大人の流儀~輝きながら...(全編)


新年あけましておめでとうございます。2016年も昨年同様に、どうぞよろしくお願いいたします。




1980年代後半のバブル期にヒットした、徳永英明の「輝きながら...」という曲があります。

きらめく時間が 僕たちの 
何時だって 記念日だった
Happy birthday そして Merry Christmas
戯いでた あの日
徳永英明「輝きながら・・・」より


今思えば、バブルの頃は、なんとお気楽で、にぎやかな時代であったことかと、懐かしくも、苦々しく思い出すことがあります。

おそらく、当時はまだ、坂の上に浮かぶ雲が陽の光をあびて輝いているものと、ほんとうに信じることのできた最後の時代と言えるのかも知れません。

現在の日本という国は、経済的にはもうすでにピークを過ぎてしまった老年期の国であると思われます。

おそらく日本という国は、再びきらめくような輝きを取り戻すことはおそらくできないのではないでしょうか。

このようなリアルな事実にも関わらず、日本人は「輝きながら...」の歌詞にあるような、昔のままの未熟であることを望んでいるようにさえ思われる時があります。

体力的に壮年期を過ぎてしまった日本人は、輝きながら大人(成熟)へのドアを開けるというリアリティのなさは、もはや許されることではないのかもしれません。

残酷なようですが、日本という国には、もうきらめくような明日などないと分かったうえでも、自分の未来(成熟)に向かって一歩ずつ着実に踏み出すことができる人が望まれているといえそうです。

現在の日本と日本人を取り巻く社会経済構造が、どのようなものになっているのか。

そして、日本人は、このような社会経済構造の中にあって、いかにして自分の未来(成熟)へと向かうことになるのか。

たいへん難しい問題ではありますが、日本人がいま考えなければならない喫緊の問題ではないでしょうか。

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現代社会は、とても複雑化しています。

いろいろな価値観が錯綜しているため、自分の足場を守ろうとすることが、かえって自分の足場を崩してしまうことにもなりかねません。

このような理不尽ともいえるような時代環境は、おそらくこれからも続くことになるのではないでしょうか。

まさに、先が見えない時代が到来したということになりそうです。

そして、このような社会状況は、私(あなた)だけに襲い掛かっている悲劇ではないということです。

おそらく、世の中(世界中)の誰もが、このような先の見えない状況に投げ出されているといえるかもしれません。

経済状況だけが不透明であるということではありません。

人間関係そのものが希薄になっているように思われます。

ただ、経済の不透明感や人間関係の希薄さに、社会の閉塞感の原因を求めるということは、あまりにも短絡的すぎるように思われます。

むしろ、経済の不透明感や人間関係の希薄さに至らざるを得ない価値の対立や錯綜があるがために、自信を持って経済関係や人間関係を構築することができなくなってしまっているのではないでしょうか。

社会事象として、経済関係が不透明であるということ、人間関係が希薄であるということは、すでに私たちの与件になっているといえそうです。

従って、私たちがこのような現代社会を生き延びるためには、これらの与件をまずは受け入れるということが必要になるのかもしれません。

つまり、経済の不透明感や人間関係の希薄さを嘆いたり、必要以上におびえたりするのではなく、これらの社会事象に自覚的である姿勢が求められるということです。

社会事象のあらゆるものは、白黒はっきりと区別できるようなものではありません。

どちらかと言えば、不透明で曖昧なグレーゾーンにあることが一般的なものの見方ということになります。

このため、たとえ戦略的ではあっても、決まった答えはなく、決まった見方はないという世界観(諦観)を持つことが、社会事象を客観視することができるメタレベルからの視点を与えてくれることになるのではないでしょうか。

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経済関係が不透明であるということは、もはや私たちを取り巻く与件になっているということでした。

