第5章 飛鳥時代の宮居の所在

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第5章 飛鳥時代の宮居の所在

蘇我四代の約百年間の天皇(大王)の陵墓は、そのほとんどが飛鳥周辺に築造されてきたということでした。

そして、敏達天皇(30)、用明天皇(31)、推古天皇(33)については、飛鳥周辺ではなく、大坂磯長(南河内郡太子町)の王家の谷に葬られたのですが、敏達天皇(30)以外は、いったん宮居のあった飛鳥周辺に葬られたあとで改葬されているということでした。

では、次に蘇我四代の約百年間に天皇(大王)が定めた宮居、いわゆる天皇(大王)の政治の中心であり、聖地でもあった宮居はどこにあったのでしょうか。

天皇(大王)の宮居の所在は、その陵墓の所在以上に、地政学的な権力の背景を知る手がかりになるといえそうです。

そもそも宮居とは、天皇(大王)が政治や祭事をつかさどる場所であり、その時代の権力の中心ということになります。

そして、古代における宮居とは恒久施設ではなく、天皇(大王)の在位期間に限った暫定施設ということになります。

さらに、天皇(大王)の在位期間であっても特別な事情があれば、遷宮することも一般に行われてきました。

隋の長安をモデルにした平城京が、国内最初の恒久的な宮居(都)と思われているようです。

しかしながら、平城京も恒久的な宮居(都)になることはなく、聖武天皇の在位中に、恭仁京、難波京、平城京と遷都が繰り返されることになります。

つまり、律令制度が整った奈良時代にあっても、天皇の宮居(都)はいまだ定まらず、恒久的な宮居(都)の登場は、桓武天皇の平安京まで待たなければならないということになります。

従って、平城京よりもさらに200年近く遡った蘇我稲目の時代には、宮居とは国威発揚の場ではなく、おもに天皇(大王)の生活の場、政治や祭事をつかさどる場として機能していたのではないでしょうか。

蘇我氏が、中央政権の一角に初めて登場するは宣化天皇(28)の536年です。

宣化天皇(28)が、蘇我稲目を大臣(おおおみ)に起用したことから、蘇我四代の時代が始まることになります。

その宣化天皇(28)の宮居は、檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや:奈良県明日香村檜前)とされています。

そして、次の欽明天皇(29)の宮居は、磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや:奈良県桜井市金屋付近)とされています。

さらに、次の敏達天皇(30)の宮居は、即位して百済大井宮(くだらのおおいのみや:場所には諸説あり)に定めますが、まもなく訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや:奈良県桜井市戒重)に遷宮します。

その次の用明天皇(31)の宮居は、磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや:奈良県桜井市阿部磐余池)とされています。

また、祟峻天皇(32)は、倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや:奈良県桜井市倉橋)を宮居としました。

そして、蘇我四代の中でも一番勢力があったとされる蘇我馬子の時代に在位した天皇(大王)が、推古天皇(33)です。

推古天皇は、飛鳥そのものではありませんが、飛鳥に隣接する豊浦宮(とよらのみや:奈良県明日香村豊浦)、小墾田宮(おはりだのみや:奈良県高市郡明日香村)を宮居としました。

続く舒明天皇(34)は、蘇我馬子の実子である蘇我蝦夷の影響を強く受けて即位することができた天皇(大王)といわれています。

従って、舒明天皇の宮居は、初めて飛鳥の地に定められることとなり、飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや:奈良県高市郡明日香村)と呼ばれています。

飛鳥の中心には法興寺(現在の飛鳥寺、蘇我氏の氏寺)が建てられたように、飛鳥の地はまぎれもなく蘇我氏が支配していた地ということがいえます。

つまり、蘇我蝦夷は、自らの支配地である飛鳥の地に、その地名を冠した天皇(大王)の宮居を造らせたということになります。

舒明天皇は、その後田中宮(たなかのみや:奈良県橿原市畝傍町)、厩坂宮(うまやさかのみや:奈良県橿原市大軽町)、百済宮(くだらのみや:奈良県北葛城郡広陵町百済)と飛鳥の周辺を遷宮していきます。

そして、舒明天皇(34)が崩御した後、その后であった皇極天皇(35)が即位することになりますが、その皇極天皇が定めた宮居は、飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)と呼ばれています。

飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)は、当時の最大実力者であった蘇我蝦夷がその命によって造らせたといわれており、舒明天皇の飛鳥岡本宮と同様、飛鳥の地名を冠した宮居ということになります。

先の推古天皇(33)の豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おはりだのみや)は、飛鳥の地名を冠した宮居ではありませんが、その所在地の選定には、当時の実力者である蘇我馬子の強い意思が働いていたことが予測できます。

つまり、推古天皇(33)、舒明天皇(34)、皇極天皇(35)の宮居は、三代続いて蘇我氏の支配地であった飛鳥の地に定められたということになるわけです。

但し、皮肉なことですが、蘇我蝦夷が自らの威信をかけて造らせたはずの飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)で、蘇我本宗家が滅亡する原因となるクーデターが発生します。

645年に起こった乙巳の変(いっしのへん)であり、俗に言う大化の改新です。

蘇我蝦夷は、自らの支配下にあっらはずの飛鳥板蓋宮で、実子入鹿を暗殺され、その翌日には自らも自害に追いやられることなってしまいます。

このようにして蘇我本宗家は滅亡するのですが、その直後に皇極天皇(35)が譲位し、孝徳天皇(36)が即位します。

そして、孝徳天皇(36)が宮居として定めたのが、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪府大阪市東区法円坂町)ということになります。

やがて、孝徳天皇(36)が崩御すると、皇極天皇(35)が重祚して斉明天皇(37)となります。

斉明天皇(37)は、約30年前、夫の舒明天皇(34)が飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)に定めた同じ場所に、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)を造らせることになったということです。

以上が、蘇我四代の約百年間に定められた、天皇(大王)の宮居の変遷ということになります。

このことから分かることは、この約百年間の天皇(大王)の宮居の所在は、孝徳天皇(36)の難波長柄豊碕宮以外、すべてが現在の明日香村、桜井市、橿原市、広陵町という飛鳥周辺の地に定められているということです。

そして、さらに重要なことは、天皇(大王)の宮居が、桜井市、橿原市、広陵町、そしてその北方にあたる天理市など現在の奈良県の東部域に定められるというのは、決して蘇我四代の時代に限定されたことではないということです。

ここでは詳細に踏み込みませんが、それ以前の歴代の天皇(大王)の宮居の所在を文献(記紀)から考察すれば、奈良県の東部域を中心として宮居が置かれていたことが分かるはずです。

もちろん、天皇(大王)の宮居の所在地には諸説があり、考古学的な裏づけのない伝承でしかない宮居も多いといえそうです。

しかしながら、少なくとも文献(記紀)から考察する限りでは、宮居の所在地が奈良県の東部域以外に造られるということは、かなり異例なことであったといえるのではないでしょうか。

つまり、乙巳の変直後の(緊急避難的な)孝徳天皇(36)の難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪府大阪市東区法円坂町)。

そして、倭の五王の讃とされる仁徳天皇(16)の難波高津宮(なにわたかつのみや:現大阪市中央区)。

さらに、倭の五王の珍とされる反正天皇(18)の河内国丹比柴籬宮(かわちのくにたじひのしばかきのみや)などがそれにあたります。

*『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある。

このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定である。

他の有力な説として、「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。
                             (ウィキペディアより)


時折、古代王権の中心が、河内や摂津にあったのではないかという話を聞くことがあります。

確かに、上町台地の先端が朝貢の津(湊)として利用されていたことや、河内や和泉が天皇(大王)の巨大陵墓の墓域として利用されていたことはまぎれもない事実です。

しかしながら、あくまでも古代王権の中心ということになれば、天皇(大王)の聖なる場所であり、政治と祭事をつかさどった宮居がそれにあたるといえるのではないでしょうか。

つまり、実用の場所としての難波(なにわ)に対し、聖なる王権をいただく倭(やまと)という関係になっていたのかもしれません。

従って、多くの天皇(大王)の宮居が、現在の奈良県の東部域に集中していることからすると、古代王権の中心が、奈良県の東部域あたりにあったと考えることも不自然ではないように思われます。

さらに、古代国家発祥の地についても、この奈良県の東部域あたりではないかと推測することは、文献上(記紀)の解釈を超えた暴論とまではいえないと思うのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-11-20 22:26 | 我流古代史(蘇我氏編)