生き延びるための思想(全編)
2011年 06月 23日
かつて沖縄を何年か続けて訪れるという機会がありました。
世界遺産や景勝地などをひととおり巡ったあと、社会科見学(フィールドワーク)のつもりで、戦争史跡を訪れたことがあります。
訪れたのは、沖縄では「ガマ」とよばれている二つの洞窟です。
ふたつのガマは、ともに沖縄本島中央部の西海岸にある読谷村という村落の中にありました。
そもそも沖縄本島は、さんご礁が隆起して出来た島であるため、水流によって侵食された鍾乳洞や洞窟がたいへん多く存在します。
訪れた二つのガマも、このようにして出来た洞窟のひとつであったということです。
自然の造形である二つのガマが、大きく命運を分けることになるのは、第二次世界大戦末期の沖縄戦のことです。
一方のガマでは、その中に避難した住人の多くが「集団自決」をするという悲劇に至りました。
一方のガマでは、その中に避難した住人全員が生存生還するという幸運に恵まれました。
極めて非対称的な結末となっています。
では、いったいどうしてこのような非対称な結果が生じることになったのでしょうか。
「集団自決」については、大江健三郎氏の「沖縄ノート」でも取り上げられています。
ただ、ここで取り上げるガマの「集団自決」は、「沖縄ノート」のものと少し文脈が異なっています。
つまり、「沖縄ノート」での慶良間諸島で起きた「集団自決」は、実際にアメリカ軍と日本軍が戦闘をする最中に、その戦闘に巻き込まれた住民の中で起きた悲劇とされています。
これに対し、私が訪れたガマで起きた「集団自決」は、日本軍がすでにその前線を沖縄本島の南部地区へと後退させたあとの空白地帯で起こった住民同士の悲劇といえます。
つまり、日本軍が読谷村地区からいなくなってしてしまった後に、取り残された住人の間で起きた「集団自決」ということになります。
アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始したのは、この読谷村地区の沿岸部からでした。
そのとき、読谷村地区の住人が避難したのが、ガマといわれるこの洞窟であり、ガマの中には女性と子供、そして高齢者などの非戦闘員が潜んでいたとされています。
そして、「集団自決」が起きたガマの中にも多くの住人が避難していましたが、その中には元日本軍人として中国戦線に参戦した経験を持つ高齢者が含まれていたそうです。
その元軍人が語る戦場における経験は、たいへん残虐なものであり、悲劇なものであったようです。
さらに、元軍人は、アメリカ軍の凶暴凶悪さについての風評や思い込みを含んだ情報をもたらすことになったのかもしれません。
アメリカ軍上陸という脅威にさらされ、閉ざされたガマという空間の中で、真贋の分別もできないネガティブな話を聞かされれば、住民の持つ危機管理能力が低下していくこともやむを得ないことかもしれません。
やがて、ガマの中はパニック状態に陥ります。
その結果、ヒステリー状態と集団心理がもたらした悲劇は、自分たちが決して失くしてはならないものを失くすという負(ネガティブ)の連鎖反応ということでした。
この負(ネガティブ)の連鎖反応が、「集団自決」という悲劇をもたらすことになります。
一方、幸運にも全員が生存生還することになったガマは、「集団自決」があったガマとは数キロも離れていない近隣地区に存在しています。
もちろん、こちらのガマの中にも非戦闘員である多くの住民が避難していました。
そして、アメリカ軍が近づくという情報が流れる中、このガマでも同様なパニックが起こり始めたといわれています。
どちらのガマにしても、戦場における残虐性や悲劇性、そしてアメリカ軍に関する凶暴凶悪なイメージや風評を聞かされ、その信憑も分別できないとなれば、経験や知識のない非戦闘員が心理的に追い詰められていくことはごく自然なことであったのかもしれません。
では、なぜ一方のガマでは「集団自決」という悲劇に至り、一方のガマでは全員が生存生還するという幸運に恵まれることになったのでしょうか。
この非対称的な結果には、ひとつだけ大きな違いがあります。
その違いとは、全員が生存生還したガマの中には、ハワイに移民した経験を持つ住民が避難していたということです。
当時の時代背景からすると、アメリカという敵国から帰国したというだけで、非国民というレッテルを貼られ、日本人という共同性から排除されることが起こったかもしれません。
しかしながら、実際にハワイで暮らした住民の経験は、アメリカ軍が上陸するという高度な危機管理が求められる局面において、大変役立つということになります。
ひとつは、ハワイから帰国した住民には、アメリカ軍が戦場において規範(ルール)に基づいた行動を採る可能性の高い近代的組織という認識があったということです。
また、ハワイ在住の経験で身についた言語の英語が、身近に迫り来るアメリカ軍と直接コミュニケーションを採るための貴重な手段になったということです。
ハワイ帰りの住民が、ガマの中がパニック状態になる前に採った行動は、自らガマを出て、アメリカ軍と直接交渉をするということでした。
つまり、アメリカ軍に対し、「ガマの中には日本軍が隠れておらず、非戦闘員の一般住民だけが避難している」という情報を、直接英語で伝達するということです。
一般論としても、風評ではない実際の経験に基づいた知識と情報が、有効で適切な判断をもたらすことは経験上も理解できることではないでしょうか。
また、言語が他者との意思疎通を図るための、基本的なコミュニケーション能力であることはいうまでもないことです。
このように、日常ではあたり前とされることが、危機の局面においても、同じように機能することになったということです。