では、経済関係の何が不透明であって、それはどういう理由からいえることなのでしょうか。

経済活動そのものは実体を伴うことになりますが、岩井克人氏の「貨幣論」によれば、実体経済の交換手段の貨幣は幻想でしかありません。

貨幣の価値とは、他者が、さらにその先の他者が、貨幣を受け取ってくれるという信憑性からもたらされた価値でしかないということです。

少し言い方を替えるなら、貨幣が貨幣として流通しているがゆえに、貨幣としての価値があるということです。

要するに、貨幣が幻想というのは、貨幣の価値には論理的な根拠となる底辺がなく、自己循環論法によって支えられた価値であるからということになります。

つまり、貨幣そのものは紙切れや、金属片という本来価値のないものに過ぎないが、自己循環論法によって成り立っている幻想的価値ということになります。

従って、もしハイパーインフレーションのような貨幣の持つ幻想性が消失してしまう事態が発生すれば、貨幣の持つ価値は、もとの木阿弥の紙切れや金属片に戻ってしまうということになります。

では、モノである実体こそが、ほんとうの価値なのかという問題が次に発生します。

経済活動に伴う人や土地や建物などは、まぎれもなく実体ということができます。

しかしながら、それらの価値も、市場原理主義という俎上に乗った瞬間に、貨幣という「ものさし」によって評価されることとなり、価値は幻想化することになります。

市場原理主義では、どのようなモノであっても例外なく、相対主義の対象になってしまうということです。

これは、金や原油などの稀少鉱物資源が、マーケットで投機対象となり、その価値が乱高下している現象からも理解できることではないでしょうか。

つまり、実体としてのモノの価値は、どれだけ貴重なものであっても絶対的価値とはなり得ず、すべてが相対的価値という文脈依存的な幻想性を帯びてしまうことになるわけです。

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もちろん、実体である土地や建物には、アダムスミスのいう使用価値(土地を耕作して果実を獲る)はあるということになります。

また、実体が人ということであれば、人の労働に拠った成果物だからこそ価値があるという、人間中心主義の物語(労働価値説)ということにもつながります。

しかしながら、これらの価値は「特定の与件」や「イデオロギーの枠組み」の中において安定していることに過ぎず、その枠組みが違えば当然その価値も変化することになります。

たとえば、同じボートであっても、池遊びに使用するボートと沈没しかかっているタイタニックで使用するボートでは、明らかに同じボートでも使用価値が異なってきます。

また、労働によって生み出す価値こそが本当の価値であると信じられている共同体(枠組み)の中では、労働価値説が極めて安定して成立しているように見えても、その内実は賃金と原材料の差異によってもたらされた剰余価値にすぎないということになります。

さらに、内部のみならず外部経済との関係性において労働価値説が成立しているようにみえたとすれば、それは外部経済との価格の比較優位(低い賃金、補助金、寄付金等)のうえに築かれた剰余価値にすぎないということになります。

つまり、労働価値説をいくら絶対化したしたとしても、必ずそこには差異(剰余価値)が生じて相対的価値となってしまうということです。

使用価値や労働価値は普遍的な原理に築かれた価値であるかのように思われていますが、実際は相対主義による差異から価値が創造されているだけに過ぎず、この原理についてはアダムスミスの時代からずっと変わっていないということができます。

ただ、このことを理解したうえでも、使用価値や労働価値を絶対的なものと見なしたいという欲望があれば、それはイデオロギー(社会思想)ということになってしまうのではないのでしょうか。

もともと、マルクス経済学では、政治問題である理想や幻想というイデオロギー(社会思想)が、経済問題を下部構造としたうえに構築される上部構造ということになるようです。

もちろん、このような上部構造にあたるイデオロギー(社会思想)が間違っているという議論をしているわけではありません。

現実的に経済要件の基礎となる市場主義(価値相対主義)を受け入れたうえで、労働価値説の理想化や幻想化を図る(物語を信じたい)ということであるのなら、物語を共有しない人との間に信念対立の問題が生じることはないと思われます。

つまり、理想化や幻想化というイデオロギー(社会思想)をいったん相対化したうえで(絶対化しないで)、あえて理想と幻想の共同体の構築を目指すということであるのなら、価値多元主義の立場からは尊重されるべきひとつの立場ということになります。

