会いたい/沢田知可子(全編)

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「会いたい」
作詞;沢ちひろ 
作曲;財津和夫 
編曲;芳野藤丸 
歌 ;沢田 知可子

ビルが見える教室で 
ふたりは机 並べて
同じ月日を過ごした
すこしの英語と
バスケット そして
私はあなたと恋を覚えた

卒業しても私を
子供扱いしたよね
「遠くへ行くなよ」と
半分笑って 半分 真顔で
抱き寄せた

低い雲を広げた 冬の夜
あなた 夢のように 
死んでしまったの

今年も海へ行くって 
いっぱい映画も観るって
約束したじゃない 
あなた 約束したじゃない
会いたい・・・

 
波打ち際 すすんでは 
不意にあきらめて戻る
海辺をただ独り
怒りたいのか 泣きたいのか
わからずに 歩いてる

声をかける人を つい見つめる
彼があなただったら
あなただったなら

強がる肩をつかんで
バカだなって叱って
優しくKISSをして 
嘘だよって 抱きしめていて
会いたい・・・

遠くへ行くなっと言って 
お願い一人にしないで
強く 抱き締めて
私のそばで生きていて

今年も海へ行くって 
いっぱい映画も見るって
約束したじゃない 
あなた 約束したじゃない
会いたい・・・
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自分の過去を振り返ると、数年の間記憶が飛んでしまっている時期があるようです。

私にとっては、1990年前後が、自分の記憶からどうも飛んでしまっているように思われます。

もちろん、すべての記憶が喪失状態になっているわけではなく、当時の事件や流行などの断片的な情報が飛んでしまっているということです。

もともと、当時からそれらの情報にアクセスしていなかったということも考えられます。

しかしながら、今振り返れると1990年前後は、仕事だけではなく、仕事以外においても大変忙しい時期であったため、多くの情報が私の記憶のネットからもれてしまっていたのかもしれません。

当時は、まだインターネットが普及していなかったことから、ニュースソースは新聞やテレビという従来型のメディアでした。

いずれのメディアでも、現在のiPhoneを使用するようには簡単に情報収集をすることはできません。

おそらく、当時の新聞やテレビにじっくりとアクセスできなかったことが、私の多くの記憶が飛んでしまっている原因といえるのではないでしょうか。

原因の究明はこれくらいにして、確かに不思議な気はしますが、人生の内で記憶が喪失している時期があったことは紛れもない事実のようです。

そして、ちょうどこの時期(90年頃)に流行していた曲が、沢田知可子さんの「会いたい」でした。

繰り返しになりますが、当時の記憶が飛んでしまっているため、この曲が巷に流れていたことも、マスコミで話題になっていたことも、沢田知可子さんのことも、私の記憶にはまったく残っておりません。

私が「会いたい」という曲が存在していることを知ったのは、つい最近のことです。

つまり、私は「会いたい」がリリースされてから20年近く経過して、やっとこの曲を聴くことになったというわけです。

そして、「会いたい」を初めて聴いた時のインパクトは、大変衝撃的なものでした。
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それは、歌詞の内容が、いままでにない新鮮な感受性と、これとは矛盾する、昔観た映画のワンシーンを思い出させるような懐かしさ(既視感)を、同時に想起させるものでした。

斬新なまでの感受性(特殊性)と懐かしいまでの既視感(一般性)が、入れ子状態になった感動といえます。

例えば1990年以降に生まれた人なら、最近になってからこの曲を初めて聴いたという人もいるのかもしれません。

では、この曲を初めて聴いた人が、私と同じような新鮮さ(特殊性)と既視感(一般性)を同時に覚えるということはあるのでしょうか。

もちろん、90年前後のバブルの時代を経験した人とそれを知らない人では、この曲から受ける印象が違うのは当然のことです。

また、歌謡曲のみならず、映画などのポップカルチャーが、それらの創られた時代を反映していることは自然なことといえます。

もちろん、沢田知可子さんの「会いたい」も、このような時代という文脈の中で創作されたポップカルチャーのひとつということになります。

しかしながら、この「会いたい」という曲には、他の曲に見られない、時代の経過や変化を感じさせることのない、どこか普遍的ともいえるような感覚が備わっている気がしてなりません。

