自殺のすすめ(往還について)
2016年 11月 23日
誰も自分を必要としていない。
偉そうなことばかり言って、行動が伴わない人など誰が必要としましょうか。
気力、体力、胆力・・どれもないのなら、なおさらのこと。
誰が自分を必要としましょうか。
それであるのなら、他人は自分を必要としなくとも、自分はかような自分を必要としているのでしょうか。
結論から言うと、とりあえず生きていくためには、どのような自分であっても、自分が自分を必要とするとしか言えないと思われます。
つまり、消極的なものではあっても、自分は自分を必要としているは確実なことであると言えそうです。
では、自分は自分を必要としているのなら、果たして必要としている自分は自分(のもの)と言えるのでしょうか。
少々物騒ですが、あくまで思考実験として、ここで自殺について考えてみることにします。
自殺について考えてみるのは、自分が自分(のもの)であることを、明確にさせるためです。
言うまでもなく、自殺は、自分が自分(のもの)でなければ成就することのできない作業と言えます。
また、自殺は、自分が自分(の脳を含む身体)を必要とすることなしには、成就できない作業でもあります。
一般には、自殺は自分は自分を必要としていないので、自分は自分(のもの)である必要がないことが原因と思われているようです。
しかしながら、上記を対偶関係で考えてみると、自殺は、自分が自分(のもの)であって、自分が自分を必要とする作業ということになります。
つまり、自殺は、生きて行くことと同じで、自分は自分(のもの)であって、自分が自分を必要としていることが前提条件になってきます。
当たり前と言えば、当たり前のことですが。
さらにもう少し、あくまで思考実験として、もう少しだけ自殺についての考察にお付き合い下さい。
ご注意いただく点は、たとえ思考実験であったとしても、自分が自殺について考えていることを、決して他人には告げてはならないと言うことです。
これは、他人の困惑を避ける意図もあります、そもそも他人に告げること自体が、他人が自分を必要としているかどうかを試すことになってしまうからです。
元々自分は誰にも必要とされていないという認識から始まった論理なので、誰かに告げて試すこと自体が、すでに前提の認識が破たんしていることになってしまいます。
つまり、まず「誰も自分を必要としていない」という前提(認識)があって、が、しかし、「自分は自分を必要としている」という認識も一方にはあって、さらにひょっとすると誰かが自分を必要としているかもしれないという迷いが、自殺を考えている人の心理状態(カオス)ではないでしょうか。
この迷いの心理状態を自分なりに上手く処理できれば、極めてシンプルでプリミティブな結論である「誰も自分を必要としていないが、自分は自分を必要としている」に達することになると思わえます。
そして、「誰も自分を必要としていないが、自分は自分を必要としている」という結論は、別な角度から見ると、「世の中(世間)で頼ることが出来るのは自分だけ」という身も蓋もない無縁社会の結論になってしまいます。
ただ、ここで注意しておきたいことは、そもそも世の中(世間)は、有縁(うえん)ではなく、無縁でしななかったという当たり前な驚愕の事実です。
世の中(世間)が無縁なのは、今に始まった現象ではなく、太古の昔から、普遍的に、無縁(無常)であったという歴然たる真実でもあります。
したがって、世の中(世間)が常ならざるもの、つまり無縁(無常)であるがゆえに、今を大切にする(一期一会)ことしかできないと言う結論にも至ります。
つまり、先が見えず、すべてが万物流転してしまう世の中(世間)であるがゆえに、今を大切して生きる(一期一会)しかできないと言うことになるのではないでしょうか。
ヒーリングでは、「Here&Now」という言葉がとても大切にされています。
茶の湯における「一期一会」もまた、万物流転する世の中(世間)の絶望的な断絶から、連続した時間へと引き戻してくれる極めて貴重なキーワードと言えそうです。
さて、ここでお話しは再び自殺を考えている人(自分)へと回帰していくのですが、そもそも自殺を考える前提となった「誰も自分を必要としていない」という認識が正しいかどうかは、おそらく確かめようのない答えであると思われます。
ただ、一つだけ確実なことは、すべてが万物流転する(無常である)がゆえに、あらかじめ決まった答えはなく、縁(人間関係)が変われば、唯一無二と思えた答え(認識)もまた移り変わって行くだけということになります。
つまり、最初の「誰も自分を必要としていない」という非日常的な認識は、やがて「誰かが自分を必要としているのでは?」という可能性へと移り変わり、そして「自分は自分を必要としているように、誰かが自分を必要としているかも・・」という極めて日常的で平穏な認識へと移り変わり、着地していくことになることもあるわけです。
しかしながら、たとえ思考実験ではあっても、究極の非日常である自分の死(自殺)について考えたということは、自分の無常感(無縁)を自分の死という最低部に触れるまでに深化させてしまったことになるわけです。
その結果、これだけは疑えないと信じていた絶望的な「誰も自分を必要としていない」という認識さえも、所詮常ならざる自分の認識のひとつでしかないと理解ができたなら、究極の非日常である自分の死(自殺)はネガティブ思考の最低部でようやく底を打って反転するしかなく、憑き物がとれたようにカオス状態以前の連続した日常(世間)へと還って行くことができるのではないかと思われます。
そして、無常感がもたらす諦念だけではなく、諦念とは表裏の関係にある「今在ること」(一期一会)の有難さが同時に理解できるようになれば、もう何事にも執着せず、なすべきことだけをサクサクとこなす、後悔や憂いと十分な距離がれ取れた「今を生きる」ためのポジティブ思考へと切り替わっていくことができるのではないでしょうか。
少々荒療治かもしれませんが、かような自分の死(自殺)を介した思考実験によって、ネガティブな思考からポジティブな思考へと反転する、つまりは非日常(あの世)と日常(この世)を往還することで、「今在ること」(一期一会)の有難さが生き生きと実感できたならば、それは自分自身が今生まれ変わったということでもあり、つまりは自分自身の死からの再生を自画自賛できることのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。
なお、本稿と同じテーマの記事が、大人のなり方~思い出がいっぱい/H2O(全編)にもありますので、こちらもご一読いただければ幸いです。
(終わり)
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