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近代以降の日本の社会で、アダムスミスの労働価値説が成立しているように見えたのは、日本の都市部と農村部の地域格差(差異)という相対関係がその前提になっていたからということになりそうです。

つまり、都市部の後背地として農村部があり、都市部には農村部から低賃金の労働力人口や安価に生産された食糧品等が供給されることになります。

一方、都市部は、農村部から供給される低賃金の労働力人口の需要の場であり、また流入する安価な食糧品等の消費の場になっているということができます。

日本の経済成長を支えた剰余価値の累計は、このような都市部と農村部の差異からもたらされた価値ということになります。

従って、90年代以降日本の経済成長が終焉を向かえた一番の原因は、このような農村部という剰余価値の供給地が日本から消滅してしまったということになります。

つまり、日本全体が都市化(均一化)してしまったということになるのではないでしょうか。

現在経済成長を続ける中国やインドでは、かつての日本の高度成長期と同じような現象が繰り返されているということができます。

つまり、国内に広大な後背人口と広大な消費者を抱える中国やインドでは、都市部と農村部にある地域格差(差異)が大いなる剰余価値を生み出す可能性を持った社会構造といえます。

また、情報通信の発展はめざましく、70年代当時の日本と現在の中国やインドでは比較ができないほどの変化の速さがあります。

情報通信の発展と都市化のスピードに相関関係があるとすれば、おそらく10年もしないうちに、世界唯一を競うほどの強大な経済力を持った二つの経済大国が、アジア経済圏の中に誕生することになるのではないでしょうか。

そして、このような中国やインドも都市化するスピードが速いほどに、経済成長が下り坂に向かう時期も早くなるといえるのではないでしょうか。

つまり、現在のヨーロッパ諸国や日本がそうであるように、経済成長を支える国内の差異が消滅してしまうことは、高度経済成長から低経済成長の国家へと社会構造が様変わりしているということになります。

このような世界経済のダイナミズムは、いずれも価値相対主義に基づく差異から引き起こされた現象ということができそうです。

つまり、世界経済の剰余価値の創造を演出しているのは価値相対主義に基づいた差異であって、アダムスミスが国富論で論じた労働価値説という主体論ではないということです。

貨幣とは、自己循環論法(循環参照ですね)によって成り立っている幻想的な価値のことでした。

また、実体としてのモノの持つ価値は、市場原理主義の俎上で貨幣という「ものさし」によって相対評価される幻想的な価値のことでした。

つまり、貨幣のみならず、実体としてのモノについても、絶対的な価値ではありえないということです。

要するに、価値とは絶対的価値ではなく、あくまで相対的価値ということになります。

そして、価値は差異によってもたらされるものであり、実体のない幻想そのものということになりそうです。

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また、人間関係の代表的なものとしては、イエ(共同性)があります。

イエ(共同性)とは、人や土地や建物の実体だけを指す言葉でないことはいうまでもありません。

イエ(共同性)とは、むしろフレーム(枠組み)のことであって、関係性ということになります。

つまり、イエ(共同性)は人間関係だけではなく、土地や建物などの実体との関係性ということでもあります。

イエ(共同性)が、フレーム(枠組み)ということであるのなら、その中の実体が常に同じであらねばならない必然性はありません。

つまり、イエ(共同性)というフレーム(枠組み)が存続していれば、実体の中身は変化してもかまわないということになります。

たとえば、世代交替によって構成員はどんどんと変わっていきますが、イエ(共同性)のフレーム(枠組み)はそのまま存続することになります。

ただし、イエは一番小さな社会(共同性)とされているように、具体的な実体が二つ以上あって、関係性が保たれることが前提とされるものでもあります。

しかしながら、核家族化、さらには個人化が進展していく中で、実際にはイエというフレーム(枠組み)だけが残り、その中身(実体)がなくなってしまうという事態も発生します。

