円高への市場介入と前田敦子(6)

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自己循環論法は、社会のあらゆる社会現象に汎用できるメタ論理ではないか、ということでした。

少し言い方を換えるなら、社会のあらゆる現象は原因が結果であり、またその結果が原因になるという円環関係(ウロボノスの輪)にあることになります。

このような見方は、近代を自負する人にとっては、とても不可解なものに思えるかもしれません。

なぜならば、近代を自負する人にとっては、ある特定の原因に対し、ある特定の現象が発生するという見方が常識になっているからです。

たとえば、近代を自負する人が、自分が納得できない結果に出くわすと、必ず特定できる原因があるものと信じ、懸命になって犯人(原因)探しをするのではないでしょうか。

また、現実は予定調和的に展開するとの思いが強いため、シナリオ通りに展開しない現実に出くわせば、困惑と焦燥感を抱くことになるのではないでしょうか。

現実は、一因一果で説明できるような単純因果の関係にあるものではなく、また、あらかじめ用意されたシナリオ通りに展開するものでもないということです。

たとえ運よく犯人(原因)が特定できたり、シナリオ通りの展開が期待できたとしても、周りの環境(関係性)が変化してしまえば、因果関係は成立しなくなってしまいます。

これらのことを踏まえると、現実(社会現象)とは、いくつもの原因が重なった暫定的な結節点ということになるのではないでしょうか。

従って、現実(結節点)とは常に変容していく(万物流転)ものであり、原因と結果の関係も常に流動化していくことになるのではないでしょうか。

ところで、原因と結果の関係は、時系列に展開していくという見方が一般的といえそうです。

つまり、原因に対する結果は、その原因を踏まえた後から発生するという関係性です。

これは、近代を自負する人であるなら、至極当たり前の見方といえるかもしれません。

信憑性というよりは、信仰に近いようなものがあるのではないでしょうか。

しかしながら、現実はこのような線的因果で説明できる現象ばかりではない、ということです。

たとえば、シンクロシニティー(共時性)と呼ばれる現象があります。

もともとパラレル(平行)な関係にある各々の事象が、原因と結果という関係性を伴い同時期に存在するというものです。

たとえば、パラレルであるはずの、ダブルレインボーを見ることと家族の病気が治癒したことに関係はないと思われますが、これらに因果関係を認めるというものの見方です。

おそらく、近代を自負する人なら、不可思議でオカルト的なものの見方ということになり、排除する対象となってしまうのかもしれません。

しかしながら、現実には、近代的な世界観(因果関係)だけでは説明がつかない多くの現実が存在しています。

たとえば、あらゆる社会現象が原因も結果も明確にはならないとする現実(世界観)などがそれに当たります。

これは、二項対立の一方だけに振り切れない見方ともいえますが、このため現実はその間にあるグレーゾーンのいずれかに据え置かれてしまうことになります。

つまり、原因に対する結果をあえて特定しない、曖昧な状態にしておくというものの見方といえます。

さらに、最初にも述べたように、原因が結果であり、その結果が原因になるという現実(世界観)もあります。

これは、現実(現象)は線的因果の関係にあるのではなく、むしろウロボノスの輪のような円環関係に構造化されているという世界観です。

つまり、原因に対する結果のみならず、もともとの原因さえも特定することはできないという見方になります。

いずれにせよ、これらの現実は、因果関係や既定の時空感覚に支配された合理的な近代的な世界観では説明ができない、近代から零れ落ちた世界観ということになるのかもしれません。

いうまでもなく、近代は、あらゆる現実が言語によって分節できるという世界観によって支配されています。

従って、現実を言語化することいが、近代化の徹底ということになり、近代の様々な現象を余すことなく言語化(概念化)していくということになります。

ただし、実際には言語化(概念化)できないような多くの現実が存在しています。

このような言語化できない現実は、前近代的かつ呪術的な遺物(非合理性)として社会の背景へと追いやられ、排除されてしまうことになってしまうのかもしれません。

また、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉があるように、近代においては言語化(概念化)できない現実は無化されてしまうのかもしれません。

