四天王寺参詣道(4) 阿倍野から安倍寺跡

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四天王寺参詣道の4回目です。

四天王寺南大門から南へと続く四天王寺参詣道を探索してきました。

そして、現代にまで残る古代の痕跡をたどることで、四天王寺から阿倍野までのほぼ一直線の四天王寺参詣道が確認できました。

ところで、少し話しは変わるのですが、阿倍野という地名の由来はご存知でしょうか。

阿倍野(あべの)は、古代の豪族「阿倍氏(あべし)」の居住した土地であったとするのが通説となっているようです。

古代豪族の阿倍氏は、飛鳥時代から奈良時代初めにかけて興隆を極めた氏族であり、大化の改新の時に左大臣に登用された阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ、~649)を実質的な氏祖とする氏族です。

その子阿倍御主人(あべのみうし635-703)は右大臣にまで登用されますが、その孫の阿倍広庭(あべのひろにわ659-732)は中納言までであり、さらにその後は藤原氏の台頭により阿倍氏の登用機会は少なくなっていきます。

やや時代が下って平安時代になると、陰陽師の安倍清明が現れ、従四位下・播磨守に登用されます。

さらに時代が下れば、幕末に老中首座にあった阿部正弘が阿倍一族とされているようです。

ちなみに、「阿倍」「安倍」「阿部」とみな表記が違っていることにご注意ください。

現在でも、区名や市営地下鉄、阪堺電気軌道の駅名は「阿倍野」となっていますが、近鉄電車は「大阪阿部野橋駅」と表記が異なっています。

「倍」と「部」の違いですね。

以下、表記の相違について、ウイッキペディアに説明記事がありましたので、引用をさせていただきます。

阿倍野橋や阿倍野区など、現在見られる表記の大半は「阿倍野」であるが、近鉄阿部野橋駅は「阿部野」と異なる。

他には阿部野神社などがある。

「阿部野」は、中近世において主流であった表記で、当地の前身にあたる東成郡阿部野村もこちらの表記である。

阿部野村は1663年に同郡天王寺村から分村。

1889年に天王寺村と合併し、天王寺村大字阿部野となった。

近鉄電車は、1923年の開業当初は大阪天王寺駅と称していたが、翌1924年には大阪阿部野橋駅に改称されている。

改称および「阿部野」を採用した理由は大字阿部野への配慮からとも言われるが真相は不明である。

なお、翌1925年に天王寺村(1897年に南区へ編入された地域を除く)は住吉区へ編入され、この時に「阿部野」から「阿倍野」(住吉区阿倍野町)へ表記が変更されている。

以上のような経緯から近現代において主流となった「阿倍野」ではあるが、地名の由来として最も有力な説とされる阿倍寺やその建立者である阿倍氏に基く表記であり、正誤・新旧の分別があるわけではない


以上のように、少しややこしい経過があったようですが、ひとつ確かなことは、阿倍野の地名の由来は、阿倍氏の創建した阿倍寺にあったということのようです。

では、今は現存しない阿倍寺という寺院は、いったいどこにあったのでしょうか。

この疑問に答える前に、もう少しだけ逸脱することをお許しください。

阿倍氏ゆかりの寺院で最も有名な処は、奈良県桜井市にある安倍文殊院(あべのもんじゅいん)ではないでしょうか。

安倍文殊院は日本三大文殊としても、また陰陽師安倍清明の生誕の地(異説もあるようですが。)としても、全国的に名の知れた寺院です。

そして、この安倍文殊院の境内には、精巧かつ高度な石工技術により造られた石室と羨道を持つ文殊院西古墳と文殊院東古墳があります。

なかでも、文殊院西古墳は、国の特別史跡に指定されていて、その被葬者は、大化の改新の時に左大臣に登用され、阿倍氏の実質的な氏祖の阿倍倉梯麻呂であることが確実視されているようです。
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現在では安倍文殊院が阿倍氏ゆかりの寺になっていますが、おそらく文殊院西古墳と文殊院東古墳のロケーションから、飛鳥時代におけるこの境内は阿倍氏の墓域であったと考えられます。

つまり、阿倍氏の寺院ではなく、お墓ということです。

では、安倍文殊院が墓域であったのなら、当時阿倍氏が建立した阿倍氏ゆかりの寺院はどこにあったのでしょうか。

これについては、現在の安倍文殊院から西南300メートルのところにある国史跡「安倍寺跡」が、阿倍氏創建の寺院とされています。
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以下は、国史跡・安倍寺跡に係る桜井市教育委員会の説明資料の引用です。

国史跡・安倍寺跡
この地域一帯は、阿倍氏一族の本拠地であったといわれ、氏寺である安倍寺(祟敬寺)のこんりゅうは山田寺の創建時代(641年~685年)とほぼ同じ頃で「東大寺要録」では阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の建立であると伝えています。

