「あらかじめ決まった答えがない」という答え?

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世の中が激動の時代に入ったといわれて久しく、私たちの周りの出来事がすさまじい勢いでどんどんと様変わりすることに、戸惑い覚えている人も多いのではないでしょうか。


世の中がどの方向に流れているのか、その流れて行く方向はいい方向なのか、それとも悪い方向なのか、方向性についての判断がつかないまま、変化している事実だけが目の前を過ぎて行くことになっています。


そもそも未来のことは分からない、もちろん人に聞いても分からない、ましてや人と比較しても自分の未来が分かるはずがない。


つまり、世の中のことは、あらかじめ決まった答えがないのが答えということです。


少し辛いけれどこれが真実のようです。


蛇足ながら申し上げると、決まった答えがないのは今の時代だけに限られた特徴ではなく、過去の時代も同じように決まった答えがなかったということです。


しかしながら、戦後の一時期、決まった答えがあると信じられていたため、今でも同じように決まった答えがあると信じている日本人が多いのかもしれません。


また、人は普通に生きていると、自分は特別な存在であり、自分にはあらかじめ決まった答えがあると信じ込んでしまう傾向があるようです。


おそらく、決まった答えがあると信じ込むことで、先の見えない自分の未来への不安や焦燥感を無意識のうちに打ち消しているのではないでしょうか。


そして、何よりも大事なことは、決まった答えがあるとするその根拠が、周りのみんなと答えが同じであるいうことです。


つまり、みんなの答えと自分の答えが同じであるから、それがあらかじめ決まった答えになるということです。


瑣末はいざしらず、大事を決める際の答えになるのでしょうか。


一般に、このような答えの導き方を相互参照(横並び)と呼ぶことがあります。


そして、この相互参照(横並び)は、日本人の行動様式の典型とされることもあります。


また、相互参照は横並びと同義であるがゆえに、外部にある法令や合理的解釈など面倒なものは必要としません。


あくまで、みんなで決めたという場の共有こそが、あらかじめ決まった答えの根拠になるということです。


確かに、独りだけの正しさを通すよりも、みんなと答えが同じである方が孤独感が和らぎ安心感が増すかもしれません。


しかしながら、みんなと同じ答え(あらかじめ決まった答え)だけでは、おそらく世の中の大半の事象に対応することができないのではないでしょうか。


なぜなら、みんなと同じ答え(あらかじめ決まった答え)はあくまでもリトルワールド(世間)の中の決まった答えであり、世の中の大半の事象はリトルワールド(世間)を超越したところにあるからです。


ここで言うリトルワールド(世間)とは、半径数十メートルの十数人程度の集まりのことです。


インターネットで言えば、LINEのイメージでしょうか。


したがって、リトルワールド(世間)の中で決めた答えが、それ自体を包括する上位レベルの世の中(より大きな世間)をコントロールできるはずがありません。


例えば、税金を払わないとみんなで決めても、その上位の審級である国や地方自治体は法令に従って粛々とみんなの財産を差し押えするだけです。


要するに、みんなで答えを決めるにしても、それが自分たちでコントロール可能な領域なのか、それともコントロール不可能な領域なのかくらいの感覚は持っていないと、大変な事故を起こすことになってしまいますので、
くれぐれもご注意を。

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先ほど、戦後の一時期あらかじめ決まった答えがあると信じられていたことに触れましたが、まさに日本の
高度経済成長期は、多くの日本人があらかじめ決まった答えがあると信じることのできた稀有な時代であったと思われます。


元来、日本の社会には多種多様な価値や信念の対立(差異)が存在し、地域や共同体ごとの文化が乱立する百花繚乱状態にあったと思われます。


特に戦後間もない日本の社会は、全体を総括できるような価値や信念は見当たらず、あらかじめ決まった答えがないという状況になっていたと思われます。


やがて日本経済が復興し、高度経済成長期になると、地域や共同体ごとの価値や信念の対立(差異)は社会の表面上から消え去り、まるで日本全体が一枚の岩盤で出来ているかのような安定感を示すことになります。