たとえば、事実上の地縁や血縁などの関係性がなくなってしまい、全くの個人(単身)になってしまったような場合です。

このような場合でも、いまだそこにイエ(共同性)があると信じている人がいれば、イエ(共同性)は存続していることになります。

イエ(共同性)は、観念的(バーチャルリアリティ)に一人歩きすることもできるということです。

つまり、個人(単身)が構成員としての関係性を維持することができなくなっても、いまだイエ(共同性)を体現しているという認識さえあれば、社会的には個人(単身)がイエ(共同性)を代表しているものとみなすことになるということです。

イエ(共同性)は、人や土地や建物という実体との具体的な関係性を喪失してしまっても、幻想の中で生き続けることができるものということではないでしょうか。

このような抽象化が可能になるのは、現代社会におけるイエ(共同性)は、制度として存続するものになっているからといえそうです。

以上のことからすると、イエ制度からみた現代社会における関係性は、必ずしも具体的な実体を前提とはしない、幻想であっても十分可能ということになります。

関係性が幻想ということであれば、目の前の現実(リアリティ)が、具体性を欠いた曖昧なものであっても構わないということになってしまうのかもしれません。

従って、目の前で起こっている現象(クオリア)が、果たして本物なのか、幻想にすぎないのか、このことを明確に区別できる根拠さえも失ってしまうことになります。

関係性とは、幻想(抽象)であって、必ずしも実体(具体)を必要とはしない。

かように割り切ることが、現実(リアリティ)の虚構性をクールに流していくことであり、迷わない生き方につながると考えるのですが、さていかがでしょうか。

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現代社会は、自分だけの夢を見ているという人であふれているように思われます。

日本人が未熟であるということと、自分だけの夢を見て満足していることとは、無関係ではないと思われます。

また、イエ(共同性)の細分化(個人化)と、経済活動における消費単位の細分化(個人化)とは、同時に起こった現象であるということができそうです。

つまり、イエ(共同性)が細分化されていくということは、社会の構成単位が細分化されて個人化していくことでもあるからです。

このことを市場原理主義から説明すると、共同性が細分化されることによって、個人という消費単位が増加していくということになります。

そして、消費単位の増加は、消費(需要)を押し上げることになり、その結果供給が促されて経済全体のパイは拡大するということになります。

要するに、共同性の解体による消費単位の増加(個人化)は、右肩上がりの経済成長主義の方向性と利害が一致していたということになります。

また、資本主義経済は、相対主義の支配する世界であるため、実体と乖離した幻想が支配する世界でもあるということです。

つまり、実体に備わっている価値は絶対的なものではなく、あくまで相対的に決定される価値に過ぎないということです。

当たり前のことですが、価値や評価というものは、必ずしも実体そのものを表現しているわけではありません。(株価と実体経済の関係を見れば一目瞭然です。)

このため、資本主義を通して見る社会のリアリティは、市場原理の効率化や合理化が進めば進むほど、不透明感と幻想性が増加するということになってしまいます。

つまり、資本主義の市場原理を進めていくと、確かに経済効率や経済成長はもたらされることになりますが、その一方で社会は不安定化することとなり、実体がつかめない不安や焦燥感が高まるということになります。

資本主義の本質とは、効率化や合理化というような経済の純度を高めて行くほど、資本主義そのものが不安定化するというパラドックスにあることです。

自分の足場を守ろうとすることが、かえって自分の足場を崩してしまうというパラドクシカルな危うい経験をした人も少なくはないと思われます。

おそらく、このようなパラドックスは経済関係だけに限定されたことではなく、人間関係やその他あらゆる社会事象においても、同様にあてはまることであるのかもしれません。

もはや、私たちを支えてくれる絶対的な足場はどこにもなく、相対主義における価値と評価は、私たちに底の知れない混沌(カオス)をもたらすことになってしまいます。

「あらかじめ決まった答えがない」とは、このような不安と孤独の中を生きることであるのかもしれません。

従って、自分の夢(物語)だけを信じながら自足しているようでは、「あらかじめ決まった答えがない」グレーな世界を生き延びることさえ難しい状況になってしまいます。

では、一体私たちはどのようにして生き延びれば良いのでしょうか。

おそらく、私たちは、この底の見えない不安と孤独という混沌(カオス)の状況をいったん受け入れるしかないと思われます。

そして、不安と孤独の絶望の底から、絶対的な足場などはどこにもないと諦めるしかないと思われます。

諦める(諦観)という立ち位置が、効率性と不安定性のパラドクシカルな危うい状況を絶妙のバランスで生き延びるという透徹した視点(支点)を与えてくれるのではないでしょうか。

