず、共同性に依存的であるがために、未だ自律ができていない個人は、おそらく内面における多様性が所持できなくなってしまいます。

つまり、個人が合理的な判断ができなくなると、その行為行動を規定しているものは相互参照しかなくなってしまいます。

その結果、個人の行動様式(エトス)は、外見のみならず内面においても均質化してしまうことになってしまいます。

このように内面が均質化し、多様性が所持できなくなった個人のことを大衆と呼ぶことがあります。

そしてこの大衆が民主主義の手続きで適法に制定するに至った法律が、ドイツの全権委任法であり、この法律が全体主義を招くことになったことについてはいうまでもありません。

そもそも民主主義とは、必ずしもエリートとはいえない、選挙で選出された普通の人たちが、政治に参加することによって成立している制度といえます。

民主主義は、少数のエリートが正しいことを決める制度ではなく、普通の人たちが多数決によって表決する価値相対主義ということになります。

そして、価値相対的である(絶対的ではない)がゆえに、リスクヘッジ機能が内蔵された政治システムということができます。

つまり、民主主義は価値相対主義の多様性を前提としていますが、自己制御ができる個人だけで構成される政治システムであることまでを前提にしているわけではありません。

このため表決された結果は、必ずしもベストなものとはいえず、相対的優位が実現されているにすぎません。

逆から見れば、ワーストなものにはならないリスクヘッジ機能があるということになります。

しかしながら、民主主義においても、価値相対主義によるリスクヘッジ機能が働かないケースも存在します。

これが、個人の内面が均質化してしまい多様性がなくなってしまった「大衆社会」ようなケースといえます。

このような大衆社会では、容易に民主主義そのものを一部の指導者に全権委任しまうことにもなってしまいます。

先のドイツの全権委任法などがこれにあたります。

つまり、民主主義には民主主義そのものを否定する手続きが含まれているということになります。

民主主義から自由と平等を享受している限り、このことについては自覚的である必要があると思われます。

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by kokokara-message | 2010-01-24 21:22 | 我流政治学