自由の限界と民主主義の限界(全編)


プロローグ~自由と民主主義の危機


この論考は、今から十年近く
前に記述したものです。

十年一昔と言いますが、当時はまだ
新自由主義の意味も十分に理解されないまま、言葉だけが日本の社会を席巻し始めていた時期であったように思われます。


そもそも自由には限界があると思ったことがこの論考の着眼点になったわけですが、記述した当時はこの論旨が十分には理解されず、真逆の新自由主義謳歌の論考として理解されてしまった(曲解されてしまった)ように記憶しております。


もし「自由」を規定できるものがあるとすれば、それは「立場可換性」のルールであって、この「立場可換性」が無ければやがて自由は自己崩壊してしまうと考えるのが私の立場です。


また、民主主義についても、その前提には多様性の土壌があって初めて成立し得る制度であって、この土壌が均質化されてしまえばやがて民主主義は自己崩壊してしまうと考えるのが私の立場です。


そして、現在の日本の社会の状況を見回してみると、誰の目にも明らかなように、自由と民主主義が危機的状況に追いやられているといえるのではないでしょうか。

論考のタイトルは当初のものから現題に変更しています。


また、内容が古いと思われる箇所は除くこととし、論旨を整理するという目的の範囲での加筆修正を行いました。


しかしながら、この十年近くの歳月
を経ても、幸か不幸か私の考えそのものに大きな変化はなかったように思います。


むしろ、今の時代が、十年前の私の考え方に接近してきていると言った方が実感に近いのかもしれません。

昨今の国際情勢からすれば、「自由の限界と民主主義の限界」という政治のタームよりも、むしろ経済学と資本主義の限界という経済のタームの方がよりタイムリーであるのかもしれません。

しかしながら、民主主義と資本主義を駆動させている根本原理は、言うまでもなく「自由」という概念です。

その「自由」の概念に限界があるとするならば、現代の社会制度である民主主義と資本主義にも当然限界があるということになります。

ここで言う限界とは、自己崩壊していく境界線(ボーダーライン)のことです。

少し言い方を変えるれば、グローバリぜーションによって大衆化し、均質化した世界では、差異を前提とする民主主義や資本主義は生き延びることが困難となり、やがて「自由」の方向性は幻想化(金融バブル)や評価の引き下げ(格差)という自己崩壊の方向に向かっていくことになるということです。

つまり、グローバリぜーションによって大衆化し、均質化した世界において自由を純化させていけばいくほど、民主主義や資本主義は不安定になって自己崩壊してしまうということです。

民主主義や資本主義に賞味期限が来ているということなのかもしれません。

では、前置きはこれくらいにして、少々長い論考となりますが「自由の限界と民主主義の限界」を最後までご一読いただければ幸いと考えております。

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自由の限界と民主主義の限界
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第1章 日本文化の多様性と明治維新


現代の日本社会の中には、アイヌ文化や琉球文化などにみられるような多様な文化が存在しています。


そして、多様な文化を支えているのは、多様なヒトの感覚や言葉や宗教であって、これらは多様な共同性を支えるものともいえます。


このような文化的な共同性の境界は、民族や国家によって区分されることもありますが、その差異が小さいような場合には、県民性や地域性などとされて区切られることもあります。


人の感覚は本来的には多様なものといことができますが、その感覚は自分が所属する社会からの影響を受けているということが一般的です。


また、人はいずれかの社会に属しているのですが、同時に複数の社会に属しているということもあります。


人は、自分が属する社会の支配的なパラダイム(世界観)から影響を受けることによって社会化されていく存在であるということになります。


さて、日本においての近代国家の成立は、明治維新とされています。


それ以前には、国民や国家というものが存在したということはできず、明治政府によってはじめて国民と国家が誕生したとされています。


近代国家は、多様な文化を持った複数の民族がひとつの国家を形成するということになります。


このような場合には、領土によって統一された国家が、これらの国民を統治するということになります。


このように近代国家は、多様な文化や民族の集合体としての国民と排他的な境界の意味を持つ領土とそれらを統治する機構によって成立するものといえます。


では、幕末の頃の日本人には、果たして国民(日本人)としての自覚はあったのでしょうか。


おそらく、当時の日本人は、未だ国家という意識は持っておらず、国民(日本人)という意識も存在しなかったと考えられます。


幕末は、多様な文化を持った多くの藩が割拠していたという時代です。


おそらく当時の百姓にとっては藩より小さなムラが小宇宙(世間)のすべてであり、統治されている事実行為から藩までの意識はあっても、国家や国民という意識は発生していなかったのではないでしょうか。