ほぼ伽藍が整備されたのは阿倍朝臣御主人(あそんみうし)の時代だということもわかってきました。

また、寺の範囲は約200メートル四方で、伽藍は南面し、東に金堂、西に塔を配し、北に講堂という法隆寺式、あるいは川原寺式に近いようです。


つまり、安倍寺(飛鳥時代の表記では阿倍寺になるのかもしれません。)は、左大臣阿倍倉梯麻呂が建立した寺院であり、その伽藍配置は塔と金堂が左右に並ぶ法隆寺式、あるいは川原寺式ということになるようです。

一方、大化の改新の功労者である右大臣蘇我倉山田石川麻呂が山田寺を創建するのは、大化の改新より数年前の641年のことであり、その伽藍配置も日本の仏教寺院としては古い様式の四天王寺式とされています。
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伽藍配置だけ見ると、四天王寺式である山田寺が、法隆寺式、あるいは川原寺式の安倍寺(阿倍寺)よりも古いということが言えそうです。

従って、安倍寺(阿倍寺)は、山田寺(641年創建)よりも、後から創建されたと推定できるのではないでしょうか。

また、大化の改新の功労者である蘇我倉山田石川麻呂が、朝廷NO.3の右大臣にしか登用されなかったことに比べ、大化の改新で表立った活躍のない阿倍倉梯麻呂が、朝廷NO.2の左大臣に抜擢されたのは異例といえます。

その内実は定かでありませんが、おそらく阿倍倉梯麻呂が権勢を誇るようになるのは左大臣に抜擢された大化の改新以後のことであり、従って安倍寺(阿倍寺)の創建もそれ以後と考えるのが自然ではないでしょうか。

そして、大化の改新から4年しか経過していない649年には、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれ、左大臣の阿倍倉梯麻呂も逝去してしまうことになります。

急逝した阿倍倉梯麻呂の後継には、その子阿倍御主人(あべのみうし635-703)がつくことになります。

阿倍御主人は、やがて672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方の功臣となり、従二位・右大臣にまで登りつめていく人物です。

先の説明にもありましたように、安倍寺(阿倍寺)の伽藍が完成するのは、阿倍御主人が重用されていた天武・持統天皇の時代ということになります。

安倍寺(阿倍寺)が完成するのが、飛鳥・藤原京の時代であるのなら、安倍寺(阿倍寺)が創建されたのはいつでしょうか。

ご存知のように、日本書紀巻27には、法隆寺の焼失についての記事が存在します。

「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」、つまり、天智天皇9年(670年)に法隆寺(若草伽藍)が一屋余すところなく焼失したという記事です。

そして、670年に焼失した法隆寺、いわゆる若草伽藍は、塔と金堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式であったことが分かっています。

法隆寺再建の時期に通説はありませんが、少なくとも今ある法隆寺が焼失後に再建されたことだけは間違いなく、西に塔、東に金堂が並ぶ特異な法隆寺式は、再建後完成した伽藍配置ということにになりそうです。

安倍寺(阿倍寺)が、塔と金堂が左右に並ぶ法隆寺式(あるいは、天智期に創建とされた川原寺式)ということになれば、安倍寺(阿倍寺)の創建は、おそらく若草伽藍の焼失(670)時期とも大いに関係してくると思われます。

また、阿倍御主人は、壬申の乱(672年)の功績によって朝廷から重用されたことを考えると、阿倍御主人が実質的に安倍寺(阿倍寺)の建立を進めることができたのは、おそらく壬申の乱(672年)以後のことではないでしょうか。

氏寺としての安倍寺((阿倍寺)の構想はあったとしても、実質的にその建立が一気に進むのは、孝徳・斉明・天智天皇の時代ではなく、壬申の乱(672年)以後の天武・持統天皇の時代になってからではないでしょうか。
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飛鳥京には、その北東の方向(現代の桜井市)に向かって、磐余道(いわれみち)と呼ばれる古代の官道が整備されています。(下の地図を参照してください。)

その磐余道の途上には、大化の改新で右大臣になった蘇我倉山田石川麻呂が創建した山田寺があり、その数キロ先には同じく大化の改新で左大臣になった阿倍倉梯麻呂が創建したとされる安倍寺(阿倍寺)があります。

先の記事でふれたように、桜井市の安倍寺跡にあった阿倍寺(ややこしいですね。)の実質的な建立は、その伽藍配置からすると、天武朝以後に、阿倍御主人によって行われたのではないかということでした。

古代豪族が氏寺を創建したり、あるいは氏族の墳墓を造営できたのは、おそらくはその地域が権力者の権力基盤であったからであると考えられます。

阿倍倉梯麻呂の墳墓とされる文殊院西古墳やそれに変わる安倍寺跡(阿倍寺)が桜井市の安倍文殊院周辺に造営されていることからすると、少なくとも、このあたり一体が阿倍氏の本拠地であったことについては間違いがないと思われます。

次回は、阿倍氏のもうひとつの本拠地と考えられる、大阪市阿倍野区の阿倍寺について考察してみたいと思います。

(つづく)

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by kokokara-message | 2012-07-07 09:47 | 我流古代史(四天王寺編)