大人のなり方~思い出がいっぱい/H2O(全編)

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古いアルバムの中に 
隠れて 想い出がいっぱい
無邪気な笑顔の下の 
日付は遥かなメモリー

時は無限のつながりで
終わりを思いもしないね
手に届く宇宙は 限りなく澄んで
君を包んでいた

大人の階段上る 君はまだシンデレラさ
幸福(しあわせ)は誰かがきっと 運んでくれると信じてるね
少女だったと いつの日か 想う時がくるのさ
少女だったと 懐かしく 振り向く日があるのさ


H2Oの「想い出がいっぱい」(作詞 阿木燿子)より抜粋


1983年は、TVアニメ「みゆき」のエンディングテーマソング「想い出がいっぱい」が巷に流れていました。

あだち充原作のTVアニメ「みゆき」の詳細は忘れてしまいましたが、H2Oが歌う「思い出がいっぱい」だけは鮮明に覚えています。

メロディーと歌詞がとても印象深く、今でもこの曲をウォークマンで繰り返し聞くことがあります。

そして、作詞が阿木燿子さんと知ったのは、ごく最近のことで、あらためてその才能に感服することとなりました。

1983年と言えば、日本の社会は坂の上の雲を目指していた時代で、政治的に冷戦体制の終結を願いつつも、その内実は冷戦体制から大いなる経済的恩恵を受けているという矛盾した時代でした。

そして、冷戦体制終結後のバブル経済までは、かような日本社会のコンプレックス状態は顕在化せず、誰もが素朴に未来を信じることができたということです。

日本人は、まだ無垢なまま(未熟なまま)でいることが許されていたということです。

H2Oの「思い出がいっぱい」は、このような時代に作られました。

歌詞は、ひとりの少女が大人になっていくプロセスを、誰もが知っているシンデレラストーリーを舞台にして描かれています。

その中で、シンデレラを演じている少女と古いアルバムの中にいる少女は、同一人物です。

そして、もうシンデレラを演じなくなった少女と古いアルバムを見ている少女は、同一人物です。

つまり、大人に成長した未来の自分(少女)が、子どもであった頃の自分(少女)を懐かしく思い出しながら、大人へのプロセス(苦い経験など)を想起しているという設定です。

歌詞にある「幸福(しあわせ)は誰かがきっと 運んでくれると信じていた」という幻想(シンデレラ・コンプレックス)からの卒業ですね。

そして、この歌詞は未来完了形で描かれていることで、少女が無事に大人になれたことを告げています。

では、この少女が大人になれたように、無垢な状態(未熟な状態)のままであった日本人はその後大人になることができたのでしょうか。

1989年に東西冷戦体制が終結すると、1991年にバブル経済が崩壊し、その後日本経済は長い長い停滞期に入っていきます。

今にも手が届きそうな未来(幸福)は遠くへと去って行き、気が付けば日本人は独り立ち(自立)することを世界から強く迫られることになります。

独り立ち(自立)を迫るのは、言うまでもなく米国発のクローバル社会で、日本人はそれまでの依存(未熟)体質から、経済的・政治的自立(成熟)を強いられることになります。

その後日本人が大人になれた(成熟した)かどうかは後で触れるとして、H2Oの「思い出がいっぱい」という曲だけは、このような時代の閉塞感や焦燥感とは一線を画して、大事な日本人の記憶に残っていくことになります。

そして、今では学校の教科書の教材として取り上げられて、時代を超えた日本のポップスを代表する曲として知られるようになっています。

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自分の子ども頃を振り返ってみると、自分の時間と自分の空間が無限に続いている感覚があったように記憶しております。