このため、明治政府が取り組んだということは、日本という国家の輪郭を形成することとその国家に属することになる国民としての意識を育成することに力を注いだようです。


それぞれの地域が持つ多様なムラの共同性を、国家というシステムの中に統合するということが、なにより近代国家を成立させるための条件であったということになります。


但し、その試みも国民に西洋的近代自我といわれる「個人」の意識を生じさせるには至らず、近代国家を形成するための前提とされる「個人」が発生するには至らなかったということです。


明治政府は、近代国家の基礎を築くための手段として、初等教育制度と徴兵制度を採用することとしました。


また天皇制を中心とする国家神道のシステムは、国家の中央集権化(もともと大宝律令以来の律令制度は中央集権体制となっています)をすすめていくことになります。


国家神道は、前近代的な宗教色の強い共同性を目指すものであるといわれることがあります。


しかしながら、バラバラな状態にあった共同性を、より大きな国家という共同性に統合するという目的においては、たいへん効果的な装置としてその役割を果たしたということにはなります。


しかしながら、一方では国家の中央集権化という理念に馴染むことができないような思想や宗教は、明治政府によって排除されていくことにもなります。


明治維新直後の世界の情勢は、欧米の列強諸国が、世界全体を植民地化(近代化)と市場化(資本主義化)するために、軍事力による国際秩序の再編成が進められた時代でした。


このように国際秩序の急激な再編が行われる時代にあって、日本が世界の植民地化(近代化)と市場化(資本主義化)という流れから自衛するための手段としては、近代国家としての体制を整えることは避けて通ることができないことであり、喫緊の問題であったということができます。


つまり、日本を政治的に統一するということで近代国家を樹立することが、欧米列強から植民地化や市場化を逃れることになり、日本が独立を守るための唯一の選択肢であったといえるのかもしれません。


日本にとっては、国民国家として政治的な統一を図ることが最重要課題であったということになります。


このような時代に、明治政府がとった文化政策が、アイヌ文化や琉球文化に対する同化政策というものであり、また国家神道以外の宗教を排斥するという廃仏毀釈運動であったと考えられます。


このことによって、それまでの日本にあった多種多様な文化は、社会の背景へと押しやられ、近代国家樹立のためという理念が、社会の前面に押し出されてくるということになります。


日本には、そもそも八百万の神といわれるような多神教的な土壌があって、明治政府が進める一神教的な国家神道の理念とは、かなり異なった文化的な構造にあったとされています。


つまり、日本の社会には、八百万の神が支配するという宗教観が根強く残っており、また
6世紀以降にみられる神仏習合などのような原初的な宗教観の側面も数多く残していました。


欧米の社会においても、
12世紀頃の中世までは原初的な多神教の世界観を持った土壌は残っていたとされています。


フランス革命以後、近代国民国家というものが成立していく過程において、欧米における多神教の宗教観や多種多様な世界観というものは、公の世界から個人(内心)の世界へと移されていくことになったとされています。


公の世界では、近代国民国家の決めたルールに従うことになりますが、内心の世界では、多種多様な自由の世界が広がることということが可能になるということです。


内面の形成が、「個人」の発生ということになります。


政策的には、近代国民国家が、政教分離政策を採用することによって、個人の内面が形成され、個人が確立するということになります。


つまり、国家という権力から個人の内心(宗教心や思想など)を守るという政策が、個人の内面を形成することになり、やがて個人が確立されていくという過程になるということです。