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資本主義の論理でもある価値の相対主義と価値の幻想性からすると、あらゆる社会事象はグレーゾーンのどこかに帰結することになります。

そして、グレーゾーンのどこに帰結するかは、あらかじめ決まった答えがあるわけではなく、結局自分で決めるしかないということになります。

また、自分で決めるとしたとしても、その立ち位置は暫定的なものでしかなく、バランスをとるために社会的文脈から一度定めた軸足をずらすことも必要になってきます。

つまり、社会的文脈とのバランスを維持するためには、それまでの経験や勘という暗黙知に頼りながら、軸足の位置を探ることも必要になってくるということです。

確かに経験や勘がもたらす直観(暗黙知)は、曖昧なものということのなるのかもしれません。

しかしながら、このような曖昧さに依拠しながらも、結果としてバランスが採れているとしたら、それはどこかで普遍性とつながった視点(直観)といえるのかもしれません。

そして、おそらくこのような普遍性につながった視点(直観)こそが自己意識と呼ばれるものではないかと考えます。

自己意識とは、時間性と空間性を伴った四次元の視点であり、自分自身を一望俯瞰する客観的な視点ということになります。

あらゆる社会現象はグレーゾーンのいずれかに位置するということでした。

このような社会現象の持つ曖昧さを嘆いているだけではなく、時代の要請として曖昧さを引き受けながら、自分自身の足場をどこに築くのかを決定しなければならないということです。

自分の足場を築くということは、自分がいかに生き延びるかということでもあり、その選んだ場所によっては、自分を取り巻く環境は大きく変わってくることになります。

おそらく、実際には、現実の中で自分の足場を作っては壊わし、壊わしては作るという作業を繰り返しながら、やがて自分の足場を固めていくことになると思われます。

やがて、作った足場(支点)が自分自身を支えるものであるという直観があったとすれば、その足場(視点)が自己意識と呼ばれるものであるのかもしれません。

自己意識とは、自分自身の生き方に普遍性や倫理性を支えてくれる、メタレベルからの(一望俯瞰する)視点ということになりそうです。

そして、自分が直観した(信じた)足場であるのなら、たとえ不透明で幻想的な現代社会に困惑をしながらも、自分自身で大事に守っていくことができるはずです。

本編のはじめでは、現在の日本人には、もはや輝きながら大人(成熟)へのドアを開けるというリアリティのなさは許容できなくなってしまっており、厳しい社会経済情勢の中での一日も早い成熟が求められるという考察をしました。

さらに、現在の日本人には、もはや輝くような明日が待っていないと分かっていても、なお一歩ずつ自分の未来へと踏み出していく淡々とした日常性の積み重ね(宮台真司氏によれば、終わりなき日常になるのでしょうか。)が重要となってくるということでした。

そして、大人になる(成熟する)ということは、自己コントロールできる自己意識の確保が目標とされるということになります。

ただ、このような不透明で幻想的な現代社会に困惑をしながらも、なお自分自身を俯瞰できる視座の確保を目指して、淡々と日常を積み重ねることのできる行動様式こそが、そもそも成熟の領域に至った「心性」になるのではないのでしょうか。

おそらく、自己意識(普遍性)の確保へのプログラム とは、自己コントロール(前頭葉による感情と欲望の制御)をその方法論に組み込んだ「大人の流儀」のことではないかと思われます。

つまり、自己意識(普遍性)の確保へのプロセスこそが大人であるための条件ということになり、従ってそもそも成熟とは大人であろうとする者に許された円環関係のプログラムの実践ではないかと考えていますが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2016-01-01 17:10 | 我流ポップス論(80')