土地に対する忌避意識(全編)
2022年 11月 26日

新明解国語辞典によればと、「忌避(きひ)」とは、嫌がって避けることとされています。
残念なことですが、土地に対する忌避意識という問題が取り上げられることがあります。
これは、大変難しい問題といえますが、土地そのものに対する忌避意識であるのか、それともそこに住んでいる人、またそこに住んでいた人に対する忌避意識であるのか判然としないところがあるように思われます。
つまり、土地に対する忌避意識とは、どうも明確な区分があって発生しているものではないように思われます。
あいまいな区分であるがゆえに忌避意識を発生させ、存続させることになっているといえるのかもしれません。
ただ、土地に対する忌避意識は、その土地にかかわったことが原因で発生している忌避という点では一致しているように思われます。
つまり、その土地に住んでいる人、新たに住んだ人、また住んでいた人などに対して忌避意識が発生していることからすると、その土地にかかわったことが原因で発生している側面が強いといえるのではないでしょうか。
では、なぜ、その土地に対して忌避意識が発生するのでしょうか。
そのアプローチとして、真逆のその土地に対する忌避意識が発生しない場合を考えてみることにします。
おそらく、その土地に対する社会的文脈が共有できていない人には、忌避意識は発生しないと思われます。
たとえば、外国から来た人や地縁血縁のない遠方からの来訪者などがそうです。
なぜなら、その土地にかかる忌避意識は目に見えて手で触れることができるようなものではなく、共同幻想のように実体が伴わないものであるからです。
したがって、共同幻想そのものが相対化できている人ならば、忌避意識は発生しないのかもしれませんね。
では、実体が伴わないにもかかわらず、どうしてその土地に対する忌避意識が存在しているのでしょうか。
これは一仮説ですが、共同体内部に実在する実体的な格差や差別を合理化する方法として、実体の伴わない共同幻想を共同体の内部で共有するという倒錯した方法がとられているのではないかと思われます。
つまり、共同幻想を共有できた人が共同体の仲間ということになり、共同幻想に同化されない人や知らない(関係がない)人は、共同体の仲間として看做されなことになるということです。
身近なところでは、学校や会社などで起きてるいじめ、つまりターゲットを探し出して一緒になっていじめなければ今度は自分がいじめられる、いじめられないためには見て見ぬふりをするという構図と似ていますね。
このことを一般化すると、土地への忌避意識は、共同性を立ち上げるために付与された「記号的意味」ということになり、おそらく土地への忌避意識は共同性を構築するために必要な「スケープゴート」として扱われているということになりそうです。
次に、土地への忌避意識について、土地取引という経済の側面からアプローチをしてみることにします。
資本主義経済では、「選択の自由」が保障されなければならないことはいうまでもありません。
そして、そのための情報収集についても、経済活動のひとつとして保障されなければならないことはいうまでもないことです。
しかしながら、経済学者のハイエクやフリードマンが仮定する「選択の自由」を実践できる自由な個人は、自立して合理的判断ができる個人ということになります。
つまり、他者や共同体(世間)の呪縛から解放されて、自由で合理的な判断ができる人ということになります。
「選択の自由」には、自分が必要とするものを自分で選択できる、つまり能動的に「選択する能力」を持った個人が存在することが前提になります。
従って、自分で選択できる自由が前提にあるにもかかわらず、自分以外にその自由を譲り渡し、選択そのものを他者や共同体(世間)に依存するような受動的な能力ではないということです。
少し話は変わりますが、国富論を著したアダムスミスの仮説では、市場経済は「神の見えざる手」によって動かされているとされています。
そして、「神の見えざる手」は、市場経済活動に参加した人たちの「共感意識」がセットされて機能するものとされています。
ここで言う「共感意識」は、他者への配慮(合理的配慮)ということになります。
つまり、他者への配慮(合理的配慮)がセットされた「神の見えざる手」が機能することによって、市場経済が適正に運営されるという考え方です。
また、上記のようなアダムスミスの古典的自由主義を評価する立場のひとつに新自由主義があります。
新自由主義では、「選択の自由」が実践できる理論的根拠がアダムスミスの「神の見えざる手」ということになります。
しかしながら、先にも指摘したとおり、アダムスミスの「神の見えざる手」には「共感意識」が組み込まれて機能するというものでした。
このため、「共感意識」を欠く経済行為は、たとえ「選択の自由」の美名の下に実践されたとしても、市場経済からは正当な経済行為として容認されるものではありません。
たとえば、世界中でみられる拝金主義やその結果の経済格差、また知る権利を標榜しながらプライバシーを侵害する情報収集などの卑劣な経済行為は、他者への配慮(合理的配慮)や「共感意識」を欠いた自由の放埓であり、欲望の暴走でしかありません。