しかしながら、明治政府では、国家神道を中心とした国家を樹立するという目的があったため、実質的な政教分離政策は採用されるということはなかったということになりました。


日本は近代国家として歩み始めることになりますが、個人の内面に関しては、政策として保護するということはなかったことになります。

このように、日本は国家神道を中心とした前近代的ともいえる統治装置を採用しながらも、一方では西欧近代国家の「個人」を前提とする社会政治システムとしての民主主義体制の樹立を図るという大きな矛盾を抱え込んでしまうことになります。

第2章 民主主義の限界


明治維新以降、日本は近代国家を樹立させていくことになりますが、明治政府のとった国家神道を中心とする政教一致の政策は、価値相対的な多様性を前提とする民主主義という政治システムとは相性のいいものではなかったといえます。


多様性(内心)の否定と民主主義における価値相対的な多様性の採用という矛盾は、西欧で遅れて近代化することになる、ドイツにおいても見られた現象といえます。


ドイツにおいても、国家による上からの文化的な同一化政策が採られることで国家の統一が図られるということになります。


このような近代国家における多様性を前提とした民主主義制度に、多様性を否定する同化政策を採用するという矛盾を抱くことになったドイツと日本では、
20世紀に入ってから奇しくも同じように「全体主義」という政治システムを成立させることになります。


ドイツと日本においては、「全体主義」による国民の経済的自由と精神的自由が制限される状態が、第二次世界大戦末まで続くということになります。


では、戦前における文化政治的体制としての「全体主義」とはどのようなものであったのでしょうか。


そして、戦前思想の象徴として語られることになるナショナリズムや愛国心とは、どのような関係にあったのでしょうか。


ナショナリズムや愛国心は、日本においては政治的な領域で語られることが多いように思われます。


しかしながら、ナショナリズムや愛国心とは、本来政治的な領域の問題として扱われるものではなく、むしろ文化の領域の問題として扱われるものではないでしょうか。


つまり、民族や国家にもともと存在する、固有の文化を守って行くという姿勢や態度が、愛国心やナショナリズムといわれるものではないでしょうか。


このような姿勢や態度のことを、「保守」と呼ぶということがあります。


しかしながら、現実の政治問題で「保守」という言葉が使用される場合は、現在の政治体制を維持することを目的として使用されるということが一般的といえます。


また、文化の志向性が進歩的か復古的かということによっては、「革新」と「保守」とに分けられることもあります。


たとえ文化的には進歩的な立場であったとしても、政治的には現体制を守るという立場をとれば、それは「保守」ということになります。


つまり、崩壊前の旧ソ連は、唯物史観という歴史の法則性を信じるという当時においては進歩的と考えられた革新体制とされていたはずです。


しかしながら、唯物史観からは旧態とされることになった資本主義が、生産性においては計画経済より明らかに優勢になったことから旧ソ連は崩壊します。


この場合では、革新といわれた崩壊前の旧ソ連の体制を守るということが「保守」であるように、文化的に「革新」といわれた立場が、政治的には「保守」になるという言葉のねじれが生じることもあるといえます。


「保守」とは、民族や国家に固有する文化に対するロマン主義的な志向性であるともいわれます。


ロマン主義とは、実際に存在したかどうであるのか定かでは過去に対する郷愁のようなものといわれています。


詩人、室生犀星の詩集「抒情小曲集」では、ふるさとへの想いが「ふるさととは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの、・・・」と詠われています。


このような文学的な過去への郷愁が、ロマン主義といわれる代表的なものであるのかもしれません。


もともとナショナリズムや愛国心は、国家や民族、家族などの共同性を大切にする態度であるといえます。


従って、ナショナリズムや愛国心が、国家や民族、家族という共同性に回収されていくような関係性で扱われる限りでは、多くの中のひとつの文化、ひとつの思想ということになるだけです。


しかしながら、ナショナリズムや愛国心が実体のあるものとして扱われるようになれば、それらは国民経済や国民思想を統制するための装置として機能することになり、政治的に利用することも可能ということになります。


