他者と秘密(全編)

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人の能力にそれぞれ差があるということは、必然といえそうです。

従って、人によってできることと、できないことがあることもまた当然のことです。

誰もが、平等にできるということにはならないということです。

これは生まれ持った能力が平等でないということだけではなく、生きている偶然が平等ではないということも含まれています。

つまり、自分の置かれている社会的文脈によって、同じような能力があったとしてもその結果に差異が生じてしまうことはあるということです。

確かに、結果の平等はひとつの美しい仮定(物語)ではありますが、現実問題としては大変難しいことではないでしょうか。

また、どこまでを平等と考えるかについても大変難しい問題で、おそらく最後は事実認定の問題になるといえそうです。

言い方を変えれば、政治の問題かもしれません。

従って、国や地域と言った自分が置かれている共同体によっては、平等(事実認定)が大きく異なってくることになります。

これは、平等を支えるポリテカルコレクト(政治的正しさ)が、国や地域によって、その様々であるからです。

さらに、これに時間軸が加われば、今ある正しさとこれから10年後の正しさが異なってくるのは当然のことです。

社会経済を取り巻く環境が10年前と現在、そして10年後で目まぐるしく変化していることを考えれば、正しさの内容が変遷して行くことも当然のことではないでしょうか。

そもそも人や社会が多様であることと、それらが日々変化していくことは必然です。

このように自分を取り巻く与件が違っていれば、たとえ入力が同じものでも、出力(答え)は違ってきます。

つまり、「あらかじめ決まった答えはない」と言う言葉は、このような事体を指してのことではないでしょうか。

したがって、古代ギリシアの時代であっても、現代社会であっても、おそらく万物流転は誰もが否定することのできない真実です。

そして、万物流転するがゆえに、あらかじめ決まった答えがないということであれば、あれこれ思案したところで、結果がままならないのは必定です。

私は、時々「できることしかできない」という言い回しをすることがあります。

この言葉は、自分の限界をあらかじめ規定した消極的な言葉として聴き取られることがあるようです。

しかしながら、この言葉は、必ずしも決定論的な諦観の言葉ではなく、むしろ未知の自分、未来の自分という時間軸を含んだ曖昧さを示した言葉と考えています。

つまり、既知の自分ではない、今の自分を超えた未知の自分の到来、つまり「他者」の訪れがあることを、確信はないにせよ、期待しする言葉ではないかと思われます。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、自分が知らない自分に合ってみたいという欲望は、最後の最後には偶然の「他者」の訪れに依拠せざる得ない、関係性の不思議に帰結するのかもしれません。

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人は他者との関係性によっては、いくらでも変わる要素を持っているといえます。

初めて会う人であるにもかかわらず、相手のことが分かった、と思った瞬間はないでしょうか。

人は、ある程度、自分の鋳型に相手をはめて理解しようとする傾向があると思われます。

しかしながら、相手のことが分かったと思った瞬間に、相手のイメージが固定化されてしまうのもまた事実です。

他者との関係性では、このようなイメージの積み上げと修正が絶えず繰り返されて、やがて定型化していくのが一般的な経過ではないでしょうか。

しかしながら、自己満足や自己充足から(上から目線で)他者を分かったつもりになっていると、自分の鋳型(イメージ)をそのまま他者に押し付けてしまう(定型化する)ことにもなってしまいます。

そして、このようなイメージの押し付けが問題になるのは、自分が何も相手を分かっていないのに、分かっていないことが視界から消え去ってしまうことです。

つまり、上から目線で自信満々な無知、いわゆる「構造的無知」と呼ばれる状態です。

自己満足や自己充足の状態にあると、内向化し思考停止した状態に陥り、自分に外部があることにさえ気づかなくなってしまうということです。

何事においても「自分は分からない」と留保しておくことが、自分の思考に外部を持たせ、不用意に鋳型にはめることなく、修正する余地を残すのではないでしょうか。

ところで、自己とは一体何なのでしょうか。

カール・ユングによると、自己とは主客の間(関係性)に構築されるものということになるようです。

主体の思考が未確定(留保)の状態にあって、このため客体のイメージも未確定(留保)のままなら、当然その間に構築される自己も未確定(留保)な状態ということになります。