現在は、ポストモダンの時代ともいわれることがあります。

いうまでもなく、ポストモダンとは近代(モダン)を超越したところにあるものということになります。

では、近代(モダン)からポストモダンへと移行するためには、どのような方法論が必要とされるのでしょうか。

おそらく、ポストモダンとは、近代(モダン)を徹底させることによってのみ達成可能な境地ではないかと考えます。

なぜなら、ポストモダンとは、近代(モダン)から零れ落ちた外部に存在している見落とされた領域といえるからです。

従って、今ある近代(モダン)を徹底することによってしか、その外部の存在に気づくことはできず、見落とされてきた陥穽にも気づくことができないのではないでしょうか。

おそらく、ポストモダンへの移行は、今ある近代(モダン)に強固な足場を構築することから始めるしかないといえそうです。

そして、このような近代化の徹底を図ったうえで、やっと近代(モダン)から零れ落ちた外部にある思考方法や世界観に自覚的になることができるということです。

ポストモダンとは、近代(モダン)の中に構築した足場を基軸としながらも、近代(モダン)に内在する多くの矛盾や近代(モダン)から零れ落ちた非合理性といわれたものをを拾い上げていく作業といえそうです。

従って、ポストモダンは、言語化(概念化)できなかった無意識の領域をも言語化していく試みということになり、まさにこれは社会科学というよりも、むしろ詩的な文学的営為というこちになるのかもしれません。

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前近代(プレモダン)は、神との対話が可能な時代とされていました。

近代(モダン)は、神との対話が途絶えた、神なき時代ともいわれています。

このため、近代(モダン)は、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)しかない時代であったということでもあります。

そして、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)ことが哲学の営為であるのなら、近代(モダン)とは、哲学の営為を通し、自分の頭で考える「個人」という概念を生み出した時代ということになります。

また一方で、「個人」はその外部にあたる「他者」の存在なしには生成されることはなく、他者と同時に生まれた概念といえます。

なぜなら、「個人」とは自律した概念であると同時に、外部(神や他者)との関係性(相対化)の中から生成されてくる概念といえるからです

従って、ポストモダンとは、、「個人」が、近代(モダン)から零れ落ちた外部にある非合理性のみならず、「他者」という異質性にも自覚的になり、その距離感(関係性)を調整していくことが求められるのではないでしょうか。

ポストモダンに移行することの本当の意味は、好むと好まざるにかかわらず、人が成熟へと向かうことにあると考えるのですが、さて皆様はいかがお考えになるでしょうか。

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ところで、仏教には「輪廻転生」という思想があります。

おそらく、古代人は、社会現象全般が自己循環論法(ウロボノスの輪)から説明できるということをどこかで理解しており、この円環関係にある社会現象全般を「輪廻転生」と呼ぶことにしたのではないでしょうか。

仏教の世界観では、この円環関係にある「輪廻転生」から「解脱」することを目指すということになります。

そして、この「輪廻転生」から「解脱」した境地を「悟り」と呼ぶのではないでしょうか。

つまり、古代人にとっての「解脱」とは、この社会現象全般からの「解脱」、つまり自己循環論法(ウロボノスの輪)の円環関係からの「解脱」ということになりそうです。

このように考えると、「解脱」は、「出家」そのもののであるようにも思われます。

しかしながら、「解脱」の本質が、相互参照という「人と同じことをする」ことからの離脱であるなら、「自分の頭で考える」という営為は、まさに相互参照からの離脱でもあるわけです。

そして、「解脱」のあとの「悟り」の境地とは、この解脱の本質(自分の頭で考える)に気づくということかもしれません。

つまり、「悟り」とは、自分で考えることに、もはや迷いはないという境地のことではないでしょうか。

「悟り」とは「出家」のような特殊な環境を前提とするものではなく、世俗にあっても、自分の頭で考える営為、つまりは自らを相対化し、自他の生成がなされることが、「悟り」の必要条件になるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-09-30 22:04 | 我流経済学