このようなナショナリズムや愛国心が象徴化されているだけではなく、実体化されてしまい同化のための装置として機能することになると、全体主義のような危険な政治体制を招くことにもつながることになります。


全体主義とは、一部の指導者が前近代的ともいえるような宗教や好悪という感情(ナショナリズムや愛国心など)によって、大衆全体を指導者個人の感情や文化によって同一化するというものです。


このような全体主義における文化の同化政策は、当然文化の多様性を排除するということにつながります。


多様性が排除された結果、均質化された文化によって統制された社会は、計画経済による経済的自由だけではなく、精神的自由にも大きな制限を加える社会ということになってしまいます。


ナショナリズムや愛国心も、ひとつの思想であって、多様な文化のひとつということでは保持されていることは必要なことです。


しかしながら、このような多様性を維持するための社会の前提条件としては、個人の自律が図られるということが求められます。


つまり、国家(あるいは指導者)から自由な内面を持っているということが、自律した個人ということになります。


そして、このような内面の自由を持った個人が、民主主義制度という多様性を前提とした政治システムを構成することになる個人であることはいうまでもありません。


このような自律した個人が、合理的かつ民主的な手続きによって制定した法律のよって支配される国家が、法治国家ということになります。


そして、民主的な手続きにより適正に制定された法律に従うということが、法治主義ということになるということです。


合理的な判断ができず、共同性に依存的であるがために、未だ自律ができていない個人は、内面において多様性が所持できているとはいえません。


このような多様性を所持しなくなった個人のことを大衆と呼ぶことがあります。


このような大衆が、民主主義の手続きによって、適法に制定することになった法律(ドイツの全権委任法など)が、全体主義を招いてしまうことになってしまったということです。


そもそも民主主義とは、必ずしもエリートではない、選挙で選出された普通の人たちが、政治に参加することができる制度です。


民主主義は、少数のエリートが正しいことを決めるという制度ではなく、普通の人たちが多数決によって表決する(価値相対的)というように、リスクヘッジ機能が内在されている政治システムといいことでした。


つまり、民主主義は、価値相対主義の多様性を前提としますが、自己制御できた自律した個人だけで構成される政治システムではないということです。


このため、表決された結果も、必ずしもベストなものではなく、相対的優位が実現されるということにすぎません。


逆に言えば、ワーストなものにはならないというリスクヘッジがあるということです。


しかしながら、民主主義の持つ価値相対主義によるリスクヘッジが機能しないような場合には、民主主義そのものを一部の指導者に全権委任しまうということになってしまいます。


民主主義には、民主主義そのものを否定する手続きが含まれているということです。


このことには自覚的である必要があります。


このように民主主義が自己崩壊する危険から防衛するには、価値相対的なものの見方(絶対的なものはない)がもたらす多様性という土壌が必要になってくるのではないでしょうか。


民主主義の前提とされている多様性を維持するためには、文化が同質化するということに十分な注意を払わなければならないということになります。


現在における同質化の問題は、政治システムによるものよりも、むしろ経済システムによる効率性の追求の側面から、文化の多様性が同質化してしまうという危険性があるといえるのかもしれません。


このように政治システムや経済システムの持つ権力性から、自分たちの文化の多様性を維持していくということは、文化的には保守化することになるのは必然といえるのかもしれません。


また、民主主義というシステムはエリートでない普通の人の政治システムであるため、必ずしも自律した個人ばかりで構成されることはないということでした。


しかしながら、社会が自律した個人を育成するということは、民主主義が有効に機能するための必須の投資ということであり、ひとりでも多くの多様で、自律した個人が構成するという社会が求められることになります。


