ジェンダーについて(3)
2011年 02月 20日
3 個人の抽象化と男女の区分
従来より一部の領域では、社会制度から男女の区分を失くしてしまう(相対化してしまう)という試みが行われているように思われます。
つまり、個人の名簿や申請書などのアイデンティティの欄から、男女についての項目を削除してしまうということです。
このことが、ほんとうに社会が目指す方向といえるのでしょうか。
ジェンダーとは、社会文化的な男女の区分のことです。
また、男女という概念、つまり男女という言語(言葉)のことでもあります。
そして、ジェンダーは、時代や環境の要請によってその分節点が変わることから、男女の区分が移動するということにもなってしまいます。
つまり、ジェンダーとは絶対的なものではなく、比較的長いスパンで眺めてみれば、相対的で不確かなものということになります。
このためか、ジェンダーが実体のない幻想(思い込み)であるかのように捉えられてしまうこともあるようです。
むろん、ジェンダーがほんとうに実体のない関係性(幻想)であるならば、社会制度から男女という概念(言語)を失くしてしまうことにも合理性があるといえるのかもしれません。
しかしながら、ジェンダーは実体のない関係妄想ではなく、実体のある個人が構成する社会文化的な構築物ということになるはずです。
つまり、実体のある個人の属性が社会文化的な構築物の男女という区分であり、その男女という分類(カテゴリー)から社会構造が形成されている現実があるということです。
また、構造主義では、構造はやがて時間の経過とともに変化することになりますが、ある一定期間は自然と同じように自明なものとして考えることになります。
つまり、既存する社会文化的な構造である男女の区分(ジェンダー)も、ある一定期間は自然と同じように自明なものとして扱われるということになります。
従って、確固として自明な社会文化的な構造をなくすということは、ヒトが自明とする社会構造を恣意的にコントロールするということにもなり、果たして、このようなことが可能といえるものか。
ひよっとすれば、自らの足場を自らの意思で崩していることになっているのではないでしょうか。
また、社会文化的な構造から男女の区分をなくすということは、今ある日常的な日本語の語彙を使用せずに自らの立場や役割を守らなければならない事態を招くことにもなってしまいます。
つまり、自らの立場や役割を守るためには相手の立場や役割を守るしかなく、このようにお互の相互承認ができるためには、少なくとも今ある公共空間で共有されている概念(言語)を使用するしか方法がないのではないでしょうか。
従って、自らの立場や役割を崩すことになるコミュニケーションをいくら繰り返しても、おそらく相互承認に至ることはなく、やがて個人が保持している社会的な立場や役割さえも、他者からの承認不足により、次第に曖昧で不確かなものになってしまうことになるのではないでしょうか。
このことは、具体の個人が希薄していくいくことでもあると思われます。
そして、これに相関するように、個人の抽象化が進むことになるのではないでしょうか。
つまり、個人の抽象化とは、もはや男性や女性の属性の削除だけにとどまるものではなく、名前や住所などの重要なアイデンティティさえもなくしてしまうということです。
そして、個人の抽象化が行き着く先は、おそらく個人の数値化(ID番号)ではないでしょうか。
むろん、個人の数値化(ID番号)は、個人の重要な唯一無二性を消去してしまうことになります。
つまり、「あなたでなければならない」ではなく、「誰であってもかまわない」に変わってしまうということです。
アイデンティティ(ジェンダー)の相対化は、ヒト(個人)から唯一無二性を収奪してしまい、ヒト(個人)をモノという代替可能性に変容させることになるのではないでしょうか。
従って、ジェンダー(アイデンティティ)は、相対的で曖昧で不確かな抽象的概念(言語)であってはならず、、たとえ期間限定ではあっても、あくまでも社会文化的な具体的な社会制度(区分)として機能することが望まれると思われます。
むろん、ジェンダー(アイデンティティ)が社会制度(カテゴリー)である以上、その制度のいずれを選択するかは、あくまで個人の問題(自由)となります。
つまり、個人が自然に抱いている感覚と自分が置かれた社会的文脈から判断して、自らのジェンダー(アイデンティティ)を適切に選択しなければ、自らの抽象化(希薄化)を防ぐことはできず、自らの唯一無二性も守ることができないことになってしまうと考えるのですが、さていかがでしょうか。
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