第6章 菖蒲池古墳と八角墳

2010年11月27日(土)菖蒲池古墳の現地説明会です。

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第6章 菖蒲池古墳と八角墳

蘇我四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)の時代の天皇(大王)の陵墓と宮居について、日本書紀の記述から考察してきました。

天皇(大王)の陵墓については、大坂磯長(南河内郡太子町)の王家の谷に築かれたことはありましたが、原則として奈良県東南部、それも飛鳥周辺地域に築造されてきたことがわかります。

また、天皇(大王)の宮居についても、奈良県東南部、しかも飛鳥周辺地域を中心に遷宮されてきたことが分かるのではないでしょうか。

これらのことから、蘇我四代の時代における権力の中心は、蘇我氏が拠点とした飛鳥周辺地域にあったということが推測できると思われます。

この論考では、あくまで蘇我蝦夷と蘇我入鹿の墳墓を主たるテーマとする関係から、天皇(大王)の陵墓と宮居の所在については、ひとまずこれくらいしたいと思います。

では、天皇(大王)家を凌駕する勢いがあったとされる蘇我一族は、いったいどこに氏族の墳墓を築造してきたというのでしょうか。

まず、蘇我稲目の墳墓については、明確な根拠はないものの、先の明日香村の平田梅山古墳(現欽明天皇陵)がそうではないかとする説が残っています。

また、橿原市五条野にある見瀬丸山古墳が、蘇我稲目の墳墓ではないかという説も残っています。(実際は欽明天皇陵であることは間違いないようですね。)

しかしながら、以下の蘇我馬子の拠点であった島庄遺跡や石舞台古墳が見下ろせる都塚古墳(平成26年発掘調査で円墳であることが確認されました。)が、蘇我稲目の墳墓という説が有力になりつつあるようです。

そして、日本書紀推古天皇三十四年是歳(626)の条には、蘇我氏が全盛を極めた、蘇我馬子が亡くなり、桃源墓に葬られたとする記述があります。

夏五月の戊子(ぼし)の朔(さく)にして丁未(ていび)に、大臣薨(みう)せぬ。

仍りて桃原墓(ももはらのはか)に葬(はぶ)る。

大臣は稲目宿禰の子なり。

性(ひととなり)、武略有りて、亦弁才有り。

以ちて三宝を恭敬して、飛鳥河の傍(ほとり)に家せり。

乃ち庭中(にわのうち)に小池を開(ほ)れリ。

仍りて小島(ちいさきしま)を池の中に興(つ)く。

故、時人、島大臣(しまのおおおみ)と曰う。

626年夏5月の20日に、大臣が薨(こう)じた。そこで桃原墓(ももはらのはか)に葬った。大臣は蘇我稲目の子である。性格は軍略にたけ、また人の議論を弁別する才能があった。仏教を深く敬い、飛鳥川の傍らに家を構えた。そうして庭に小さな池を掘り、池の中に小島を造った。それゆえ、時の人は、島大臣といった。
                   (小学館 新編日本古典文学全集日本書記2より)


日本書紀によると、蘇我馬子は島大臣と呼ばれていたようですが、これは飛鳥川に近接した場所に居宅を構え、その庭を掘削して池に小島を造ったことに起因するようです。

現在の明日香村には島庄という「島大臣」にゆかりの地名が残っており、その島庄遺跡からは一辺40mの方形の池跡が発掘されています。

また、桃原(ももはら)の地名は残っていないものの、島庄遺跡のすぐ東側には石舞台古墳があり、この石舞台古墳が日本書記に記述された蘇我馬子の桃源墓(ももはらのはか)とする説が有力とされています。

そして、今回ご紹介するのが、菖蒲池古墳です。

菖蒲池古墳は、甘樫丘の南西側斜面(橿原市菖蒲町周辺)に築造された古墳ですが、このあたり一帯が蘇我一族の墓域という伝承が残されているようです。

日本書紀皇極天皇四年是歳(645)の条、いわゆる大化の改新(乙巳の変)の記述にもありますように、甘樫丘東麓(飛鳥寺のある側)には蘇我蝦夷の居宅が築かれていたことが分かります。