「立場可換性」という倫理的な観点からは、自分が許容できないことは人に強要しないという立場を採用します。
つまり、お互いがお互いの自由を尊重し合うことでやっと自由のバランスがとれるという考え方になります。
言い方を変えれば、自由には必ず限界があるということです。
「共感意識」を欠いた経済行為は自由のバランスを一方的に破壊するだけではなく、自分自身の自由の足場さえも失ってしまう危険があるわけです。
岩井克人氏の「不均衡動学」によれば、新自由主義が提唱する市場原理をどんどん純化させていけば、やがて市場経済は一握りの勝者と大多数の敗者になってしまい、市場経済から自由そのものが無くなってしまうというパラドックスに陥るということです。
このように倫理感や節度を欠いた経済活動は、もはや市場経済から正当な経済行為として容認されないだけでなく、金融危機で見られたような市場経済そのものを崩壊させてしまう危険性を孕んだ経済行為といえるのではないでしょうか。
本題に戻ります。
土地への忌避意識とは、そもそも実体がなく共同幻想のようなものということでした。
また、その実体のない共同幻想には、倒錯した共同性を立ち上げるために必要な「記号的意味」が付与されている可能性があるということでした。
そして、経済合理性を無視した実体を伴わない土地取引は、どのような美名の下に行われたとしても、共同幻想の呪縛から解放された経済合理的な選択判断とはいえないものということでした。
もちろん、私たちが、ものごとを判断するときに自分が所属している共同体(国や地域社会など)から全く自由な立場でいるということは困難であろうと思われます。
従って、共同体から自立して合理的判断ができる個人という存在は、仮定の存在でフィクションになってしまうのかもしれません。
また、その実体のない共同幻想には、倒錯した共同性を立ち上げるために必要な「記号的意味」が付与されている可能性があるということでした。
そして、経済合理性を無視した実体を伴わない土地取引は、どのような美名の下に行われたとしても、共同幻想の呪縛から解放された経済合理的な選択判断とはいえないものということでした。
もちろん、私たちが、ものごとを判断するときに自分が所属している共同体(国や地域社会など)から全く自由な立場でいるということは困難であろうと思われます。
従って、共同体から自立して合理的判断ができる個人という存在は、仮定の存在でフィクションになってしまうのかもしれません。
確かに、この考えは正論のように思われるところもあります。
しかしながら、この考えだけに従っていれば、共同体における他者の視線を無批判に内面化することになってしまい、共同幻想を実体化させる共犯関係になってしまいます。
以上から、あらためて土地への忌避意識について考察して見ると、土地に対する実体の伴わない共同幻想は、象徴的価値(ブランド)に似た現象といえるのではないでしょうか。
つまり、象徴的価値(ブランド)は、本来のモノが持っている以上の価値を指し示す「記号的意味」として認識されているからです。
これと同じように、土地に対する忌避意識は、土地の持つ属性やそこに住んでいる人たちの属性とは大きく異なった「記号的意味」を持つことになってしまっています。
土地に対する忌避意識は、資本主義経済のタームである「選択の自由」や「共感意識」では説明ができないような社会現象ということになります。
一方、社会学的な側面からは、共同体から原初(歴史上のある時点)に付与された両義的な価値のうち、ネガティブな側面だけが「記号」の持つ価値として残存したものと説明できるのかもしれません。
では、私たちは自分たちの共同体の持つ共同性を大切にしながらも、土地に対する忌避意識という共同幻想にとらわれないためには、どのようにすればよいのでしょうか。
まず、自分が所属している共同体を相対化することからはじめるしかないと思われます。
方法論としては、自分に今影響を与えている共同体のパラダイム(常識)を疑ってかかるということが、共同体を相対化する第一歩になるのではないでしょうか。
自分たちの共同体の持つ共同性を大切にはしても、自分たちの共同性を絶対化しない(気位を高く持たない)ということが相対化につながると思われます。
つまり、自分たちとは全く違った考え方や判断の仕方をする共同体が自分たちのすぐ外部に存在していることを知る必要があるということです。
このようにして、自分の外部の存在を知った人たちは、自分たちの共同体を再評価する客観性も持ち合わせることができるようになり、共同幻想の呪縛からも解放されて新たな視点を持つことができるようになると思われます。
私たちは、共同体には必ず外部があることを知り、そして共同体の内部を相対化する(絶対化しない)ことで、「世間のみんな」ではない、「共同体を構成する一個人」に生まれ変わることになると考えているのですが、さていかがでしょうか。
《おわり》
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by kokokara-message
| 2022-11-26 11:54
| 我流社会学