世話を焼かない内助の功(夫婦を超えて行け!)

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リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から、少し引用をさせていただきます。

書評ではありませんのであしからず。

リンボウ(林望)先生は、「世話を焼かない内助の功」が夫婦関係のひとつの有り様ではないかと提言されています。

つまり、個人主義的な夫婦関係では、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないことが不文律になるということです。

「個人主義」と言うと自分勝手と勘違いされてしまいそうですが、個人主義とは自分以外の他人を「一個独立の個人」として認める立場のことです。

これに対し利己主義は、他人に対して自分の考えを押し付けたり、その前提として自分の考えだけが尊いと思っている傲慢さや独善性を指します。

日本人が行っている横並びや同質性が同調圧力を意図するものなら、それは利己主義ということになってしまうのかもしれません。

したがって、一見同じように見える個人主義と利己主義は、ベクトルの方向が真逆になっているということです。

繰り返しになりますが、個人主義的な夫婦は自分の考えを相手に押し付ける上下関係ではなく、男女の違いと独立を認め合ったフラットな関係と言うことになります。

夫婦が「一個独立の個人」として認め合える関係であるからこそ、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないという不文律が成立するのではないでしょうか。

では、個人主義的な夫婦関係では、相手に何も求めてはいけないのでしょうか。

友情であるのなら、困っている場合に相談してみたりとか、無理を聞いてもらったりすることはあります。

べたべたした関係ではなく、むしろ距離が取れている方が、友情を維持する上では重要になってくるのかもしれません。

個人主義では自分ができることは自分でするが基本となりますが、嫌なことや困ったことはお互いが分担してするもまた大事な基本になると言うことです。

では、家庭における家事は、どのように分担すれば良いのでしょうか。

掃除や洗濯は比較的好きであっても、料理は嫌いという人はいると思われます。

また、その逆もしかりです。

では、家事を全て分担してしまうのが、個人主義的な夫婦関係ということになるのでしょうか。

個人主義とは、自分以外の他者を「一個独立の個人」として認め合う、つまりは他者の尊重や他者への「思いやり」がベースとなって成立するものでした。

この「思いやり」を欧米流の言い方に換えるとしたら、自分以外の他者への「無償の贈与」になるのかもしれません。

ただ、世知がない拝金主義の世の中では、金銭に換算できない「思いやり」や「無償の贈与」は歯牙にもかけられないのが現状と言えます。

では、個人主義的な夫婦関係では、「思いやり」や「無償の贈与」はどのようにして実践されるのでしょうか。

また、妻が負担している家事は、夫に対する「思いやり」や「無償の贈与」と考えて良いのでしょうか。

おそらく、日常の生活実感からすると、妻の家事負担は、夫の経済的な側面に対する妻の分担になるのではないかと思われます。

ただ、妻も夫と同じように働いているとしたら、妻の家事は過分な負担になってしまうのですが・・・。

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では後半です。

もう少しだけお付き合いください。

さて、個人主義的な夫婦関係では、男女の相違と個人の独立をお互いが認め合う(尊重し合う)ことが大前提になるということでした。

男女の相違としては、男性は20年以上一緒にいると恋愛感情はまずないと思われるのですが、女性は特に子供がいないような場合には、母として、子供としての夫に新たに恋愛感情を抱くということは考えられるようです。

このような男女の相違に気付かず、もし夫が浮気でもしようものなら・・・。

大変なことになってしまいます。

また、子供がいない(子供をあきらめたような)女性は、ペットを飼うかのように、夫を子供として錯覚することはあるようです。

子供である夫は自分の掌に乗っていなければならず、逆説的ですが、妻は夫(子供)の成長を必ずしも望むものではないと言うことです。

夫は、願わくば、そこそこかっこいい人で、家庭を犠牲にするような出世は望まず、しかし経済的には安定している方が良いということなのでしょうか。

その掌に乗って行くとしたら、夫の女性関係は禁物で、妻に頭が悪い(かっこ悪い)と思わせてはならないということになります。

かような男女の相違を踏まえれば、古式ゆかしい亭主関白よりも、夫が妻に頼る姉さん女房の方が、夫婦関係は上手く行くのかもしれません。

また、個人主義では、自分ができることは自分でするが基本になると言うことでした。

このため、妻に自分の(イエの)考えを押し付けたり、その前提として自分の(イエの)考えが尊いとも思わなかったし、現に実家に関することは妻にはタッチさせずにすべて自分で行ってきたたつもりです。

