トリクルダウンと「選択と集中」(再掲)
2019年 07月 01日

トリクルダウンという言葉はご存知でしょうか。
大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分としてまた成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした資本主義の経済理論(仮説)とされています。
上方落語には、大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。
この「百年目」という落語の中で、トリクルダウンの経済理論が大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。
そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)が必要ということになります。
ただ厳しい状況に耐えるだけでは、人も経済も活性化できない、したがって適度な余裕や遊びが必要ということになるわけです。
これが、トリクルダウンのエッセンスです。
また、大阪船場では、過剰な利益の収奪は卑怯な商法と見做され、節度ある利益の享受と社会貢献が持続的な商売の源泉になると信じられていました。
「損して得とる」ということになるでしょうか。
したがって、「百年目」の舞台大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする「世俗内禁欲」の習慣があったとされています。
これは、御堂(阿弥陀様)に囲まれた土地柄にも由来することですが、大阪船場の商法は宗教的バックボーンに基づいたものということになりそうです。
マックス・ウェバーが、資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると指摘してたことと極めて類似性があると言えそうです。
江戸近世から明治近代にかけての大阪船場は、日本では珍しい資本主義の精神がいち早く花開いた町ということになるのではないでしょうか。
上記のとおり資本主義の精神に宗教的バックボーンが備わっているとすれば、一部の勝者だけを正義とする新自由主義的な弱肉強食の考え方はおそらく異端ということになるはずです。
しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理と理解されてしまい、他者への寛容性だけではなく自己への配慮も欠いた経済活動が優先されるようになってしまいました。
マクロ経済的に見ると、合理性や効率性での自己利益の追求だけを図れば、一見社会全体の効用を最大化させるかのように思わますが、実際はそれとは真逆で自分で自分の足場を崩すという極めて不安定な経済状況を作り上げてしまうことになります。
例えば社会全体の資産の半分以上を上位数名だけで独占するような著しい経済格差、また労働者を代替可能な商品と見做ようなブラック企業の存在など・・。
とても不思議なことですが、確かに経験的にはそのようになっています。
この二律背反する経済現象を一般化すると、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になるという真逆な関係性にあると言うことです。
したがって、資本主義が長期的に安定して行くためには、合理性や効率性の純度を押し下げる適度な非合理性、例えば賃金の硬直性や雇用の非弾力性、また労働組合の存在が挙げられます。
これらのことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏の「不均衡動学」等の著書があります。
閑話休題。
ではもう少しだけ、経済のお話しにお付き合いください。
ドラッカーの有名な経済タームに「選択と集中」があります。
得意(優先順位の高い)分野を明確にして、得意とする(優先順位の高い)分野に経営資源(社会資源)を集中的に投下するという戦略のことです。
これからの日本は確実に人口が減少し、国内消費が低迷する、つまり日本の価値(人やお金)が縮小していく混迷の時代と言うことができそうです。
したがって、ドラッカーの「選択と集中」の理論からすると、自然に価値(人やお金)の拡大が見込めない時代であるからこそ、得意とする(優先順位の高い)分野に社会資源を集中的に投下することが求められるわけです。
つまり、日本が今後も経済的相対的優位に立って生き残っていくためには、あらゆる社会資源を政策的に「選択と集中」してくことが必要になってくるということです。
そして、さらにこれからの日本人と日本経済を元気にするためには、社会資源の「選択と集中」と同時進行に、トリクルダウン(露おろし)の実践が必要になってくると思われます。
トリクルダウンは、大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していく大木と草花の相互依存関係で、結果として人(労働者)と商売(経済)をともに元気にさせるものでした。
そして、このトリクルダウンの経済理論(仮説)の要諦は、まずは大木を育て、その大木を基盤として裾野の草花に露がおろされるという先富論になっています。
では、トリクルダウン(露おろし)が先富論=「選択と集中」の帰結であるとしたら、トリクルダウンのためにどのような経済政策が考えられるのでしょうか。
例えば、企業の法人税(特に大企業)の適切な軽減化を図る一方で、個人の所得税や相続税に対する累進性の強化、また個人の社会保障への応能負担の強化、そして国全体の平準化を図る目的から地方交付税等による所得の再分配化機能の強化が挙げられると思われます。
そして、国際的な経済政策としては、「21世紀の資本論」のピケティ教授が提唱されているタックスヘブンをなくす「世界連携累進課税」が想定されることになるのではないでしょうか。
つまり、「選択と集中」の結実を原資とした所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践が縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させる手段であり、その結果として著しい経済格差の解消された、比較的公平と思えうことができるような日本社会が実現されることになるのかもしれません。
ただ残念なことなのですが、この半世紀の間に、日本人のマインドは、自律する方向から依存する傾向へと変質してしまったようにも思われます。
依存的な未成熟社会にあっては、おそらく資本主義の論理(とその背後にある寛容性)や所得の再分配(とその背後にある自律性)がその機能を十全に果たすことができない惧れがあると思われます。
従って、依存的で未成熟なままの社会では、誰もがフラストレーションを抱えながらも出口が見えない、いわゆる「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは、勝手な思い過ごしであれば良いと思うのですが、さていかがでしょうか。
今後の日本政府の経済政策と日本人の経済動向をしっかりと見守って行きたいものです。(苦笑)

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by kokokara-message
| 2019-07-01 21:49
| 我流経済学