コミュニケーションについて

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新年度が始まって、三週間が経過しました。

新年度のあわただしさの中で、誰もがこの時期疲れが溜まっていることと思われます。

ゴールデンウィークまであと少しです。

適当にスルーしながら、少しペースダウンして、あと一週間頑張りましょう。

ところで、職員研修などでは、コミュニケーションの重要性について講義を受けることが多いと思われます。

では、コミュニケーションとは、一体何なのでしょうか。

おそらく、コミュニケーションとは、概念の交換に尽きるのではないかと思われます。

では、概念の交換とは、一体どういうことなのでしょうか。

おそらく、概念の交換とは、もともと多様で差異のある具体や抽象をカテゴリー化(分類化)し、違うはずのものを同じであると思い込む(勘違いする)錯覚のことではないでしょうか。

つまり、コミュニケーションとは、それぞれが多様で差異のある具体(柴犬など)や抽象(私の自由など)を想起しながらも、同じものとしてカテゴリー化された言葉(イヌや自由などの言葉)を使用することで、一致していないはずの意味を一致していると思い込む、錯覚のことではないかと言うことです。

むろん、誰もがこのような意味の不一致に気づき、錯覚に違和感を覚えるわけではありません。

ただ、コミュニケーションの原理を突き詰めれば、一見会話が成立しているかのように見えても、その内実は不一致を一致と思い込む極めてリスクの高い臆断(おくだん)が繰り返されているということになります。

つまり、人間はこのようなお互いの不一致、つまり関係性の決定不可能性(決まった答えが得られない世界)を生きなければならない宿命にあるということになるのかもしれません。

かような諦念からか、人間は加齢とともに寡黙になっていく傾向があると言われています。

おそらく、これは人間の成熟の度合いとコミュニケーションの不具合の割合が反比例する関係にあるということではないでしょうか。

つまり、人間は加齢とともに、他者との間に横たわる「話が通じない」という隔絶に気づいていくことになります。

そして、この隔絶は、人間の根源でもある孤独を経由し、やがてもうひとつの避けがたい隔絶である「自分の死」を意識化させることになります。

人間の成熟の度合いとは、このような日常のすぐそばに潜む「他者」や「孤独」や「自らの死」という非日常(デスコミュニケーション)と、いかに適切な関係が維持できるかということにかかっているのかもしれません。

かような死生観を持つ日本人が美徳としたコミュニケーションの方法は、饒舌よりも寡黙でした。

武士の一言です。

これは、他者との不具合(隔絶)を蓄積する「饒舌」よりも、他者との不具合(隔絶)を遠ざける「寡黙」の方が、コミュニケーションの方法としては、より成熟し洗練されたものとみなす文化があったということではないでしょうか。

従って、長く連れ添った老夫婦がそうであるように、「成熟した人間関係には会話は必要としない」とする逆説的なコミュニケーションこそが、人間関係の根底に横たわる隔絶(デスコミュニケーション)を超越できる究極のコミュニケーションの方法になるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2013-04-20 23:24 | 我流コミュニケーション論