ここでいう普遍的な感覚とは、時代や場所を超えて、誰もが同じように共感できる感覚ということです。

ここでは、沢ちひろさんの歌詞がその感覚を表現しているのではないでしょうか。

つまり、誰もがどこかで知っているけれども、いまだ誰も言語化することができなかった感覚を、作詞という手法によって普遍的に表現したのがこの「会いたい」という曲ではないでしょうか。

沢ちひろさんの「会いたい」の歌詞には、かような普遍性が含まれているということです。

茂木健一郎氏によれば、創造性とは思い出すことと似ている、ということになるようです。

つまり、この「会いたい」という曲は、誰もがどこかで知っているけれども、言葉にできなかった女性のせつなさや心細さ、そして繊細さを、波打ち際の女性のしぐさや女性の両義的な感受性によって言語化することで、見事なまでに表現しているといえるのではないでしょうか。


おそらく、私たちがどこかに置き忘れて来た感覚を思い出させてくれるものが、この「会いたい」という曲であり、この新鮮さと懐かしさが入り混じった感受性を多くの人が受け取って、普遍性へとつながる感動と共感を享受することになるのではないでしょうか。

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【閑話休題】You Tubeで「会いたい」を聴きながら、ご一読いただければ。003.gif



沢田知可子さんは「会いたい」を、「永遠の詩 one by one」(2005)、「花心」(2007)でも、アレンジを変えて歌われています。

いずれも素晴らしい歌唱力ですが、私は若く澄んだ声で歌い上げている、「I miss you」(1990)の「会いたい」がとくに気に入っています。

沢田知可子さんの「会いたい」は、1990年6月27日に発売された曲です。

もともと「I miss you」というタイトルのアルバムに入っていた曲が、深夜番組のエンディングのテーマ曲として採用されて話題となり、その年から翌年にかけてのロングヒットになりました。

そして、沢田知可子さんは、翌年(1991年)には全国有線放送大賞のグランプリを受賞し、また同年の紅白歌合戦にも出場されています。

「会いたい」の作詞は沢ちひろさん、作曲は財津和夫さんです。

作曲家の財津和夫さんは、いわずと知れたヒットメーカーであり、ポップス界の大御所的存在でもあります。

一方、作詞家の沢ちひろさんはというと、残念ながらあまり多くの情報はないようです。

そして、沢ちひろさんは、「会いたい」以外にも、沢田知可子さんのアルバムに作詞を提供をされていますが、それ以外のことは、あまり知られていないようです。(もちろん、私が知らないだけかもしれませんが)

また、初めて沢ちひろさんから「会いたい」の歌詞を渡された沢田知可子さんが、偶然にもこの歌詞と同じような内容の経験をかってしたことがあることに気づき、大変驚いたという話をテレビでされています。

これはオカルト的なように聞こえますが、共時性(シンクロニシティ)と呼ばれる現象で、「意味のある偶然の一致」と呼ばれるものです。

作詞家の沢ちひろさんにまつわる謎の多いことや沢田知可子さんが語る共時性(シンクロニシティ)のオカルト的な要素も重なり、この「会いたい」という曲は、さらに謎めいたものになっているように思われます。

そして、沢田知可子さんの高く澄んだ声とその歌唱力は、「会いたい」をただ悲しいだけの曲で終わらせるのではなく、愛おしさもあわせ持つキュートな名曲へと昇華させているのではないでしょうか。

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2001年には、「会いたい」がインターネット投票で、「21世紀に残したい泣ける名曲」の1位に選ばれています。

このことからも分かるように、「会いたい」という曲の素晴らしさは、私だけが感じている特別な価値なのではなく、多くの人が同じように感じている普遍的価値ということになりそうです。

