考えることと信じること(哲学と宗教)

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考えることと信じることには、対比の関係があると思われているようです。

つまり、考える人は信じないし、信じる人は考えないということのようです。

しかしながら、実際のところは、人は考えもするし、信じることもするというのが、本当のところではないでしょうか。

では、はじめに、考えるとはいったいどういうことなのでしょうか。

おそらく、考えるとは、詰まる所、実際に目の前に生じている差異について、どのように考えるかということではないかと思われます。

あるいは、やがて目の前で起こるかもしれない差異について、どのように考えれば良いかということになると思われます。

そして、考えることの代表格は哲学になりますが、哲学はややもすると抽象的に考えることと理解されてしまっているところがあるようです。

しかしながら、哲学における抽象化は、具体的に発生した現実の中の差異を一般化する営為であって、つまり構造と法則を発見する試みであると思われます。

従って、哲学は観念的な思考実験などではなく、むしろ具体的に考えるための道筋を示してくれる道具(ツール)であり、考えるためのプロセスをショートカットしてくれる方法論と言えるのかもしれません。

つまり、哲学という営為は、先達が私たちに残してくれた、思考をするためのノウハウ(方法)の蓄積であって、思考するために必要な知恵の結晶ということになります。

一方、信じることの代表格に宗教があります。

宗教は、信じることがその根幹となるため、信仰のない(信じない)宗教は論理矛盾ということになります。

しかしながら、実際に宗教の教義や体系を構築し、さらに教義や体系にメンテナンスを加えていくためには、信じるだけでは十分ではなく、その対比の関係とされる考えるという営為が必要になってくるということです。

つまり、宗教という営為でも、そのコア(核)の部分においては、やはり考えるという営為が必要とされるということです。

ただし、宗教において信じることより考えることが優先されれば、考える人の数だけ信仰(宗派)が林立し、宗教の存在そのものの弱体化につながることになってしまいます。

実際に、私たちの周りを見回して見れば、宗教(宗派)が林立した状態が容易に観察できるのではないでしょうか。

従って、いかに信仰を大事にするとしても、(他者との信仰の)差異を突き詰めて(考えて)行けば、やがて自明であったはずの自分の信仰の世界が揺らぎ、破綻をきたすことにもなってしまいます。

つまり、考えるという営為は自らの世界を広げてくれることもありますが、一方では自らの世界をどんどんと細分化し、やがては孤立化してしまうことにもなるということです。

これだけ見ていれば、考えること(哲学)と信じること(宗教)には、対比の関係(トレードオフ)があると思えてしまうかもしれません。

しかしながら、実際には考えること(哲学)と信じること(宗教)は明確に腑分けできるようなものではなく、それぞれの立ち位置を慎重に考察するというメタレベルからの視点(自己意識)が必要とされているのかもしれません。

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ところで、日本文化は型の文化といわれることがあります。

自分で考えることよりも、まずは人のまねをすることが大事とされています。

つまり「学ぶ」は「真似る」ということのようです。

これは必ずしも考える営為を否定してしまうものではなく、どちらかと言えば考えることよりも信じることに重心を置いたものの見方と言えるのではないでしょうか。

そして、ご存知のように、考えるという営為は、まったくの無(ゼロ)から有を生み出すような荒唐無稽の芸当でないということです。

むしろ、考えるという営為は、自らがそれまでに積み上げてきた経験、つまり蓄積されたフォーマット(真似る)の引出しの中から、その時点で一番適切と思われる情報や知識を探し出す(拾い上げる)ということです。

少し言い方を換えるならば、過去の記憶の中から「適切な答えを思い出す」という作業と言えるのかもしれません。

従って、より適切に考えて答えを引き出すためには、より多くのフォーマットを蓄積しておくことが必要となり、そのためにはより多くの現実を「学ぶ」、つまりはより多くの現実を「真似る」という、まさに型の文化が求められることになるわけです。

そして、目の前の現実を「真似る(学ぶ)」ためには、目の前の現実をありのまま「信じる」素直さが必要となります。

このため、「真似る」は「信じる」と同様に、自分を取り巻く環境に対して、無防備なまでの受動的スタンスの維持が求められることになります。

真逆ですが、受動的なスタンスから獲得された多くのフォーマットが、自分だけの能動的な思考を遂行するための重要なアーカイブになるというわけです。

子供は、冒険を繰り返しながら成長を遂げていくと言われています。

そして、子供が成長していくためには、手本(模範)を示してくれる信頼すべき大人の存在が不可欠とされています。

つまり、子供は、信頼すべき大人というセキュアベースの保護があって、はじめて自由で安全な冒険が可能になるというわけです。

これらのことを一般化するとすれば、より多くの現実を信じることができた人が、より多くの冒険を試みることができる人であって、一見矛盾する「自由で安全な冒険を試みることができる人」ということになります。

昨今の複雑な社会情勢を見ていると、ただ人を信じているよりも、人との差異(違い)について考えることの方が、今の時代を生き延びるうえで必要な比重のかけ方になるのかもしれません。

ただ、先にも記述しましたように、考えるという営為、つまり差異について考えるという営為は、皮肉なことに、より多くのものを信じるという営為がその基礎(ベース)になっているという点です。

仮説ですが、欧米人より日本人が考えるという営為(哲学)で劣っているとすれば、おそらくそれはこのベースとなる信じるという営為(宗教)比重が相対的に小さいことが原因であるのかもしれません。

先の見えない時代であるからこそ、今まで以上に信じることを一つでも多く獲得できた人が、他の誰よりも、より安全に、より豊かに、考える(疑う)ための自由を獲得できるのではないでしょうか。

但し、現実の中には、どれだけ考えた(信じることを積み上げた)としても、、到底自分の思考だけでは及びもつかない、想像を絶するような不可思議な現象に出くわすことがあります。

どれだけ考えた(つまりは信じることを積み上げた)としても、もはや自分ひとりでは答えが出させない(自分の中にフォーマットがない)状況に置かれたとしたら、その時はただ自らの非力を認め、頭を垂れて、再び「信じる」という方向に反転していくしかないと思われます。

おそらく、人は、既知(自由)と無知(孤独)の挟間を彷徨いながら、やがて自分が信じる人生(現実)を構築していくものであると信じています。

従って、考えること(哲学)と信じること(宗教)のいずれに自分の軸足を置いたとしても、その双方がトレードオフの関係にあるのではなく、相補関係にあるとすれば、おそらく少し時間はかかっても、確実に自分が信じる人生(現実)を積み上げていける(考えて行ける)と勝手に考えているのですが、さて皆様はいかがお考えになるでしょうか。

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by kokokara-message | 2015-01-19 22:41 | 我流方法序説