笑顔と敬語のコミュニケーション(全編)

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今から十数年前、ハワイのオアフ島を数年間続けて訪れるという経験をしました。


ハワイへの観光旅行が珍しいという時代ではなかったのですが、やはりそこは異国の地、習慣と文化の違いを感じることになりました。


習慣や文化の違いは、頭では理解したつもりになっても、いざ現地の習慣を行動に移すとなるとなかなかできないものです。


習慣と文化という壁(思考パターンの相違)の高さを感じることになります。

最初に習慣の違いを感じたのは、ホテルのエレベーターの中です。


ハワイでは、エレベーターなどの狭い空間で知らない人と距離が急接近したときには、必ず相手に向かって笑顔を見せるという習慣があります。


日本では、このようなときに明るい笑顔を見せる人は少数で、おそらくは押し黙ったまま仏頂面をして我慢しているのが一般的ではないでしょうか。


日本では、知らない人に笑顔を見せるということが、親愛や敬愛、場合によっては愛情の表現と受け取られてしまうところがあります。


ハワイでは、知らない人に笑顔を見せる意味は、自分に敵意がないことを示すということであり、相手との距離を確保するための自己防衛手段といえます。


アメリカは、自分の安全は自分で守るということが徹底された社会であり、笑顔もインターフェースの媒体として使用されるマナーのひとつです。


マナーは、社会的な記号としての意味を持つことから、その記号の意味が社会で共有されていれば、マナーによるコミュニケーションの効率化が図られことになります。


要するに、ハワイでは知らない人と急接近したとき、とりあえず微笑みかけておけば、危険な目にはあわない蓋然性が高くなるというわけです。

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ところで、日本人(私)にとっては、笑顔がマナーであると理解はできても、いざ知らない人に笑顔を見せることには強い抵抗があり、私の場合では、ハワイで自然な笑顔が出るまでに数年かかることになりました。


ハワイへ出かけるようになってから5年は経っていたと思います。

ホノルル郊外にあるマノア・フォールズに滝見物のトレッキングに出かけたとき、山の中で突然アメリカ人ハイカーと出会うことになりました。


暗いジャングルの中のことです。


おそらく、お互いが緊張をする場面ですが、このときはじめて私の方から自然に笑顔を見せることができました。


相手も私に笑顔を返してきてくれて、お互いが笑顔で道を譲り合う光景となりました。


このように、ハワイで知らない人に笑顔を見せることには、日本の儒教的意味の上下関係はほとんど含んでおらず、ただお互いが自分の身の安全を守るため、合理的かつ効率的にメッセージを発信するだけです。


ただし、ハワイにおいても日本の長幼の序のような、年配者を敬うという習慣がないわけではありません。


むしろ、ハワイの街の方が歩道やバスの仕様などバリアフリーとなっている等、年配者や障害のある高齢者に配慮された街づくりになってるといえそうです。


つまり、ハワイでは笑顔や親切が日常の生活に組み込まれた社会のマナーになっていて、決して恣意的で個人的な感情の発露というわけではないということです。


ハワイでの笑顔や親切は、愛情や施しの感情表現ではなく、多様化社会を構成員が安心安全に暮らすための知恵(マナー)ということになりそうです。

ところで、日本語には敬語と言うコミュニケーションの表現手段があります。


むろん、外国にも似たものはあるのですが、日本語の敬語は、謙譲語、尊敬語、丁寧語などが入り混じる等、文法的には実にややこしいものになっています。


では、なぜ私たちは、日常生活の中でこのようなややこしい敬語を使用することになるのでしょうか。


一般的には、敬語は、敬愛や尊敬を表す意味で使用されていると考えられています。


日本の社会は儒教の影響を受けていることから、長幼の序という年長者を敬うルールがあり、年長者に対する敬愛や尊敬が求められるところがあります。


しかしながら、私たちが敬語を使用するというのは、果たして年長者に対する敬愛や尊敬を表現しなければならない場面だけなのでしょうか。


ハワイにおいては、知らない人に笑顔を見せることが、自分の身の安全を守る自己防衛手段ということでした。


日本においても、知らない人に敬語を使用することには、おそらく自己防衛のための手段という意図も含まれてはいないのでしょうか。


日本の社会では、誰もがいずれか(あるいは複数)の社会的文脈(世間)に所属しながら暮らしているというのが一般的です。


相手がどのような社会的文脈(世間)に所属しているか分からない場合は、とりあえず相手と距離をとって接することが、自分の安全確保につながることについては誰もが納得するところではないでしょうか。


また、同じような社会的文脈(世間)に属していたとしても、より多くの既得権益(地位や権力)を持った人は、それを持たない人よりも、不可知な部分をより多く抱え持った人でもあるということです。


つまり、
私たちが敬語を使用するのは、このような知らない人であったり、偉そうな人であったりということになり、必ずしも敬愛や尊敬の表現手段ではないということです。

私たちが敬語を使用する場面は、人間関係の十分な距離感が求められる緊張した場面といえそうです。


接客業における敬語の使用方法等は、まさにこのようなパターンになるのではないでしょうか。


以上からすると、日本語の敬語には、本来の敬愛や尊敬の表現とは真逆の、不可知な相手への警戒心と距離感の確保が含意されている言えそうです。


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「慇懃無礼」という四字熟語や「鬼神は敬してこれを遠ざく」ということわざは、皆様もご存知のことと思われます。


