知るということについて(再掲)

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ヒトは、「知ること」によって成長すると言われています。

そして、これは教育における基本とも言われています。

「知ること」、つまり知識の習得が大切なのは当然ですが、それ以上に自分が「いかに知らないか」を知っておくことの方がより重要ではないでしょうか。
 
つまり、自分が「いかに知らないか」を知ることによって、ヒトは「知りたい」というモチベーションを賦活させることができるようになるということです。

「何でも知っている」という充足感は一見満ち足りた状態のように思われますが、少し見方を変えれば何もかも放棄した諦念の境地ということにもなります。

「いかに知らないか」を知っているということ、つまり無知と既知の位相差が自覚できていることが、ヒトの成長の原動力になっているということです。

また、ヒトが一生のうちで経験し習得できることは、ほんの一握りのことでしかありません。

この世界の大半は経験も習得もできないままに、ヒトはその人生を終えてしまうのが必定と言えそうです。

したがって、たとえどれだけのことを「知っていた」としても、それは大海の一滴でしかありません。

この事実に驚愕した先人たちは、自分の非力さにただ頭をたれながら、再び自己の思索へと戻って行ったものと思われます。

ヒトが成長して行くためには、「知るということ」について常に謙虚な姿勢でいることが求めらていると言えそうです。

昨今、このような謙虚さを欠いた、傲慢とも言える万能感に支配された自己愛型の主張に出くわすことが多々あります。

「すべて知ることができる(つながっている)」かのような幼児的万能感は、まるでインターネット社会におけるヒーローやヒロインを演じているかのようです。

もちろん、「知ること」、つまり知識の習得がいかに大切であるかは十分理解しているつもりです。

ただ、自分の既知がどれ程のものであったとしても、自分の無知を知っていることに比べれば、その総量は僅かなものでしかないということです。

ヒトが万能感に支配されずに生きて行くためには、「知っている」と思った瞬間、しばし立ち止まり、今一度考え直してみるという謙虚さが必要とされているようです。

なかには、全ての夢が適ってしまった(失われてしまった)ので、今はただ充足感(喪失感)に浸っていたいだけというヒトはいるかもしれません。

ヒトの脳と体には休息が必要です。

但し、いまだ夢が適っていない(失われていない)のであるなら、充足感(喪失感)に浸るのではなく、無知と既知の位相差(欠如感)を自覚し続けることが大事ではないでしょうか。

自分が「いかに知らないか」を知っているということ、つまり自身の欠如感の認識こそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させる原動力になって行くと考えます。

では最後に。

「知っている」という充足感は余裕を想起させることから、ヒトから承認(評価)を得るためのポジティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

「知っている」という充足感は無知と既知をフラット状態にするため、位相差(欠如感)に起因する思索や行動化のモチベーションは起動せず、逆に思考停止や非行動化という停滞状況を引き起こすことになります。

何もしなくて良いことが許容されているのなら話は別ですが、一般にヒトが思考停止や非行動化に陥っている状態を積極的に承認(評価)するのは極めて稀なことではないでしょうか。

一方、「知らない」という欠如感は焦燥感と裏表の関係にあるため、どちらかと言えばヒトからの承認(評価)が得ることが難しいネガティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

繰り返しになりますが、自分が「いかに知らないか」を知っていることこそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させるモチベーションの原動力ということでした。

つまり、「知らない」という欠如感こそが、無知と既知の位相差を埋めるための思索と行動化を促すため、その結果合目的的な成果が生じれば、ヒトからの承認(評価)は得やすくなるのが必定と考えるのですが、さていかがでしょうか。

そして、ヒトからの承認(評価)が得られるようになれば、やがてキャリアの扉は向こう側から自ずと開いてくる(力任せにこじ開けるものではない。)という理路については、またの機会にお話しをさせていただくことといたします。

(終わり)
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by kokokara-message | 2016-09-24 23:50 | 夢とは何でしょうか?