先ほど、「会いたい」という曲は、斬新な独自性と既視感のような一般性が入れ子状態になっいると説明しました。

では、「会いたい」が持つ独自性と一般性では、どちらがその主軸になっているといえるのでしょうか。

私は、やはり一般性の方ではないかと思います。

そもそも、独自性(特殊性)があまり強いと、多くの人から受け入れられることはないと思われます。

一般的であるからこそ、多くの人に受け入れられ、21世紀に残したい名曲として選定されることになるわけです。

「会いたい」のメッセージは、「I miss you」です。

そして、「I miss you」というメッセージが、一般的であるということになります。

少し言い方を変えると、恋人を失うという経験は、決して珍しい出来事ではなく、誰もが一度は経験する、ごく一般的な出来事ということです。

もちろん、これは実体験だけを指すのではなく、映画や文学におけるイマジネーションの世界も含めてのことです。

そして、「I miss you」、つまり愛する人を失うことがテーマになるのは、日本だけのことではありません。

世界の映画や文学作品においても、普遍的なテーマとして扱われています。

では、「I miss you」を一般化した表現にすれば、どのようなものになるのでしょうか。

おそらく、人間関係(関係性)の構築とその喪失(破綻)になるのではないでしょうか。

たとえば、韓流のブームのさきがけとなった「冬のソナタ」は、まさに「I miss you」、つまり人間関係の構築(地道な積み重ね)とその喪失(一瞬の破綻)をテーマとした作品といえそうです。

誰もが知っているけれども、実際にその経験を一般化するとなれば、長く孤独な時間と忘却の痛みが伴うのが「I miss you」ではないでしょうか。

つまり、「I miss you」とは、誰もが経験する「失恋」のことです。

では、なぜ、誰もが経験するはずの「失恋」が、人間にとって重要かつ普遍的なテーマとして、世界中の映画や文学作品で繰り返し取り上げられることになるのでしょうか。

「失恋」とは、愛する人を失うことです。

おそらく、愛する人を失うということ、つまり関係性の構築(積み重ね)とその喪失(破綻)という経験の意味を突き詰めていけば、やがて他者の死、そして自分の死という人間が避けて通ることのできない有限性の問題へと行き当たることになるからではないでしょうか。

少し飛躍があるので、分かりにくいかもしれません。

今一度「会いたい」の歌詞に戻りたいと思います。
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波打ち際 すすんでは 
不意にあきらめて戻る
海辺をただ独り
怒りたいのか 泣きたいのか
わからずに 歩いてる

上記の「会いたい」の歌詞を私なりに分析すると、自分を海や映画に連れて行ってくれる恋人との経験が不在になってしまったこと。

そして、愛すべき人の死によって自分にとっての唯一無二性が不在(不安定)になってしまっているということ。

この二つのことが重なり合って、主人公の喪失体験が形成されているといえるのではないでしょうか。

つまり、自分を残して死んでしまった理不尽ともいえる恋人へのやり場のない怒りともいえる気持ちとその恋人が死んでしまった事実をいまだ受け入れることができない戸惑いと畏れの気持ち。

これらの感受性が振り子のように揺れ動く様を、主人公の心象風景として表現したのが、この「会いたい」という曲ではないでしょうか。

そして、なによりも沢ちひろさんの「会いたい」の歌詞には、このような喪失体験に対して人間が抱く両義的ともいえる多感な感受性がきめ細やかに描写されていることです。

このような多感な感受性を繊細に表現することで、人間が潜在的に抱いている死(有限性)への畏れや苦悩というものを暗喩(メタファー)することになっているのかもしれません。

つまり、もともと死(有限性)とは、日常生活の背景にあって非日常(無意識)の領域の中に隠されているものということができそうです。

しかしながら、暗喩(メタファー)された喪失体験(失恋)に触れることにより、他者の死、そして自分の死という無意識の領域にあったものが、やがて前景化してくることになるのではないでしょうか。