文化はもともと多種多様であり、それぞれが共同性の強いものであるということは先に述べました。


ある特定の文化に保守的という姿勢が、他の文化に対する優位性を主張するということになると、それは政治的な問題に発展しまう。


つまり、他の文化に対する優位性を示すということは、他の文化を排外し除外するということでもあり、これは政治的な権力関係を意味することになります。


「保守」が、もともと文化の問題であるにもかかわらず、政治の問題として理解されることになるのはこのためです。


現実に、相対的に優位に立つ文化が、主流を占めるような「保守」の政治体制が、組まれていることは一般的といえます。


このため文化の優位性を保持することが、「保守」の政治体制を保持することになり、その結果文化の多様性を排外するということにつながりやすくなるということです。


法治主義と民主主義、そして自由と基本的人権などは、現代社会における基本的なルールということができます。


これらの原則は個人の多種多様な文化を前提としていますが、これらの文化は法のもとでは平等の関係にあるといえます。


しかしながら個人の置かれている状況や役割というものは、多種多様でありそれぞれの立場がどれも同じということにはなりません。


つまり、個人の自由や基本的人権という「概念」は、法のもとでは等価な関係といえますが、民主主義の前提が価値相対主義に置かれていたように、価値というものは相対的であって絶対的なものではないということです。


従って、立場は人それぞれということになり、私たちは自分の立ち位置からしか自分の目標を持つということも、自己実現を果たすということもできないという自由の限界を持っているということになります。


私たちは自分の所属する共同体の文化からの影響を受けていることが一般的ということは先に述べたところです。


そして、自分の身体に、所属する共同体の文化が刷り込まれていくことが、社会化ということです。


社会化された結果、その共同体の文化は身体化するということになります。


共同性は、空気のように自然なものであるため、その自然こそが唯一絶対のものと思い込むことにもなってしまいます。


他者を排外するということは、自分の文化が唯一絶対なものと強く思い込んでいることが原因です。


自分の文化である共同性が相対化できていないということです。


自分自身の文化を相対化し、相手の文化を尊重するということがなにより求められる姿勢であると考えられます。


人の持つ文化だけではなく、人の持つ感覚が多様なものであるということに気付くためには、違った文化や感覚に出くわすことが必要といえます。


そこで戸惑い、困惑するという経験を踏むことが必要ではないでしょうか。


つまり、自分自身の文化を絶対化するのではなく相対化するためには、自分以外にも多種多様な文化が存在していることを、当たり前なこととして受け入れる必要があります。


人は、「同じ」なのではなく、それぞれ「違う」ということを知るということが、人を文化的成熟へとつなげていくことになるのではないでしょうか。


先に示したように民主主義は、多種多様な自律した個人の存在を前提としています。


多種多様なものとは、人そのものであるということになります。


従って、人が自分らしく生きることができるような多様化された社会においてほんとうの民主主義は機能するといえそうです。


社会において多様な感覚と文化を持った個人が、ありのままに尊重されるということが必要条件です。


また、他方で感覚や文化という個人や共同性の領域を超越するような公共空間が存在しているということが、自由や基本的人権を保障するための十分条件となるのではないでしょうか。


そして、このような公共空間を維持することができる社会政治システムが、民主主義や法治主義というように考えています。

さて、皆様はいかがお考えでしょうか。



第3章 自由の限界


イギリス、フランス、アメリカ合衆国などの西欧諸国と日本などアジアの諸国では、それぞれの国家によって自由と平等があり、それぞれの国家で自由と平等のあり方が異っているというのが現状です。


自由と平等のあり方は、それぞれの国家における歴史的経過や民族的特徴という個性を踏まえたものになっているということができます。


自由と平等は概念としては普遍性を持っていますが、その実現方法としては、全くどれも一様ということにはなっていません。


現在において、経済格差の問題が政治問題として取り上げられることがあります。


経済的な公平の原理については、ある現実が、事実行為として政策的に実現されているという限界があるために、全く一様であるということはありえず、ある程度幅をもった形で実現されるのが現実といえます。


これに対して、自由の原理については、より人間の本来の自然なあり方に根ざした原初的(プリミティブ)で、根本的(ラディカル)な自然権(人権)であるということがいえそうです。