おそらく、これは、経済的に豊かになった日本人が、未来志向型の問題解決方法(つまりは問題の先送り)を採るようになったためではないかと思われます。


つまり、この時期の日本の社会には依然多くの信念対立が見られましたが、右肩上がりの経済成長がそれらの問題を先送りすることを可能としたため、矛盾は顕在化せず一見社会が安定しているかのように見えていたということです。


ところで、高度経済成長期には、多くの日本人が地方から都会部へと大移動することになりました。


これは、都市の後背人口である地方の低賃金労働者(差異)が経済成長のための生産手段に組み込まれたために生じた現象といえます。

やがて、地方から都市に流入した低賃金労働者は、日本の右肩上がりの経済成長とともに中産階級化(アッパーミドル化)していくことになります。


少し見方を変えれば、多くの日本人が大衆消費社会の中の購買力のある消費者になっていくことでもあります。


また、人口の大移動は流出した地方の地縁血縁関係の共同体を崩壊させ、
流出した都市部では地縁血縁関係の共同体が旧弊なものと敬遠され、都市の郊外化(ニュータウン化)が進展していくことになります。


いずれの地域社会も空洞化が進みますが、都市部においてはそれまでの地縁血縁関係の共同体に代わる新たな受け皿として会社共同体が登場することになります。


そして、疑似地縁血縁共同体の会社共同体は、社員とその家族に対する福利厚生のみならず、雇用問題や社会福祉という国や地方自治体が担う領域までカバーする存在になっていきました。


ところで、日本の地縁血縁の共同体(イエ制度)の最大の目的は、共同体(イエ制度)自体が存続することにあるとされています。


このため、日本の地縁血縁の共同体(イエ制度)は、経済合理性の観点から、構成員に対する包摂と排除の線引き(分節)を行うことになります。

つまり、有用な構成員は包摂される一方で、有用でない構成員は排除されることになるということです。


ただ、包摂と排除の線引き(分節)は曖昧かつ恣意的な部分が多かったため、構成員は包摂と排除の両義的で不安定な立場に置かれることになります。

包摂でも排除でもない、中途半端なある意味大変苦痛が強いられる立場といえるのではないでしょうか。

そして、このような日本の地縁血縁の共同体(イエ制度)の持つ特徴は、疑似地縁血縁共同体である会社共同体にも引き継がれていくことになります。


さて、資本主義の論理は差異の創出ということでした。


バブル経済崩壊を挟んだ日本政府は、男女雇用機会均等法(男女共同参画社会基本法)や労働者派遣法の施行、そして外国人労働者の受け入れ等の経済政策を実施してきました。

これらの経済政策は、戦後の高度成長期に民主化され、フラット化された日本の社会に新たな差異の創出(低賃金労働者の創出)を目的とするものであり、日本経済が再び成長路線に向かうための余力(糊しろ)を生み出すためのものであったと考えられます。


したがって、資本主義の論理からすると、今後とも差異の創出(低賃金労働者の創出)の方向性にブレが見られないことから、女性労働者や外国人労働者の労働市場への参入はますます増加していく傾向にあるのではないでしょうか。

また、現代の日本の労働市場で見られる、社員のリストラや非正規化、またブラック企業の存在などの問題は、単に資本主義の論理(差異の創出)という経済の側面からだけでは説明がつかないところがあるように思われます。


例えば、会社共同体における正規社員と非正規社員の「立場」の不明確性や長時間労働に見られる社員の「役割」の不明瞭性の問題などは、会社共同体が曖昧かつ恣意的に法令ルールを適用することだけではなく、それを暗黙裡に容認している日本の社会(共同体)の体質(土壌)にあるのではないのでしょうか。

つまり、社員の立場を不明確にし、その役割を不明瞭にさせるのは、日本の共同体の本音と建て前という規範の二重性(ダブルスタンダード)ではないかということです。

おそらく、日本の社会(共同体)の特徴は、近代的で合理的な法令ルールが支配する法治国家という側面がある一方で、社会(共同体)の不文律である暗黙の掟が法令ルールに優先するという前近代的で非合理な「世間」という側面を多く残しているのではないでしょうか。