自己が未確定な状態(留保)ということは、いまだ定型化していないということであり、さらに変化し更新されていく可能性があるということになります。

未確定(留保)であることは、決してネガティブな意味だけではありません。

未確定(留保)であるがゆえに、未来への可能性をも含んでいるということにもなります。

このような自己のあり方、つまり自己が変化し、更新されていく状態を「成長」と呼ぶのであれば、おそらく「成長」には際限がないということになります。

そして、オープンマインドとは、他者のイメージを定型化しないことになると思います。

このため、自他の間に構築される「自己」は流動的なものとなり、「自己」の在り様を指し示す「自己実現」もまたあらかじめ決まった答えがないことになります。

このことからすると、「自己実現」とは執着して奪取できるものではなく、むしろオープンマインドであるがゆえに、自ずと導かれる帰結ではないかと思われます。

「牛にひかれて善光寺」という言葉がありますが、自己実現のための道程を現したメタファー(隠喩)といえるのかもしれません。


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また、自分の思考を外部に開放しておくということは、偶然も含めた外部との新たな関係性の到来を「待つ」ことになります。

自己の成長、つまりは自己実現を果たすためには、「待つ」ことはとても重要なステップになると思われます。

但し、偶然の関係性の到来だけを「待つ」だけでは、十分ではありません。

自分が設定した方向に、自己(関係性の構築)を誘導していくことも、また重要ではないでしょうか。

つまり、偶然だけに頼るのではなく、あらかじめ目標に向かって自己コントロールすることが、他者や環境との親和的な関係性をより効率的に構築できるというわけです。

自己は主客の関係性の間に構築されるものであるため、自己コントロールは、自分だけで完結できるものではありません。

そして、偶然の流れに身を任せていれは良いというだけのものでもないということです。

では、自己コントロールとは、何を対象とすれば良いのでしょうか。

「自我(私)」の存在を仮定すれば、「自我」がコントロールができる範囲は、おそらく自分の身体や心のあり方の一部ということになりそうです。

ここでいう「自我」とは、意識化されている「私」程度の意味でお考えください。

そして、自分の身体や心であっても、自分でコントロールができる部分は、ほんの一部でしかないということです。

さらに、外部の他者や環境との関係性は、自分の身体や心のあり方を通してでしか影響を及ぼことができない、間接的な関係ということになります。

したがって、外部の存在である他者や環境を、「自我(私)」が直接コントロールするということはあり得ないことになります。

つまり、「自我(私)」が、自己コントロールできる範囲は、自分の身体や自分の心のあり方の一部であって、外部の理解不能な他者や不可思議な環境は、原則自己コントロール不能と諦めるしかありません。

このため、外部の他者や環境との関係性の構築は、経験則によるのか、偶然に左右されるか、あるいは出たとこ勝負なのか、いずれにせよ決まった答えは用意されていないことになります。

また、「自我(私)」が、他者や環境に対して及ぼす影響の未確定性だけではなく、「自我(私)」が他者や環境から受ける影響も、また同様に計測不可能、あらかじめ決まった答えがないということになります。

自己は主客の関係性に構築されるもので、主客の間の関係性には、今までにも見てきたような未確定性と偶然性が含まれることになります。

自己コントロールの最終的な目的が自己実現であるのなら、自己実現とは偶有性に左右された主客の間のグレーゾーンに位置する暫定的な立ち位置になりそうです。

かように自己実現が遂行的であるとしたら、後になってあれが「自己実現であったのかもしれない」気づいたものが、ほんとうの自己実現の姿であるのかもしれません。


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人の思考のフレームワークは、他者の思考のフレームワークに触れることによって更新されていくものということができます。

また、「自我(私)」は、自己コントロールできない自分の中の他者である無意識に耳をから向けることによって、バランスがとれた自己へと更新されていくことになるい思われます。

ただ、自分の中の他者である無意識からの働きかけが余りも強いと、「自我(私)」が自己コントロール不能状態に陥ってしまい、自分の中の他者である無意識に支配されてしまうことになります。

コンプレックス状態(葛藤)が続き、無意識という他者に「自我(私)」が乗っ取られた状態になると、身体的、精神的に様々な症状が現れることになってしまいます。

なかでも、やっかいな症状のひとつが、自分の秘密がすべて他者に知られてしまっているのではないか、という恐怖を抱くことです。

つまり、無意識という他者に支配されてしまうと、抑圧や反動形成などの症状が出現するだけではなく、自分の秘密が保てなくなってしまう、つまり自分の秘密が他者に漏洩してしているのではないかという不安を抱くことになってしまうということです。

つまり、定義上秘密とは知るべき者だけが知っている情報であり、それ以外の他者が知っているはずのない情報であるからです。

もし、自分の秘密が漏洩していると感じることがあるとすれば、それは本来自分と他者との間に存在している境界が、なくなってしまっていると感じているためではないでしょうか。

