「きずな喪失症候群」とボーダーライン

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加藤諦三氏の著書には、「きずな喪失症候群」と呼ばれる人たちが描かれています。

また、加藤諦三氏の著書には、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちも描かれています。

そして、加藤諦三氏によると、両類型の関係性は「きずな喪失症候群」の人たちが愛情と承認を欲求し、「燃え尽き症候群」の人たちにしがみつく(執着する)という構図にあるようです。

加藤諦三氏によると、「きずな喪失症候群」の人たちが愛情と承認を欲求するのは、愛情飢餓感が強いためとされています。

また、「きずな喪失症候群」が欲求する愛情や承認のレベルは、母子密着の癒合関係のような全人格的な包摂にまで達するものとされています。

おそらく、このような無謀な欲求を受け入れられるのは、身内であるか、あるいは訓練を受けた専門家だけになるのではないでしょうか。

結局、周りにいる素人たちは、「きずな喪失症候群」に右往左往させられて、疲れ切ってしまうということになるのではないでしょうか。

ただし、「きずな喪失症候群」の特徴の一途さ(執拗さ)が、特殊な才能として受け止められることもあるようです。

例えば、ジョンレノンや尾崎豊などのような、きらめくような才能がそうではないでしょうか。

しかしながら、ほとんどの「きずな喪失症候群」の人たちは、このように認識される才能は持ち合わせてはいません。

従って、「きずな喪失症候群」の思い込みの激しさや節度を欠いた言動などは、無根拠な幼児的万能感として社会から排除されることになってしまうわけです。

例えば、一時マスコミを騒がせた沢尻エリカさんの言動などがそれにあたるのではないでしょうか。

また、「きずな喪失症候群」の人たちが社会に対して要求する報酬(昇進や昇格など)も、自らの社会貢献に対する妥当で客観的な自己評価にはなっていないということです。

どちらかといえば、自らの心の暗闇(トラウマ)を埋め合わせるために欲求する、無根拠で空洞化した自己評価ということになるのではないでしょうか。

ところで、「きずな喪失症候群」がしがみつく対象は「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちです。

もちろん、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちは、もともと燃え尽きていたわけではありません。

「きずな喪失症候群」の人たちと関係性を持ってしまったため、燃え尽きてしまった(疲れ果ててしまった)ということになります。

では、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちが、燃え尽きないための方策はあるのでしょうか。

同語反復になってしまいますが、、燃え尽きないための唯一の方策は、おそらく「きずな喪失症候群」の人たちに近づかないということになると思われます。

つまり、関わらないということですね。

ここまで読まれた方なら、もうお気づきかもしれません。

加藤諦三氏は、愛情飢餓感の強い人たちを「きずな喪失症候群」と呼んでいますが、おそらく、加藤諦三氏は、ボーダーライン(境界型人格障害)の人たちを想定しているものと思われます。

そして、一方で「きずな喪失症候群」の人たちがしがみつく対象を「燃え尽き症候群」と呼んでいますが、おそらく、加藤諦三氏は、神経症と呼ばれる人たちを想定しているものと思われます。

ここで留意すべきことは、加藤諦三氏が「燃え尽き症候群」と呼んでいる人たちは、神経症と診断された人たちだけのことを指しているのではないということです。

つまり、(不安)神経症のチェック項目の多くが日本人の典型的な性格と重なるように、(不安)神経症的な症状は、日本人の性格の中にもともと組み込まれた典型的な反応や傾向ということになっているからです。

日本人であれば、少なからず神経症的傾向があるということかもしれません。

ところで、社会学的には、個人は近代自我によって生成されるものとされています。

つまり、自律した個人とは、他者との関係性(距離感)の中から生成されてくるということになります。

ご存知のように、日本人は欧米人に比べると自我が脆弱とされてきました。

これは、日本人が自他の境界があいまいな文化の中から生成されるためであり、自他の区分が明確な文化の中から生成される欧米人とは他者との関係性(距離感)が正反対になっていることが原因になります。

つまり、日本人は自他の間が明確である(距離感がある)と不安や孤独を感じる傾向にありますが、欧米人は自他の区分が不明確である(距離感があいまい)と不安や不自由さを感じる傾向にあるようです。

一般論として、欧米人は自他の区分を明確にすることにより、孤独と孤立に強い近代自我を獲得することができたと考えられます。

そして、このことには一神教であるキリスト教が大きく関与していることを見逃してはならないと思われます。

ところで、最近では欧米人だけではなく、中国人についてもその自我の強さが指摘されるようになりました。

養老孟司氏によれば、中国という国は、アメリカ合衆国の数百年後の姿であるという分析をなされています。

つまり、中国という国は、アメリカ合衆国以上に個人主義の進んだ、ある意味個人主義のなれの果て(利己主義)の国ということになるのかもしれません。

実際に、中国人と話しをした経験のある方なら、少なからずその自己主張の強さ(厚かましさ)に驚愕するのではないでしょうか。

しかしながら、このような利己主義ともいえる自己主張の強さ(厚かましさ)も、養老孟司氏の分析に従えば、中国の悠久の歴史と爛熟した文化がもたらさした個人主義のなれの果てになるということです。