つまり、自由は法の支配のもとでは、それぞれが等価なものとして考えられ、法令や社会倫理から逸脱をしない限り、自由は保障されるものということになります。


従って、自由は法の下では、原理として平等な関係にあることになりますが、経済的な平等というものは、ひとつの事実行為でしかなく、ある公平な現実というものを一時的に出現させることはできますが、現実にはすべての個人が結果として平等な関係に至るということはありえないといえます。


また、原理としては法の下に平等な関係にある自由であっても、その行動の結果として社会的に価値のあるものと価値のないものという、客観的な評価がなされて区分されるということは必然ということです。


つまり、自由は価値的相対主義ということになります。


自由とは、いずれかの思想、信条、表現を選択する、あるいは選択しない自由ということですが、何を選択するのか、あるいは選択しないかは、本人の自由ということになります。


これらの自由を、元来人が所有していると考える思想が、基本的人権と呼ばれるものであって、近代国民国家の成立要件のひとつとされる人権思想ということになります。


基本的人権が、国家などの統治権力から保障されていることが必要なことは言うまでもありません。


しかしながら、個人が選択した、あるいは選択しなかった結果についてまで自由でいられるということではありません。


当然その自由を行使した本人が、その結果について責任を引き受けるということになります。


つまり自己責任とは、本人が自分の意思を自由に行使できる状態にあって、本人が選択した、あるいは選択しなかった結果の事態に対して、本人が負うべき責任ということになりそうです。


従って、自由とは、人が行動を起こすにあたって、その意思を自由に行使できる権利のことをさし、またその権利が行使できる状態にあることをさすということができそうです。


このような精神的自由と身体的自由が保障されている状態を、基本的人権が保障されているということができそうです。


自由については、その権利を行使した結果に対する社会的影響や社会的評価という結果の平等まで保障されるものではないということについては、先に示したとおりです。


従って、選択した思想や信条や表現によっては、社会的には少数派(マイノリティ)に属するということも想定されることになります。

このことによって現に社会的な行動が制約されるという事態が発生することということになるかもしれません。


しかしながら、たとえ、少数派(マイノリティ)になることによって、制約が加わることになったとしても、私たちはあくまで自由が行使できるという、選択の自由が尊重された社会を目指す必要があるのではないでしょうか。

このように、すべての結果がおしなべて等価であって平等であるという、ある意味自己責任が曖昧になってしまった幻想社会が果たして存続していくことが出来ると言えるのでしょうか。


おそらく、そのような放埓(ほうらつ)ともいえるような幻想を抱くようになった社会は、もともと備わっていた社会の秩序を自ら崩壊させてしまうことになるのではないでしょうか。


そして、社会における倫理である人間関係というつながりさえも、放埓(ほうらつ)は喪失させてしまうことになるのではないでしょうか。


社会に秩序や倫理というものが欠けてしまうと、社会システムの基盤(受け皿)となっている「立場可換性」が機能しなくなってしまいます。


つまり、好き勝手に何をしてもよい社会というのは、自分が他者の人権(権利)を侵害しても責任を採らないで良い社会ということになります。


このことは他者からいつ自分の人権(権利)が侵害されるかわからないというハイリスクな危険極まる社会でもあるということでもあります。


自由を行使した結果の個人への社会的影響や社会的評価は、あくまで社会的文脈から決定されることになるため、誰かが特権的に制御できるようなものではないということです。


つまり、経済的な平等というものは、文脈依存的(世界経済の予測不可なことは自明ですね)であるために、あらかじめ国家などが政策的に操作することによって、制御された公平な現実までは創造することは事実上できないということです。


近代国家における自由には、自由を行使した結果の責任をあくまでその本人が引き受けなければならないという自己決定、自己責任という基本原則が存在していることになります。


私たちは、このような自由の限界を知ることによって、自分の振る舞いに節度をもたせるということが可能になるといえるのではないでしょうか。


また、法令等の社会規範に従って振る舞うということの方が、逸脱するよりも生存戦略上有利に働くという、ルール重視ということを知るようになるのではないでしょうか。



第4
章 結論


人権とは、近代西欧社会が創造した概念といえます。


人権は、自由や民主主義や法治主義と同じようにキリスト教という一神教の価値体系の中で創造されてきた概念ということができます。


そして、人権は近代西欧社会が創造した概念ですが、欧米社会だけにしか適応できない地域的な概念ということではなく、時代や地域を越えた普遍的な概念と考えることができます。


