青い鳥を探して~哲学の旅(全編)

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ヒトは、それぞれ身体や遺伝子が違っています。

脳という内臓も違っています。

そして、ヒトの感覚が違っていることは当然のことといえます。

私たちの世界は違っていること、異なっていることが当たり前の世界であり、全く同じモノを探すことが難しい(不可能な)世界といえるのではないでしょうか。

ヒトやモノがそれぞれ違っていることは本質的なことのようです。

従って、ヒトやモノが同じであることは原理としてありえないことかもしれません。

ただ、社会文化的な影響から、ヒトが「同じ」であると思い込むことや共感を持つことにより、安心や安全の感覚を共有するということはあるように思われます。

しかしながら、このような「同じ」という感覚も、言葉や情報がもたらす「同一性」の機能の結果であって、その「同一性」は多様な差異を含んだ感覚ということになってしまいます。

従って、ヒトを取り巻く環境とは、ほんらい「同一」の安心や安全な環境にあるとはいえず、差異が充満した危険にさらされた自然状態といえるのかもしれません。

そして、差異がもたらす居心地の悪さや雑音(ノイズ)の違和感は、脳の働きである「同じ」という感覚に対し、刺激(ストレス)をもたらすことになります。

このような違和感は、ヒトを不安にさせることもありますが、反対に雑音(ノイズ)がヒトの創造性を引き出すきっかけになることもあるようです。

最初に見たとおり、ヒトやモノが違っていることが当たり前の世界で生きています。

脳の世界は、確かに「同一性」(安心や安全の世界)を与えてはくれますが、この脳の世界から外側に踏み出すことで、自分自身のほんとうの感覚に触れることができるのかもしれません。

少し勇気がいることですが、自分の脳の世界からその外側にある世界に一歩踏み出すことを試みてはいかがでしょうか。

概念の世界から感覚の世界へと踏み出すことにより、自分のほんとうの感覚(個性)に触れることができるのかもしれません。

自分とはいったい何なのか。

そして、自分の幸せとはいったい何なのか。

大変難しい問題ですが、自分がいかに見られたいかを知るということが、最も重要なテーマになるのかもしれません。

自分にとっての「青い鳥」とは何であるのか。

果たして「青い鳥」は、どこにいるのか。

それでは、脳という「同一」の世界から多様な感覚の世界へと飛び出すことにより、自分だけの「青い鳥」を探す旅に出かけることにしましょう。
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感覚とは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚等の五感ことですが、感覚の世界では、人はそれぞれが異なった世界を生きているということになります。

一方で生物としてのヒトは、ある一定の範囲に納まるような感覚を持った動物であることもまた容易に想像ができることではないでしょうか。

もし、出力される運動(行為行動)がヒトそれぞれに異なっているとしたら、それは感覚の入力と運動の出力という関係からは、最初に入力される感覚が異なっていることが一番の原因になるのではないでしょうか。

脳の特徴は「同一性」ということでした。

入力される様々な感覚が、ヒトの脳の中ではいったん「同じ」ということになります。

つまり、脳で発生する意識においては、言葉の持つ概念化の機能により、「同一化」が図られるということになります。

たとえば、熱い風呂に入った場合など、ヒトはそれぞれに相違した「熱い」という感覚があるのですが、脳の意識においては「熱い」というオトや文字の「熱い」という「同じ」の記号へと変換されることになります。

感覚の段階では多様であった違いが、脳を媒介することで「同じ」記号になってしまうということです。

しかしながら、最後に出力される運動の段階では、ヒトがそれぞれ違った反応(行為行動)を起こすことは決して珍しい現象ということはできません。

これは、脳でいったん「同じ」とされた感覚でも、もともとのヒトに入力された感覚レベルまで遡れば、ヒトが受容する感覚に大きな相違があるという事実に行き当たることになるからです。

つまり、脳においてはいったん「同一化」が図られるものの、出力された言動や行為行動に見られる相違は、おそらく入力される感覚レベルにおける相違が原因であり、運動という出力の違いが、感覚入力の受容の相違まで遡及して考察ができるということになります。

脳科学によれば、ヒトの意識は脳内伝達物質によって影響を受けることになるとされています。

つまり、ヒトの意識(感覚)は脳内伝達物質(ドーパミンやセロトニンなど)の影響を受けることで、その行為行動に相違が生じるということです。

これは、入力(感覚)と出力(運動)を媒介する脳という内蔵器官の相違が、ヒトの意識の形成に大きな影響を与えているということになります。

このような脳という臓器の相違がもたらす出入力の関係性は、現在の脳科学の治験では、ある程度までは薬物療法などにより脳内伝達物質に影響を与えることにより、その出力である反応(行為行動)を制御できるとされているようです。

