他者と秘密(8)
2010年 12月 02日
ホノルル市庁舎(ホノルル・ハレ)が、一年で一番にぎやかになる瞬間といえそうです。
たとえ、自分の欠落部分に気づいたとしても、もはや外部からの働きかけはなく、自分の欠落部分を補うためのモチベーションも起動しなくなってしまいます。
つまり、一度外部を喪失してしまった個人は、ますます癒合(アモルフォス)を深め、自足感を強めるという自縛の構造に置かれてしまうことになります。
これに対して、自分の内部の異質な他者に自覚的であということは、自分の内部(脳)の無意識と折り合いがとれている状態にあるということになります。
つまり、自分の内部(脳)の多様性に気づくということであり、このような気づきがなければ、多様な自己を統合し、制御することもできなくなってしまうのではないでしょうか。
また、自分の外部の異質な他者(差異)に自覚的であるということは、同質社会にありながらも、外部からの視点が保持できているということであり、同質社会の行動様式(エトス)を客観的に観察することができるということです。
つまり、自分と他者との差異に気づくということになり、このような気づきがなければ、他者だけではなく自分に対する興味や関心さえも失ってしまうことになるのではないでしょうか。
このことから、自分の内外から他者がなくなることは、同質(同じ)であることが自分の存在理由になってしまうということになるということです。
そして、他者との横並びと相互参照以外には他者への興味や関心はなくなり、また他者と同じである自分にしか興味や関心を示さなくなってしまうということになります。
では、自分の内外に他者を持つことによって、いったい何が見えてくるのでしょうか。
おそらく、他者の存在が、自分が何者であるかを知る手がかりを与えてくれるものではないかと思われます。
つまり、自分が何者であるかを知ることが、アイデンティティを保持することでもあります。
そして、他者(異質性)の相対化によって、初めて自分のアイデンティティ(自己同一性)は明確になるということになります。
自分のアイデンティティ(自己同一性)が確認できれば、自分の内部の多様な価値観や美意識を冷静に観察することが可能となり、自分の内部の不一致に気づくことも可能となります。
さらに、保持したアイデンティティは、自己を分裂していく方向ではなく、むしろ統合していく方向に働くことになるということです。
つまり、自分の中で複雑に絡まりあったコンプレックス(複合心理)状態が、徐々にほぐされて、それでも余りあるものは折り合いをつけながら共生することになります。
むろん、自分の内外に他者を持つことは負荷であり、現実と理想の埋めがたい欠落感(差異)に悩まされる原因にもなります。
しかしながら、このような欠落感(差異)こそが、理想を実現するモチベーションとなり、その落差を埋めることが自分自身の価値を創造することになると思われます。
つまり、欠落感(差異)こそが価値の源泉となり、差異によって創造される価値が、その時点における(とりあえずの)自分の存在理由(意味)ということになるのではないでしょうか。
蛇足ながら付け加えれば、労働価値説は労働そのものに(実体的な)価値があるとみなす考え方ですが、ここでは(関係性である)差異から生み出された価値こそが労働の意味そのものととらえる考え方になっています。
要するに、労働価値説とは正反対からの発想ということですね。
このように自分の内外に多様な他者を持ち、その差異から生成されてくる多様な個人が、複雑極まりない現代社会の中で、異質で理解しがたい他者とも共生できる意思と能力、そして対話力(コミュニケーション)を保持できるものと考えているのですが、さていかがでしょうか。
最後になりました。
自分の内外に他者(差異)を持つことがない、つまり平板な横並と相互参照による多数派形成が唯一の生存戦力上の行動原理になった大衆社会とは、全く顔の見えない(千と千尋の神隠しの「かおなし」のような)社会ということになります。
つまり、全体がどこに向かって流れているのか、そして自分がどっちを向いているのか、また誰が自分の味方であって、自分の敵は誰であるのか、このことさえも見えなくなってしまい混沌とした状況が、現代の大衆社会の姿ではないでしょうか。
かのような大衆社会にあっても、右肩上がりの経済社会情勢にあれば、多くの矛盾は経済力で覆い隠され、問題が先送りにされることもできたのかもしれません。
しかしながら、現代のように経済が右肩下がりの人口が減少する縮小社会では、社会全体の地滑り現象と自分の足場の崩壊がシンクロ(同調)しながら進行する状況にあるといえそうです。
従って、社会全体と自分の足場の崩壊が相関していることに自覚的であらねば、やがて自分の足場がなくなってから、なくなったことに気づくという事態にもなりかねません。
また、自分に与えられた役割は何であり、何を目指すのかは知っておかないと、自分の足場が崩れていくだけでは済まず、自らが自らの足場を崩すという自己処罰や自殺行為ともとれる見当違いの事態にもなりかねません。
さらに、急速に縮小(崩壊)していく社会では、自分が生き延びるためのニッチ(棲家)さえも確保できないような状況は頻繁に起こってくるということです。
この論考では、他者と秘密をキーワードとしながら、私が感じている統合失調状態ともとれる大衆社会の狂気を暗喩(メタファー)として取り上げてきました。
そして、大衆社会の一番の狂気とは、かような統合失調状態にありながら、誰もそのことに気づいていない、たとえ気がついても気づかないふりをする行動様式(エトス)にあるのではないでしょうか。
ただ一筋の光明は、狂気にある人でも、社会的な危機が高まるとともに、正気に戻ることがあると聞きます。
統合失調状態ともとれるような大衆社会が、将来の避けがたいクライシスを眼前にして、少しでも正気を取り戻すことをただ祈るだけといえます。
では、このような大衆社会を、私たちはいかにして生き延びればいいのでしょうか。
おそらく、一度病んでしまった社会は、一時的な寛解はあっても、その趨勢としては後戻りすることはなく、不可逆的に病状が悪化していくということになるのではないでしょうか。
最後の最後は、生き延びるために「自分の身は自分で守る」と一日でも早く覚悟を決めるしかないと考えているのですが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。
《おわり》
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