いずれの言葉も、どうしても近づきになりたくない人に対して、あえて丁重に振る舞って(敬語を使用して)早々にご退場をいただくというものです。


京都には「逆さ箒」や「京のぶぶ漬け」という抑圧された文化(カウンターカルチャー)が存在します。

嫌な客に対して、丁寧な敬語や丁重な接待で慇懃にもてなすという真逆で転倒した表現方法のことです。


この対応などを見ていると、まさに敬語に含まれた反語的意味がよく表れているのではないでしょうか。


先にも触れましたとおり、日本の社会では、知らない人や偉そうな人に対して敬語で接するということが一般的なマナーとなっています。


そして、このような敬語の使用方法が、日本の社会システムを安全かつ効率的に維持するうえで優れた記号的役割を果たしているといえそうです。


従って、アメリカ人の笑顔のマナーと日本人の敬語のマナーは、ともに社会の中の不可知な他者と距離感を確保するという目的では共通したものといえそうです。


ただし、日本人の笑顔のメッセージは未だ社会的に成熟した領域に達していないところがあり、笑顔が恣意的で多義的な愛情表現と受け取られてしまっているところがあるようです。

このため笑顔のメッセージが、不可知な相手との距離を確保するどころか、不可知な相手を逆に近づけてしまうことにもなってしまいます。


マナーとは社会の規範(公共ルール)であって、マナーは社会システムの安全と効率化を図ることを目的とした記号(笑顔や敬語など)であるはずです。


このことからすれば、日本人の笑顔は、受け取る側の恣意的な解釈によって評価されてしまう多義的なメッセージということになり、安心して使用できる一義的な意味の公共マナー(社会規範)の領域にはないということになります。


最初に触れましたが、私がハワイで自然な笑顔が出せるまで5年もかかったように、日本人にとっての笑顔は社会生活を円滑に送るためのスキル(マナー)としてではなく、どちらかと言えばありのままの自分の自然な感情の発露(でありたい)という意味合いが俄然強いように思われます。


もちろん自然な感情が劣等で、社会化されたマナーが高級というような短絡的な話しではありませんので、ご注意を。


日本の社会には、古来より社会的にニュートラルなポジションを維持するための方法として、人前でむやみに笑顔を見せない「武士の文化」がありました。


日本の社会では、人前で歯を見せないことや能面のように無表情でいることが、笑顔の表情よりも知的で洗練された表情であると評価されるところがあったようです。


おそらく、古来より日本人にとっての笑顔は自然であったからこそ、笑顔を見せない無表情の造作の方が自己機制の効いたより高度で知的な営為として評価されることになったのではないでしょうか。


昨今、日本の社会でも、顧客満足度(CS)など、笑顔のマニュアル化が進んでいるようです。


日本人にとって敬語とは、敬愛や尊敬であるとともに、相手との適切な距離感を確保するための手段(マナー)ということでした。


顧客満足度(CS)の笑顔のマニュアル化の意味は、おそらく敬語のマナーと同じように、顧客との適切な距離感をいかに確保するかということに尽きると思われます。


今後、日本人の笑顔が、社会的なマナーとして認知されていくためには、まずは笑顔は自然な感情の吐露ではなく、人間関係を円滑にするための技術的な知的な営為であることの理解が図られることが必要であると思われます。


日本独自の儒教的な尊卑の社会的文脈を考慮しても、笑顔が人間関係の距離を確保する有効なスキルとして共通理解されるようになれば、おそらく人間関係は今よりもフラットなものとなり、パターナリズムは和らぎ、お互いがそのまま尊重し合える関係を構築することも可能になるのかもしれません。


そして、個人がありのまま尊重し合える関係が構築でされれば、もはや日本人は能面のままの無表情でいる必要はなく、各自がそれぞれのニュートラルなポジション(アジール)で、自分の所属する社会的文脈における自分の役割を果たすということも可能になるのではないでしょうか。

ここで言うニュートラルなポジション(アジール)とは、外部からの過度な同調圧力やパターナリズム、あるいは内面からの過度の忖度(そんたく)のような、内外からのストレスから自由になれるような立ち位置のことです。

そもそもコミュニケーションは、人間の創造性と深くつながっているところがあります。

内外のストレスによって、抑圧的されたコミュニケーションは、決して人間の創造力を活性化させるものではありません。


笑顔と敬語のマナーが、より積極的な形で他者との距離を確保する手段となれば、笑顔と敬語は、不可思議でストレスフルな他者とも創造的な関係性を可能にしてくれるコミュニケーションの魔法のツールになることも夢ではないと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

【追記】

「笑顔と敬語のコミュニケーション」をご一読いただきありがとうございました。

笑顔とは、端的にいうと、口角を上げ、目じりを下げるという顔の表情筋の運動のことです。

この運動は脳を活性化させるらしく、従って笑顔と幸せの間には因果関係があるといえそうです。

しかしながら、言霊文化を持つ日本では、饒舌な笑顔よりも、無口な無表情が重要視されるという傾向は今後も相変わらないように思われます。

日本では、アルカイックスマイル(飛鳥仏のような口元だけの微笑み)が主流という時代はしばらく続きそうですね。

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by kokokara-message | 2014-03-06 22:23 | 我流コミュニケーション論