ルビンの壷(全編)
2014年 07月 17日
両義性という言葉があります。
両義性とは、コインの表裏の関係にある同根のようなものであって、腑分けすることが出来ないような関係にあるものといえます。
つまり、どちらか一方に言及するということが、その反面にも同時に言及することになるという関係性です。
コインから表側だけを取り出すということは出来ません。
表側だけ切り取ったつもりでも必ず裏側もついてきます。
コインの表側だけを剥がすということは、同時に裏側を剥がしているという関係になります。
このようなものが同根とされます。
また、両義牲とは、二項対立のような正義と悪、正解と間違いのような明確な区分ができない関係性ということができます。
ある集団にとっての正義が、別な集団から悪として糾弾されることがあります。
この場合、正義と悪の別々な行為が、二項対立しているわけではありません。
ある特定の集団にとっては自明な行為でも、別な集団からは正反対な評価で受け取られてしまうということです。
ひとつの行為が、見る側の焦点の合わせ方によって、正義にもなり、悪にもなるということです。
おそらく、社会現象のほとんどはあらかじめ決まった答えがあるのではなく、したがって、自明な行為もないということになるのかもしれません。
人間はこのような社会現象を評価することになるため、結果的として両義的なグレーゾーンのいずれかという曖昧な位置に立たされることになります。
このため、人間は両義性を引き受けた存在ということになってしまいますが、一方では、人間の評価は、社会的文脈(関係性)から決まってくるものでもあります。
つまり、人間は、たとえ両義的な曖昧さ引き受けたとしても、その評価は、他者との関係性から相対的に決まってくることになるということです。
したがって、他者の評価によっては両義性のうちの一方だけに焦点が合った、偏った評価(理解)がなされることがあるかもしれません。
要するに、他者が自分にとって都合の良いソルーションだけを相手に投影することは、心理学的には決して珍しい現象ではありません。
いずれにせよ、他者からの評価は、ひとまずは受け入れるしかないというのもまた現実ではないでしょうか。
なぜなら、他者からどのような評価(投影)をされても、それは自分のグレーゾーンの中のいずれかであって、それはコインの表裏の同根の関係にあるものであるからです。
また一方で、自分のソルーションは自分が決定するという、評価の自己決定はありえることです。
しかしながら、自己決定(絶対評価)は、あくまで自己言及でしかありません。
つまり、「私が正しいと言明するから正しい、なぜなら私が正しいと言明しているから。」という自己循環論法に陥ってしまうことになります。
主体である自分自身の自己決定には、底がないということになります。
もし、その底を支えるものがあるとすれば、それは他者からの相対評価ということになってしまい、まさに評価のジレンマに陥ってしまうことになります。
話を戻しまして、両義性とは、コインの表裏の関係にある同根ということでした。
コインの表裏とは、物理的には区分することができないものということです。
そして、両義性という問題も、論理的に区分して解決ができるものではないということです。
弁証法というロジックがありますが、多くの社会現象のソルーションは弁証法のような発展的ロジックだけで解決できるものではありません。
つまり、多くの現象は、「正」でもなく、「反」でもなく、従って「合」でもないという関係性にあるといえるからです。
論理的に正論であったとしても、現実の中で求められることは、ただ正論を唱えることではなく、ソルーションの確定しない両義的なものに、いかにバランス感覚をとりいれるかということになるのかもしれません。
また、コミュニケーション(交換)という関係性からは、ある時点の暫定的なソルーションは導き出すことが出来るかもしれません。
しかしながら、コミュニケーション(交換)は常に更新されていくものであって、ソルーションはいつも暫定的にならざる得ないことになります。
従って、両義性の持つほんとうの意味と価値は、ある程度の時間性を含んだ流動的な概念として理解されなければならないのかもしれません。
つまり、両義性とは、主体の側から論理的に説明できるものではなく、また関係性から暫定的に導かれるソルーションでもないということになりそうです。
上記の図形は何を表しているでしょうか。
花瓶でしょうか。
それとも、二人の横顔でしょうか。
この図形は、「ルビンの壷」とよばれる多義図形です。
図形の中では、花瓶の図柄と二人の横顔の図柄がありますが、それらを同時に視覚することはできません。
いずれかに焦点があえば、いずれかは背景に退くという関係性になっています。
両義性とは、「ルビンの壷」と同じような関係性にあるものということができそうです。
つまり、「ルビンの壷」の図形がそうであるように、非対称的な価値が同じ構造の中に組み込まれている状態ということができます。
「ルビンの壷」の図形で、二つの非対称的な図柄を同時に見ようとすれば、結果的にはどちらも見ることができないことになってしまいます。
いずれも見ていない、見えていないという、ぼんやりとした視界に浮かんだ対象に、果たしてどのような意味と価値を見出すことができるのでしょうか。
しかしながら、日常の中では、両義性の持つ意味と価値が分からない状態であっても、暫定的なソルーションは出さなければならない場面は多々あります。