つまり、秘密が人に漏洩してしまうことの意味は、自分と他者の区分が曖昧になり、自他の境界がなくなってしまっているのではにかということです。

もともと自分と他者の境界には、排他的な意味においての、自分の身体という唯一無二の物理的な区分が存在しているはずです。

また、自分の意識においても、その意識を発生させる自分の脳の固有性、つまり唯一無二の自他を分ける物理的な区分が存在していることになります。

かような明白な区分があるにもかかわらず、自分と他者の境界が曖昧になっている感覚が発生するということがあるということです。

おそらく、このような自他の感覚の曖昧さが、自他の境界を越えて秘密が漏れてしまっている恐怖につながってくるのではないかと思われます。

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自分と他者の境界が曖昧となってしまっているという感覚は、おそらく「自我(私)」が弱体化し始めていている兆しかもしれません。

つまり、「自我(私)」が自分の中の他者である無意識からの攻撃を受けて、疲弊しきった状態になっているということです。

このように「自我(私)」が弱体化すると、実在する他者に、自分の秘密が漏洩しているという感覚が生じてその恐怖にさらされることになります。

「自我(私)」の弱体化とは、自己コントロールをする「自我(私)」の弱体化ということであり、つまり「私」の希薄化ということになります。

従って、「私」の希薄化は、すなわちアイデンティティ(自己同一性)の脆弱性ということでもあり、その結果自他の区分が不明瞭になっていくということです。

自他の区分が不明瞭になると、聞こえてくる他者の囁きが、自分の中の無意識からのものか、外部に実在する他者のものであるかさえ、分別できなくなってしまいます。

これらの症状(現象)は、自他の区分の曖昧性を自然とする(日本の)文化圏に特徴的な関係性に由来するものであるのかもしれません。

したがって、秘密の漏えいの恐怖とは真逆の他者への共感意識についても、つまり愛情や親密さを安易に感じることができるということ特徴です。

「阿吽の呼吸」と呼ばれる言葉がありますが、これには特段の根拠がないにもかかわらず、同調できていると信じることが自然な文化ということになります。

要するに、他者を同質なものと感じる共感意識と、他者から侵害されていると感じる恐怖は、一見真逆のように見えますが、ともに秘匿している情報が他者に対して開かれているという点では共通の感覚ということができそうです。

つまり、安心安全と感じる共感と危機に瀕していると感じる違和感は隣り合わせの感覚で、コインの表裏の関係にあるといえそうです。

また、自分の無意識が自己コントロールできないことからすると、無意識は外部の他者と同様な存在ということになります。

従って、他者である無意識から攻撃を受けることは、自分の中から湧き出てくるカオス(混沌)との暗闘を繰り返しすことでもあります。

そして、無意識(自分の中の他者)からの攻撃にさらされていると、やがて「自我(私)」の合理的な判断や行動は奪取されてしまいます。

つまり、実際の自分が置かれている文脈では、到底説明がつかないような文脈の世界(幻聴や幻想)に投げ込まれてしまうことになってしまうわけです。

これが、「自我(私)」の自己コントロールを失った状態、無意識からの働きかけである幻聴や幻覚という感覚に支配されてしまった状態ではないでしょうか。

ところで、自分の秘密には、他者と同質な共感感覚の側面と、秘密が漏洩してしまっているという恐怖の側面が隣り合わせで存在するということでした。

また、自分の中の他者である無意識からの攻撃が強くなると、自分自身の自在感を失ってしまうことになるということでした。

自分自身の自在感がなくなった状態とは、自己コントロールが十分できていない状態です。

このような状態に陥ると、自分自身は周りの環境や他者に影響を及ぼす主体ではなくなり、逆に環境や他者から操作される客体になってしまいます。

確かに、自他の同質化によって癒合した関係性の中では、他者から共感や安心感がもたらされるというメリットはあります。

しかしながら、「自我(私)」が弱体化し、他者から操作される客体になってしまうと、もはや他者は共感や安心感を与えてくれる存在ではなく、自分の秘密を聞き出し、自分の言動や行動を操作する存在になってしまいます。

