ノーブレスオブリージュ ~紳士の定義~(全編)

私たちの暮らしている社会において、「市民」とは一体誰のことでしょうか。


現在の私たちの社会は、大衆社会にあるといわれています。


大衆社会とは、ニーチェやオルテガが
100年ほど前に指し示した社会のことです。


横並びのための相互参照と相互模倣を行動原理とし、常に多数派であることが生存戦略となるような社会のことです。


そして、個人であることの義務と責任を決して引き受けようとしない人間で構成された社会とされています。


また、大衆社会は、前近代的な地縁的血縁的共同体である同質均一な「世間」とは異なり、現代のように階層化、分極化する過程で大衆が横並び意識から癒合してできた小集団が群雄割拠する社会のことであり、その小集団が敵対し、さらに分裂して行く社会であるといえそうです。


大衆社会における大衆は、社会全体を俯瞰するだけの視座を持たないことが特徴といえます。

このため、たとえ多数派形成のために癒合(アモルフォス)したとしても、自分の回りの比較的強いと思われる人間にだけに服従する小集団でしかないということになってしまいます。


従って、大衆は社会全体の中における自分の立ち位置も自分自身で指し示すことさえできず、自分に与えられた役割や責任を果たすことができない、つまりは自らの根拠(アイデンティティ)が極めて希薄な存在ということになります。


また、大衆は隣の人の思いや言いたい事が分かるという程度の共感(思い込み)だけを頼りに、癒合関係(アモルフォス)を広げていくことで快感と安心感を覚える存在といえます。


そして、大衆の特徴として、傲慢が挙げられることがあります。

つまり、大衆は今ある自分の能力を過信(過大評価)する傾向があるとされています。


これは、おそらく母子密着関係のような癒合(アモルフォス)関係がもたらす未成熟さが原因ではないかと考えられます。


つまり、機動戦士ガンダムを操縦しようとする未成熟な幼児(子供)がそうであるように、未成熟な大衆はいとも簡単に他人や社会を操縦できると勘違いする幼児的万能感を抱くこととなります。


しかしならがら、一方では、癒合(アモルフォス)による自己の肯定感と満足感によって快感と安心感を覚えるようになった大衆は、自分の外部に対する関心を失ってしまう傾向があります。


つまり、自己の肯定感と満足感によって快感と安心感を覚えるようになった大衆は、自分の置かれた社会的文脈を無視して、「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」を平気で下すことを可能とさせるということです。


そして、幼児的とも言える万能感を抱くようになった大衆の行き着く先は、社会における上位の審級である法律や道徳という社会的制度からの審判にさえにも関心がなくなることになってしまいます。


昨今報道された元ポプコン歌手の例ではありませんが、おそらく自己の肯定感と満足感によってもたらされた「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」の揚句に、法律や道徳という社会的制度が突然目の前に立ちはだかり、厳しい審判(社会的制裁)が下されることになったのではないでしょうか。


このように、大衆社会とは、幼児的な万能感を持った未成熟な者が、社会から遊離した(切り離された)ふわふわした状態で、自分勝手に自己肯定し、自己満足し、その結果として自己充足に至ることになります。


つまり、自己の肯定感と満足感から「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」を下すに至った大衆は、快感と安心感を求めて癒合(アモルフォス)はできても、統合することはなく、ただ分裂した状態にだけ置かれる、まさに原子化した存在ということになりそうです。


では、あらためて問うことにします。


このような原子化した大衆社会において、一体どのような者が「市民」と呼ばれることになるのでしょうか。


現代の私たちの社会は、わずかな差異にこだわり差別化が行われ、癒合と分離、そして、癒合(アモルフォス)する小集団が敵対し合う関係にあるといえそうです。


例えば異民族を排除したり、どうでもいい自他の差異にこだわってみたりと他者とのコミュニケーションを拒絶するその態度は、まさに社会に公共レベルのコミュニケーション空間を構築することを困難なものにさせています。


古代ローマ帝国において「寛容」の精神が大切にされたように、おそらく文明とは、他者という、異質で多様な自分とは明らかに別なものを、自分の中に包摂し、その他者とコミュニケーションがとれる公共的レベルの制度を構築する能力のことではないでしょうか。


そして、文明とは、個人的レベルでの思いやりや優しさや包容力という「共生」を可能とする個人の資質とは明らかに次元の異なる問題と思われます。


おそらく、文明とは、公共的レベルにおける各種の手続きや規範や礼節・マナーといった社会的な制度や常識を構築するために必要な能力のことであり、つまりは「共生のために必要な意思と能力」のことを指すのではないかと思われます。