むろん、あくまでも漠然とした感覚ですが、自分の時間と自分の空間の無限性は、どこかで信じていたように思われます。

そして、両親や友達についても、その関係性が永遠に続くものと、どこかで信じていたように思われます。

おそらく、自分の可能性は無限にあると信じているように、自分の時間と自分の空間の無限性も信じていたのかもしれません。

いわゆる、子どもの世界、つまり幼児的万能感でしょうか。

しかしながら、このような無限性を信じている子どもの世界(幼児的万能感)は、それとは真逆に短く狭いものでしかありません。

つまり、子どもの世界は短く狭いがために、根拠のない無限性を信じることが可能となり、幼児的万能感を抱くことができたというわけです。

むろん、子ども自身は、このような矛盾に気づくことはありません。

子どもが、このような矛盾に気づくためには、長い時間をかけて、広く多様なこの世界を旅して(経験して)行くことが必要になります。

そして、長い旅を終えた後、やっと子どもは自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになります。

おそらく、その気づきは、自分自身の「死」の意識を介してのことではないでしょうか。

つまり、観念や概念の「死」ではなく、自分自身の「死」を意識することで、はじめて自分の時間と空間の有限性(無限ではない)に気づくということです。

そして、さらには、自分自身の「死」の意識を介することで、今在る現実(自分を取り巻く関係性)の唯一無二性に気づくことになるということです。

ここで言う唯一無二性とは、今在る現実(自分を取り巻く関係性)は二度と再帰しないということです。

つまり、自分自身の「死」の感覚も、今在る現実(自分を取り巻く関係性)の万物流転(諸行無常)という世界観の中の一部でしかないということです。

そして、自分自身の「死」を取り込んだ万物流転(諸行無常)の世界観は、あらゆるものが失われてしまう喪失感を生み出し、やがてその喪失感は今在る現実(自分を取り巻く関係性)への執着や焦燥感へと反転して行きます。

自分自身の「死」が唯一無二であるのと同様に、今在る現実(関係性)も唯一無二であって、それゆえに失したくはない(大事にしたい)という「今」への執着や焦燥感の感覚ということでしょうか。

古文の「徒然草」などで使用されている「いとかなし」が、この感覚に近いのかもしれません。

このような万物流転(諸行無常)の世界観と「今」への執着を習得し、やがて幼児的万能感を持った子どもたちは、自分の役割と責任を知った節度ある大人になっていくということです。




繰り返しになりますが、人は、自分の死をリアルに意識できたときから、大人になることができるということです。

子どもが、自分が無限であると信じることができるのは、短く狭い閉ざされた仮構の世界で生きているためです。

大人が、自分が有限であると思い知らされるのは、長い間広く多様な現実の世界を経験してきたためであるということです。

子どもと大人では、有限と無限のあり方が正反対(真逆)になっているということです。

ところで、有限と無限の認識を分ける一番の要因が、自分自身の「死」をどのくらいリアルに意識できているかということでした。

最近とくに気になるのですが、年齢とは関係なく、自分の時間と空間が無限であるとどこかで信じている人が年齢が高くなっているように思われ驚かされます。

耳順(60歳)の年になっても、いまだ時間と空間が無限であると信じられるのは、世の中がそれほど不老不死のパラダイスに見えているからなのでしょうか。

むろん元気なのは大変良いことですが、自分の天命(50歳)を知ったうえでの行動とは考えられないことも多く起きているようにも思われます。

天命(50歳)と耳順(60歳)は、ともに孔子の論語の中に出てくる言葉です。

天命について、私なりに解釈すると、自分の時間と空間の有限性、つまり自分の死をリアルに自覚できたとき、自分と自分の生きられる現実の唯一無二性にやっと気が付き、その時からもう一度生き始めるということのように思われます。

そして、唯一無二性は、永遠に確証が得られない焦燥感や喪失感につながっているがゆえの、コンセントレーション(集中力)のようにも思われます。

マックス・ウェーバーの「プロテスタンチィズムの倫理と資本主義の精神」によれば、プロテスタンチィズムの予定調和説によって救済されるかどうか分からないという焦燥感が、人を倫理的にさせ、勤勉にさせたということです。

もちろんキリスト教徒でもない日本人が、マックス・ウェーバーの言うプロテスタンチィズムの救済への焦燥感をほんとうに理解できるとは思いません。

従って、日本人にとっての唯一無二性は、自分自身の「死」という決定的な喪失感を自覚することでしか、高めることのできないコンセントレーション(集中力)ではないのでしょうか。