いつ、どこで、どのようなソルーションになるかはあらかじめ決まっているわけではなく、決まった答えがないのがソルーションになります。
おそらく、私たちの回りで起こっている社会現象のほとんどが、このような両義性の持つ曖昧さを含んだものといえるのかもしれません。
つまり、社会現象とは、論理的に説明できるものではなく、多義性や時間性を含んだ曖昧なものにならざる得ないということです。
したがって、社会現象に対するソリューションも、留保や両論併記という曖昧な形で落ち着かざるを得ないことも多いように思われます。
社会現象の持つ意味と価値は、グレーゾーンの中のいずれかにあって、あらかじめ決まった答えがないのがソルーションになっているということです。
では、「ルビンの壷」という多義図形が存在するということの意味と価値は、一体何なのでしょうか。
おそらく「ルビンの壷」という多義図形を詳細に分析しても、その意味と価値は判明しないのではないでしょうか。
同様に、目の前で起こっている社会現象を詳細に分析しても、両義性の持つほんとうの意味と価値はおそらく判明しないと思われます。
したがって、「ルビンの壷」や両義的な社会現象の持つほんとうの意味と価値は、今起こっている現実とは、異なった位相(レベル)の中に存在しているのではないでしょうか。
両義性の問題は、論理を展開することやコミュニケーション(交換)というフラットな関係性からは解決できないということでした。
つまり、主体からのアプローチは自己言及になってしまい、関係性からのアプローチでは留保や両論併記に留まらざるを得ないという現実があるということです。
このままでは、両義性の問題の持つほんとうの意味と価値に至るということができないことになってしまいます。
では、決まった答えのない両義性という難題(アポリア)に、どのように関わっていけばいいのでしょうか。
「ルビンの壷」や両義的な社会現象の持つほんとうの意味と価値は、眼前の現実ではなく、異なった位相(レベル)に存在するのではないかということ(仮説)です。
自己の相対化という思考実験があります。
自分を相対化する目的は、自他を含めた問題全体を俯瞰することができるようなメタレベルの視点を持つということです。
メタレベルからの視点とは、時間性(現在は答えを出すことができない)や空間性(この場では答えを出すことができない)を超えた視点を持つということになります。
自己の相対化というと難解に思われるかもしれませんが、自分の相対化とは、自分自身の立場を絶対化しないということでもあります。
自分の周縁に自分の知らない外部が存在しているという認識を持つことでもあります。
つまり、今の自分にとっては、外部が「未知」であっても、外部が存在するということについては、「既知」であらねばならないということになります。
外部を知ることで、自分を相対化する(絶対化しない)ことができれば、自分や他者を客観的に俯瞰することができる視点を持つことにつながります。
このような視点が、自己意識と呼ばれるものと考えています。
また、自己意識は、空間認識や時間認識が、自在にできるような視点ということでもありますが、オカルト的にならないため少し付け加えておけば、自己意識はあくまでフィクション(仮説)にすぎないということです。
自己意識は、そのような視点があるとすれば、両義性の持つ意味や価値をうまく説明することができるフィクション(仮説)とお考えください。
では、自己意識は、両義性の持つ意味や価値を、どのように解き明かしてくれるのでしょうか。
両義性の持つ構造の特徴は、非対称性ということになります。
「ルビンの壷」の花瓶と二つの横顔の図柄は、同時に存在するということはできません。
旧来からいわれる両義的なものは、西洋と東洋、近代と前近代などの非対称的な区分があるものです。
西洋と東洋、近代と前近代などの区分と同様に「ルビンの壷」に含まれる二つの図柄は、非対称的な関係(構造)にあるものといえそうです。
自己意識を持つことは、このような非対称的な関係(構造)のうえに、メタレベルの普遍性(両義性を超えるもの)を構築することではありません。
自己意識を持つというだけでは、両義性を超えた普遍的なソルーションがもたらされることになるわけではありません。
では、なんのために自己意識を持つ必要があるのでしょうか。
「ルビンの壷」に含まれる二つ図柄は、同時に存在できない非対称性の関係(構造)にあるということでした。
視点を少し変えれば、図形全体が同時に非対称性にある図柄を含んだ構造(関係)になっているということです。
つまり、焦点があって前景に出てくるものと焦点があわないで背景に退くものが、同じ図形の中に非対称的な構造(関係)で存在しているということです。
これらの関係性は弁証法の論理的な発展過程で説明できないことはいうまでもなく、非対称的な構造(関係)はそのまま据え置かれることになっています。
また、コミュニケーション(交換)から導かれる留保や両論併記の暫定的なソルーションでも、非対称的な構造(関係)はそのまま据え置かれることになります。
自己意識とは、このようなありのままの非対称的な構造(関係)を、メタレベルから空間認識する視点ではないかと思われます。
ここでいう空間認識とは、西洋と東洋、近代と前近代などの区分はそのままにして、いずれか一方に自分自身を所属させながら、非対称な構造(関係)全体を客観的に俯瞰する視点ということです。
