今考えるべきこと
2011年 11月 23日
2011年5月16日に20,000人を達成してから、なんと6ヶ月間強での達成となります。
皆様のご厚情とご好意、そして暖かいアテンションに心から感謝いたします。
次は、40,000人を目指して、「心と体の癒しのメッセージ」を送りたいと思います。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。
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信じるとは、いったい何なのでしょうか。
自分を信じる、人を信じる、共同体を信じる、宗教を信じる、国家を信じる・・・。
詰まる所、信じるとは、さまざまな物語を信じるということであり、言い方を変えるなら、自ら進んで物語の中に思考停止をするということになるのではないでしょうか。
思考停止というと何かネガティブなイメージになりますが、思考停止は考えるためのステップであり、考えるために必要な枠組みを与えてくれるものということになります。
つまり、人にとってはフリーハンドの自由ほど危険なものはなく、人が安全に自由であり続けるためには、ある程度の不自由な枠組みが必要になってくるということです。
おそらく、私たちが束縛と感じる共同体、宗教、国家といった制度は、このような不自由な枠組みのひとつといえるのかもしれません。
逆説的ですが、自由に生きるとは、不自由と共存することであり、いかに不自由と親和的な関係を構築するかにかかっているといえそうです。
多少の差はあっても、誰もがこのような論理矛盾に引き裂かれながら生きているということになりそうです。
ところで、物語を信じるということが思考停止であるのなら、その物語がしっかりとしたものでなければ安心安全に考えることも、行動することもできなくなってしまいます。
信じた物語が嘘であったり、はったりであったとしたら、自由に考えるための足場を得るどころか、自らの生命や財産を危険にさらすことにもなってしまうということです。
このことからすると、物語を信じるためには、どの物語をいかに信じるのかということを考えなければならないということになります。
つまり、信じるためには考えなければならないということです。
先ほどは、考えるためには信じなければならないと述べましたが、要するに、信じることと考えることは、入れ子状態になっているということになります。
では、信じるために考えなければならないとしたら、考えるためには何が必要なのでしょうか。
自分について考える、他者について考える、共同体、宗教、国家について考える・・・ということになりますが、考えるためには必ずその前提が必要になってきます。
少し拙速ながら、その前提とは、おそらく自らを相対化するということになるのではないでしょうか。
ここでいう相対化とは、あらかじめ決まった答えを持たず、オープンマインドに外部に開かれた視点(ものの見方)を維持するということになります。
では、このような相対化、つまり、あらかじめ決まった答えを持たず、オープンマインドに外部に開かれた視点を維持するためには、具体的にどのようにすればいいのか。
おそらく、相対的なものの見方を実践するには、あらかじめ自らの立ち位置を自らが決定するというステップが必要になってくると思われます。
つまり、自らの立ち位置を自らが決定するという、自分の絶対化というステップが必要になってくるということです。
これでは、自らの相対化ではなく、自らの絶対化になってしまいそうです。
しかしながら、逆説的ですが、自らを相対化するためには、自らを絶対化する、つまり暫定的なものであっても、いったんは自らが答えを出さなければならないということになります。
ただ、この絶対化は、あくまでも自らを相対化するためも戦略でしかなく、従って自らの決定した答えとは距離を取っておくことも必要になります。
つまり、自ら決定した答えさえも客観的な視点から俯瞰するという姿勢が必要になるということです。
このようにして、自らの立ち位置が決まれば、そこから見える風景が、まさに自分のリアリティ(現実感)ということになります。
ここで留意しておくことは、今見えている風景も、先ほど指摘した通り、あくまでも自分が戦略的に選び取った暫定的な視点でしかないということです。
従って、この風景がいかに生き生きと輝いだものであっても、やがては変化していくものということになります。
万物流転の覚めた視点が戦略上求められる視点ということであり、このような視点が維持できれさえいれば、もはや井の中の蛙になることもないということになります。
哲学(現象学)では、このようなリアリティ(現実感)のあり様とその揺らぎを、信憑性と呼ぶことがあります。
信憑性とは、事そのもの(実体)は定かではないが、ありありとして確からしいということになります。
そして、このような確からしさ、つまり信憑性がやがて確信へと変化すれば、自分だけの主観ではない客観として認識されることになるということです。
このように書くとややこしくなりますが、普通誰もが自らのリアリティ(現実感)を、現実そのものとして受け入れているのが自然ではないでしょうか。
ただし、原理からすれば、やはりリアリティ(現実感)はあくまでも脳が描いたひとつのイメージでしかなく、主観という閉ざされた領域から出ることができない限界を持ったものということになります。
つまり、原理としてのリアリティ(現実感)は、人の数だけ存在するということになってしまうわけです。
たとえば、人と話が通じないと思う瞬間があったとしても、それはお互いの主観であるリアリティ(現実感)が異なっているだけであり、原理的に見れば不思議なこととはいえないのかもしれません。
一方、人と話が通じていると幸福に思う瞬間があったとしても、それは客観的に同一な現実が共有されているからではなく、むしろお互いのリアリティ(現実感)が偶然重なっているだけということであるのかもしれません。
このことからすると、他者とは話が通じていないという現象の方が一般的ということになってしまい、他者と話が通じていることの方が特殊な現象ということになってしまうのかもしれません。
現実はひとつだけではなく、多元的なパラレルワールドの関係にあると考えればいかかでしょうか。
現実が多元的であるという認識ができれば、自らの現実の自明性をありのまま受け取るというような短絡的な発想もなくなるのではないでしょうか。
自らのリアリティ(現実感)を信じるに足る根拠がないと分かれば、信じる前に考える(疑ってかかる)という足場が生じるのではないでしょうか。
自覚的に疑ってかかるというものの見方こそが、自らを相対化する重要な戦略ということになります。
おらが大将も大切なことですが、今考えるべきことは、自らを絶対化することではなく、相対化するために疑ってかかる(考える)ことではないでしょうか。
自らを相対化することが、多種多様ともいえる主観の錯綜する不自由極まりない現実の中で、自らが信じる方向を指し示す唯一無二の身体のコンパス(信ずべきもの)を活性化させると考えるのですが、さていかがでしょうか。
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