そして、前景化(意識化)した他人の死、自分の死が意味するものは、自分の時間と空間の「有限性」に他ならないと思われます。

つまり、自分ができる経験や出会える人というのは、所詮限られているという「諦念」でもあるということです。

少し言い方を変えれば、人間には観念としての無限は存在しても、事実として無限はありえないという至極当たり前なことは覚悟しておく必要があるということです。

だからこそ、今在ることのかけがえのなさ(唯一無二性)に気づいておく必要があるのであり、この唯一無二性こそが人を成熟させる、つまりは節度のある有限な生き方を実践させることにつながるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。
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ところで、人間は時としてアンビバレンスな状況に置かれることが多々あります。

会いたいけれども、会うことができない。

一緒にいたいけれども、別れなければならない。

また逆に、会いたくないのに、会わなければならない。

これらは、人間のアンビバレンスな心理を表現したものといえます。

アンビバレンス(ambivalence)とは、ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すこと。「両価感情」や「両面価値」などと翻訳されることもあるが、そのまま「アンビバレンス」と表現するのが一般的。形容詞は「ambivalentアンビバレント」  (ウィキぺディアより)

どうも、人間の悲劇は、このアンビバレンスな状況にあるのかもしれません。

仏教の教えには、四苦八苦があります。

四苦とは、生・老・病・死のことであり、これに、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく) 、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を合わせて八苦とされています。

そして、四苦八苦の「苦」のひとつに、愛別離苦があります。

愛別離苦の意味を素直に解釈すれば、一緒にいたいにもかかわらず、離別しなければならないことが、苦しい(辛い)ということになるのでしょうか。

これが、人間の「苦」であり、運命(さだめ)でもあると仏教では考えるようです。

そして、愛別離苦と相対するような「苦」には、怨憎会苦があります。

怨憎会苦とは、会いたくないにもかかわらず、会わねばならないことが、苦しい(辛い)ということになるのでしょうか。

これも、人間の「苦」であり、運命(さだめ)でもあると考えるわけです。

そして、愛別離苦にしても怨憎会苦にしても、「苦」の原因になっているものは、関係性、つまり縁ということになります。

縁(関係性)を結ぶということが、結果としてさまざまな苦の原因になってしまうということです。

少し言い方を変えるなら、縁(関係性)が、「苦」の始まりということになります。

たとえば、愛する人と出会えた縁(関係性)は、確かに喜びや幸せと感じることは自然なことといえます。

そして、このような日が1日も永く続くことを願い、努力することは、人間の素晴らしい営みではないでしょうか。

しかしながら、その出会いという縁(関係性)も、やがては愛別離苦や怨憎会苦という「苦」につながっていくことは必定です。(夫婦であれば死別や生別、あるいは家庭内離婚ですね)

このことは、縁(関係性)の中に、もととも「苦」がセットされているということではないでしょうか。

では、「苦」とはなんでしょうか。

おそらく、「苦」とは、人間が変わってしまうということではないでしょうか。

つまり、人間は、時間の経過とともに変化してしまう存在ということになります。

従って、四苦八苦のうちでも生老病死が、人間のより根源的な「苦」になるのではないでしょうか。

そして、人間が変化するということになれば、当然その関係性も変化していくことになります。

つまり、四苦八苦は、人間とその関係性の変化を「苦」として捉える考え方でといえます。

さらに、「苦」の本質は、変化していくことを制御することができない、思うようにならない、人間の根源的な無力感にあるのではないでしょうか。

もちろん、出会いという縁(関係性)が、ある期間、人間に喜びや幸せをもたらすということはあります。

しかしながら、このような喜びも幸せもやがては変化し、同じであり続けることはできないということです。

これは、悲しみや不幸せというネガティブな感情についても同じことがいえます。

つまり、人間にとって望ましいことも、嫌悪することも、そのすべてが時間の経過(あるいはその空間の変化)と伴に変化していくのは、例外のない普遍的真理ということになります。