蛇足ながら申し上げれば、ここでいう「いずれか一方に自分自身を所属させる」とは、「自分という与件を受け入れる」という意味です。
つまり、日本人であれば、与件が東洋であって、近代になるということです。
ありのままの自分をひとまずは受け入れるという意味ですね。
もうひとつは、自己意識とは、非対称的な構造(関係)が時間の経過と伴に変化していく様子を、時系列に認識する視点ではないかということです。
時間認識とは、西洋と東洋、近代と前近代などのいずれかの区分に自分自身を所属させながらも、その区分が時間の経過とともに流動化していく様子を、客観的に観察する視点ということです。
従って、自己意識を持つということは、グレーゾーンの中のいずれかの区分に軸足をさだめながらも、非対称的な構造(関係)そのものには絡めとられない生き方とということになります。
非対称的な構造(関係)を生きていくためには、自己意識を軸足としながらの上下左右にバランス感覚のある世界認識がポイントになるのではないでしょうか。
現代の社会構造は、普遍と特殊、基軸と非基軸、支配と被支配などの非対称的な構造(関係)に覆われているということがいえそうです。
また、現実の中で起こる社会現象の多くは、このような非対称的な構造(関係)として出現することも決して珍しいことではないと思われます。
このため、非対称的な構造(関係)にあるものを、現実的なフラットなレベルで問題解決しようとしても、もともと答えがないために身動きが取れない状態に陥ってしまうこともあります。
万一、このような四面楚歌(板ばさみ)の状況に陥ったとしたら、非対称的な構造(関係)を見る視点を変えることによって構造全体を俯瞰することができるようになるのかもしれません。
要するに、四面楚歌(板ばさみ)は必ずしも身動きがとれない状態ということではなく、その上方は新たな世界認識につながっている可能性があるということです。
視点の位相が変わる(上昇する)ことにで視界(世界観)は当然変わります。
視界(世界観)が変われば、非対称的な構造(関係)全体の空間的差異、時間的差異を把握するということも可能になってきます。
冷静かつ沈着な観察力、時間をかけて事態の推移を見守る忍耐力、そして、なによりも「自分という与件を受け入れる」ということが、両義性という難問(アポリア)を解決するために求められるスタンス(姿勢)であるのかもしれません。
最後になりましたが、両義性という非対称的な構造(関係)そのものを克服するための方法は、次のとおりです。
1 非対称性の構造(関係)のいずれかを自分の「与件」として、軸足を定めるということ。
2 1で定めた与件を基点として、非対称的な構造全体を把握するための自己意識(空間把握能力、時間把握能力)を持つということ。
3 さらに流動化していく非対称性の構造(関係)をいかに適切に生きるかというバランス感覚の習得。
上記の1~2の方法によって、やがて3のバランス感覚が経験的に身につくようになれば、非対称的な構造(関係)に置かれた難問(アポリア)に対し、おのずから意思決定ができるようになるものと思われます。
そして、このようにして意思決定したものは、ひょっとすると原因と結果が逆さまになって出現するような関係になっているのかもしれません。
つまり、良いソルーションを得るために意思決定するのではなく、意思決定したものが、結果として自分にとって最もふさわしいソルーションになって出現するということです。
少しオカルト的に聴こえるかもしれません。
もしも、私たちが、分からない難問(アポリア)に対して、適切な対応がとれていると思えるような瞬間があるとしたら、おそらくそれは通常考えるような原因と結果の関係が転倒した形で出現している可能性が高いのではないかと思われます。
孔子に人の生涯を現した有名な言葉が残っています。
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)う。
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を超えず。
「心の欲する所に従いて矩(のり)を超えず」とは、つまり思いのままに採った行動であったとしても、結果としてふさわしい適切な行動として評価されることになるということになるのでしょうか。
私がいわんとする、自己意識の完成を表現した言葉といえるのかもしれません。
人間は、死のキャリアといわれるように、死に向かって老いていく存在といえます。
しかしながら、ただ老いるのではなく、このような境地(自己意識の完成)を目指して歳を重ねていきたいと私は考えているのですが、さて皆様はいかがでしょうか。
【追記】
「ルビンの壺」をご一読いただきましてありがとうございました。
両義性の問題は、複雑化する現代社会では、いつ、どこで、誰が出くわしてもおかしくない喫緊の問題といえそうです。
そして、出くわした両義性の問題を克服するためには、まずは「自分という与件を引き受ける(自律する)」ということが、その第一歩になると思われます。
このような地道な作業(自分の受け入れ)の繰り返しが、やがて自分を取り巻く社会的文脈というやっかいで複雑な関係性(世間)との間に、親和的なソルーションを導き出すことができるようになるのではないでしょうか。
孔子の言葉によれば、その境地への到達には70余年が必要とのことです。
私は、いまだ知命の歳を数年過ぎただけですので、自己意識の完成までにはまだまだ長い道程が必要といえそうです。
(おわり)
応援よろしくお願いします。