今考えるべきこと~絶対化と相対化(再掲)

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唐突ですが、信じるとは、いったい何なのでしょうか。

自分を信じる、他者を信じる、共同体を信じる、宗教を信じる、国家を信じる・・・。

詰まる所、信じるとは、さまざまな「物語」を信じるということであって、言い方を変えるなら、自ら進んで「物語」の中で思考停止するということになるのではないでしょうか。

思考停止というと何かネガティブなイメージになりますが、思考停止は考えるためのステップ(足場)であって、考えるための「枠組み」を与えてくれるものになります。

つまり、ヒトにとってフリーハンドの自由ほど危険なものはなく、ヒトが安全に考え続けるためには、ある程度不自由な「枠組み」が必要になってくるということです。

おそらく、私たちが束縛と感じる自分や他者の限界、そして共同体、宗教、国家といった制度は、このような不自由な「枠組み」のひとつと言えます。

真逆のようになりますが、自由に生きるとは、不自由と共存することであって、いかに不自由と親和的な関係が構築できるかにかかっていると言えそうです。

したがって、誰もが例外なく自由と不自由との共存という難題(アポリア)に耐えながら、生きていくしかない運命にあるのではないでしょうか。

ところで、信じることが考えるための「枠組み」になるとしたら、それはしっかりとした「枠組み」でなければなりません。

なぜなら、安心安全に思考停止することができなくなってしまうからです。

つまり、信じた「物語」が嘘であったり、はったりであったとしたら、自由に考えるための「枠組み」を得るどころか、自らの生命や財産を危険にさらすことになってしまいます。

したがって、かようなリスクから身を守り、安心安全に思考停止するためには、どの「物語」を信じるかをしっかりと考えておく必要があると言うことになります。

信じるためには、まずはしっかりと考えておくということになります。

これでは、先の「考えるためには信じなければならない」という命題に矛盾しますが、信じることと考えることのは入れ子状態であるため、まずはしっかりと考えることから始めなければならないということです。

それでは、信じるためには、しっかりと考えなければならないとしたら、いったい何をどのように考えれば良いのでしょうか。

自分について、他者について、共同体について、宗教について、国家について、・・・考えるということなのでしょうか。

少しだけ先回りして申し上げれば、「考えるための方法(作法)」について考えるということが、なによりも大事になってくると思われます。

そして、さらに先回りして申し上げれば、「考えるための方法(作法)」とは、自らの絶対化ではなく、自らの相対化がその要諦になると言うことです。

相対化と言うと分かり難いかもしれませんが、あらかじめ決まった答えには固執せずに、オープンマインドで外部に開かれた視点を保持するということでしょうか。

そのうえで、さらに真逆になってしまいますが、自らの相対化には、まずは自らの絶対化が必要になってくるということです。

ややこしい話になって済みません。

ただ、ここで言う自らの絶対化とは、自らを相対化するために必要な前提要件でしかありません。

つまり、自らの立ち位置を自らで決定する自らの絶対化は、自らを相対化するための戦略的な立ち位置でしかないということです。

したがって、たとえ自らを絶対化しても、絶対化した自分自身とは十分に距離をとって、自らを客体化する相対的な立ち位置が同時に求められているということです。

相対化とは、いったん絶対化した自分自身を括弧に入れて、自分自身を含めた関係性を俯瞰できるような醒めた視点の保持になるのかもしれませんね。

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では、たとえ戦略的かつ暫定的であったとしても、自らが選び取った立ち位置から見えてくる風景(現象)とは、一体どのようなものなのでしょうか。

おそらく、そこから見えてくる風景(現象)が、リアリティ(現実感)と呼ばれるものになると思われます。

リアリティ(現実感)とは、ヒトの眼や耳などの感覚器官から入力された情報が、脳で認知されて出現する現象(意識)と言い換えることができそうです。

現象学という学問領域では、現象(意識)、つまりリアリティ(現実感)を確かなもの(確実性)としてではなく、確からしいもの(信憑性)として扱うことになります。

つまり、目の前の現象(意識)が実体そのものと一致しているかどうかは「確か」でないが、ありありとしている様からは「確からしい」と言うことになります。

少し分かりにくいかもしれませんが、普段私たちの目の前にある現象(意識)は、実体そのものと一致しているとの確信のもとで暮らしているのが一般的と思われます。

しかしながら、現象学においては、目の前の現象(意識)と実体そのものが一致することの決定不可能性を採る立場から、リアリティ(現実感)はあくまで「確からしい」信憑性と言うことになります。

例えば、目の前にある現象(意識)と実体そのものが一致していると決定できるのであれば、リアリティ(現実感)は必ず現実と一致することになり、誰もが同じ現実を共有することになります。

しかしながら、目の前の現象(意識)と実体そのものが一致していない可能性があるとすれば、リアリティ(現実感)はあくまで個人に限定された一現実でしかなく、現実はヒトの数だけ存在することになってしまいます。

少し見方を変えるなら、リアリティ(現実感)は脳が描いたひとつのイメージ(現象)ということであり、自分の脳(主観)という閉ざされた領域から出ることのできない限界を持ったイメージ(現象)になるということです。