日本人は、他の国と比べると大人への成熟度が低い、幼児的万能感のあるアダルト・チルドレンが多いと言われることがあるように思われます。

この背景には、共同体の文化的、宗教的な意味での大人への通過儀礼が欠落してしまったことがその原因と考えられるところがあるのかもしれません。

卑近な例になりますが、女子フィギアスケートのキム・ヨナと浅田真央では、技術的な差異というよりも、むしろ大人の成熟度の差異が大きく結果に影響を及ぼしたところがあるようにも思われます。

おそらく、これは成熟度を評価するような文化圏(父性社会)にいるのか、それとも成熟を共同性からの離脱とみなすような文化圏(母性社会)にいるのか、という決定的な差異から生じた行動様式(エトス)であるように思われるのですが、さていかがでしょうか。

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欧米人によれば、日本人の死生観には、今でも仏教の輪廻転生があると思われているように聞きます。

しかしながら、現代の日本人が強いリアリティを持って仏教の輪廻転生を信じるは、もはや希少となっているのではないでしょうか。

ただ、生きてるうちは楽しみたいという志向性の強さだけを見れば、自分の人生の有限性(80年程度しかない)を信じられているとも言えなくはないようです。

つまり、死後の世界観のリアリティはなくても、現世の余命を計算しながら貪欲に生きる(損はしない)ことへのリアリティは強いということのようです。

もちろん、計算上の余命が数値的に短くなれば、自分のできることは確実に限られてきます。

従って、できる内にやれることはやっておくという生き方は、自分自身の「死」から逆算した積極的な生き方と受け止められることになるのかもしれません。

今在る現実を精一杯生きるという姿勢は、自分の唯一無二性がやがて失われてしまうことへの執着と焦燥感、そして今へのいとおしみの感情から説明ができることについては、先に記述したとおりです。

つまり、今在る現実を精一杯生きるということは、前向きな積極性という表層的な動機ではなく、むしろ無常感がもたらした諦観(いとかなし)という深層心理から理解する方がより動機の根源に近づくことになるのかもしれません。

ところで、唯一無二性は、茶の湯における一期一会ととても近い感覚があるように思われます。

幕末の大老井伊直弼は、その著書「茶湯一会集」の冒頭で、茶の湯における大切な言葉として一期一会を選んでいます。

「茶湯一会集」によれば、一期一会は「本日の出会いは、再び同じ出会いではないと考え、主人は全てのことに気を配り、客も亭主の趣向を何一つおろそかにせず、心に留めて、双方が誠意をもって交わるべきである」というものです。

そして、「茶湯一会集」の完成は安政5年(1858)とされており、同年は、井伊直弼が大老に就任するとともに、孝明天皇の勅許が得られないまま日米修好通商条約を強行調印した年でもありました。

大老就任後まもなく、大老井伊直弼は、条約反対派を封じ込めるため、多くの公家や大名、藩士らを処罰することになります。

安政の大獄と呼ばれる事件です。

安政の時代は、思想的には大老井伊直弼が進めた開国ではなく、むしろ王政復古の尊王攘夷の嵐が強く吹き荒れていました。

また、国家存亡の危機にあったとはいえ、政府(幕府)の事実上の最高責任者(大老)が、律令制度の頂点にある天皇の勅許(許し)を得ぬままに、外国との条約を締結するということは、おそらく法制上の明白な服務違反に当たるということです。

つまり、条約の調印の強硬という時代からの突出と天皇を頂点とする律令制度からの逸脱というふたつの高度な政治判断は、大老井伊直弼が自らの死を覚悟することなしには決することのできない決断ではなかったのでしょうか。

その2年後の万延元年(1860)に、大老井伊直弼は桜田門外で急襲され、その生涯を閉じることになります。

享年、44歳という若さでした。

大老井伊直弼に限らず、人が自分の唯一無二性(天命)について、考え始めることになるのは、おそらく年齢の老若とは関係なく、自らが投げ出された社会的文脈から、自らの死を覚悟しなければならなくなった時ではないかと思われます。