たぶん妻は、自分のことと私のことを考えれば良い環境にあったのではないでしょうか。

以上のことから想像を巡らせると、今でも妻が一緒に旅行に行ってくれていることや家事負担をしてくれていることの意味が、何となく分かってくる気がします。

今から15年くらい前になりますが、結婚10年目を経過した頃、私はふと「配偶者は妻ではなく母ではないか。」と思ったことがありました。

そして、今思えばこの発想は全く根拠を持たない妄想などではなく、日本特有の母系社会に根差した夫婦関係のひとつの着眼点であったのではないかと考えています。

欧米の父権社会に対して、日本は母系社会と言われることがあります。

欧米の父権社会では一神教的な分節によって「個人」が出現しますが、日本の母系社会では多神教的な包摂(束縛)から弾き出(排除)されて「個人」が析出されます。

要するに、父権社会と母系社会では「個人」の出現の仕方が真逆になっているということです。

このため、伝統的な日本社会で欧米型の個人主義を実践しようとすれば、夫婦関係での妻は一個人であると共に母の役割も同時に果たさなければならないことになります。

つまり、個人主義的な夫婦関係の妻は、夫の自律を促す良妻の役割と夫の自律を阻止する賢母の役割を同時に果たす二律背反した両義的な存在ということになります。

そして、この考えに従うとしたら、子供のいない家庭の夫は同時に子供であるため、妻からのダブルバインド状態に晒されることになってしまいます。

ただ、子供がいる家庭では、夫と子供を比べれば、妻の感情は夫の方ではなく必ず子供の方(子供であれば息子でも娘でも同じです。)へと向かうことになるようです。

このため、子どもがいる家庭では子供の世話を焼くのが妻の生きがいとなってしまい、夫に「世話を焼かない」はもはや「内助の功」ではなくなってしまいます。

つまり、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない」は「思いやり」でしたが、この場合の「世話を焼かない」は夫への愛情(承認)不足ということになってしまいます。

そして、この状況を少し角度を変えて見れば、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(排除)された夫が、やっと自由で孤独な「個人」として生まれ変わることが出来たというこになるのかもしれません。

但し、個人主義の大切な基本ルールは、自分ができることは自分でするというでした。

したがって、夫がいくら「個人」に生まれ変わることができたとしても、その内実として夫が依然独立できない我が儘状態な状態なままであるのなら、老後単身の寂しさを差し引いても、妻は別れるという選択をすることになってしまいます。

大変皮肉な話ですが、日本の夫婦関係の夫は、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(疎外)されることでしか、自らの自律の可能性に気づくことができない構造的無知の状態に放置されていると言えそうです。

昨今少子化の影響で、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない内助の功」が、ようやく半分くらい実践可能な状況になって来たように思われます。

つまり、個人主義の対極にある母系原理が緩み、個人主義的な「自分のことは自分でする(他人のことは他人がやる)」が一般化してくると、従来からの日本の夫婦の枠組みが大きく変化して行くことになるのではないでしょうか。

但し、懸念として少子化に対して社会からの桁外れの愛情が注がれることとなれば、日本の母系原理は緩むどころかさらに強化されることにもなってしまいます。

したがって、少子化をきっかけに芽吹き始めた日本の個人主義は包摂と排除のダブルバインドに耐えながら、軸足はあくまで「個人」の側に置いたままで、国家規模の集団(同化)主義的な母系原理に飲み込まれぬよう、流動化して行く日本社会をしっかりと見守って行くしかないと考えているのですが、さていかがでしょうか。

(終わり)

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by kokokara-message | 2017-05-04 22:32 | 読書