結果として、多くの住民の命が悲劇から救われることになりました。
同じ状況、同じ時間、数キロも離れていない場所にありながら、一方のガマでは児童を中心とした多くの死者を出してしまう結果となりました。
一方では、いったんはアメリカ軍捕虜にされながらも、結局全員が生存生還できるという幸運に恵まれることになったということです。
「集団自決」のあったガマは、現在でもすぐ近くで見学することができますが、遺族への配慮からガマの中に入るということはできません。
ただ、このガマは比較的広い農道に面し交通の便が良いことから、公共施設が整備され、県内県外から多くの人が訪れる重要な沖縄戦跡になっている模様です。
一方全員が生存生還したガマの方はというと、今では地元の人も訪れることが少なくなってしまい、県外からの訪問となるととても稀有な存在になってしまったようです。
私がこのガマを訪れたときは、まず読谷村にある「道の駅」でガマの所在にちて尋ねました。
しかしながら、「道の駅」では、実際にガマを訪れた経験を持つ方はいなく、伝聞程度の知識を持っているだけの不案内な様子でした。
このため、「道の駅」でもらった大雑把な地図を参考にして、とりあえずガマの近隣あたりまで向かうことにしました。
地図を見ながら村落のはずれまで来ると、ゲートボールをしているおじいさんにたまたま出会うことができ、ガマの所在について尋ねたところ、すぐに答えは返ってきました。
地元ではガマの存在はしっかりと伝えられていたようで、おじいさんは、前方に広がる深い亜熱帯ジャングルを指差しながら、私が進んでいく方向を示してくれました。
案内のとおり、亜熱帯ジャングルを少し分け入ると小川が流れており、その流れは大きな洞窟の中へと続いていました。
鬱蒼とした亜熱帯ジャングルにありながらも、陽の光がこぼれる明るく乾いた雰囲気のする場所に、ガマの入り口がありました。
ガマの中はずっと奥の方まで広がっている様子で、資料によれば一度に千人ほどがこのガマに避難することができたということです。
そして、このガマの入り口付近には、地元の人たちが全員生存生還への岐路を切り開いたハワイ帰りの住民を顕彰する碑が、ひっそりとですが建てられていました。
ここで私のフィールドワークは終りとなります。
このふたつの非対称な結果を生んだガマを訪れた経験は、私に何を語ろうとしているのでしょうか。
このような非対称性は、現代社会においても見られることであるのかもしれません。
この非対称性は、時代を超えた普遍的な人間のあり方を問題提起することになっているのではないでしょうか。
まず一つ目は、いつでも、どのような時であっても、自分を疑ってみることができる、つまり自分の外部に視点を設置することが必要になるのではないでしょうか。
このような視点が、風評や思い込みという共同幻想の呪縛から自分を開放することになり、結果として、自分のみならず他者の命も大切にすることにつながるのではないでしょうか。
そして、風評や思い込みという危うさだけで臆断しない態度が、やがて確かな情報を取捨選択できる生きる力として洞察力を養うことになるのではないでしょうか。
そして二つ目は、自分には何の情報もなく、何が正しいかも判明しない状況であったとしても、結果として正しい判断を下さなければならない事態に遭遇することがあるということです。
自分の意図とは関係なく、敵か見方か、右か左か、生か死かという二項対立の図式に置かれてしまうことがあるように思われます。
そして、あまりにも選択のプレッシャーが強くなると、自分がその二項対立の図式に陥っていることにも気づかなくなるという事態に直面することになってしまいます。
集団心理や大衆心理の持つ特徴ということができます。
しかしながら、このような場面において、ほんとうに必要な判断とは、おそらく二項対立のいずれか一方を選択するということではないのかもしれません。
むしろ、二項対立を超えたところで自らの判断を留保できる、ある意味宙吊りのような視点を持つことが、結果的として自他が生き延びるために欠かすことのできない判断を提供してくれることになるのかもしれません。
つまり、目先だけのことではない、もっと射程の長い時間感覚と、奥行きのある空間認識が必要になるということです。
そして、このような時間性(今は答えが出ない)と空間性(この場所では答えが出ない)を担保してくれるものが、自己意識と呼ばれる視点ではないでしょうか。
このような自己意識を保持できていることが、どのような抑圧的状況にあっても、自分と他者が生き延びるために必要な視点(支点)を与えてくれるものであると考えます。
おそらく、自己意識という視点から俯瞰すれば、自分と他者が生き延びるために必要なことは、抑圧する者と決して似姿になってはならないということではないでしょうか。
つまり、抑圧されている者が、さらなる弱者に対し抑圧の脅威を移譲するという「抑圧の移譲」を断ち切ることが、結果として自らが生き延びるために必要とする正(ポジティブ)の循環構造になっているということです。
自分や他者が、たとえ弱者のままであったとしても、ありのまま生き延びることができる構造にあることが、近代を生きる人間にとっての普遍的なあり方といえるのかもしれません。
このことは、「近代」を生きる私たちが決して忘れてはならない「生き延びるための思想」と考えているのですが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。
アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
↓
にほんブログ村