考えることと信じること
2011年 10月 22日
考えることと信じることには、対比の関係があるように思われています。
つまり、考える人は信じないし、信じる人は考えないということです。
しかしながら、実際のところは、人は考えもするし、信じることもするというのが、本当ではないでしょうか。
では、はじめに、考えるとはいったいどういうことなのでしょうか。
考えるとは、実際に目の前に生じている差異について、どのように考えるかということになるのではないでしょうか。
また、やがて目の前に起こるかもしれな差異について、どのように考えるかということになるのではないでしょうか。
考えることの代表格である哲学は、ややもすると抽象的に考えると理解されてしまうところがあるようです。
しかしながら、哲学における抽象化とは、具体的に発生した現実の差異の一般化のことであり、そこにある構造や法則の発見ということになると思われます。
従って、哲学は、観念的な思考実験ではなく、むしろ具体的に考えるための道筋を示してくれるものであり、また考えるためのプロセスをショートカットする合理化のための方法論ではないでしょうか。
つまり、哲学という営為は、先達が私たちに残してくれた、思考のためのノウハウの蓄積であり、思考のための知恵の結晶ということになると思われます。
一方、信じることの代表格には、宗教があります。
宗教は、信じることがその基本となるため、信仰のない宗教は論理矛盾ということになってしまいます。
しかしながら、実際に宗教の体系やその教義を構築し、さらにそのメンテナンスを加えていくためには、信じるだけでは十分ではなく、その対比関係にある考えるという営為が必要とされてくるということになります。
つまり、宗教においても、そのコア(核)の部分については、考えるという営為が求められるというわけです。
ただし、宗教において誰もが信じることよりも、考えることを優先することになってしまうと、考える人の数だけ、宗派が林立するということにもなり、宗教が存在することの意味が弱体化することになってしまいます。
実際に、私たちの周りを見回せば、このような宗派の林立状態は容易に観察できることではないでしょうか。
従って、考えるという営為を突き詰めていけば、自明と信じている世界からどんどんと逸脱(破綻)していくことことにもなってしまいます。
つまり、考えるという営為は自らの世界を広げていくとともに、自らの世界をどんどんと細分化していくという関係にあるということになります。
考えることと信じることの間にトレードオフの関係があるということになるのでしょうか。
ところで、日本は型の文化といわれるように、自分で考えるよりも、人のまねをする方が大事といわれることがあります。
「まなぶ」は「まねる」ということであり、これは、必ずしも考えることを否定するものではないのですが、対比の関係からは、信じることにより重心を置いたものとして見られることがあります。
ご存知のように、考えるという営為が、まったくのゼロから出発するような、荒唐無稽の芸当でないことはいうまでもありません。
むしろ、考えるとは、自らがそれまでに積み上げた蓄積、つまり一般化されたフォーマットの引出しの中から、一番適切なものを探し出す、言い換えれば思い出すような作業といえるのかもしれません。
従って、より適切に考えるには、より多くのフォーマットを確保しておくという必要になり、このためには、より多くの現実から「学ぶ」、つまりより多くの現実を「まねる」ことによる一般化が求められるということになります。
そして、現実を「まねる」という行為は、ありのままの現実を「信じる」という行為から始まることになると思われます。
このため、「まねる」という行為は、「信じる」ことと同様に、周りの環境に対しきわめて親和的でかつ受動的スタンスを採るということになります。
このような受動的ともいえるスタンスから獲得された多くのフォーマットこそが、やがて能動的に考えるために必要なアーカイブに蓄積されていくとうことになるわけです。
子供は、冒険を繰り返しながら成長を遂げていくとされています。
そして、子供が成長するには、信頼すべき模範を示してくれる親の存在が必要とされています。
親の保護というセキュアベースがあってこそ、子供は自由に冒険ができるということになるのでしょうか。
従って、このことを一般化すれば、より多くの現実を信じることができる人こそが、より多くの冒険をすることができる人ということになり、一見矛盾するような自由と安全とが同時に獲得できるということにもなります。
現在は、信じることよりも、むしろ考えることが必要とされる時代であるのかもしれません。
そして、考える、つまり差異を疑う営為のためには、より多くの信じられるものが前提とされるということは、真逆のような関係に思えるかもしれません。
しかしながら、先の見えない時代であるからこそ、今まで以上に信じられるものを一つでも多く確保できた人こそが、より豊かに、より安全に、考える(疑う)ための自由を獲得できるということになるのではないでしょうか。
そして、このような考えるために必要な自由と安全をどんなに積み上げても、到底人間の思考では及びもつかない不可思議な現象というものに出くわすことがあります。
どのように考えても答えが出ない場面に出くわしたとしたら、その時は自らの非力さを素直に認め、ただ頭を垂れて、再び「信じる」という方向に反転していくことになると考えています。
考えること(哲学)と信じること(宗教)は、おそらく相補の関係にあることが、一番いい上状態ではないかと勝手に考えているのですが、さて皆様はいかがお考えにあるのでしょうか。
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