そして、さらにリアリティ(現実感)が脳の中に現れたイメージ(現象)でしなかいという側面だけが強調されると、現象学は「独我論」と呼ばれることになります。

たとえば、人と話が通じないと感じる瞬間があったとしたら、それはお互いのリアリティ(現実感)が相違しているだけのことで、リアリティ(現実感)の相違として捉えれば、必ずしも不思議な現象ではないということになります。

また、人と話をしていて話が通じていると感じる幸運な瞬間があったとしても、それはお互いのリアリティ(現実感)が一致したのではなく、たまたまお互いのリアリティ(現実感)の一部が重なり合っただけということかもしれません。

あるいは、話が通じていると感じられる瞬間があるとすれば、良くあることですが、他者が一方的に話を合わせてくれているだけのことかもしれません。

要するに、リアリティ(現実感)は個人の脳に現れたひとつのイメージ(現象)という立場に立てば、リアリティ(現実感)はヒトの数だけ存在し、したがって他者と話が通じないが一般となり、他者と話が通じることがむしろ例外になるのではないでしょうか。

現象学が「独我論」と呼ばれるのは、おそらくこのような観念上の思考実験をベースにして構築された学問領域であるためであると思われます。

ただ、生活実感として、取りつく島もない人間関係の隔絶を目の前にしてただ呆然と立ち尽くすという悲劇に遭遇したら、現実の多元性(独我論)に還元して理解せざるを得ない場面も多いのではないでしょうか。

つまり、誰もが同じ現実を生きているという楽観的な確証は持てず、各人が自分だけのパラレルワールド(独我論)の現実を生きているかもしれないという仮説です。

しかしながら、この仮説に依拠したとしても、根本的な人間関係の隔絶を解消できるはずもなく、ほんの少しだけ稚拙で拙速な問題解決が避けられる(留保する)くらいのものではないでしょうか。

ただ一方で、自分の中だけに閉ざされた主観と言えるリアリティ(現実感)が、外部に開かれた客観性(普遍性)へと繋がって行く瞬間が稀に存在します。

稀有な例ですが、自分だけのパーソナルな問題(主観)を突き詰めて行けば、ある時位相の異なった客観性(普遍性)へと繋がる瞬間があるということです。

但し、客観性(普遍性)はダイレクトにそれを目指して得られるものではなく、パーソナルな問題を経由することでしか到達することができない極めて稀な境地でもあると言うことです。

以上のことからすると、個別なリアリティ(現実感)が位相の異なる客観性(普遍性)へと繋がって行く可能性はあるとしても、本質的には自分以外のそれとは重なり合わない、孤独で孤立した多元的なパラレルワールド(独我論)の位置関係にあると言えそうです。

したがって、リアリティ(現実感)を支えているヒトの感覚や認知の個別性という限界を踏まえれば、今私たちが考えるべきことは、自らのリアリティ(現実感)を内部に向かって絶対化して行く「一元化=個別化」の方向ではなく、自分自身を疑ってかかる(懐疑する)、つまり外部に向かって自分を相対化して行く「多元化=多様化」の方向ではないかと思われます。

その結果、自らの軸足を半歩自分自身の外側にずらすことができれば、おそらく視界に入ってくる風景(現象)も変化して、自分はどのような「物語」を信じ、いかにしてパーソナルな問題を普遍性(客観性)へと繋げていくかを、自らが自らの身体のコンパスで指し示すことが可能になるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

【追記】

最後までご一読いただきありがとうございました。

ご一読の上で、ご一読された内容をすべて否定してしまうようで大変申し訳ございませんが、少しだけお付き合いください。

脳科学においては、生物学的なヒトの脳の個別性はそれほど大きなものではなく、程度の差異(程度の問題)でしかないとされています。

養老孟司氏によれば、ヒトの脳が持つ特徴としては「両端を除いた真ん中あたり」がすべて普遍性と呼ばれることになるということです。

つまり、大半のヒトの脳の特徴は「同じ」あって、同じものを見て、同じように感じて、同じように判断しているということになるようです。

しかしながら、たとえ脳の特徴は「同じ」であっても、それぞれのヒトのリアリティ(現実感)が多元化したパラレルワールドになっているのは紛れもない事実です。

では、ヒトのリアリティ(現実感)が多元化したパラレルワールドになってしまっているその理由は何でしょうか。

おそらく、ヒトが帰属している集団の文化から受ける影響が強いからではないかと思われます。

文化とは、言うまでもなく先天的なものではなくて、後天的に帰属する集団からもたらされた二次的な脳への刷り込みということになります。

しつけや習慣などがそれで、その結果習得した固有な行動様式(エトス)が、リアリティ(現実感)の多元性をもたらす要因になっているということです。

ただし、本論考では、生物学的な要因であれ、文化的な要因であれ、自らを絶対化せずに、自らが自らの外に立つ相対化の実践を究極の目的としています。

大変勇気のいることですが、自らが所属する文化(集団)を絶対化せず、自らの文化(集団)を疑い、自らの文化(集団)を否定する、自らの文化(集団)の相対化が時に必要になるのではないかということです。

唐突な終わり方になってしまいますが、絶対化に対する相対化とは、詰まる所、出世間(プチ出家)のことではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。(笑)

(終わり)
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by kokokara-message | 2016-10-30 09:17 | 我流方法序説