そして、近年調査がされた甘樫丘東麓遺跡が、蘇我蝦夷関連施設跡ではないかと推測されています。

つまり、蘇我蝦夷の時代には、甘樫丘一帯が蘇我一族の支配地であったと考えられ、その支配地に氏族の居宅や墓域を設けることは決して不自然なことではないと思われます。

そして、この菖蒲池古墳は、これまでに十分な調査が行われて来なかったこともあり、謎の多い古墳とされていたのですが、2009年から2010年にかけて橿原市教育委員会による発掘調査が行われました。

そして、その結果が、2010年11月末に現地説明会で報告されています。

これは南西の四隅にあたりますが、その角度が90度であり、方墳であることが分かります。

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それでは、菖蒲池古墳の概略について見ていくことにします。

菖蒲池古墳の概略を説明するにあたり、橿原市教育委員会の作成した現地説明会配布資料から、以下のとおり引用をさせていただきます。

菖蒲池古墳とは、橿原市菖蒲町に位置し、甘樫丘から西に延びる丘陵の南斜面に築かれた、7世紀の古墳です。

墳丘は封土の流出および後世の改変が著しく、埋葬施設である横穴式石室の玄室天井石は地表に露出しており、羨道の天井石も失われています。

現在は玄門部の上から玄室内の様子を見ることができる状態になっています。

玄室の規模は、長さ7.2メートル、幅2.6メートル、高さ2.6メートルを測ります。

玄室には、2基の家形石棺(全棺、奥棺)が縦一列に並べて安置されています。

2基の石棺は、細部に違いがありますが、ほぼ同じ形に仕上げられています。

棺蓋(かんぶた)は寄棟式の屋根で、頂部に棟飾り風の突起があります。

棺身の表面にも柱や梁を表現した突起が見られます。

また、棺の内面には漆が塗られています。

このような精巧な造りの家形石棺は他に例が無い特異なもので、菖蒲池古墳の代名詞と言えます。

なお、石室部分は、昭和2年(1927)に国の史跡に指定されています。

平成19年(2007)には、丸山古墳や植山古墳、高松塚古墳などとともに、菖蒲池古墳も「飛鳥・藤原の京都とその関連資産群」の構成資産の一つとして世界遺産暫定一覧表に記載されました。

調査により、墳丘規模は下段一辺約30m・上段一辺約18mの規模を測る、方墳である事が明らかとなりました。

また、築造から1世紀も経たない藤原京期頃に、墳丘の一部を破壊してその隣接地を利用している事は、菖蒲池古墳の被葬者や築造時期を検討する上で、興味深い材料と考えられます。
                 (橿原市教育委員会 現地説明会配布資料より)


少し分かりにくいのですが、手前と奥に2基の石棺が縦一列に並んでいます。

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以上が、菖蒲池古墳の説明となります。

その特徴として挙げられることは、玄室に2基の家形石棺(全棺、奥棺)を持つこと、7世紀に築造された方墳であることになると思われます。

また、この菖蒲池古墳が、藤原京の南の正面玄関に当たる朱雀門(すざくもん)跡と、野口王墓呼ばれる天武・持統合葬陵を結んだ聖なるライン上に位置することは、従来から指摘されていたところです。(下の地図を参照してください)




確かに、藤原京朱雀門跡、菖蒲池古墳、そして天武・持統合葬陵が南北一直線に並んでいることが分かります。

もちろん、偶然の一致にしか過ぎないという見方もできるのかもしれません。

しかしながら、聖なるラインの築造を時代順に見てみると、まず菖蒲池古墳が築造され、その後藤原京の造営が始まり、そして天武持統合葬陵が築造されるという経過があります。

このことを踏まえると、菖蒲池古墳を基点として、藤原京朱雀門と天武・持統合葬陵の配置が決定されたという見方もできるのではないでしょうか。

つまり、聖なるラインが意図されたものであるとするなら、菖蒲池古墳を真ん中にした藤原京と天武・持統合葬陵の配置(コンステレーション)には、何らかの意味があるということになるはずです。