また、自由や平等は、それぞれの国家のあり方によって、多様な形で具体的に実現されるものであるということができそうです。


ヒトはその感覚や文化が同じではなく、人それぞれにバラバラな感覚や文化を持っているということができます。


人権は、そのような感覚や文化の多様性を前提としているものといえます。


また、自由も、同様に多様な選択ができる自由ということを前提としています。


そして、民主主義はそのような多様性を持った自由な選択ができる、自律した個人を前提として成立するということになります。


多様性を前提としないような同質化した社会においては、たとえ民主主義という方法をもってしても、全体主義という危険な状況を招くおそれがあることは先に示したとおりです。


つまり、多様で自由で自律した個人が民主主義という手続きによって制定する法律が支配するような社会のあり方を法治主義と呼ぶと考えられます。


そして、この法治主義こそが、本来人に備わった自由や平等という基本的人権を、私たちに保障することができる社会政治システムということができるのではないでしょうか。


つまり、私たちの自由や平等は、前近代的なほんの一部の指導者によって恣意性に分配されるような自由や平等であってはならないということができます。


自由や平等という基本的人権は、ただ与えられるものではなく、私たちが不断の努力によって保持していくことが求められているといえます。


私たちは、人と自分は同じであると自然に思い込んでいるところがあるのではないでしょうか。


この思い込みの根拠は、そもそも脳の持つ機能に由来することになり、異なったものを同じと認識するということになります。


言葉の概念化が、その際たるものと言えるのではないでしょうか。


つまり、それぞれ形も色も大きさも異なった机であるにもかかわらず、人は言葉を使用することで、同じ机と認識できる機能を持ち合わせているということになります。


従って、人間は自然な状態に置かれていると、脳の機能によって人と自分は「同じ」と認識してしまうことが自然ということになるのかもしれません。


このため、私たちが同じ(同質)ではなく、多様で異なった存在であることを知っておくためには、自分以外にも多種多様な文化が存在していること、つまり外部のあることを知っておく必要があります。


そして、このような多様な文化が林立している外部の存在を知るということは、自分の文化を相対化するということにつながるということです。


また、教養を身につけるということは、優劣ではない多様な文化の関係性について考察するためにはとても重要なもとといえます。


ここでいう教養とは、先人から受け継いできた知の財産という程度にお考えください。


人が一生かけても達成できることは限られています。


先人からの知恵である教養を身につけるということは、このような財産をショートカットで手に入れるということになります。


自分持つ文化を相対化するということは、主観的な価値にとらわれないということです。


そして、教養は自分の今持っている知識のありかをマッピングしてくれるものでもあり、自分の知識や文化がどのように位置づけられているのかを一望俯瞰させてくれるものといえます。


自由や平等という基本的人権を不断の努力によって保持していくためには、このような自分だけではなく他者も含めた全体を一望俯瞰できるような視点がなにより必要とされるのではないでしょうか。


また、社会が自律した個人を育成していくためには、それぞれの個人が「自分の頭で考える」ことを実践していくしかないと思われます。


つまり、自由や平等という基本的人権について、原初的(プリミティブ)、根本的(ラディカル)に考えるということが重要であると思われます。


もちろん、その答えはあらかじめ自分の外部に用意されているものでも、人に教えてもらったことを暗記するものでもありません。


あくまで自分の頭で考えて、その答えを自分なりに生成していくということが求められるのではないでしょうか。


まずは、大きなことからではなく、自分自身の自由と平等について考えてみることから始めることになるのではないでしょうか。


つまり、自分自身の自由と平等について考えることができるということが、そもそも基本的人権に基づく、極めて自由で平等な振る舞いであるといえるのかもしれません。


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by kokokara-message | 2014-10-27 22:46 | 我流政治学