同じであるからうまくいくことも

a0126310_1020212.jpg

グローバリゼーションとは、世界の情報化であり、資本主義化であり、世界通史からすれば、近代化の徹底ということになるのではないでしょうか。

グローバリゼーションは、言うまでもなく情報化や資本主義化により世界中の差異を平準化させていこうとする流れということになります。

ただし、グローバリゼーションによりフラット化される世界は、その差異の平準化が繰り返される度に社会の水準が低下していくという、つまりは底辺が見えなくなってしまう状況が続くことにもなるということです。

ところで、グローバリゼーションに対してコミュニタリアニズムという立場があります。

これはハーバード熱血教室のサンデル教授が依拠する立場と言えるのかもしれません。

もちろん、コミュニタリアニズムのいうコミュニティ(共同体)の中にも、グローバリゼーションと同様、差異を見つけては平準化させていく運動はあります。

しかしながら、コミュニティ(共同体)の中における平準化は、内部秩序と内部水準を維持することが目的となり、グローバリゼーションの世界では実感できない各人の足場でもある「底辺」を感じることがができます。

「底辺」という言い方が適切でないとしたら、共同体のセーフティ・ネットと言い換えてもいいのかもしれません。

つまり、グローバリゼーションとコミュニタリアニズムの相違点は、ともに平準化をその方向性としながらも、そこに「底辺」、つまりセーフティ・ネットがセットされているかどうかが相違点ということになりそうです。

先に示したように、グローバリゼーションが近代化の徹底(平準化の徹底)ということであるのなら、グローバリゼーションは世界の大きなトレンドであり、ここからは誰も逃れることができないといえるのではないでしょうか。

たとえ反グローバリゼーションの立場の反論であっても、それは差異の平準化というグローバリゼーションの言説を使用ことでしか、できない限界があるといえるのかもしれません。

ただし、グローバリゼーションとコミュニタリアニズムでは、平準化の方向性は異なっています。

前者は既存のコミュニティ(共同体)と外部世界を平準化させるのに対し、後者は既存のコミュニティを維持するための内部の平準化が中心になるということです。

そして、後者の平準化が既存のコミュニティ(共同体)を維持することを目的ということから、もともとコミュニティ(共同体)にセットされた足場(それが共同性ですね。)であるセーフティ・ネットを保存させることにもなるというわけです。

ここで、今一度セーフティ・ネットという言葉を言い換えるなら、それは生き延びるための方策ということになるのかもしれません。

つまり、そもそも底なしのグローバリゼーションの世界にセーフティ・ネットという足場を築こうとする営為が論理矛盾であり、生き延びるための理想の差異をグローバリゼーションの世界に求めるということは、ロマン主義(拝金主義?)と、あきらめるしかないようにも思われます。

従って、グローバリゼーションで生き延びるための方策は、ひとまずは自分の足場であるコミュニティ(共同体)の中に足場を築く、つまりは底辺であるセーフティ・ネットに気づくことから始めることしかないのではないでしょうか。

そして、今あるコミュニティ(共同体)に内在するセーフティ・ネットの意味や機能が理解できれば、おそらくグローバリゼーションの世界においてコミュニティ(共同体)が必要とされる意味にも気づくことになるのではないでしょうか。

さらに、コミュニティ(共同体)が生き延びる方ための足場であるとすれば、コミュニティ(共同体)の中のどのような差異を平準化し、どのような差異を温存していけばいいのかも見えてくるのかもしれません。

「同じであるからうまくいく」という発想は、グローバリゼーションからすると逆説的に聞こえることになるかもしれません。

しかしながら、先の見えない世界にあって、まずは生き延びなければならないことを優先するとしたら、コミュニティ(共同体)の中に旗をたてるような晴天型の芸当を演じるのではなく、むしろ悪天であっても生き延びられるような「同じであるからうまくいく」という消極的ともいえる方策が、、グローバリゼーションを生き抜く勇気ある選択であるようにも思えるのですが、さていかがでしょうか。

応援よろしくお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2012-01-28 10:21 | 我流日本論