閑話休題。
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「きずな喪失症候群」とは、愛情飢餓感が強く母子密着の癒合関係を欲求する(執着する)人たちのことを指す言葉です。

これゆえ、「きずな喪失症候群」の人たちは、先に記述した中国人の事例と同様に、その欲求を通すために厚かましい自己主張を繰り返すことが指摘されています。

ただし、「きずな喪失症候群」の自己主張(厚かましさ)は、欧米人や中国人の自己主張のような、自他の区分を明確にした強固な近代自我をベースとした個人主義に由来するものではないということです。

むしろ、個人主義とは正反対の方向にある、母子密着のような癒合関係(同化)を欲求する自己主張ということになり、孤独や孤立に極めて弱い脆弱な自我を持った人たちでもあるということです。

個人主義の自己主張であれば自己完結的に収束していくことになりますが、欠如感の充足を外部に依存する「きずな喪失症候群」の自己主張は、収束することなく際限なく続いていくことになります。

この収束することなく際限なく続く自己主張(欲求)が「きずな喪失症候群」の一番の特徴でもあり、だからこそこれに関わった人たちは疲れ切ってしまうことになるわけです。

先ほど、一般論として日本人の自我が脆弱であるということを指摘しました。

つまり、日本人は他者から同化されやすい脆弱な自我を持ってしまったということであり、このことは誰もが「燃え尽き症候群」になる可能性を持っているということにもなります。

そして、日本人の持つこのパーソナリティが、「燃え尽き症候群」のみならず、「きずな喪失症候群」の原因にもなっていると推測するならば、日本人のボーダーラインと神経症は同根の関係にあるといえるのかもしれません。

日本は、母系社会といわれています。

日本人は、少なからず母子密着の癒合関係を志向しているところがあるといえるのかもしれません。

従って、日本人のパーソナリティからすれば、母子密着(マザコン)の度合いの違いが、結果的に「燃え尽き症候群」と「きずな喪失症候群」」に分岐点するということであるのかもしれません。

仮説ですが、幼少時に母子分離ができた人、つまり愛情と承認、その結果としての冒険を経験することができた人は、過度に母子密着関係を欲望しなくなり、やがて他者との関係性(距離感)も適正に維持できるようになると言えるのかもしれません。

逆に、これも仮説ですが、幼少時に母子分離ができないまま、つまり愛情と承認、その結果としての冒険を経験することができなかった人は、大人になってからも母子密着関係を欲望することになり、その結果母性的な全人格的包摂という癒合関係を他者に対し欲求することになってしまうのかもしれません。

従って、日本人である自分のパーソナリティが「燃え尽き症候群」予備軍でしかないと自覚できたのなら、脆弱な自我では背負うことができない荷物とは、きっぱりと距離を採る覚悟を決めることが肝要と思われます。

日本には古くから、安分以養福(分をわきまえていれば、禍は遠のき、幸せを養生する)という言葉があります。

日本の社会では、古来より身の丈を知った振る舞い(地道であること)こそが幸を引き寄せる最良の方法とされきたところがあり、これを反対から見れば、身の丈を知った振る舞いこそが降りかかる火の粉を避けて通るための最良の方法であったということになるのではないでしょうか。

自分が「燃え尽き症候群」予備軍であると自覚できたのなら、決して「きずな喪失症候群」には近づかない、関わらないことを覚悟することです。

身内でもなく、専門家(精神科医)でもないのなら、このような選択も当然社会的に容認されることであると思われます。

繰り返しになりますが、「きずな喪失症候群」の人たちが求める愛情や承認の欲求には際限がありません。

底なしです。

底なしの愛情や承認の欲求に関わるということは、餓えた野良犬に丹精込めて焼いたビスケットの欠片を一枚だけ与えるようなものです。

焼け石に水でしかありません。

また、精神科医ラカンには、「欲望は欲望に欲望する」という有名な言葉があります。

つまり、自己コントロールができない(ブレーキがきかない)状態のクライアントの欲望(アクセル)を開放すれば、クライアントの欲望は実体を離れて幻想化され、欲望(幻想)は際限なく肥大化していくということのようです。

「きずな喪失症候群」の人たちが求める愛情や承認の欲求には際限がないということでした。

このことからすると、「きずな喪失症候群」の人たちの欲望は、まさに実体を離れ幻想化された欲望ということになり、これは際限なく肥大化していく欲望(幻想)ということになります。