したがって、日本が抱える多くの問題は、単に経済理論や法令ルールの合理的解釈だけではなく、むしろ恣意的で非合理とされる「世間」という鵺(ねえ)のような生き物を社会学的に解析する方法が必要になってくるのかもしれません。

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日本人は、もともと横並び意識(みんなが同じ)が強かったこともあり、戦後日本の民主主義の本質が「選択の自由」ではなく「結果の平等」にあると誤認していたところがあったように思われます。

そのため、国を挙げた「国民総中流」というプロパガンダは、マスコミなどを通じて、やがて日本人にとってのあらかじめ決まった答えになっていくことになります。


繰り返しなりますが、高度経済成長期の日本の社会が大きな矛盾を抱えながらも、それらを顕在化させることなく社会を安定化させることに成功したのは、おそらく日本人の多くがみんなが同じという、日本人のエートスに合った「国民総中流」という大きな物語(決まった答え)を信じていたためであると思われます。


また、日本の共同体の持つ特徴である包摂と排除の両義的な線引き(分節)は高度経済成長期に社会から消滅したわけではなく、右肩上がりの経済成長が共生(包摂)の論理を強調できたため、コインの表裏の関係にあった排除の論理がたまたま目立つことがなかったというだけのことです。


したがって、経済成長しなくなったバブル経済崩壊後の日本の社会では、それぞれの共同体が自らの存亡をかけてリストラを断行していくことになりました。


いずれにせよ、高度経済成長期の日本、しかも都市部にあっては、資本の論理(差異の創出)に基づく右肩上がりの経済成長と会社共同体に基づく社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の安定感が同時に達成されるという、まさにユートピアのような社会が出現したことになります。


このため、多くの日本人が、ユートピア社会の幻想(豊かさ)を求めて地方から都市部へと移動していくことになります。

これは、都市部で実現した社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)が、日本人に地方の旧弊な地縁血縁の共同体からの解放という「居住の自由」を可能にさせたということでもあります。


おそらく、高度経済成長期の日本人にとっての「豊かさ」は、右肩上がりの経済成長がもたらした経済的な「結果の平等」の感覚だけではなく、居住場所や人間関係を自らが選択するという「選択の自由」の感覚をも含んだ、まさに戦後民主主義の結節点にある言葉(概念)として受け入れられていたのではないでしょうか。


そして、多くの日本人は「豊かさ」の幻燈効果から目覚めておらず、「自由」や「平等」という普遍(抽象)概念が、地域限定、期間限定でしかなかったということにもいまだ気づいていないのかもしれません。


最後になりました。

現在の日本が置かれている経済情勢は、大変厳しいものがあります。


旧来からの日本の社会制度は疲弊し、もはや現在の日本の社会状況に耐えられなくなってきています。


このため、社会制度の早急な立て直しが求めていますが、昨今の論調は経済成長がすべての問題を解決することとしているため、社会制度改革が逆に経済成長を妨げる要因(犯人)とされてしまっているところがあるように思われます。


確かに、犯人が分かれば安心はできますが、これでは状況は何も変わりません。


つまり、最初に経済成長ありきの「あらかじめ決まった答え」が設定されてしまっているため、「本来の原因」である社会制度や社会構造の修繕(メンテナンス)と「その結果」である社会機能の改善(経済成長?)が逆立ちした形になってしまっているということです。


原因と結果が逆立ちした状態で「あらかじめ決まった答え」だけを信じていると、やがてリアリテイは現実世界から遊離し、自分が向いている方向さえ分からない、まさに先の見えない状況に陥ってしまうことになるわけです。


現在の日本の状況は、バーチャルリアリテイ(ゲーム的リアリズム)の感覚に近いものであるのかもしれません。

だからこそ、世の中の大事に「あらかじめ決まった答え」はない(疑ってかかる)という至極当たり前な真実を再認識し、刹那的で安心感が得られる相互参照(横並び)ではなく、少し面倒かもしれませんが、何を参照すべきかを「自分の頭で考える」ことから始めなければならないのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

   どうでもいいことは流行に従い、
   重大なことは道徳に従い、
   芸術のことは自分に従う。
                 (小津安二郎監督の言葉より)

(おわり)


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by kokokara-message | 2014-06-29 22:46 | 我流日本論