そして、菖蒲池古墳が藤原京や天武・持統合葬陵と同等に聖なる施設という想定をするのなら、菖蒲池古墳の被葬者は蘇我一族ではなく、むしろ天皇家の皇子クラスの人物になるといえるのかもしれません。

話は少しそれるのですが、飛鳥時代の天皇陵墓(あるいはそれに類する皇子)は、どのような墳丘形態をしていたかご存知でしょうか。

この時代の天皇陵墓は、八角の形をした八角墳であり、考古学上の終末期古墳にあたります。

考古学的には、前方後円墳の時代が終わったあと、大型の方墳や円墳が築造される時代が続き、そのあとに古墳形態が多様化してくる終末期古墳の時代となります。

多様化した終末期古墳は、飛鳥周辺地域以外にも伝播することとなり、関東地方などでも数例ですが、八角墳が発見されています。

そして、飛鳥周辺地域の八角墳は、7世紀前半から8世紀初めまでの約70年間だけに築造された天皇陵墓(あるいはそれに類する皇子)に特徴的な墳丘形態ということになります。

飛鳥周辺地域で現在確認されている八角墳は、以下のとおりです。

推定されている築造時代順に並べてみることにします。

桜井市の段ノ塚古墳  (現・舒明天皇陵)

明日香村の牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性が高いとされています)

京都市の御廟野古墳  (現・天智天皇陵)

明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)

高取町の束明神古墳  (草壁皇子の可能性が高いとされています)

明日香村の中尾山古墳 (文武天皇陵の可能性高いとされています)

明日香村の岩屋山古墳 (被葬者は未定ながら方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性が強いとされています。)

このように、八角墳が飛鳥周辺地域に現れるのは、舒明天皇陵(段ノ塚古墳、桜井市)からということになります。

また、八角の形態については、道教や仏教思想との結びつきを指摘する説もあるようですが、天皇(大王)家が特別な存在であることを天下に知らしめる目的で創り出された、新たな墳丘形態と考えることができるのかもしれません。

つまり、舒明天皇(大王)の時代は、大王の称号が天皇へと変わった時代でもあるとされており、天皇家の持つ固有性とその権威が高められていく時代であったということができそうです。

従って、飛鳥時代は、天皇(大王)家を中心とする権力支配体制が整備されつつあった時代ということになり、このような中央集権体制の中、それまでに前例のない八角墳が出現することになったのではないでしょうか。

今回の橿原市教育委員会の発掘調査では、菖蒲池古墳の墳丘形態が、八角墳ではなく、方墳であることが判明しました。

このことから、菖蒲池古墳は聖なるライン上にある古墳とはいえ、天皇陵墓(あるいはそれに類する皇子)でないことは明らかとなり、伝承どおりに蘇我一族の墳墓である可能性が高まったということになります。

しかしながら、菖蒲池古墳が聖なるラインの真上に位置している事実は紛れもなく、諸説あるものの、個人的な感想では、聖なるラインは単なる偶然の一致として生まれたものではないと考えます。

つまり、菖蒲池古墳が、蘇我一族の墳墓であり、なおかつ聖なるライン上に位置することが意図されたものであるとすれば、それは天皇(大王)家と蘇我家との間に何らかの隠された謎があったということになるのではないでしょうか。

では、菖蒲池古墳の被葬者は、いったい誰であるのでしょうか。

大化の改新(乙巳の変)で蘇我入鹿暗殺の重要な役割を務め、のちに右大臣に起用されるものの、反逆の咎で自害に追い込まれた蘇我倉山田石川麻呂とその長男の興志(こごし)の墳墓とする説が有力であるようです。

但し、本論考の主人公である蘇我蝦夷と蘇我入鹿が埋葬された墳墓という説も、有力なものとして残されていることはいうまでもありませんが・・・。

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by kokokara-message | 2011-01-15 11:47 | 我流古代史(蘇我氏編)