会いたい/沢田知可子(2)
2010年 11月 23日
いずれも素晴らしいのですが、私は若く澄んだ声で歌い上げている、「I miss you」(1990)の「会いたい」が気に入っています。
沢田知可子さんの「会いたい」は、1990年6月27日に発売された曲です。
もともと「I miss you」というタイトルのアルバムに入っていた曲が、深夜番組のエンディングのテーマ曲として採用されて話題となり、その年から翌年にかけてのロングヒットになりました。
そして、沢田知可子さんは、翌年(1991年)には全国有線放送大賞のグランプリを受賞し、また同年の紅白歌合戦にも出場されています。
「会いたい」の作詞は沢ちひろさん、作曲は財津和夫さんです。
作曲家の財津和夫さんは、いわずと知れたヒットメーカーであり、ポップス界の大御所的存在でもあります。
一方、作詞家の沢ちひろさんはというと、残念ながらあまり多くの情報はないようです。
そして、沢ちひろさんは、「会いたい」以外にも、沢田知可子さんのアルバムに作詞を提供をされていますが、それ以外のことは、あまり知られていないようです。(もちろん、私が知らないだけかもしれませんが)
また、初めて沢ちひろさんから「会いたい」の歌詞を渡された沢田知可子さんが、偶然にもこの歌詞と同じような内容の経験をかってしたことがあることに気づき、大変驚いたという話をテレビでされています。
これはオカルト的なように聞こえますが、共時性(シンクロニシティ)と呼ばれる現象で、「意味のある偶然の一致」と呼ばれるものです。
作詞家の沢ちひろさんにまつわる謎の多いことや沢田知可子さんが語る共時性(シンクロニシティ)のオカルト的な要素も重なり、この「会いたい」という曲は、さらに謎めいたものになっているように思われます。
そして、沢田知可子さんの高く澄んだ声とその歌唱力は、「会いたい」をただ悲しいだけの曲で終わらせるのではなく、愛おしさもあわせ持つキュートな名曲へと昇華させているのではないでしょうか。
2001年には、「会いたい」がインターネット投票で、「21世紀に残したい泣ける名曲」の1位に選ばれています。
このことからも分かるように、「会いたい」という曲の素晴らしさは、私だけが感じている特別な価値なのではなく、多くの人が同じように感じている普遍的価値ということになりそうです。
先ほど、「会いたい」という曲は、斬新な独自性と既視感のような一般性が入れ子状態になっいると説明しました。
では、「会いたい」が持つ独自性と一般性では、どちらがその主軸になっているといえるのでしょうか。
私は、やはり一般性の方ではないかと思います。
そもそも、独自性(特殊性)があまり強いと、多くの人から受け入れられることはないと思われます。
一般的であるからこそ、多くの人に受け入れられ、21世紀に残したい名曲として選定されることになるわけです。
「会いたい」のメッセージは、「I miss you」です。
そして、「I miss you」というメッセージが、一般的であるということになります。
少し言い方を変えると、恋人を失うという経験は、決して珍しい出来事ではなく、誰もが一度は経験する、ごく一般的な出来事ということです。
もちろん、これは実体験だけを指すのではなく、映画や文学におけるイマジネーションの世界も含めてのことです。
そして、「I miss you」、つまり愛する人を失うことがテーマになるのは、日本だけのことではありません。
世界の映画や文学作品においても、普遍的なテーマとして扱われています。
では、「I miss you」を一般化した表現にすれば、どのようなものになるのでしょうか。
おそらく、人間関係(関係性)の構築とその喪失(破綻)になるのではないでしょうか。
たとえば、韓流のブームのさきがけとなった「冬のソナタ」は、まさに「I miss you」、つまり人間関係の構築(地道な積み重ね)とその喪失(一瞬の破綻)をテーマとした作品といえそうです。
誰もが知っているけれども、実際にその経験を一般化するとなれば、長く孤独な時間と忘却の痛みが伴うのが「I miss you」ではないでしょうか。
つまり、「I miss you」とは、誰もが経験する「失恋」のことです。
では、なぜ、誰もが経験するはずの「失恋」が、人間にとって重要かつ普遍的なテーマとして、世界中の映画や文学作品で繰り返し取り上げられることになるのでしょうか。
「失恋」とは、愛する人を失うことです。
おそらく、愛する人を失うということ、つまり関係性の構築(積み重ね)とその喪失(破綻)という経験の意味を突き詰めていけば、やがて他者の死、そして自分の死という人間が避けて通ることのできない有限性の問題へと行き当たることになるからではないでしょうか。
少し飛躍があるので、分かりにくいかもしれません。
今一度「会いたい」の歌詞に戻りたいと思います。
波打ち際 すすんでは
不意にあきらめて戻る
海辺をただ独り
怒りたいのか 泣きたいのか
わからずに 歩いてる
上記の「会いたい」の歌詞を私なりに分析すると、自分を海や映画に連れて行ってくれる恋人との経験が不在になってしまったこと。
そして、愛すべき人の死によって自分にとっての唯一無二性が不在(不安定)になってしまっているということ。
この二つのことが重なり合って、主人公の喪失体験が形成されているといえるのではないでしょうか。
つまり、自分を残して死んでしまった理不尽ともいえる恋人へのやり場のない怒りともいえる気持ちとその恋人が死んでしまった事実をいまだ受け入れることができない戸惑いと畏れの気持ち。
これらの感受性が振り子のように揺れ動く様を、主人公の心象風景として表現したのが、この「会いたい」という曲ではないでしょうか。
そして、なによりも沢ちひろさんの「会いたい」の歌詞には、このような喪失体験に対して人間が抱く両義的ともいえる多感な感受性がきめ細やかに描写されていることです。
このような多感な感受性を繊細に表現することで、人間が潜在的に抱いている死(有限性)への畏れや苦悩というものを暗喩(メタファー)することになっているのかもしれません。
つまり、もともと死(有限性)とは、日常生活の背景にあって非日常(無意識)の領域の中に隠されているものということができそうです。
しかしながら、暗喩(メタファー)された喪失体験(失恋)に触れることにより、他者の死、そして自分の死という無意識の領域にあったものが、やがて前景化してくることになるのではないでしょうか。
そして、前景化(意識化)した他人の死、自分の死が意味するものは、自分の時間と空間の「有限性」に他ならないと思われます。
つまり、自分ができる経験や出会える人というのは、所詮限られているという「諦念」でもあるということです。
少し言い方を変えれば、人間には観念としての無限は存在しても、事実として無限はありえないという至極当たり前なことは覚悟しておく必要があるということです。
だからこそ、今在ることのかけがえのなさ(唯一無二性)に気づいておく必要があるのであり、この唯一無二性こそが人を成熟させる、つまりは節度のある有限な生き方を実践させることにつながるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。
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