他者とは、もはや自分に安心感を与えてくれると同質な他者ではなく、自分を侵害する異質な他者に変わってしまうということです。

このような状態に陥れば、自分の秘密が他者から覗かれている恐怖感は、ますます高じることになってしまうのではないでしょうか。

日本人は、相対的に見て「自我(私)」は脆弱性、希薄性が特徴であるように思われます。

これは、個人のパーソナリティの問題というよりは、むしろ日本の文化に由来する関係性の問題(プライバシーの感覚)から説明できることではないでしょうか。

このため、自分の秘密の漏洩の恐怖感は、日本人であるなら、誰にでも起こりうる症状(現象)であり、必ずしも病的とまではいえないものかもしれませんね。

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では、自己の内部に異質な他者を持たない状態とはどういうことでしょうか。

自分の中の異質な他者とは、無意識のことであると説明をしてきました。

従って、自分の内部に異質な他者、つまり無意識を持たない状態とは、自分自身がすべて自分自身の意識下におかれている状態ということになります。

このような理想の状態は、実際に起こりえるのではないでしょうか。

つまり、自己の仮説(モデル)によれば、自己全体から「自我(私)=(意識)」を除去したものが無意識ということになります。

従って、すべてが意識化されている状態とは、自己=「自我(私)=(意識)」ということになり、自分のこと、あるいは自他の関係性も含めたすべてが分かっているという、とても傲慢な状態ということになります。

そして、このような状態にあると、自己の内部にもはや異質(差異)な他者は存在せず、すべてが自己同一性(アイデンティティ)の中に回収されることになるため、十全に安全や安心感を満喫することができそうです。

おそらく「自足」とは、このような状態を指すのではないでしょうか。

しかしながら、自足状態の揺らぎのない自信などは現実にはありえず、現実逃避の無根拠な過信から自己同一性(同質性)が図られている幻想的な状態と言えそうです。

そして、このような自足状態に陥ってしまうと、人はいとも簡単に、自己判断、自己判決、自己決定を下してしまうことになってしまいます。

つまり、自己判断、自己判決、自己決定は、未成熟な子供に見られる特徴的な行動様式で、独善性な幼児的万能感(ウルトラマンになったような気分でしょうか)からもたらされる自足状態です。

一見、自己判断、自己判決、自己決定を行っていないように見えるケースもありますが、これは裏を返せば母子密着の支配者に一体化する自己判断、自己判決、自己決定に過ぎません。

従って、自己の内部に他者(無意識)を持たない者とは、自足状態にあって幼児的万能感を持った未熟な者ということになり、その振る舞いは、節度ある自由の枠を超えた、放埓(ほうらつ)にもなってしまうということです。

節度ある自由の枠を超えた放埓(ほうらつ)を可能にするものは、同質(同じ)という感覚やそれを支える相対的多数の側にある安心感や共感と思われます。

そして、同質であることや相対的多数の側で安心や共感を維持するための特徴的な行動様式が、横並びや相互参照になります。

同質であることや相対的多数の側にあれば安心感や共感は湯浴なりますが、外部にある危機感を喪失させてしまうことにもなってしまいます。

このような自他の渾然一体の状態が、癒合(アモルフォス)と呼ばれるものであると思われます。

そして、このような癒合(アモルフォス)状態に入ってしまうと、その中での多数派形成が生き残るための唯一の生存戦略となってしまい、さらなる横並びと相互参照を繰り返して同質性を深化させていくことになります。

しかしながら、癒合(アモルフォス)状態にあることの本質は、依存と束縛の両義的な関係ということになると思われます。

つまり、癒合(アモルフォス)状態とは、主客が明確にならない牽制の緊張状態であって、依存と束縛からさらに内向化せざるを得なくなった癒合(アモルフォス)状態は、細分化されてやがて外部を消滅させてしまうことにもなります。

癒合(アモルフォス)状態はやがて依存と束縛から内向化とし、やがてダブルバインド(板ばさみ)状態から内ゲバを繰り返す再分化状態に置かれることになるのではないでしょうか。

そして、再分化されていく癒合(アモルフォス)状態は、ますます外部を構造的に可視化できない「構造的無知」の状態に陥って行くことになると思われます。

最後になりましたが、他者と秘密、つまり他人との距離やプラーバシー感覚の欠如は外部を持つことに慣れていない、同じ(多数派であること)を自然とする日本人に特徴的な感覚ではないかと思われます。

したがって、日本人の他者と秘密に係る悩みが尽きないのは、個人の人間関係の問題というよりは、むしろ日本人のパーソナリティに刷り込まれた文化に起因する行動様式(エトス)の問題ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

(終わり)

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by kokokara-message | 2018-02-11 17:37 | 我流心理学