では、現代の私たちの社会に、理解不能とも言える他者と「共生して行くための意思と能力」は備わっているといえるのでしょうか。


大衆の行動原理は、先に見たように横並び意識が強く多数派であることを生存戦力上の最大の目標にするということでした。


そして、多数派にあることが快感と安感心をもたらす大衆心理の自足状態から導かれる結論は、大衆とは自己の内部にも外部にも、他者を持たずに癒合(アモルフォス)だけを求めている存在ということになりそうです。


大衆は、このように外部のみならず自己の内部にも他者を抱え込まないため、論理的には自己の内部は同質化、均一化している状態ということになります。


このような自己内部の一致(同質化、均一化)が、おそらく大衆に「自己判断」、「自己判決」、「自己決定」という自己完結型の万能感をもたらす結果となり、一方癒合(アモルフォス)の内部における自足感がもたらす快楽や安心感は、現実との不一致(ギャップ)さえも自覚できなくさせてしまうということです。


このため、大衆はさらに外部(自分以外)に対する関心を失ってしまい、自分の中の欠如を外部から得ようとする動機付けはもはや訪れなくなり、逆に癒合(アモルフォス)による自足感がますます深化することになります。


一方で、「市民」は、自分の中に他者という自分以外の者を抱え込んだ存在といえるのかもしれません。


つまり、「市民」は、自分の中にある多様な価値や美意識や判断という自己内部の不一致を引き受けたうえで、複雑に絡まりあった自己と共生しながら折り合って行くことができる存在ということができます。


そして、自己の中の多様な他者と対話し、そして「共生できる意思と能力」を持った「市民」が、現実の社会においても異質で多様な理解しがたい他者とコミュニケーションを図る公共的レベルでの制度や常識を共有することとなり、さらに制度を構築・改変していくことができると考えられます。


少し言い方を変えれば、「市民」は、自己の内外に存在する現実と理想の埋めがたい欠落感(ギャップ)に常に悩まされる存在といえるのかもしれません。


人はこの欠落感(ギャップ)に自覚的になることによってのみ、自己の欠落感を外部に求める動機付け(努力)が可能となります。

欠落感(ギャップ)こそが人を創造的にさせるものということができそうです。


従って、「市民」とは、その血統や権力や保有している資産や文化資本の有無に関係なく、自分とは異質で多様な他者と共生し得ることができる意思と能力、対話する力を所持している者のことを指すのではないかと思われます。


以上、「市民」と大衆の行動規範(エトス)の相違について考察をしてきました。


唐突ですが、「市民」には、紳士や淑女のノーブレスオブリージュ(高貴な責務)が求められているのではないでしょうか。


ノーブレスオブリージュ(高貴な責務)とは、高い身分の者に相応した高貴な責務という意味で使用されることが一般的といえます。


作家の村上春樹氏の著書「ノルーウェイの森」では、紳士とは「自分のやりたいことをやるのではなく、やらねばならないことをやるもの」と定義されていました。


つまり、村上春樹氏の描く紳士の定義は、その身分の高貴さや所有する権利に由来するものではなく、あくまで自己への要求である責任と義務を果たすことによるものということになります。


少し見方を変えるのなら、紳士とは、社会的文脈から自分の内部に帰属するはずの責任と義務を感じ取ることのできる者であるのかもしれません。


また、紳士は自分のためにより多くの責任と義務を引き受けることができる者のことであって、より少ない特権を要請することのできる者でもあるのかもしれません。


むろん、極めて困難な実践ではあるのですが。

おそらく、大衆社会における「市民」には、このような紳士の持つノーブレスオブリージュ(高貴な責務)が求められているのではないでしょうか。


いや、むしろノーブレスオブリージュ(高貴な責務)を果たすことが、大衆社会における「市民」に生まれ変わるための条件になっているのかもしれません。


従って、大衆社会における「市民」の存在は、残念なことですが、いつも少数ということになってしまいます。


たとえ少数ではあっても、またどのような社会にあっても、ノーブレスオブリージュ(高貴な責務)を果たすことができた「市民」こそが、その社会の地位や既得権益に一切関係なく「紳士(淑女)」と呼ばれることにふさわしい存在になるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2014-11-15 22:37 | 我流政治学