これに対し、入力そのものの感覚の相違は、所属している社会や文化や環境の影響を強く受ける(刷り込まれる)ということが一般的なようです。

つまり、ヒトが出力する行為行動に対してより強い影響を与えているのは、脳の機能の相違というよりも、むしろ社会文化的な影響を受けて入力される受容感覚の相違ということになるのではないでしょうか。

脳化社会は都市の世界のことであり、そこは「同じ」を求める世界と言えますが、逆に自然の世界は違うということがあたりまえの世界ということができます。

ヒトが都市の世界に暮らしていると、自然に対して相違を感じるという感覚能力が低下し、やがて相違そのものを認識する感覚能力そのものが失われてしまうことにもなります。

従って、都市化された「同一化」の世界では、常にヒトと自分が違った存在であるということを自覚的であらねばなりません。

つまり、ヒトの感覚は多様なものであり、ヒトと自分の感覚が違っていることは、当たり前なことであり、自然なことということを自覚している必要があるということです。
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このように、自分の感覚がヒトと違っていることについて自覚的であれば、やがて自分の感覚の中に唯一にものである「個性」を見つけるということにもつながってきます。

ヒトと自分が違った存在であるということを知っていることがそのきっかけを与えてくれます。

自分の感覚を対象化し、客観視することが、おそらく脳の「同じ」を求める世界(自分とヒトは同じである世界)から、一歩外に踏み出すということになるのではないでしょうか。

このことを、哲学では、自分自身を相対化するとも、自己意識を持つとも、呼ぶことがあります。

自己意識を持つということは、自分とヒトが違っているということを知るだけではなく、自分の言葉や行動の意味さえも問うことが可能となり、やがて自分の行為行動の成り立ちまで遡って考えることができるようになります。

一般的に自分にとっての自明な感覚とは、自分の環境である社会文化的な影響をありのまま受けいれることにより、成り立っている感覚ということができます。

このような自分の自明な感覚を疑い、その社会文化的な「同じ」を求める世界の外に出るということが、自分やヒトの行為行動の成り立ちの意味を探索するということになります。

脳科学によると、脳という内蔵器官の生物学的な相違については、医学的に制御することが可能な範囲のものということでした。

一方で、自明な環境である社会文化的な影響の相違については、外部からの働きかけだけでは、なかなかコントロールすることが難しい問題になるということでした。

では、自分にとっての自明ともいえる社会文化的な影響に気付き、コントロールするためには、どのようにすればいいのでしょうか。
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脳の特徴に言葉(同一性)があります。

言葉は、概念化(どの机も、机は机である)という「同じ」であることを特徴とします。

同時に、その言葉持つ意味が多義的(同じ机といっても、黒い机もあれば白い机もある)であるということもその特徴といえます。

この言葉の持つ意味の両義性を使用することにより、自分の脳が発生させる意識や感情の多様性を深く掘り下げていくことができるかもしれません。

つまり、意識や感情の持つ多様な意味を探るということが、自分の脳という「同じ」を求める世界の外へ出る手がかりを与えてくれることになるのではないでしょうか。

「同じ」を求める脳という世界は、自明な環境である社会文化的な影響を受けた脳化社会という世界になります。

この世界の外に出るためには、脳が発生させる意識や感情につながる言葉(同一性)を戦略的に利用することで、その言葉の持つ多様な意味を探りながら、自分の意識や感情を掘り下げていくことができるのではないでしょうか。

つまり、意識や感情の発生の意味を考えるということは、自分の意識や感情に対して、できるだけ詳細な言葉のレッテルを貼るということでもあります。

自分の沸きあがる意識や感情に言葉を貼り付けることで、曖昧なままであった意識や感情の輪郭が次第に鮮明なものになってきます。

やがて自分の意識(思考)と感情とは区別できることが明確になり、思考(考えること)が感情(気分の動揺)に対して影響を与えている関係性(思考のくせ)が明らかになってきます。

つまり、不安なことを次々と考える(思考)から、イライラと落ち着かなくなる(感情)のであり、原初にイライラとする感情が湧き上がって、不安な思考が引き起されているのではないということです。

通常考える思考と感情の関係性が反対になっていることに気付けば、同じようなパターンに陥ったとしても、自分の思考や感情というものに距離をとって客観的に接することも可能になるということです。

そして、ヒトの思考が、社会文化的な影響を受けて成り立っていることからすれば、自分の思考を相対化するということが、自分を取り巻く環境から距離をとるということにもなるということです。
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このように自分の思考に影響を与えている社会文化的な影響から距離をとることで、自分にとっては自明であった、自動化された思考パターンを客観的に観察できるようになります。

思考⇒感情というパターンが単に思考のくせでしかないのであれば、このような悪癖を自覚することが、悪癖を制御することになることを、私たちの経験的が理解していることではないでしょうか。

自分の思考を相対化できれば、思考のくせを制御することも可能となり、これが社会文化的な影響を減少させることになって、自分本来の自然な感覚にまで遡りつくことが可能になるということです。