あくまで自分は自我の脆弱な日本人であると自覚し、決して底なしの欲望には近づかないと覚悟することが、「きずな喪失症候群」に対する最も適切なアプローチといえるのかもしれません。

先ほど、中国人は自己主張が強い(厚かましい)ということを記述しました。

そして、これは悠久の歴史と文化に培われた個人主義に由来するものであるということも記述しました。

一見すると、中国人の自己主張((厚かましさ)は、「きずな喪失症候群」の熱く一途な自己主張(厚かましさ)と類似しているところがあるため、同じものように受け止められることがあるようです。

このため、日本文化圏では排除されてしまう言動や行動の厚かましさも、中国文化圏では受容されることがあるように思われます。

実際に、「きずな喪失症候群」の人たちが、排除されていると感じる(孤立感を抱く)日本文化圏よりも、むしろ受容されていると感じる機会が多い中国文化圏の方に親近感を抱くこともやむを得ないのかもしれません。

このことからすると、「きずな喪失症候群」という人たちの存在、つまりボーダーライン(境界型人格障害)という疾病そのものが、環境や文化に依拠した概念(分類)になるということかもしれません。

例えば、日本でボーダーライン(境界型人格障害)と診断された人であっても、欧米文化圏や中国文化圏の精神科に受診すれば、ボーダーライン(境界型人格障害)とは診断さされず、至極適正な範囲にあると診断されると聞きます。

ただ、先にも述べたとおり、個人主義とボーダーライン(境界型人格障害)では、自己主張の強さ(厚かましさ)に類似性が見られるものの、その自己主張の強さ(厚かましさ)の根拠になる精神構造(自我の構造)のあり方は全く正反対になっているということです。

つまり、個人主義では自我が過度に硬固なため合理性があるとなれば自己完結型の強い自己主張(正義)を繰り返すことになりますが、ボーダーラインでは自我が脆弱過ぎるためその欠如感を埋め合わす目的で際限のない自己主張(自己満足)を繰り返すことになるわけです。

おそらく、今後とも日本人の精神構造(自我の構造)が急激に変化するとは考えられず、その結果としての日本人のパーソナリティも大きく変わるということは、おそらくないと思われます。

逆に、資本主義の徹底化や新自由主義の方向性は個人の欲望の開放をその原資としているため、社会的には「きずな喪失症候群」、つまりボーダーラインが生まれやすい環境になっていくことが予想されます。

おそらく、日本社会全体に占めるボーダーラインの割合は、ますます増加していく傾向にあるのではないでしょうか。

元来、日本の文化や共同性(コミュニティ)のあり方は、日本人の脆弱な自我を基盤として形成されてきたものであり、つまりは微妙なバランス感覚の上に構築された不安定な社会構造を反映したものになっているということです。

従って、社会全体に占める「きずな喪失症候群」の割合が今後増加していくことになれば、今ある日本の文化や共同性(コミュニティ))の基盤そのものが、根底から崩れ去ってしますこともあるのかもしれません。

先に、日本には、古くから「安分以養福」という言葉があるということを説明しました。

そして、このような日本の文化や共同性(コミュニティ)の中に組み込まれた先人の叡智を徹底させることが、「きずな喪失症候群」に対する有力な戦略になるのではないでしょうか。

つまり、分をわきまえた、身の丈を知った節度のある振る舞いこそが、伝統的な日本人の採るべき態度であり、このことが自分の身を守るための手段であったわけです。

日本人が、それぞれの分(役割)をわきまえた適切な行動を徹底させることができれば、日本の文化や共同性(コミュニティ)の基盤の崩壊を防ぐ(先送り)することもできるかもしれず、また日本人の精神構造の微妙なバランスを今後とも維持し続けることが可能になるかもしれません。

従って、専門的な訓練や経験を積んだ者以外は決して関わらない、それ以外の者は自分の無能さ、非力さ(脆弱な自我を持った日本人であること)を謙虚に受け止めることが、「きずな喪失症候群」の欲求を肥大化させない唯一の方法になるのではないでしょうか。

つまるところは、糧(欲望)を与えない、そのためには不必要な関わりは持たない、距離をとるということが、「きずな喪失症候群」に対する唯一効果的なアプローチになるということです。

最後になりました。

では、糧(欲望)を与えない、近づかない、関わらないことを続けたならば、果たして「きずな喪失症候群」の人たちはどのようになっていくのでしょうか。

私は、やがて、消えてなくなると予測しています。

むろん、長期間にわたるストイックな環境に耐えて、欲望の自己コントロールができるようになればの話しですが・・・。

(おわり)
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by kokokara-message | 2013-11-30 22:06 | 我流心理学