自らの死を覚悟することによって、関係性の唯一無二性(一期一会)のみならず、自分自身の唯一無二性(天命)に気づかされることになるのかもしれません。

ただ、極力大きな決断は避けたいという思いもまた人の情けであって、ひとそれぞれ天命の時期には差が生じるは仕方のないことかもしれませんね。

ところで、孔子の論語によれば、50歳で天命を知り、60歳で耳順するということになるようです。

耳順とは、その字の通り、我を張らずに、人の話に素直に耳を傾けることができるようになることです。

順番からすると、自分の唯一無二性(天命)を知ったうえで、やっと人の話に耳を傾けること(耳順)ができるようになるということのようです。

しかしながら、現代社会では、自分の唯一無二性(天命)を知ることがないまま、従って耳順することもないままに、老いていく人が多いように思われます。

このことは、自分の有限性(無常感)に気づかなくても、永遠の命(いつまでも若い)と変わらない同質性(いつもみんな同じ)を信じているだけで、生きることができるということではないでしょうか。

このことからすると、現代人には、もはや唯一無二性(天命)は必要ではなくなったということになってしまうのかもしれません。

そして、現代人が、自らの役割でもある唯一無視性(天命)をなくしてしまったのは、自らの死に対するリアリティを抱くというチャンスを失ってしまったからということかもしれません。

以上のことをまとめると、人の「死」そのものが社会の背景に押しやられてしまった結果、他人の「死」のみならず自分の「死」についても自覚するというチャンスがなくなってしまったということです。

その結果、自らの有限性(無常感)に気づくどころか、永遠の若さといつも同じという幻想の中を彷徨うことで、自らの唯一無二性(天命)さえに気づくことなく、平気で手放すことになってしまったのが、現代人の自然(死生観)であるのかもしれませんね。

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大人の階段上る 君はまだシンデレラさ
幸福(しあわせ)は誰かがきっと 運んでくれると信じてるね
少女だったと いつの日か 想う時がくるのさ
少女だったと 懐かしく 振り向く日があるのさ


H2Oの「想い出がいっぱい」(作詞 阿木燿子)より抜粋


「想い出がいっぱい」の歌詞のラスト部分を抜粋したものです。

幸福(しあわせ)は、自分の努力だけで得ることができない、ということはいうまでもありません。

幸福(しあわせ)には、自分が今置かれている社会的文脈や偶然の運というものが、大きく影響してくるからです。

また、幸福(しあわせ)は、外部の誰かが運んで来てくれたものを、ただ受け取るだけのことではありません。

つまり、幸福(しあわせ)とは、自分だけで創れるものでもなく、誰かから与えられるだけのものでもないとすれば、自分と外部の誰かが、共同で一緒に創り上げていくものといえそうです。

では、自分と外部の誰かと創り上げていく幸福(しあわせ)を得るためには、どのようにすればいいのでしょうか。

子どもの時間と空間は、観念として無限にあるということでした。

このため、あらゆる選択をネクスト・ワンとして先送りすることもは可能ということになってきます。

つまり、いくらでもやり直しがきく代替可能性ということになり、場合によっては、無責任に誰かが自分に代わりやってくれるということにもなりかねません。

すべての選択が、唯一無二(一期一会)である必要がない、つまり代替可能性ということになれば、いまここにいる自分も唯一無二である必要はなく、誰かが代替可能であるということにもなってしまいます。

これに対して、大人のリアリテイは、自分の時間と自分の空間は有限ということでした。

このため、「今」眼前に発生している現象と誠実に向き合う態度(唯一無二性)が、逆に自分の有限性の枠組みを守ることになり、自分の足場を固めるスタンスになるということです。

つまり、大人が採る態度の選択は、目の前の現象が消えてなくなるか、変貌してしまわない限りは、それと相対(あいたい)することが前提になるということです。

従って、大人は眼前の現象から逃げ出すことができず、このため、いかに距離をとって向き合うかが一番の大事となり、この距離感こそが自分の有限性を守るための要諦になるということです。

一期一会は、茶の湯においてとても大切にされる言葉のひとつでした。

また、現代日本のホスピタリティを代表する言葉のひとつでもあります。

但し、いくら一期一会が大切とはいっても、偶然や必然の唯一無二性である出会いが自分の有限性(時間や空間)を危険にさらすものまで関わりを求めるものではないということです。

