立場可換性について
2010年 12月 31日
一年を通じて、社会の底が抜けてしまっている状況が続いているように思われます。
つまり、社会の底が抜けているということは、自分がいかに強くないか、信じてはいけないかについて競い合っているということです。
まさに、評価のデフレ現象といえるのではないでしょうか。
このような社会の底抜けは、デフレ経済とともにもたらされたと考えられていますが、おそらくもともと社会に内在していたものと考えるべきではないでしょうか。
そして、それまでの右肩上がり経済成長が、社会には底辺がないことを覆い隠す役割を果たしていたといえるのかもしれません。
昨今の国際社会情勢をあらてめて眺めてみると、各国(共同体)が通貨安を競っている様は、まさに底の抜けたポストモダン状態にあり、社会の底抜け現象は確実にグローバル化しているといえそうです。
底が抜けてしまった世界をただ嘆いているだけではなく、ポストモダンのパラダイム(世界観)を上手に活かしながら、この世界を生き延びる方法を考えなければならない時期に来ているのかもしれません。
ところで、立場可換性という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
立場可換性とは、自分の倫理観の底辺を確認するための思考実験のことです。
私が考える立場可換性の原則は、自分がされて嫌なことは人に強いることはしない、つまり、自分が耐えられることまでは人に求める、という一点に尽きると思われます。
そして、立場可換性とは、やったらやり返すというような因果応報(報復の連鎖)に根拠を与えるものではないということです。
つまり、立場可換性は、自分の倫理の底辺がどのあたりにあるのか、自分の倫理を担保しているものはいったい何であるか、をあらためて問い直す試みといえます。
倫理と聞くと、とても固苦しく難しいものと思われるかもしれません。
また、免罪符さえあれば何でもありという、政治のグレーな倫理観をイメージされるかもしれません。
しかしながら、私の考える倫理とは、自分の行為行動(言動)の基準のことであって、他者を拘束するための基準ではないということです。
つまり、倫理とは、自分で決めたルールを、自分自身を拘束するために適用するものであるということです。
しかしながら、自分の倫理観を、他者を拘束するために適用するという事例が多く見られることがあります。
むろん、このような行為行動(言動)は、(私の論理では)倫理ということはできません。
また、倫理とよく似た紛らわしい概念には、道徳があります。
道徳とは、自分の暮らす公共空間で共有されている目に見えないルールのことです。
しきたりと呼ばれることもありますが、必ずしも伝統に基づいたものに限るわけではありません。
また、自分の暮らす公共空間で共有されている目に見えるルールには、法令があります。
日本の法令は、議会制民主主義に基づき議決をされ、さらに改変されていくというものです。
そして、道徳と法令のふたつが、一般に制度と呼ばれているものです。
道徳や法令の制度は、公共空間で共有されるルールであるため、公共空間を共有する構成員全体を拘束することになります。
倫理は、自分自身を拘束するための自分のルールということでした。
これに対して、道徳や法令の制度は、(自分も含めた)全体(みんな)を拘束する社会のルールになるということです。
自分から見れば、倫理は自己内ルールであり、道徳や法令は自己外ルールになります。
しかしながら、このようなきちんとした区分がいつも明確になされているわけではありません。
実際に、その接触部分(インターフェイス)において不整合が生じることがあります。
つまり、個人の倫理と社会の制度が対立するような場合です。
このような場合には、個人の倫理より、より汎用性のある社会の制度が優先されることはいうまでもありません。
そして、個人の倫理が、社会の制度に違反している場合には、個人の倫理(言動)が処罰されることにもなります。
簡単ですが、以上が、倫理と道徳、そして法令の関係性、つまり個人と社会の関係性ということになります。
しかしながら、現代社会の倫理や制度のあり方を見ていると、整然とした秩序ある関係性にあるのではなく、むしろかなり混乱した状態になっているように思われます。
つまり、本来自分に向けるべき倫理を他者を拘束するためのルールとしてみたり、逆に自分が決めるべき倫理を社会の悪しき慣習に依拠してしまうなど本末転倒といえるケースが多く見受けられます。
たとえば、法令でも道徳でもない、単なる個人の倫理観が他者の自由を拘束することになれば、拘束される側はその恣意性ゆえに拘束される理由が理解できず、より強い抑圧を感じることになってしまいます。
また、倫理は自分が決めるルールであるにもかかわらず、小さな集団の持つルールを無批判に受け入れて依拠しているだけでは、より大きな社会の存在が不可知となってしまい、癒合関係(アモルフォス)がさらに深まることにもなってしまいます。
さらに、法令については、条文にないことなら何をやっても良いという解釈がまかり通れば、法令の主旨や人の共感意識を欠いたような放埓(ほうらつ)な振る舞いが横行することになり、結果的として社会が不安定化することになってしまいます。
そして、道徳やしきたりについては、もともと流動的であったものの、昨今の家族構成の変化や人の移動に伴う共同体の細分化と弱体化は、従来の道徳やしきたりの拘束力を弱めることになり、道徳やしきたりは参照する程度になってしまっているのかもしれません。
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立場可換性の原則を、あらためて整理すると次のようになると思われます。
1 あなたの言動は、他者から同じ言動をされたときに、あなた自身が耐えることができる言動でなければならない。
2 あなたが採用する自由は、あなたを含めたすべての人が自分と同じような自由を採用したとしても、あなたの生命や財産が安全に守られるような自由でなければならない。