もし、永遠に不変なものがあると考えているとしたら、それは実体を見ているのではなく、実体のない幻想(観念)を見ているだけということです。

古来からの万物流転、諸行無常の世界観は、普遍的真理を語ったものといえそうです。
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そして、「会いたい」のストーリーには、私の、愛する人(他者)とのささやかな、日常(関係性)が、私の愛する人(他者)の突然の死によって、一方的に終結(変化)させられたことを不条理とする考え方がその根底になっているといえそうです。

つまり、私の日常(関係性)が、私の意思とは関係なく、他者の一方的な都合によって、変化してしまったことが「苦」なのではないでしょうか。

人間が生きている以上、縁(関係性)を避けて通ることができないことは必定といえます。

そして、いかなる出会いや縁(関係性)の中にも、愛別離苦や怨憎会苦という「苦」が必ずセットされているということでした。

このような人間の置かれたアンビバレントな状況が、仏教の教えから理解することができるのかもしれません。

では、人間にとって他者や縁(関係性)は必定でありながらも、その変化(苦)に対して無力でしかないのなら、人間は、ただ頭をたれて、なすすべもなく、流れに翻弄されるだけの存在ということになってしまいます。

確かに、達観としての諦めは必要と言えそうですが、それがために厭世観が強くなりすぎると、やがて人間は抑うつ状態に陥ってしまうことになります。

仏教の教えを大切にしながらも、目の前の日常を生きていくためには、もう一歩踏み込んだ生きるための知恵が必要になってくるのではないでしょうか。

つまり、人間がほんとうに必要としているのは、普遍的思想が語る真実を知ることだけではなく、むしろ厳しい真実の中を生きるためのスキル、つまり生きるためのワザを習得することではないでしょうか。

フォクシーのオーナー兼デザイナーである前田義子は、その著書「前田義子の強運に生きるワザ」のあとがきの中に、とても洞察に富んだ「生きるためのワザ」を紹介されています。

「去るものは追わず、来るものは選んで」

人間は、変化(苦)そのものを制御することができない存在でしたが、その原因となる他者や縁(関係性)については、主体的に選択するという生き方は残されているということです。

つまり、主体的に選択できた他者や縁(関係性)であるのなら、それにセットされた変化(苦)についても、折込み済みと自分を納得させ、合理化させることもできるはずです。

そして、将来予期しない変化(苦)が出現することになっても、その変化(苦)を受け止めるだけの覚悟と論理はすでに保持できているということになるわけです。

では、「会いたい」の作詞家である沢ちひろさんは、主人公の少女に、どのような癒しと生きるためのワザを伝授されたのでしょうか。

おそらく、主人公の少女が、恋人を失ったことによる「喪の仕事」を済ませることが、なによりも先決であると伝授されたのではないでしょうか。

「喪の仕事」とは、愛着した人の死を受け入れる(諦める)ことであって、その目的は他者性(もう愛着関係にないこと)の再認識にあるといえるのではないでしょうか。

他者性とは、この場合は死者との距離ということであり、この距離感覚の確保が、やがて癒しと立ち直りのプログラムを起動させることになるとされています。

そして、主人公が、厭世気分にも、臆病にもならないで、
(つまり、去るものは追わずという生きるためのワザ、執着しないことの実践ですね)

たとえ、新しい出会いに「苦」がセットされていると分かっていたとしても、
(つまり、普遍思想でもある万物流転(諸行無常)を、辛くとも受け入れるということですね)

自分の意志と勇気をもって、新たな出会いを自らが選択していくという生きるためのワザ、
(まさに、来るものは選んでという生きるための究極のワザ、主体的に生きることの実践ですね)

を、沢ちひろさんは少女に伝授しようとされたのかもしれませんね。

(おわり)

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by kokokara-message | 2015-06-02 23:06 | 我流ポップス論(80')