例えば、悪質なクレーマーがいたとします。

このようなクレーマーとの出会いを一期一会と勘違いし有難く思っていては、そもそも自分の有限性である時間と空間を守ることはできず、逆に自分の有限性である生命を危機にさらしてしまうことになってしまいます。

自分の有限性を危険にさらすオープンマインドは、ニーチェの言うルサンチマンとも似ており、まさに本末転倒という事態にもなりかねません。

※ルサンチマン [ ressentiment]
〔哲〕 ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨。大辞林 第二版 (三省堂)より


自分の有限性を危険にさらしてまで成さねばならないとしたら、それは自分の限定された時間と空間を前提にした上で、しかも自分の限定された能力と役割の範囲に限定した上で実践するのがせいぜいではないでしょうか。

たとえば、仕事と割り切った専門家による(有料の)カウンセリングや営利目的と割り切った豊富な専門知識を持ったプロパー(相談員)の接遇などがそれにあたるのかもしれません。

したがって、自分がほんとうに幸福(しあわせ)を得たいのなら、まずは自分の時間と空間の有限性を知り、それらを自分自身で守らなければならないということです。

自分の「分」を知ることは、大人にに求められた大事な能力と言えそうです。

もう一度、言っておきます。

仕事のことであれ、家族のことであれ、趣味のことであれ、自分の時間と空間が有限であると自覚できている人が、大人と呼ばれる人です。

自分の時間や自分の空間とそれを支える自分の体力や気力まで含めて無限と信じている人は、子どもということになってしまいます。

従って、自分の時間と空間の有限性を知ている人は、幸福(しあわせ)を見つけるために、「自分探し」に出かける無謀な振る舞いはしません。

幸福(しあわせ)は、自分の身近な日常の中の関係性の中でしか見つけることができないことを知っているからです。

つまり、自分が有限な存在であるのなら、自分の周りを見回す程度の努力は行っても、求められてもいない遠くまでわざわざ出かけることはしないということです。

幸福(しあわせ)は、自分が見落としてる身近な生活の中にそっと潜んでいるものです。

それに気付くのが、有限性を生きる大人の責任であって、大人であるための試金石と言うことになるのではないでしょうか。

最後になりましたが、自分の時間と空間の有限性を突き詰めて行けば、やがて自分の死に至ることは述べてきました。

そして、自分の死を受け入れることができた人が、大人(幸せ)の階段を登りはじめることができるということも述べてきました。

このことからすると、自分の死(有限性)について受け入れることができたとき、つまり、無限という観念を捨てたときに、はじめて「自分の幸せ」の答えが得られる仕組みになっているのかもしれません。

では、自分の幸福(しあわせ)とはいったい何なのでしょう。

おそらく、自分の「死」を受け入れることで、はじめて、人は生かされていることの意味を知り、生かされていることの喜びを覚えるということではないでしょうか。

これは、他力と呼ばれる思想です。

このような他力思想を受け皿にすることで、その上に生まれて来るものが、自ら生きはじめるという自力思想ではないでしょうか。

つまり、他力の掌(たなごころ)に乗っている小さな自分という存在が自力であるのなら、他力とは自分の有限性(自力)を自覚せざるを得ない、自力を超越した無限性や永遠性ということになるのかもしれません。

このような無限性や永遠性という他力に抱かれて、いまここに自分の足で歩き始めることができた自力の有難さこそが、自分が生まれ変わったことの証しであり、大人になれたことへの驚嘆ではないでしょうか。

ただ生きるのではなく、自ら生きはじめるということが、祝福すべき第二のバースディ(誕生日)になるというわけです。

黒澤明監督の映画「生きる」でも、ただ生きる(存在すれば良い)のではなく、自ら生きはじめることの大切さが主要なテーマになっていたと記憶しております。

そして、かように生きはじめた自分も、やがては年老いて死を迎えるという必然は、有限性から永遠性へと回帰していく「大きな物語」を想起させるものでもあります。

私は、日本人として、かような有限性から永遠性へと回帰していく日本人の「大きな物語」の存在に、どこかしら安寧(幸せ)を覚えることになるのですが、さて皆様はいかがお考えになるのでしょうか。

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by kokokara-message | 2015-09-05 08:42 | 我流ポップス論(80')