ところで、私たちがルールを遵守する場合にも、制御できるルール(倫理)と、制御できないルール(制度)があるということになります。
つまり、倫理は自己決定ができるルールといえますが、制度は自分だけでは決定することができないメタレベルのルール(議会制民主主義など)ということになります。
倫理は、立場可換性から(たとえ観念上ではあっても)自己決定ができる行為行動の底辺になります。
そして、実際の行為行動(言動)は、このような観念上の倫理という底辺を参照し、自らが決定することになります。
さらに、自らが決定した行為行動については、それと同等程度の自己責任を担保しなければならないということになります。
これが立場可換性の原理の単純化ですが、このことを契約締結という手法から考えると次のようになるのかもしれません。
つまり、自らが責任を負うことができるものにだけに、自らが選択的に行為行動できるとするのなら、行為行動そのものが自らの責任を担保する契約書への同意署名になるのではないか。
従って、立場可換性の原理を踏まえて自己決定した行為行動が、同等程度の自己責任を担保することからすると、行為行動の決定である契約書への同意署名は、高いリスクを伴うものであって、より慎重な態度で臨まなければならないことになるということです。
そして、リスクマネジメントの結果、誰もが倫理の底辺を参照し自らの行為行動を自己制御することができれば、倫理は個人のルールからもう少し広がりをもった社会のルールへと変換されることになるのかもしれません。
つまり、個人のルール(倫理)でしかなかったものが、やがて誰もが納得できる社会のルール(制度)へと広がっていくということです。
個人的なものから、やがて普遍的なものへと広がっていくのかもしれません。
ポストモダンの持つ意味は、もはや社会に底がない(もともとなかった)という絶望感を、自分自身(やがて世界)に告知するということでした。
社会に底がないとすれば、私たちは社会と共に沈んでしまうか、あるいは自分の足場を作り、なんとか生き延びる方策を探すか、の二者択一になるのではないかと思われます。
そして、もはや社会に底がないとしても、なんとか自らを支えられるものは、自己決定した自己ルール(倫理)の立場可換性が底辺になるのではないでしょうか。
つまり、ポストモダンの社会にはもはや自分自身を支えてくれる足場がない以上、自らを支える足場は自分で作るしかなく、この足場が自分で決めた自己ルール(倫理)ということになります。
さらに、この倫理という自己ルールは、立場可換性を踏まえた、より多くの人が共有できる社会のルール(制度)でもあらねばならないということでした。
要するに、たとえ自己ルールであっても、立場可換性の原理によって濾過されれば、やがて普遍性を持った社会のルールにまで止揚されるということです。
カントの言う「定言命題」のようなものかもしれませんね。
以上が、立場可換性の説明となりますが、立場可換性は決して特殊な考え方ではなく、これまでにも多くの人が生き延びるための方法論として採用してきたものであると考えています。
つまり、立場可換性は普遍的な考え方を射程にいれた、共生のためのロジックになっていると考えているのですが、さていかがでしょうか。
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ところで、残念なことですが、自分は良いが、人はだめという論理が、まかり通ることが多く見られるように思われます。
これは、普遍性につながるという意味では倫理でないことは言うまでもありません。
むろん、社会の制度(ルール)でもありません。
このような不当がまかり通るとき、東洋の世界観では「天網恢恢祖(てんもうかいかいそ)にしてもらさず」という言葉があるように、天が当事者に代わって罪に対し具体的な罰(裁き)を下すという思想が強く残っているように思われます。
つまり、日本を含めた東洋の世界観では、罪に対し具体的な罰(裁き)が下されることは必然であり、この輪廻から誰も逃れられないという因果応報の思想が信じられているということです。
そして、現実社会では、このような思想が犯罪の抑止力として働くことになり、社会が安全に統治されるということにもなっているのではないでしょうか。
先ほども指摘しましたが、立場可換性は、倫理性の底を自ら確認するための思考実験であり、因果応報を実践するための根拠になるものではありません。
しかしながら、日本では、かような立場可換性の原理が、因果応報の根拠であるかのように理解されてしまうのも、東洋の世界観の持つ特殊な土壌と無関係ではないと思われます。
つまり、一罰百戒のような前近代的な統治方法やそれをささえる因果応報や輪廻転生の思想が、現代の私たちの日常世界に入り込んで、今も息づいているということです。
日本人は今も中世社会を生きているのかもしれません。
これからの日本社会は、経済成長が見込めないうえ、人口が減少していく逓減社会といえます。
従って、社会の統治方法も効率的かつ効果的であることが、なによりも求められることになります。
しかしながら、日本の社会は、倫理(自己)と制度(社会)が整理されない、混乱した状態が今しばらくは続いていくように思われます。
世界では、ポストモダンが進展しています。
一方、日本の社会は、いまだ近代(モダン)にも至っていない、近世(プレモダン)を生きているということにあるようです。
おそらく、近い将来に、プレモダン(近世)、モダン(近代)、そしてポストモダン(脱近代)が混在する、あやしくて、やっかいな、混沌(カオス)社会が出現することになるのではないでしょうか。
最後になりました。
一年を振り返って、自分に天罰がくだらない生き方をしてきたかどうか、あらためて考えてみるのはいかがでしょうか。
よいお年をお迎えください。
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