リアリティという孤独
2012年 03月 09日
リアリティは、おそらくその原理からすると、関係性の構築を希求するものではなく、むしろ正反対の孤立を目指すことになってしまうものではないでしょうか。
つまり、自分が今見ている現象をいかに理解し、いかに総括するかは「主観」そのものであり、その「主観」がリアリティであるからです。
原理として、誰からも理解されない可能性が極めて高い夢のようなものが、リアリティということになりそうです。
このようにリアリティは孤立したものにもかかわらず、リアリティが他者との間に構築される間主観性として理解されることもあるようです。
要するに、リアリティとは自らと他者との間に構築する現実(関係性)のことということになります。
しかしながら、関係性はやがて変化していくものであり、リアリティとは遂行性を伴った暫定的な結節点でしかなく、万物流転していく泡沫のようなものということになります。
つまり、私たちにとっては自明なリアリティは孤立した夢幻であるとともに、連帯という関係性を求めたとしてもリアリティはうたかたの泡沫でしかないということになります。
リアリティとはまさに夢うつつの世界ということであるのかもしれません。
リアリティがうたかたの世界であるのなら、自らが信じるリアリティに執着するほど危険なことはなく、むしろ自らのリアリティと距離をとりながら、自らを観察し続ける諦観こそが、リアリティと対峙する適切な態度といえるのではないでしょうか。
不思議なことですが、自らのリアリティ(現実)は過信しない方がうまくいくということになります。
そして、自らを信じるも疑うもそれは動的なバランス感覚の結果が証明することになるように、とりわけリアリティ(現実感)は未来完了という転倒した形で実現するのがもっとも望ましいという、当たり前過ぎる結論になってしまいましたが、さていかがお考えでしょうか。
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