そして、遡っていった先にあるものが自分に固有の感覚であり、社会文化的な影響を受けていない自然(個性)ということになるのではないでしょうか。

つまり、自分の行為行動を成り立たせている根源にまで遡っていけば、自ずと自分に固有な感覚である個性という自然にたどり着くことができることになるということです。

ヒトの固有の感覚とは、個性ということになります。

従って、ヒトの個性とは、ヒトという自然の中に存在するものということになります。

個性とは、自分という自然の中で見つけ出すものであって、「自分探し」のように自分の外で見つけ出すものではないということになります。

ヒトは社会的な動物であるため、社会文化的な影響から全く離れて生きるということは出来ませんが、その影響からある程度の距離をとって生きることは可能なはずです。

つまり、ヒトは自明な環境である、社会文化的な影響だけに依拠して生きているのではないということです。

個性は、自分という自然の中に存在しているため、自明な社会文化的な影響から距離をとることで、はじめて気付くことが出来るものといえます。

私たちは、自分の脳の持つ「同じ」を求める世界の外に出ること、つまり概念の世界から感覚の世界に踏み出すことによって、自分の個性という自然を発見することができるのではないでしょうか。

脳の「同じ」を求める世界から踏み出すための足がかりにしたものが、やはり脳の「同じ」という機能がもたらした言葉であったということは、なんとも皮肉なことです。

ヒトにとって、言葉は根源的な意味を持つものといえそうです。

そして、自分の脳の外に踏み出すということ、つまり自分の思考を相対化することは、脳がもたらす幻想の世界(みんなは同じである)から離脱することでもあります。

未成熟な状態ともいえる「みんなは同じ」という幻想の世界の離脱には、少しの勇気が必要とされます。

そして、脳の外に踏み出すためには、おそらくそこに確実性などはなく、たんなる確信程度のものしかありません。

だから、勇気ということになります。

かような勇気は、カオス(混沌)の中から自らの個性を発見するという荒唐無稽な根拠のない確信ということになり、また予定調和的な到達を確信できる未来完了型のひらめきのような確信かもしれません。

このような根拠のない未来完了の確信のことをオカルト的には予見や予知と呼ぶことになるようですが、私は成熟を希求するヒトの生命力に内在した、遺伝子という自然に組み込まれた方向性の帰結ではないかと考えています。

つまり、勇気とは「自分を信じる」という素朴で自然な思考の発露ではないでしょうか。

自分を信じることは、ほんらい自然で、根本的な思考であるはずです。

自然の意味は、自(おのずから)然(しかる)ということです。

自分の個性は、自然そのものであり、自分という自然の中にしか存在していないものということでした。

従って、自分の個性とは、自分を信じるということであり、かって多くのヒトが試みたような「自分探し」ではありません。

自分の個性は、自分の外部に探しに出かけるようなものではなかったということになります。
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青い鳥を探して~哲学の旅も、いよいよ終わりに近づいてきました。

では、青い鳥とは、自分という自然の中で出会った個性のことなのでしょうか。

私は、そうではないと思います。

青い鳥は、確かに自分という自然の中に住んでいるものです。

また、その存在に気付いてあげる必要があります。

ただ、青い鳥に気付いたとしても、自分という籠の中に囲っているだけでは育っていくことはありません。

青い鳥とは、自分を取り巻く社会の中で、試行錯誤を繰り返しながら自ら育てていくものといえます。

青い鳥は、現実の中で育てるものであって、幻想の中に囲っておくものではありません。

青い鳥は、自分と他者(社会)との間で育てていくものともいえます。

つまり、青い鳥とは、自己実現のことなのですね。

これで青い鳥を探して~哲学の旅は終わりです。

この旅を終えたあなたは、自分を信じるための勇気と自分の中にある素朴な自然に気付くことができたかもしれません。

あとは、あなたが所属している社会(他者)との間で、現実的に夢の実現を果たすということが求められています。

私は、これが自己実現であると考えていますが、皆様はいかがお考えでしょうか。

(追記)
最近になって、5歳以下の幼児が描いた絵を見るという機会がありました。

その絵の色彩とイメージの豊かさには、ただただ驚かされるばかりでした。

幼児が描いた絵には、社会的な価値が一切含まれていません。

養老孟司氏が主張されているように、子供(幼児)は自然そのものといえます。

また、哲学の旅で探求したものと同じように、子供(幼児)は社会文化的な影響を受けていない個性そのものといえます。

幼児教育の難しさは、幼児の個性(自然)を残すことと、社会化のスキルを身につけさせることを、同時に遂行しなければならないことにあるのかもしれません。

このことからも、自己実現とは、自然と社会との関係性の再構築といえそうですね。

(おわり)

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by kokokara-message | 2011-06-16 18:08 | 我流方法序説